2
2
少し日にちをさかのぼろう。
僕が見習い兵士になって、まだサーシャがこの国の王后になったことを知らなかったとき。
僕はその日、非番だった。初めてきちんと味わえる休日。
これまでは休みの日となると、泥のように眠っていた。慣れない仕事や訓練ばかりで、体力も精神もボロボロだったから。
その点、今回は珍しいことに、連日で休みとなったのだ。
なにやら、王后様が誘拐されたとかなんとかで、足手まといにしかならない見習いの僕は強制的に有休を取らされたのだ。
初めて自由に、使える時間。
わずかばかりのお給金ももらっていたので、自分の好きに使えるお金もある。後見人となってくれた養父からもらったお小遣いもある。
今までは生きるためだけにお金をやりくりしていたのに、ご飯も寝床の心配もせずに、街を歩ける。
養父に見繕ってもらったお気に入りの少しダボついたセーターとズボンを着る。
僕は浮足立って街を、表通りを歩いた。
そこは、裏通りから見る景色や、盗みをするために獲物を探しながら歩くときに見る景色とは全く別のものに見えた。
露店を冷やかしたり、公園を散策してみたり、いろいろやってみたかったことをやった。
けれども、自分のためだけに必要ではないモノを買うことはなかなかできなかった。
そして、なにをしていても、サーシャのことを考えている僕の思考に、僕自身で笑いそうになる。
歩き疲れたころ、僕はあるお店に入った。
そこは居酒屋さん……とでもいうべきか。お酒もご飯も、はたまた情報も買えるお店。
裏の住民たちも出入りして良いお店だ。
だからといって、それほど汚くもないところで、お金さえあれば、孤児たちにも優しいと評判のお店だ。
僕も前は良く利用していた。お店に入れるような恰好をしていないときには、このお店の勝手口でコインを渡せば残飯をくれたから。
きちんとした服を着て、普通の人が持っているくらいのお金を持って、このお店のあたたかいご飯をお店の中で食べるのがひとつの夢だった。路地裏に住む子どもたちの夢だ。
僕はその迷子であったときの夢をひとつ叶えに来たのだ。
カウンターの隅から三番目の席に座り、本日のおすすめメニューを頼んだ。
「おいしい……。」
こんなに、こんなにも、おいしかったんだ。
ここのご飯は残飯でもおいしかったから、そのホンモノはどれほどのおいしさなのだろうと、想い描いていたが、これほどまでおいしいご飯だったとは思わなかった。
想像以上だった。
夢中になって食べていたときだ。
「マスター、情報買ってくれねえかな。」
カウンターの一番隅っこに座った大男がマスターに向かってそう切り出した。カウンターの隅の席はマスターと情報をやりとりする席だと言うのは、常識だ。
その会話はもちろん、店内の喧騒にまぎれるような声の小ささだった。
だが、その大男の隣の隣に座っていた僕の耳には届いた。
路地裏で生きていくためには耳が良くなくてはいけなかったから、自然と自分が聞き取りたい音を聞き取れるようになったこれは僕のひとつの特技だ。
スープを飲みながら僕はその大男の声に耳を澄ました。
盗み聞きはやってはいけないことだと知っているが、聞こえるような声量で話すほうが悪いと思う。マスターが買うような情報なんかを僕なんかが聞くのも申し訳ないが。
まあ、ちょっとした暇つぶしみたいなモノだった。
「オレはこの情報売ったら、その足でこの街からでなきゃなんだけどよ。まあ、聞いてくれや。」
「おう、どうしたんだ。お前、東のとこの下っ端やってたんじゃなかったか。」
「マスターは良く知ってるな。そうだよ。オレはボス……ヴァストークんとこの使いっ走りやってたやつだ。それがよ。今回、うちでやべぇ仕事請け負っちまったみたいでさあ。その仕事ってやつが、今話題の王后様誘拐ってやつでよ。」
「ああ、あれってお前のとこが請け負ってたのか。」
ふーん。王后様……ねえ。
「その王后さん、今、ユークの倉庫にいるんだけどよ。オレもその手伝いとして行ったのさ。そこでよ、王后さんを嬲ってたんだけどよ、よーく見たら、見覚えがあんのよ、その王后さん。」
「ふむ、南のあの倉庫だな。王后様はまだ庶民には顔見せしてないはずだが。」
「ああ、それがびっくりだぜ。西のあの孤児だよ。孤児にしては真っ白な肌で急に現れてはヒトの精と金を搾り取っていくって有名で、一部には“気高い淫らな白妖精”なんて呼ばれてたこともあるあれにソックリだったんだ。王后様のお顔が。」
え……それって。
「それ、西のほうに良くいたサーシャのことか。」
サーシャ……が……王后…………?
「ああ、それそれ、そんな名前だったなたしか。オレ、一度だけだけどそいつのこと買ったことあるんだよ。具合が良くてつい一枚多くコインあげちまったから良く覚えているんだ。ちげえねえ、王后さんは孤児のサーシャだ。」
「それが本当なら驚きだ。……まあ、あの子は路地裏の出身としては、少々逸脱していたヤツだったから、納得もできるがな。それがホンモノの王后様なのか、王后様の影なのか、代わり身や囮かもしれないが、あの子になら、それが務まりそうだ。」
「ああ、そうか、あれが影かもしれない可能性もあるのか、王后に似た孤児を使ってたのかもなあ。でもまあ、影だとしても国が動かないといけないように、王后様の誘拐はいろいろなところで宣伝してニュースや噂にも広げたりとか工夫してあるからなあ。まあ、ホンモノでもニセモノでも構わないが、今、王后として監禁されて嬲られてるのは孤児のサーシャだってことだ。」
「なるほどな。ふむ、すべて本当なら、良い情報だ。」
サーシャが……嬲られてる……今、現在進行形で。ウソ……だろ……。
「ああ、肝心のどこから依頼されてってところはオレみたいな下っ端まで知らされてないから、教えようにも教えられないのが残念だ。で、いくら出してくれる? この情報。まだ他には漏らしてない情報だぜ。」
「そうだなあ。」
「オレってば、その王后さんを嬲るのに参加したときにさ、つい癖でヤってる最中に殺しちまいそうになったってんで、なぜか、この仕事から降ろされたんだ。そんでもって、他のちょっとしたごたごたに巻き込まれちまってんで。だからおやっさんにこの情報売ってそのお金でこの街からオサラバしちまおうってワケ。」
サーシャ……サーシャを助けなきゃ。
サーシャは僕を助けてくれた。何度も。何度も。
今度は僕が助ける番だ。
そうだ。
僕がサーシャを助けないと。
どうしたらいい。
僕はどうしたらいい。
サーシャがいる場所はわかった。
でも、僕ひとりがそこに行って、何になる?
いや、なにかにはなるはずだ。
そうだ。
僕はもう迷子じゃない。孤児でもない。身分も職業も立派にあるんだ。
僕の言葉を届けることができるんだ。
だれか上の人にこのことを伝えて手伝ってもらえばいいんだ。
そう、きっと養父なら僕の言葉を聞いてくれるだろう。
別に僕の言葉を信じてくれなくてもいい。僕がそこにサーシャを助けに行ったということを気に留めてくれればいいんだ。
いける。
サーシャを救いに。
僕は行く。
椅子から勢いよく立ち上がり、マスターと大男に近づく。
部屋に置いておくのがまだ怖くて持ち歩いている全財産の中から、一番価値の高い金貨を数枚、大男の前に叩きつけ、マスターにはご飯のお代分のコインを置く。
「な、急になんだ?」
「お前は、もしかして、サーシャの……。」
大男とマスターの声を置き去りにして、僕は走って店を後にした。
いそげ。いそげ。
今もサーシャは苦しめられているはずだ。
誘拐されて今日で何日目だ?
とにかく、いそがないと。
走って城に向かう。
兵士用の門から城に入り、養父を探す。
「なあ、総隊長はどこだ?」
廊下にいた同僚に噛みつくように訊く。
「ん? 制服も着ずにどうしたんだお前。総隊長はたしか、今は会議中じゃなかったっけ。誘拐事件の。聞いたところによると王様もそれに参加しているとかなんとか。」
ありがとう、と言って僕は急いで会議室に向かう。
あそこだ。
会議室の前に立っていた兵の制止の声も気に留めず、扉を開けた。
中は重苦しい空気が漂っていた。みんな気難しい顔をして話し合っている。王様のようなヒトもいる。養父もいた。
「会議中に申し訳ありません! 隊長! 王后様は南にあるユークの倉庫に監禁されているらしいです!」
大声でそう言って、僕はだれの返事も反応も待たずに、養父を含めてそこにいた全員の驚いた表情をちらりと見てから退出した。
「あはは……。」
走りながら、情けない笑い声がこぼれ落ちた。
これで僕は、良くて退職、悪くて処刑かもしれない。
それほど礼を欠いたことをした自覚はあった。
ああ、僕はどうしようもないヤツだなあ。
再び城から出て、ユークの倉庫に向かった。
良く知っている路地裏の道を使った。こちらのほうが近いし、僕にとっては通りやすい。
表通りのように人がたくさんいるワケでもないから。
走って走って、やっと着いた。
倉庫の表にはきっと僕では敵わないような人が立っているはずだから、倉庫の裏側に回る。
この倉庫の造りは知っている。
兵士になる前に、一度、サーシャと共にちょっとしたお使いをする際に入ったことがあるからだ。そのお使いというのは、まあ、よくある危ないモノを届けるというお約束な仕事だったのだが、それはこの際どうでもいい。
倉庫には入り口が2か所ある。
大きな門がついている表通りに面しているところにひとつ。建物が連なり、ごちゃごちゃとした裏のほうにひとつ。
入り口にそれぞれ見張りがついているのは誰もが知っている。
僕が入ろうと思うのは、裏のほうの入り口だ。そこは見張りの門番さんはほとんどの場合、ひとりだ。
その裏口まで行くのにはとても複雑でわかりにくい道を使わないといけなく、使い勝手が悪いということで、その裏口は使用されていないらしい。それに裏に入り口があることを知っているヒトは非常に少ない。けれども門番のひとりもそこにつけないというのはダメらしいので、恰好だけでも、という理由で門番がひとりいるらしいのだ。
僕はその裏口に近づく。
やはり、ひとりの男が扉に寄りかかるように立っていた。
さて、どうしようか。
僕ひとりでここを切り抜けるには、どうしたらいい。
ちらりと、後ろを確認する。
おそらく隊長が心配でつけてくれたのであろう人が数名、城から僕の後を追ってきていたのは知っている。
僕に一定以上近寄って来ないところを見ると、手助けは望めない。
では、どうするか。
建物の影に入る。そして自分の恰好を確認する。
これでは、少し立派すぎるかな。
手早く、ズボンを脱ぐ。
裾が長いセーターで良かった。下着はギリギリ見えず、手っ取り早くそこらでウリをしている奴に見えるだろう。
手で適当に前髪を上げて、気持ちを切り替える。
「ねえ、そこのおにいさん。お仕事お疲れさまぁ」
門番に近づき、顔を覗き込むように話しかける。甘ったれたような声で、少し色っぽく、いかにもウリをしているように。すべてサーシャに仕込まれ、サーシャから教わったまま。
逃げられないように門番の腕をつかみ、身体を密着させる。
正直言って知らないヒトに触るのも触られるのも嫌いだが、そうも言っていられない。そんなことおくびにも顔に出さない。
「ねえ、ちょっと休憩しない? 僕とイイコトしようよ」
門番はすぐに警戒を解き、面倒くさそうな表情を浮かべる。
無害そうに見せれれば、今回は成功だと言っても良い。
「見ての通り、仕事中なんだ。そういうのはヨソでやってくれ。」
「そういわずに、ちょっとだけ! ね、いいでしょ?」
「はあ。ダメダメ。はい、あっちいけって。」
「えー。おにいさん、カッコよくて僕好みなのになあ。渋カッコよいって良く言われるでしょ? 言われない? 陰で絶対言われてるよぅ。あーあ、ざあんねん。……あ、そうだ! ねえ、おにいさんはキスはお好き? 僕、キスのテクニックには自信あるんだあ。ヤってくれないなら、キスだけでもしよう? 今なら大サービスでタダだよ!」
普段の3倍は早口で畳み掛け、好みでもなくカッコ良くもない小汚いおじさんにささやきかける。
キス一回で1コインはもらいたいのが本音だ。
「あーそういうのも間に合ってるから。しっし。」
「んーもしかして、おにいさん、キスに自信ないの? それともお嫌い? もったいないなあ、おにいさんほどのイケメンなのに、……ねえ、いいでしょ? ちゅーしよ?」
嫌がって逃げる門番の口をむりやり僕の口でふさぐ。
門番の口内を舌でまさぐる。門番はそのうち、キスくらい、タダならいいか、とあきらめて抵抗する力を抜いた。
口で息ができないようなキスをしながら、僕は両手を門番の首元に持っていく。
触られている感触を感じさせないほどの強さで耳の下あたりの首のところを指で押さえる。
徐々に押す力を強くしていくと、あるところで門番は目の焦点が合わなくなり、体から力が抜けて、体勢が崩れた。
僕はすばやく、門番を壁に寄りかからせ、座らせた。
これでこの門番さんは数分は起きないだろう。
「ペッ、うー気持ちが悪い。口をゆすぎたい」
ズボンをはき、僕は入り口から倉庫の中に入っていった。
倉庫の中は静かだ。
人が動いている音がほとんどしない。
とりあえずサーシャとお使いに入ったときのことを思い出すように、死角を通って行く。
この建物の中で人を監禁するとしたら、果たしてどこだろうか。
ここは地下室が複数あったはずだ。
一階にはそういったスペースはないはずだから。
……思い出した。一番隅の地下室にまるで牢屋みたいな部屋があるという話をサーシャとしたのを覚えている。
あそこなら、監禁しやすいだろう。
人と会わないように移動する。足音も立てずに。盗みとかしょっちゅうしていたから、こういうことは得意だ。一度入ったことのある場所なのでルート選びも上手くいく。
地下に降りていき、サーシャがいるであろう部屋の前まで着いた。部屋の前には、さすがに、見張りがたくさんいる。
うーん。どうしようか。
ここで当たりっていうのはあきらかにわかる。
問題はどうやって中に入り、サーシャを助け出すか、だ。
できるなら、1日くらいここで見張って、ヒトの流れを把握してから打開策を考えたいところだが、そんなことをしていたら、その間にもサーシャは苦しみの中でもがき続けることになる。
王后様としてのサーシャがころされないように配慮されているとしても、苦痛の中にいるのは間違いないだろう。僕はサーシャに苦しんでほしくない。
はあ。一か八か、やってみるか。
僕はどうどうと歩いてサーシャがいるであろう部屋に入ろうとする。
「おい。お前、何の用だ? まだ交代の時間じゃないだろう。それに、お前、だれだ?」
当たり前のように見張りのひとりに言われる。
まあ、当たり前だ。見知らぬ青年が来たらだれだって止める。
「ああ、それが、お前らと部屋の中のやつらにボスから命令が出てな、それを伝えに来たんだよ。俺はまあ、ボスのところで情報屋やってるヤツだよ。顔を知らなくても無理はない。これでもボスから信用されてる腕はあるんだぜ。」
嘘八百だ。
「情報屋? こんなやついたか?」
「さあ、オレは知らないな。」
「オレも知らん。」
「オレも。」
「だから、だれも知るわけがないって言っているだろう。はあ、まあいいや、とりあえず、伝言な。今、部屋の中にいる奴ら全員と、見張りはひとりを残して他は皆、ボスのところに一旦戻ってこい、だとよ。」
すべてウソ偽りですが。
「どうして戻ってこいと?」
「ああ、なんでも、裏切り者が出たらしいんだ。ここの情報を俺じゃない情報屋にリークしたバカが出たんだ。情報屋に一度売られちまえば、後はすぐに国にでもだれにでも売っちまうのが情報屋だからよ。やべぇ、って話だ。」
ま、これは本当の話しだ。
「マジかよ。なめやがって。どこのどいつだそのバカ野郎は。」
「それを知るためにも一旦戻って来れるヤツは戻ってこいだとよ。ボスのとこは今上から下へとてんやわんやの騒ぎだ。だから皆には顔を知られていないような俺が伝言のお使いをしているわけさ。俺はボスからは信用されているからね。」
はい、ウソです。ボスがだれなのかもあいまいです。
「うーん。そういう事情なら、わかった。」
わかっちゃうんですか。
「おい、お前、中のやつらにも伝えてこい。ここにはオレが残るから、他は早くボスのところに戻れ。」
きびきびといかつい傷だらけ男どもは動き、中から人が出てくるときに、僕はどさくさに部屋の中に入る。扉が閉まって足音を確認する。
どうやら僕が部屋の中に入ったことに気づかれなかったようだ。ひとりを残した人数分の足音がこの部屋から離れていくのが確認できた。
部屋の中はむき出しの石畳だ。
窓はひとつもなく、光源はろうそくのみ。
部屋の中央にはひとつの物体が転がっていた。
ヒトだ。
裸のまま倒れている。
駆け寄り、上体を抱え、顔を見る。
サーシャだ。
蒼白な顔色だが、間違いなく、サーシャであった。
身体の状態を診る。
いたるところに傷があり、血が流れた痕がある。腫れたり、火傷のような痕もある。どれもこれも真新しく、今さっき出来たばかりのものもある。
水をかけられたのだろうか、濡れていて、サーシャ自身はキレイだが、その下の床は様々な液体が入り混じって汚い。
「サーシャ。」
小さな声で耳元に呼びかけてみる。
しかし、反応はない。
抱きしめても身動きすらしない。
体はどこもかしこも冷え切っていた。
弱り切っている。
どうやってここから連れ出すか、侵入しながらずっと考えていた。
ここは地下だ。
地上であれば、窓などから外に出られただろうが、それもできない。
この部屋の扉には、ひとりの男がまだ見張りとして残っている。さすがに全員を離れさせたらボスの命令だとしてもおかしいだろうと思われるために、ひとりだけを見張りに残せと言ってしまったが、それは下策だっただろうか。
……しかたないな。
やるか。
ひとりならやれるだろう。
セーターを脱ぎ、それをサーシャに着せてから、サーシャを背負い、ベルトでしっかりと自分に固定する。
扉を叩く。
「ねぇ、……なにか、食べるモノ。」
できるだけサーシャに似た声を出す。
まあ、おそらくはサーシャは誘拐されてから言葉という言葉を一言も発していないだろうから、あちらにとってこれは異常なことだと思う。思わせる。そうすれば、あちらから扉を開けるはずだ。
見張りが扉のどこに立っているのかがわからないため、あちらから開けさせるのだ。
「ぁあ? 王后サマ? 動けるの?! 声出せるの?!」
案の定、見張りは扉を開けた。
開いた瞬間に男を蹴飛ばす。
僕には力がないため、蹴っても相手はよろけるだけだ。しかし、その一瞬でいい。その一瞬で、僕はサーシャとともに走り出す。
逃げるんだ。
後ろでは見張りがわけのわからない言葉で喚いている。
すぐにどこかに待機しているであろう応援が駆けつけてくるだろう。その前に僕は地下から出た。
表ではなく、裏のほうの入り口を目指す。
表の入り口は何人いるかわからないからだ。
裏なら先ほどの門番がひとりなはずだ。それが気絶しているのが見つかっていないといいのだが。
すべては賭けだった。
そして、天はこちらに味方をしてくれた。
表の入り口があるほうで、大きな物音がしていた。人の声がたくさん聞こえた。その人声は、僕の敵なのか味方なのか判別はつかない。
裏の入り口まで、たどり着けた。
そしてそこから外に出たら、門番がいなかった。
サーシャを背負ったまま出て行くと、そこにはヒトがたくさんいた。門番が縄で縛られ転がされていた。周りにいる人々は兵士の格好をしている。
「13番隊のロキナだな? 今、陛下たちが応援にきてくれた! 背負っているのは王后様か? 治療するから、こちらに来てくれ!」
その兵士たちの中のひとりがそう言って僕を先導する。この人の言葉を信じて大丈夫なのかと逡巡したが、サーシャを治療するためにはどこかへ連れて行かなくてはならないことは明らかだったため、その指示に従うふりをする。
その人についていくと、倉庫の表側についた。
そこには、養父である隊長と、この国の王様がいることが遠目からでもわかった。
ああ、サーシャは助かる。助かるんだ。僕が助けることができたんだ。
養父の姿を間近で見て僕は確信した。サーシャは、助かる。と。
「サヤ!!」
王様が僕が背負っているサーシャを見て、近づいてきた。
僕はどうしたら良いかわからなくなった。
サーシャを今すぐに治療してもらうために、この王様に手渡さなければならない。しかし、僕はサーシャを手渡したくない。
だって、だって、やっと、また、サーシャを見つけることが、できたんだ。サーシャが僕の元に帰ってきたんだ。
そんな僕の心の中の葛藤は、だれひとりとしてわかってくれず、あっけなくサーシャは王様とその周りにいる兵士たちに手渡された。
王様はサーシャのことしか目に入らず、また、他の兵士たちもサーシャのことしか見えていないようだった。
兵士の格好をしていない僕はそこにいるのが場違いのような気がしてきて、実際、非番だった見習いの僕は場違いだっただろうから、僕はそっとその場から離れた。
サーシャは、この国の王后様になったサーシャは、もう大丈夫だ。大丈夫なんだ。
だから、養父と王様に任せておけば、大丈夫だ。
僕は今、ここにはいらない存在だ。
王后様を救出できて感動的なこの場の空気は、僕のような路地裏で生きていた汚物には耐えられなかった。
だから、だれにも気づかれないように、そこから抜け出した。
抜け出して、家である寮に帰るでもなく、街をふらふらとうろついた。
ああ、サーシャを助け出せて良かった。
それにしても、これから僕はどうなるのだろうか。
王様と上層の幹部たちの会議に、一介の見習い兵士それも非番で私服の元平民以下が、礼も無しに会議を邪魔してしまった。養父である軍で一番エライ隊長に泥をぬってしまったかもしれない。いくら緊急事態とはいえ、お咎めなしというのはないだろう。また、今回はその情報が正しいものであったから良かったものの、これが偽の情報であったら、確実に処罰がくだされる。
あーあ、職を失ったらまたひとりで路地裏で生きていこう。しぬときは、しぬときで、いいかな。サーシャを助けることができたし。
昼間行った情報屋兼居酒屋にいつの間にか着いていた。
同じようにカウンターの端から三番目に座る。
すると、マスターが話しかけてきた。
「お疲れさん。思い出したけど、お前、あのサーシャといつも一緒にいた奴だったよな。そういえば、今日は南の倉庫でハデな捕物が行われたんだってな。ほら、これでも食べろ、王后様救出オメデトさん。」
このマスターはなんでも見透かしたような目で労ってから、ほかほかとした料理を僕に出してくれた。
「……おいしい。」
「だろ?」
「……あの情報料、足りてた? というか、マスターにもお金渡したほうが良かった?」
「ははは、お前、変なところで律儀だなあ。さすが、あのサーシャのフンだな。ああ、これは褒めているんだぞ。路地裏出でこんな奴いないからなあ。」
ジト目で見ると、マスターは笑う。
「あの野郎にやる分としてはあの情報料は多すぎたくらいだ。まあ、横槍で情報をかっさらっていく上乗せ分と考えればいい具合だったんじゃないか。それと、こっちには別にいいよ、お前があの野郎に払ったくれたおかげでこちらは情報料を払わずに情報を手に入れられたし、料理代はきちんともらったしな。」
「それなら、いい。じゃあ、これで。」
「まあ、待て、もっと話していこうぜ。」
代金を置いて立ち上がろうとした足を止めて、椅子にまた座り直す。
「はあ、情報料もらってもいい?」
「ああ、もちろん。」
「んー。僕が助けた王后様はサーシャだったよ。王様がサーシャにすがりついて泣いてたから、ホンモノなんじゃあないかな。」
「へーそうかそうか。で? お前はそれを見て、サーシャに付き添うでもなく、王様から褒美をもらうでもなく、なぜここに来たんだ?」
「……だって。」
「だって?」
「場違いだったんだ。」
「場違い?」
「僕が知ってたサーシャは僕だけのものじゃなくなってしまったみたいで、僕はどこに行けばいいのかまた迷子になってしまったみたいなんだ。」
「迷子ねぇ。そういえば、サーシャは王后様になったとして、今はお前はなにをしているんだ? 最近見かけなかったが。」
「見習い兵士。」
「兵士? お前が? そんなヒョロっこいのに?」
「ああ、一応、死んだ父が兵士だったから。その同僚だったっていう今は隊長やってる人に拾われたんだ。ご飯食べて鍛えれば僕だってヒョロくなくなるはずさ。まあ、でも今回、僕は勝手な動きをしてしまったから、兵士じゃなくなるかもな。」
「へーそれはそれは。兵士辞めたらなにするんだ?」
「また路地裏で生きようかなって。」
「また? サーシャもいないのに?」
その言葉になぜだかムカついた。
「ああ、なんか文句ある?」
「ない。」
「……。」
「ないけど、お前はそれでいいのかなって。」
「そんなことを言うならここで雇ってもらえたりするのか?」
「お前にやる気があるなら。」
「はい?」
唖然とする。ただの冗談であってもタチが悪い。サーシャの手を離してしまい、これから無職としてまた元の平民以下になる僕にいう冗談としては。売り言葉に買い言葉だとしても。
「お前、頭いいだろ? 手も器用だ。だって、あのサーシャのフンだったんだから。」
「頭がいい? 器用?」
「サーシャは規格外だっただろ。その影響を受けてるはずだろうお前は使えるはずだ。ただのゴミにしておくにはもったいない。お前は、頭もいいし、話もきちんとできる。顔は、あのサーシャと並ぶことができるくらい、キレイだ。ふたりとも、どうして今までまともな職を得なかったのか不思議なくらい優秀だ。まあ、それを飛び越えて王后なんてものになっちまったサーシャにはびっくりさせられるがな。」
「ああ、まあ、それは……。」
「お前たちがそうやって生きてきた理由は別にあるんだろうけどよ。でも、今のお前は、サーシャから離れちまったお前は、もうその理由に縛られなくてもいいんじゃないか? なら、ウチに来いよ。こき使ってやるからな。国の犯罪者になったって大丈夫だ。この店はな。」
「……考えとく。」
「おう。そうしてくれ。でも、まあ、あのサーシャがお前さんを離すとは到底思えないから、どう転がっても、謝罪とかは不要だからな。そのときはたまにウチに食事しに来い。」
「……。」
お代を置いて、僕は立ち去った。
城にある寮にはこっそりと戻った。だれかに見つかると面倒だと思い、だれにも見られないように帰った。




