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日和見駅前塾物語~エピローグ  作者: 山名 まこと
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初めてのクラス

 最初に持ったクラスと塾の意味を考えさせられた。


 最初のクラスは、小学生だった。それも3年生一クラス2名から始まった。それまで、小学生は、最初から受験する児童が対象で学校の勉強をするクラスは5年生からだった。公立中学に入った時にトップの成績が取れるように先取り授業で行っていたが、今回、4年生から公立中学に入ることを見越すクラスを作ることになった。そういう意味では、先駆的な役割を担うのだったが、教科書もなく、対象となる児童も2名だけだった。今までだったら、「不合格」だった児童もここでつなげて他に逃げないようにしたい。そんな目論見もあった。勉強ができる子供だけを相手にしては、これから先細りになることはわかっていた。それにしても、見習い同然の自分に回ってきたのだろう。確かに、空いている先生がいない。というよりまだ、自分が信用されていないことが分かった。うまくいかなくてもそんなに被害はないクラスではあった。万が一やめることになっても、講習や5年生になる時にちゃんと入塾させられる条件はそろっていた。

 人手不足だが、専門性を発揮できるかどうか常に見極めていた。ここでは、教科の専門性はいらない。「辞めさせない技術」が必要だった。教員免許を持っていなくても塾の先生はできたし、もしかしたら教員の勉強は、余計かもしれなかった。勉強ができるようにすることが第1の使命であり、そのために課題やテストや残り補習を大歓迎する家庭が多かった。そのために、子供に夕食や場合によっては、夜食代わりのおやつなども持たせていた。深夜に至る場合は、迎えに来る体制はできていたので、小学生であっても10時までは、日常的に残っていた。「ゆとり」なんて言葉はどこにもなかった。ゆとりが叫ばれたときに一番喜んだかもしれない。これで「土曜日」が一日使える。親が土曜日休みになるとは限らず、そんなときに塾は喜んで預かった。

 とはいえ、子供たちは、すぐになれるものだった。それに、ゲームが普及されていない時代だったから塾が遊び場でもあった。その分、学校と塾は相性が悪かった。塾の勉強は、学校のはるか先に行っていた。教え方もこちらのほうがうまかった。大学出て、勉強をして先生になった人と、大学生ですぐに授業を持たせた先生との違いはシステムの違いにあったかもしれない。学校行事もなく、ひたすら教えるだけの先生のほうが、子供たちのことをよく見られたのは、皮肉なことだった。行事もなく、国語算数と理科社会を教わるだけなのに、子供たちは、様々な顔を見せてくれた。そして、子供たちに合わせていろいろなアプローチができた。ここでは、どんどんこなしていくことが要求された。塾でやっておけば、学校は楽勝だった。それが分かっているから、子供たちは、塾を休むことはなく通ってきた。

 クラスの生徒は男の子一人、女の子一人の二人から始まった。二人のスタートの点は、ほぼ同じだったが、後々分かったのだが、男の子の「こう太」は、他の塾で断れたり続かなかったりしていたが、どうしても受験をさせたい保護者の希望は強かった。ここでも不合格だったのだが、親の熱意と塾側の人数確保の方針によって講習だけの条件で入った。女の子の「しょう子」は、全くの初めてだった。兄が来ているので、ちょっと早いけどなれのために講習のみの参加だった。テストは、あまりよくなかったのだが、それは、初めての試験らしい試験であることが大きかった。国語は、どう答えればいいのかわからなかったみたいで問いの答え方が変だった。ただし、物語文の内容はわかっていたり、漢字の読みはちゃんとできていた。人見知りがあるのか、最初はほとんど話さなかった。どちらかというと、こう太のほうが積極的に発言をした。ところが、夏期講習の後半に入って、勉強に慣れてきたのか、正解率が高くなった。習っていない算数の問題も先生の説明でほぼ身に付けることができた。基礎的な力を持っていたので、すぐに理解できた。こう太がトンチンカンな発言をする点で変わらなかったが、しょう子は、どんどん吸収していった。二日に一度やる小テストは、最後の2回をしょう子は、ほぼ満点を取るようになった。こう太は、よくて30点だった。もともと、講習だけのクラス予定だったが、塾としては、しょう子が入塾できたらと思うようになった。こう太一人だったら、コスト面を含めて見通しが持てなかったが、しょう子が続けていけるのなら、このクラスを続けることも一つの策だった。こう太の家は、こう太がこのまま続けられるように働きかけていた。しかし、受験を中心に勉強させられるだけの能力と学力が備わっていない生徒がクラスにいると緊張感がなくなることを心配した。しょう子が入ることによって、きっとしょう子がクラスの注意上の成績を取ることになる見通しがあった。無理に受験のクラスにしなくても夏の講習あたりでしっかりと勉強して受験のクラスにいれて、今のクラスは、夏に複数入塾してもらえれば、一人きりにならないし、需要がだんだん出てくることも分かったいた。需要が分かれば後は、それに見合ったものを作り出せばいい。


 この目論見は成功した。仁も最初は、頻繁に塾長に見られていた授業だが、子供たちが50分しっかりとすごしていることにようやく安心した。冬休みから始まり、3か月に及ぶ研修をねばり、春の講習でようやく今のクラスを持たせてもらい、二人を確保できて、無事4月のスタートでは、一クラスだが、正式なクラス担任として持つことになった。といってもほかの先生は、女性でしかもいかにも大学生風だったからだろうが。とにかく、この二人を離さないように様々な工夫をした。他の先生が取り入れた教材や言動などを真似して、自分なりにアレンジを加えていた。こう太は楽で面白いことが好きだった。しょう子は、新しい知識や自分が知りたいと思ったことを教えてもらうことを喜んだ。生徒数は、なかなか増えなかったが、二人は、休まずに塾に通った。時間が余った時は、詩や作品の朗読をした。漢字を黒板に書くことも好きだった。もっとも、こう太は、正しい字を書くよりもチョークを使うことのほうに喜びを感じていた。しょう子は、黒板の字を仁よりもきれいに書けるようになった(というより仁の字はまだまだで、時々間違えを指摘されてしまった。小学校の漢字の細かさは、そこに命かけるレベルのものだった)。

 仁は、連休明けて、少しずつ他のクラスも受け持つことができるようになった。相変わらずの人手不足である一方大学4年になった人が、就職活動でどんどんシフトを減らしていく方向になっていた。社員がその分授業を行うのだが、講師に回ってもらいたい。そう、使えるとなるとどんどんコマは増えていった。4月週1回1コマプラス研修が、5月連休明けに週2回小学コマ1(4年生)と中学週3回と少しずつ安定してきた。中学生になると高校入試を踏まえるようになってきた。専門的なことは、やってきたと思ったが、教えるとなると勝手が違う。大学生に教えるわけでもないが、言葉の使い方から難しかった。

 専門用語を使わないで言葉を伝えることの難しさを感じた1回目である(今後、このことには、常に参っているが)。

 夏期講習までに週3回のペースとアルバイト代が増加した。その分、アルバイトだけの生活に偏ることになってしまい、どんどんと大学から遠ざかっていった。



 子供はタフであり、大人は常に子供に求め続ける

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