Hades
タイムワーナーセンターの三階にあるベーカリー・カフェからは、アトリウムごしにセントラルパークの瑞々しい緑の広がりが見渡せた。
カフェラテを一口すすり、ほっと一息ついた詩織は、ブリーフケースから厚手の紙を取り出した。
それは、一枚の色鉛筆画だった。
窓一面に広がる海。クルーザーが舫う桟橋の対岸には緑の島。遠くの岬には灯台が見える。
白いワンピースの少女と、テーブルの上には、飲み物のグラス。
ひとめ見ただけで、綾乃は強烈なデジャブに襲われた。不意打ちのように、心の真ん中を鷲掴みにされた。
画用紙の隅には、『impression sunrise , long island iced tea』と走り書きがあった。Ken Lian というのは、作者の名前だろうか。
詩織がその署名に、そっと指を添える。
「お世話になった人なの。とても……とても」
「画家?」
うん、と詩織がうなずいた。
その画家は、十年前までニューヨークに住んでいた。病を得て日本に戻り、詩織と知り合ったという。
その人は今どうしているの、と尋ねようとした綾乃は、背後からかけられた声でその問いを飲み込んだ。
「すまない、待たせたね」
綾乃には聞きなれた男性の声だった。
近くの席の客から、ひそひそ声がする。
「CNNのジョセフ・クロンカイトじゃないか」
「ああそうだ。でも硬派で有名なニュースキャスターが、こんな店で女の子と待ち合わせとかするのか?」
「なにかの取材じゃないのか」
そんな囁きなど気にもかけずに、ジョセフは向かい側の席に座った。
整髪料でかっちりと整えられた髪に、オーソドックスに着こなしたスーツ。一分の隙もない身だしなみだが、番組の収録の後だろうか、ほんのわずかな疲労の色がその目もとに浮かんでいた。
「先生」と、綾乃は話しかけた。「友だちが、この絵に描かれた場所を探しているんです。なにか心当たりはないですか?」
その絵を一目見たジョセフは、感心したように目を細めた。
「ケン・リィアンの絵だね」
そう告げた声の響きは、普段の彼からは想像もできないほど、柔らかなものだった。
ジョセフは絵から上げた視線を詩織に向ける。彼女はたおやかに頷いた。
「有名な画家なんですか?」
綾乃の問いかけに、ジョセフがゆっくりと首を振る。
「ニューヨークの画壇では伝説的な人物だが、有名というわけではない。ケンは賞や名誉などとは無縁だったからね。寡作だったから貴重なものだが、オークションや画廊で高値がつくような絵じゃない。ほんとうに彼の絵が好きな人だけが大切にしている、そういうタイプの絵だね」
ジョセフの言葉には、その画家への親しみがこもっていた。
そう感じたのは、詩織も同じだったようだ。
「失礼ですが、あの人とお知り合いだったのですか?」
詩織の問いに、「あの人……」とつぶやいたジョセフは、意外そうな顔をしたあとでうなずいた。
「ああ、友人……だった」
「なにかあったのですか?」
重ねて問いかける詩織に、ジョセフは首を横に振った。
「ケンからは、なにも聞いていないようだね。それなら、私が話すこともなにもない」
「あの人から聞くことは、もうできません。だから教えてください。私、知りたいんです。あの人のことを」
英語に詰りながらも、詩織はジョセフに食い下がった。
詩織の言葉は、綾乃が問おうとしていたことに雄弁に答えていた。まちがいなく、画家はすでに鬼籍に入っている。
綾乃は詩織の言葉を通訳した。
ジョセフは、一瞬だけ表情を曇らせたが、やがて重い口を開いた。
「ケンは、才能があって、感情が繊細で、いいヤツだった。でも、心のどこかに歪みを抱えていたようだ。そしてその脆さは、この街で生きていくには致命的な弱点だった。やがて彼は、マンハッタンから姿を消してしまった。探さないでくれ、というメッセージを残してね」
残念だったよ、と言って、ジョセフは椅子の背にもたれかかった。
眼鏡が光を反射して、その眼差しは読み取れなくなった。
だがその口調は、綾乃がよく知るものだった。社会問題を取り上げるときの、鋭敏な言葉づかいだ。
詩織もジョセフの態度から、なにかを感じ取ったようだった。
「すみません。私のわがままで、嫌なことを思い出させてしまったようですね」
いや、と短くジョセフは応えた。
詩織は、でも、と言葉を繋いだ。
「私、この絵の場所に行きたいんです」
「行って、それでどうするんだい?」
ジョセフの問いかけは、まるで詰問するかのようだった。
「わかりません」
うつむいて言葉に詰まる詩織に、ジョセフは、すまない、と謝った。
「君を責めているわけではないんだ。ただ、ケンの足跡をたどるだけならともかく……」
ジョセフの視線が流れて、綾乃に向かう。
「時の流れの中に消えていこうとしているものを、いたずらに掘り起こすようなことはするべきじゃない。そんなことをしても、だれも幸せにはなれないだろうからね」
いきなりの厳しい洗礼だった。
綾乃は、その言葉を通訳すると、カフェラテを飲み干した。コーヒーの苦味が口に残った。
詩織はジョセフの目を見つめて、絞り出すような声で告げた。
「行くだけでいいんです。だから……」
そうか、と言って、ジョセフは絵に視線を巡らせる。そして、片隅に小さく描かれた灯台を指差した。
「これはモントークポイント灯台だよ。ロングアイランドの最東端にあるんだが、鉄道は不便だから車で行った方がいいだろうな」
「車でって……連れて行って下さるんですね。ありがとうございます」
綾乃が弾けるような笑顔を浮かべると、ジョセフは意外そうな顔をした。
「どうしてそうなるんだい?」
「えっ、ちがうんですか」
ため息をついて抗議した綾乃に、ジョセフは合点がいったように、ああそうか、と言った。
「君のモーターサイクルなら、すこし頑張らないといけないね。帰りは疲れているだろうから、ロングビーチに寄り道をして、おいしいシーフードを食べてくるといい」
綾乃はもう一度ため息をついて、詩織を見やった。
窓から差し込んでいた西陽の角度が変わる。詩織の琥珀色の瞳に、憂いをおびた翳りがさしたように見えた。