第5話
夕奈の返事に何も言えなかった……顔は夕奈とそっくりの女の子の口から、自分は夕奈じゃないって。
「夕奈ちゃんは夕奈ちゃんだ、他の誰にもない……」
「黙って!」
「……」
僕はその場で立ちつくした。何度も自分が夕奈じゃないことを言うに無力感を感じる。
「ワタシは夕奈じゃない」
「ワタシは、夕音」
夕音? ひょっとして、夕奈とそっくり顔の双子?
僕は夕音の答えに窮する。夕奈、夕音? 一体誰が誰だろう?
「もう話が済んだから、帰ってください」
「えっ?」
後ろにずっと見ているお母さんはいきなり声を出した
「誰だ?」
一道の光が夕音のところから放って、結未とお母さんが隠れている場所に一直線と向かっていく。間違いなく、浩平が当たった光と同じだ。
「危ないっ」
突然結未がお母さんの前に立って、防壁を張って、お母さんを守った。
「ちっ、防いだか……」
僕はその二人を見て、目を丸くした。
ここは現実? 夢? それとも、現実でも夢でもない世界?
僕は思わず頬をつねってみる。
「いてっ」
痛みを感じられる。ここは現実の世界だな。だが、現実の世界でこんな攻撃を使える人がいるなんて不条理だ。
「やめて」
またどこからの声が聞こえる。
「あっ、ぐはっ」
わけの分からない痛みが出て、夕音はのた打ち回る。
「夕音、やめて」
夕奈の声、だがどこからか分からない。
「だっ、黙って、静かに、眠ってぇ……」
今度は夕音の声だ。
「黙らない……助けて、十夜くん」
今度は夕奈の声だ。
夕奈と夕音の声が順番で次から次へと出ていて、夕奈がどこにいるか確認できなくなった。
結未もお母さんもずっと何も出来ないまま、僕と夕音を見ている。
「あああああああああああ」
夕音がもがくことさえできなくなって、地面に倒れた。
「夕音」
「行かないで」
結未がしゃべりだして、僕を止めた。
「夕音はまだ気絶してない」
「アリーズドミール、アーメン」
「と、十夜くん、た、す、け、て……」
これが、僕が最後に聞こえた夕奈の言葉だった。
「はぁぁ、はぁぁ」
夕音は息を切らしている。
「ようやく収まった」
「あんたのせいで、ワタシはどれほど苦しむのか、ゆっくり寝るがよい……」
結局、夕奈はどこにいるか分からずじまいだった。ただ、夕奈の声だけを聞いて、心の中の不安が収まらない。
そのとき、思いがけなく、結未が僕の前に出た。
「おねがい、やめて」
「……」
「役目を果たす前に、ワタシは止めない……」
「おねがい、これ以上おねえちゃんを苦しめないで」
夕奈のことをおねえちゃんって? 待て、夕奈から妹がいるって聞いたおぼえがない。もしかしたら、夕奈がずっと探している人は結未のこと?
夕奈がわざわざ上京して、自分の妹を探すなのか? なるほど……それより、結未は夕奈がいる場所を分かっているのか?
「お姉さん? 冗談じゃない? 顔さえ似てないのに……」
夕音に言われてみると、確かに、夕奈と結未の顔はぜんぜん似てない。
どっちかにせよ、結未が夕奈とは姉妹であることを口にして、その驚愕の言葉を聞いて、僕はその場で立ちすくむ。
今すぐ聞きたいが、なかなか口を挟めなかった。
「信じないでしょ? これを見て」
結未は首につけているペンダントを取り出して、夕音に見せる。
「普通の下弦月のペンダントじゃない? これだけで何も示せないじゃない? ワタシをバカにする気?」
「本当にそう思う? 自分の首を確認してみて」
夕音は自分の首を触って、確認する。
もともとそれは夕奈の身体だから、上弦月のペンダントがつけているということを分かっている僕は、その場に立って見ているだけしかできなかった。
突然、思いがけないことが起こった。
二つのペンダントもキラキラと輝いている。どこからの引力を受けて、二つのペンダントが近づいている。
「なんだこれ?目が見えなくなる」
夕音がそういいながら、手をかざした。
「お母さん、目を閉じて」
落ち着いて状況を見ているお母さんと結未は、思わず目を閉じた。
「まぶしすぎる、いったい何が起こっているだろう」
僕も手をかざして、何も見えなくなる状態になった。
しばらくすると、二つのペンダントが合体して、一つになった。真ん中にぽっかりと大きな穴が開いているのをはっきり見える。
「……」
あまりにも突然のことに、僕たちは何も言えなかった。ただ、そのペンダントを見ている。ただ、一つになったペンダントを持っている結未は、何の表情も示さなかった。
「あはは」
夕音は軽蔑するように結未に向かって笑っている。
「冗談にもほどがあるわ……」
「おかしい、おかしい、このペンダントは、どう見ても普通の指輪に過ぎない」
「それで何が証明できる?」
結未はゆっくりと僕の方に向かってくる。
「ゴメン……」
「いきなり謝ってきて、何があった?」
結未が僕にすがるような視線を見て、僕の肩にもたれかかってくる。
「ゴメンなさい」
ぽたぽた……
あついものが感じる、それは結未の涙だ。
どうして結未が泣いているか、おそらく結未自身以外に分かる人はいない。
「今のうちに言っておかないと、たぶんまた言えるチャンスがない」
ますます状況が分からなくなってきた。
「二人とも、そこで何ぼそぼそ言ってる?」
「なんでもない、なんでもない、すぐ終わるから」
僕は適当にごまかした。
「十夜ちゃん」
今度はお母さんの番だ。
「何? お母さん」
「女の子を泣かしてはいけません!」
がくり。
大事は話だと思ったおのに。
そっちが勝手にもたれかかって泣いているのに。僕は無実だ。
今さら何を言っても信じてくれないから、せめて結未になんとかしないと。
「これで拭いて」
僕はティッシュを取り出して、結未が一枚を取って、涙を拭き拭い始める。
「もう待てない、恋愛ドラマをやるなら家でやりなさい」
夕音が鎌を持ち出して、お母さんに向かっている。
「だめぇ」
また夕奈の声だ。
「やめて、おねがい」
ますます声が大きくなる。
「もう誰にも止められない、はぁぁっ」
夕音は痛みを耐えながら、お母さんの方に向かっていく。
「いやぁぁぁ」
「来ないで、わたしを殺さないで」
お母さんも夕音も悲鳴を上げる。
その悲鳴は学校中に響き渡った。まるで森の中で親が死んで、叫んでいる獣たちのように。
「あぶない、ぐっ」
これは一瞬のことだ。
結未が全身の力を使って、お母さんのところに飛び掛って、抱きついた。そして……
血の匂いがする。赤くて、生々しい血が、結未の身体からどんどん噴出した。
「どう、どうして?」
「どうしてその女に飛びかかった?」
夕音がいきなり結未に質問を立てる。
「せ……せめて、とぉ、十夜の、お……おかあさんをこ、ころ……さないで」
「なんでその女を守らなければならないの? 自分の命はどうでもいいのか?」
「わ……わたしは……どう、どうでもい……から」
「と、十夜の……さ、さいごの……しあわせを……ま、まもる」
結未は手のひらにペンダントを握ったまま、お母さんの上に倒れた。
「バカ……あんたは」
ひどい、ひどすぎる。どうして僕の幸せを奪わないといけない? 僕は何が間違ったことをした? 殺したいなら僕を殺せばいいのに。
「さぁ、次はあんたのお母さんだ」
「もう守れる人はいない、あんたが守るなら、あんたまで殺す」
殺されてもいい、お母さんが死んだら、僕も生き続けていく勇気はない。
「ダメ、そんなことはさせない」
「ま、またあんたか? あっ、ああああ」
何回も聞こえる夕奈の声だ。依然として居場所は分からない。
かえって、夕音が悲鳴を上げて、頭を抑えて、痛みを止めようとする。
だが、その努力はむなしく、痛みが続けている。
「あああああああああ…………」
「あたしが知っている十夜くんは、そう簡単に諦めると言う人ではない」
「夕奈ちゃん……」
「本当に死にたいと思っているのなら、殺される前に、別れよう」
「夕奈ちゃん……僕、僕……」
「十夜ちゃん」
力が失われて、僕は立てる気力もなく、地面にしゃがん。お母さんは静かにこんな情けない僕を見ていて、何も言わなかった。
一方、夕音は痛みを耐えられなそうに、地面に転がっている。
「さあ、十夜君」
「あたしの妹、ゆみが握っているペンダントを取って」
「とにかく、しゃがんでないで、立って」
「十夜ちゃん、これ」
「ああああああああああああ」
夕音の叫び声はまだ止まらない。僕はそれを無視して、お母さんからペンダントをもらった。
「そして、十夜君、あなた自分のペンダントを取り出さして」
「あら、これは5年前、十夜ちゃんの誕生日プレゼントのために買ったペンダントじゃない?」
「そうか? お母さん、もう忘れちゃった」
ど忘れした。お母さんがプレゼントとしてくれたのに、僕は忘れたなんて、なさけない。
「うん」
夕奈が続けて言う。
「そして、あたしとゆみのペンダントが結合した新しい穴が開いているペンダントに、十夜君のペンダントで嵌めて」
僕は夕奈が言われるように、ペンダントを床において、そこで自分のペンダントを真ん中に置いた。
すると、ペンダントから眩しい光が放たれている。
「ザビシアンテンスロイン」
夕奈はまたも呪文を唱えて、そして、夕音の叫び声もなくなった。どうやら痛みが治まったようだ。
しかし、そうではない。
夕音は気絶して、ぱたんと地面に倒れた。
今さら気づいた。夕奈は夕音の体にいるんだ。
やっと会えるけど、決して嬉しいことではない。
目の前に、夕奈が空に浮いている。
「夕奈ちゃん、どうして空に?」
「十夜君に言わないといけないことがあるの」
夕奈は真面目そうな顔で僕を見つめて、あえて笑顔を出してみせる。
とてもぎこちない笑顔だ。
その笑顔を見ると、心の中のやるせなさが消えない。久々に夕奈と出会えたのに、なぜそんな気持ちを抱いているのだろう?
僕は夕奈を見つめる勇気をなくして、あえて目を閉じることにした。
「怖がらないで、目を開けて」
目の前に生まれたままの姿の夕奈が眩い光に包まれている。
墨染の空に純白な光に染まれ、やけに眩しい。
「あなたは?」
「十夜君が知っている、夕奈」
僕は目を擦って確かめる。
どうやら夕奈が空に浮いている事実は変わらないようだ。
「十夜君、聞いて、あたしは人間ではない」
「ウソ……」
「嘘だ」
「へえ? 夕奈は人間ではないの? ありえないわ」
僕もお母さんも、その話に仰天して腰を抜かした。人間じゃなかったら、どうして僕のことを好きになる? 人間と人間以外のモノとの恋はみのるのか? そんな現実でありえないことを……
「嘘ではない、僕はただの月の精霊だ、人間に恋してはいけないの」
「月? 精霊? 夕奈ちゃん、何を言ってる? 僕全然理解できない……」
僕は呆然と立ち尽くす。今までずっと精霊と恋していることを、信じることができない。
信じがたい。
「ねえ、夕奈ちゃん、今言ってることは全部嘘だろ? そうだ、絶対嘘だ」
嘘だといってくれ、そうすれば、話は終わることができるはずだ。
「ゴメン」
夕奈が口に出した言葉、肯定的な言葉でもなく、否定的な言葉でもなく。ただのお詫びに過ぎない。
だが、その瞬間、僕はすぐ理解した。やっぱり、夕奈は人間ではないことを、完全に理解した。
雷に当たったとしても、何の傷も無くて済んだのは不可能だ。それに、今は空に浮いていることは、普通の人間は絶対できることのないことだ。
「十夜君の側にいて、ゴメンなさい」
「十夜くんに恋して、ゴメンなさい」
「そして、十夜に愛されて、ゴメンなさい」
「あたし……あたし」
夕奈は泣きそうになって、涙が零れそうな顔で僕を見ている。
「もういい……」
「そんなのどうでもいい……」
「たとえ夕奈が人間でも、精霊でも……」
「僕は夕奈ちゃんのことが好きだという気持ちは変わらないんだ!」
僕は再び夕奈の前に告白した。今まで夕奈への気持ちを夕奈の前に吐き出した。
「あらあら、十夜ちゃんはずいぶん成長したわ、お母さん嬉しい」
「……」
僕は雰囲気を壊すお母さんが言っていることを無視して、決意のまなざしで夕奈を見ている。
「……」
「うれしい、あたしはうれしい」
「でも、話だけで何も変わらない……」
「僕は十夜君の側にいればいるほど、傷が深くなっていくだけだ、あたしは……」
「あたしが十夜君の側にいると、十夜君の周りの人を傷つける」
「あたしは、のろいを掛けられているから」
夕奈が次から次へと口に出した爆弾発言が、心が何千万本の針にちくちくと刺されて、痛んでいる。
「もういい、これ以上言わないで」
「だめだ、これ以上言わないと、もう言えるチャンスがない」
「十夜ちゃん……」
お母さんは相変わらず何も言わずに、同情する目で僕を見ている。
神さま、僕は一体何かいけないことをして、こんな酷い目に遭わせないといけない? 大切な友達を失い、普通の恋をしようとしただけなのに、周りの人が僕のせいで傷ついたなんて。そんなことはもういやだ。
僕が幸せになると、周りの人が傷づくってもういやだ。
「十夜君……あたしね、やっと気がついた」
「あたしがずっと探している人は、十夜君のことだ」
「……」
僕を探すために、どこかの田舎から一人で旅立って、ここまで来た夕奈は、一体何のために来ただろう?
その意図を明白にするために、僕は夕奈に聞く。
「どうして僕のことを探さないといけない? 僕はべつにイケメンでもないし、背も高くないし……」
「こら、自分のことを貶さないの!」
頭のてっぺんから痛みを感じる。
「あいてっ」
静かにずっと見ているお母さんは、僕の発言に対する反応に違いない。
「そんなのあたしは気にしてない、十夜君がここにいるなら、それでいい」
「……」
突然、夕奈の見に包まれている光が強くなり、色もそれにしたがって、純白から蛍光に変わった。そして、夕奈の身体から、両側に羽根を広げ、ぱたぱたと扇ぐ。
「見たのとおり、あたしは精霊だ」
目の前の光景を見て、信じたくなくても信じざるを得ない事実だ。
「これがあたしのもともとの姿だった」
「ただ、のろいにかけられて、人間になったの」
「……」
背中に羽を生えて飛んでいる夕奈は要らないから、普通で可愛い夕奈だけでいい。
「どうして今は元の姿に戻った? 僕はさっぱり分からない」
もうだめだ、精神崩壊する間際だ。早く終わらせてくれ……
「この姿を戻すために、十夜君がつけているペンダントと、十夜君からあたしへの『あい』が必要だ」
「僕のペンダント、そして僕の『あい』? 何言ってるの? そんなの関係あるわけないじゃないか」
「いや、あたしと結未のペンダントと、十夜君のペンダントを結合させるために、十夜君からの『あい』で浄化されないといけないの? そうしないと、ペンダントが結合できないの」
「そ、そんな……」
あまりにも滑稽な話を聞かされて、頭がずきずきする。
僕の『あい』をもらうために、ここに来て、僕のまわりの人を傷つくのか。
「でも、のろいをかけられているあたしは、もともと他人のことを好きになることが許されない……」
「でも、そうしないと、のろいが永遠に解けない」
のろいを解けるために、僕からの『あい』が必要なのに、僕のことを好きになると、僕のまわりの人が傷つく。なにこれ? こんな漫画でも出ない話が僕にふりかかるなんて。僕は信じない、絶対信じない。
「ははぁっ、あはは、はははぁぁっ」
「十夜ちゃん、ゴメンなさい……」
僕は狂った。まるで太陽が西から昇るように。
世界も狂っている。僕も狂っている。そして……
すべてが狂っている。
僕は精神の病にかかった精神障害者のように、甲高い声で笑っている。
「いい加減にしなさい」
後脳部が強く叩かれたことで、僕の意識が戻った。
「お母さん……どうして」
「夕奈のことが好きという気持ちは変わらないと言ったのに、今さら狂ったってどうするのよ? 自分が言ったことはもう全部忘れた? もう夕奈のことはどうでもいいのか? 十夜ちゃん、いつの間にか、こんな意気地なしになったのよ、わたし……悲しいよ……」
僕は意識した。夕奈のことが好きだ。のろいをかけられても、精霊である存在でも、その気持ちはどうしても変わらない。
「わたしのことはいいから、さあ、行きなさい」
僕はゆっくりと夕奈のところへ行く。そして、また告白した。
「夕奈ちゃん、愛してる」
今の僕は、それしか言えない、他の言葉は何も思いつかない。おそらく、夕奈の心を動かせる言葉は、これ以外はないと思う。
「……」
「ゴメン」
夕奈が口から発した言葉は、僕が望んでいる言葉じゃなかった。
「今のあたしは、十夜君の気持ちを受け入れられないの……」
「あたしはもう人間ではないから、人間と恋することはできないの……」
そんなくだらない理由で恋することができないから、いっそ最初から恋しなかったらよかった。それはただの言い訳だ。逃げ道を作るための言い訳に過ぎない。
「僕は認めない、そんなの認められない!!」
「人間じゃないから恋ができないって、身勝手なことを言うんじゃねえ」
「あ、あたしはそういうつもりじゃ……」
「そういう気持ちじゃなかったら、行くな、どこにも行くな!」
蛍光色の羽根がすでに夕奈が思うように扇げなくて、夕奈の身体がだんだんと落下している。まるで翼が折れた天使のように、扇いでも、扇いでも、飛べない。
僕は思わず前に行って、夕奈を抱きしめた。
「十夜君、ダメ……」
「離して、抱きしめないで」
夕奈は僕を突き放そうとする。
「放さない、絶対放さない……」
二度と離すもんか!
せっかく戻したのに、手を放したら、また失うかもしれない。チャンスはちゃんと自分の手でつかめないと、失ったら誰にも文句を言えない。
「十夜君、あなたはエゴイストだね」
「……お互い様だ」
「えい、やっ!」
力が失ったはずの夕奈の羽根が、強く扇いで、僕を弾きだした。
「グアニゾエ」
「か、身体が動けない……」
どうやら夕奈が僕に呪文を唱えたようだ。そして、僕の身動きが封じられる。
「十夜ちゃん……」
「お母さん、助けて」
僕はお母さんに助けを求める。だが、人間である僕たちは精霊に勝てない。
「心配しないで、十夜君、この呪文は自動的に解除されるから」
「卑怯だ、早く解けて、卑怯者、エゴイスト! そんな夕奈ちゃんが嫌いだ!」
「!!」
お母さんは僕の言動にあっけにとられた。でも、ちょっかいを出さなかった。
「はい、あ、あたしはエゴイストです」
「そんなわがままなあたしを、許してくれませんか?」
熱い雫を感じる。
夕奈の涙だ、夕奈が泣いている。
僕たちの恋が実らなかったから泣いているだろう? それとも、良心を咎めて泣いているだろう?
そんな夕奈を見て、僕も自然に泣けてくる。
「そんなわがままなあたしを、許してくれませんか?」
夕奈は2度と僕に問いかけてくる。答えが出なかったら気がすまないように。
気づかないうちに、呪文が解けた。
「僕、夕奈ちゃんのことを許さ……んんっ」
不意打ちを喰らった。
夕奈が突然目を閉じて、こっちを向けてきた。
そして、僕の口を塞ぐ。
瞬時の出来事で、僕はすべてが分かった。
これが、夕奈が、僕への、最後口付けをかわした……
だが、この口付けは、決して甘いのではなく、夕奈の涙を滲ませて、ほろ苦くて、切ないキスだ。
「ゴメンなさい」
「そして、さようなら……」
「夕奈……夕奈が消えていく、どうして?」
お母さんの言葉に驚かされて、僕は目を開けて確かめる。
目の前の夕奈の姿は、その存在感が次第に薄くなっていく。
僕は夕奈の頬を触れる、女の子のそのすべすべとした肌触りはもうない。確実に夕奈の頬を触っているのに、その感触は髪を触っている、ざらざらとしたように、妙にいやな感じがする。
「短い時間ですけど、こんなあたしと付き合ってくれて、ありがとう」
「行かないで……」
「もうダメです、あたしの身体がだんだん消えていくから」
僕はできるだけ夕奈を引き止めようとするが、夕奈はちっとも妥協しない。
「十夜君、最後に、お願いがあるの」
「夕奈ちゃんのためなら、何でもする」
僕まるで奴隷はマスターから解放されたいと懇願しているような視線で夕奈を見ている。
それは、夕奈からの最初の、そして、最後の願い事だ。
「あたしが逝く前に、あたしのために、泣いてくれますか?」
「泣く?」
「うん、泣いて、くれますか?」
……
……
ダメだ、涙は、まるで水分が完全に吸われて干乾びたように、涙腺から何も出なかった。
「やっぱり、ダメですか?」
「ゴメンなさい……ゴメンなさい……ゴメンなさい」
再び自分の無力さを痛恨する。一つの感情が奪われたって、どんなに悲しいことか。
泣きたくても泣けない。そういう切ない気持ちをなんとでも味わったのに、今回だけは特別に切ない。
やるせない、その次もやるせない。
無数のやるせなさは、ただ立て続けに僕の内心を侵蝕して、心を蝕んでいく。
「あなたの彼女がそろそろ逝くんですよ、それでも、泣いてくれないの?」
「ゴメンなさい、僕、僕は……」
目がかすかになっている、視界がぼやけている。
「行かないで」
最後のあがき。たとえ何もできないと分かっていながらも、僕はただ夕奈に懇願する。だが、夕奈は頷いてくれなかった。
そして、夕奈の体が次第にぼやいている。
「もう時間だ……あたしは、もう行かないといけないの」
「あたしはもともとこの世界に存在しないものだから」
「こんなあたしを好きになって、愛してくれて、ありがとう」
ありがとう……
そして、さようなら……
眠る大地に、風がそよぐ。
目の前の女の子が、姿が消され、一つの翡翠となり、ゆっくりと僕の手に落ちる。
それが、結未の下弦月のペンダントと夕奈の上弦月のペンダントと僕の月型のペンダントがあわせて作られた、新しい翡翠だ。
「うそ……」
「夕奈ちゃんが消えた、うそだろ……」
僕は翡翠を胸にしまう。
「夕奈ちゃん、夕奈ちゃん」
「夕奈ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁん………………」
その叫び声は、町中に拡散していく。
「あれ? どうして?」
僕は目を擦ってみる。湿気を感じられる。
僕は泣いている。
これは、間違いなく、僕が生まれて初めての、他人のために流れた涙だ。
完璧な涙が、流れた。
ぽたぽた……
目頭が熱くなって、堰を切って涙がどんどん流れ始めた。
僕は確実に泣いている。
お母さんは切なそうに、側にずっと僕のことを見ている。
「と、十夜ちゃん……」
「お、お母さん」
「僕、僕は失恋した……」
「うわぁぁぁぁ」
お母さんはそっと僕の頭を撫でる。
「ねえ、十夜ちゃん」
「人間は、生きているうちに、必ずたくさんのものを得られますの。ですが、そのうちに、きっと失われるものがあります」
「お父さんと離婚したとき、わたしも毎日涙で顔洗うような日々を過ごしていくの、ですが……」
「たとえお父さんを失っても、わたしには、息子のあなた、十夜ちゃんがまだわたしの側にいるから、だから」
「だから、泣かないで、夕奈を失っても、わたしもずっと十夜ちゃんのそばにいますから」
さらに涙が止まらなくなる。今まで夕奈と一緒にいた時間を思い出したら、なま暖かい涙はまた頬を伝って、翡翠を濡らした。
「お母さん…………うわぁぁぁぁぁぁ」
夜明け前、僕はずっとお母さんの胸に泣いていた。
何年間も泣いてないのに、この日に、その何年間も溜まっていた涙を、全部流れたような気がする。
一つの感情は、もはや取り戻した。
エピローグ
「行ってくる」
「気をつけてね」
あっという間に、もう半年過ぎていた。
集中治療室にずっと眠っている浩平は、既に起きて、今はリハビリ中。大切な恋人が失った傷は、大切な友達が癒してくれる。
今日は、いつものように浩平の見舞いに行く。
「おはよう」
「よっす」
「身体の調子はどう?」
「イマイチだ、歩くのも大変だぜ」
確かに、病床の隣に、松葉杖が置いてある。きっと歩行の助けとして使っているだろう。
「今日は特別として、僕はおまえの松葉杖になる」
「マジか? いえい、レッツゴー」
「って、どこ行くつもり」
「もちろん綺麗な白衣の天使さんがいっぱい集まってる場所だぜ」
僕は思わず浩平の頭を叩く。
「いてっ、なにすんだよ、おまえ」
「ナースがいっぱい集まってる場所なら、ここじゃないのか? 寝起きが悪いのか? おまえ」
「わりぃ……わりぃ……どこに連れて行ってもらってもいいから、とにかく、このくせーなにおいがマジ勘弁してくれよ」
「けが人のくせに、けちをつけるな」
「へいへい」
浩平はしぶしぶと答える。
「とりあえず、行こうか」
「うぃっす」
僕は浩平の身体を支えながら、ゆっくりと歩いていく。部屋を出る際に、お母さんとばったり会った。
「あらあら、十夜ちゃんじゃない?」
「おはよう、お母さん」
「よっす、おばさん」
「おはよう、浩平くん」
「おばさん、今日も綺麗だね」
「あらあら、もう」
相変わらず、口だけが甘い。
「今日のパン……ぐわっ」
僕は浩平に鳩尾を強打した。
「あああっ、おま、え……ひどい……けが人にやさしくしてくんないのか」
「ゴメン、力を入れすぎた、というか」
「ナンパしてもちゃんと対象を選べよ」
「すまん……」
「お母さん、いきなりこっちに着て、僕を探そうとした?」
「うん、長い時間お墓参りに行ってないから、一緒に行こうかなと思ったの」
「いいよ、じゃ、今行こう」
「おい、俺のことはどうするんだ?」
「けが人だから、おとなしく寝ろ」
「くすくす」
お母さんは浩平を見て笑っている。
「ち、ちくしょう」
浩平専用の松葉杖役をやらないで、お母さんと一緒にお墓参りに行った。
結未は夕奈が消えた日に、僕のお母さんを身代わりになって、夕音の攻撃を受け止めて倒れて死んだ。そもそも結未は夕奈と違って、歴とした人間だから、夕奈のように、雷に当たっても傷つかないモノではない。
その日に、夕奈が消えた同時に、夕音も消えた。それは、おそらく誰にも分からないことだと思う。夕音は一体何者か、誰にも分からない。なぜ夕奈は取り憑かれるか、誰も知らない。
僕たちは結未の墓の前に立っている。
今でもすごく後悔している。なぜ結未がいきなりこっちに謝ってくるか、もう分かった。だが、謝ったのに、かえって殺されて、これだけを思うと、涙がどんどんあふれて来た。
「ゴメンなさい……ゴメンなさい……僕のせいで」
僕は頭を地面に叩く。だが、起こった事実は変わらないと分かっていても、僕は頭を叩くのをやめなかった。
「もういいの、いいの、十夜ちゃん」
「十夜ちゃんのせいじゃないの」
「自分に責任を押し付けないで……」
「でも……」
僕は夕奈のことを好きにならなかったら……
僕は夕奈と出会わなかったら……
一人の命を犠牲にしてもう一人の命を救うのは、いやだ。
あの日、僕たちは出会わなければ、今も笑えるのだろう。せめて、夕音が現れなくて済んだ、結未も殺されなかった。
結局、誰も幸せになっていなかった。
「でもなんかじゃない、もう自分のことを咎めないで……」
「誰も望んでいないことが起こったからには、今さら目の前のものをもっと大切にしないといけないの」
「目の前のものをもっと大切にしないと、失ったらきっと後悔するよ」
「ほら、ちゃんと結未に挨拶して」
「うん……」
お母さんが言った言葉を反芻する。僕は本当に夕奈のことを大切しているのか?
愛し合う二人をどうやって相手を大切にする? 真心を込めて相手を愛する? お互いの身体を求めて愛し合う? 大切にする方法は一体なんなのか? 人によって違うだろう。
それより、一番大切なのは……
僕はここにいる事……
お母さんはここにいる事……
浩平が無事に生きている事……
そして、夕奈、結未がいた事……
かつて僕と夕奈は愛し合った事……
僕は大空を見る。
水色の空に、どことなく夕奈の顔が浮かぶ。
「夕奈ちゃん……」
「たとえこの世に居なくても、あなたはずっと僕の心の中にいる……」
「あなたの微笑みを忘れない、絶対忘れない……」
いつか、どこかでまた夕奈と会えること……その日を待っている。
「はい、これ」
僕はお母さんから花束をもらって、結未の墓の前に置く。
そして、その隣に、僕の翡翠を置いた。
「結未ちゃん、ここでゆっくり、安らかにお眠りなさい……」
僕が最後に結未に言った言葉だった。
「十夜ちゃん、どうして?」
「辛い思いを抱えながら行き続けるより、僕はその辛さをどっかに置いておきたい」
必ずここに戻ってきて、翡翠を取り戻すから。
それはいつか分からない。
帰る前に、僕はもう一度夕奈の墓を振り向いた。不意に涙が零れ落ちた。
流れない涙は、また頬を伝って流れていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。