Charon
雑踏の合間から、フルートの音が聞こえてきた。
耳を澄ますと、グルックの『妖精の踊り』だった。
オルフェウスとエウリデューテだわ、と綾乃は思った。
亡くした愛しい人を取り戻したい、その姿をもういちど見たい。それは、人なら誰でも抱くであろう痛切な願いだ。
その願いを聞き届けておきながら、どうして冥界の神は、オルフェウスにあんな残酷な禁則を課したのだろう。
あれでは、まるで――。
なにかを思いつきそうになった綾乃の耳に、雑踏が押し寄せてきた。
ニューヨークJFK国際空港の到着ロビーには、世界中から訪れた旅行者があふれていた。
成田からの便が着いて、三十分が経っていた。
そろそろかな、と思ったとき、ガラスの衝立の向こうに彼女が現れた。
すこし赤みがかかった髪は、ゆるいウェーブを描いて胸元に流れ落ち、伏し目がちな琥珀の瞳が、心細げにさまよっている。
「詩織ちゃぁん」
綾乃の呼びかけは、しかし彼女には届かなかった。
あさっての方向に視線を泳がせる彼女がもどかしくて、思わず足を踏み出した綾乃を、空港職員の制服を着た男が睨みつけてきた。
そのとき、不意に雑踏が遠くなり、頭上からふたたびフルートの音が降ってきた。
詩織が天井を見上げる。
そこからゆっくりと降ろされた瞳が綾乃を見て、その顔にふわりと笑みが浮かんだ。
荷物を手にした詩織が、衝立のこちら側に出てきた。
たおやかな身体の動きに、淡い桃色のワンピースがやわらかくまとわりつく。薄いルージュに彩られた唇がわずかに開いたが、言葉は出てこなかった。
どちらからともなく、二人は抱きあった。
おたがいのからだが放つぬくもりと香りの違いで、離れていた時間の意味がわかったような気がした。
マンハッタンに向かうリムジンバスは空いていた。
九時間を超えるフライトと時差のせいで、詩織にとって今日は長い一日だったはずだ。
しかし彼女は、眠そうな素振りも見せなかった。
「詩織ちゃんと会うのは、高校の学園祭のとき以来だね」
「うん。あのあとすぐに引っ越したから。ほんとに久しぶりだわ」
住む場所は遠く離れても、手紙や電話やSNSでのつながりは続いていた。
だが、詩織からニューヨークに行きたいという話がなければ、こうして再会することはなかったかもしれない。
「智之ちゃんとは、会ってるの?」
綾乃が口にしたのは、幼馴染で、高校の同期生で、部員三人だけの天文研究部の部長で、ついでに綾乃の婚約者でもある人の名前だった。もっとも、婚約は小学生のころの口約束だが。
「うん。ときどき。この前は嵯峨野に行ったわ」
「ふうん、そうなんだ。あいつ、あたしのところには、会いにもこないくせに」
そんな他愛もない会話がふと途切れ、あら、とつぶやいた詩織が床から赤銅色のちいさなものを拾い上げた。
リンカーンの肖像が刻まれた、一セント硬貨だった。
「落し物だわ。これって、こちらでも警察に届けるのかしら」
小首をかしげる詩織に、あははっと綾乃は笑う。
「幸先がいいね、詩織ちゃん。それは幸運のお守りになるんだよ。だから持っていればいいの」
幸運のお守り、と詩織はつぶやくと、ゆっくりと首を振った。
「それなら綾乃さんにあげるわ」
「どうして?」
「ここから先は、綾乃さんに頼るしかないから」
そう言って、詩織は硬貨を綾乃に握らせた。
バスの車窓を、クイーンズボロ橋の鋼鉄製のアーチが過る。イーストリバーを渡ったバスは、マンハッタン島に入った。