六話 駄天使候補、涙する
レミリーサが去ったその日の夜。サラサはふらふらと覚束ない足取りで浩之の部屋へ向かったあと、そこから全てを拒絶した。
夕食も取らず、いつもならリビングでテレビ番組を楽しんでいる時刻になっても、サラサは部屋から出ることはなかった。
体を丸めて蹲り、布団の上で心を絶望に染め上げられて。その目には昼に浩之と遊んでいた頃のような輝きは完全に消え失せて。
そんなサラサの姿に耐えきれず、浩之は必死に何度も声をかけ続ける。少しでもサラサの心が上を向くように、何度も。
「おい、そろそろ晩飯食えって。お前が食わないと片付かないから母さんも困るだろ」
「いらない……」
「ほら、お前の好きなタヌキロボだかキツネロボだかもそろそろ始まる時間じゃないのか」
「みたくない……」
浩之へ視線を向けず、儚い声で返すサラサ。その身体は小さく震えきってしまっていた。
そんなサラサの姿に、浩之は表情を顰めながらも、ようやく覚悟を決めて踏み込むことにする。
二人に残された時間は少ない。もしかしたら、二人で過ごせる時間は明日の夕方六時までなのかもしれないから。
腹を括り、浩之はサラサの前へとどっかり腰を落とし、決して怖がらせないようにそっと口を開く。
「……怖いんだよな。明日を迎えるのが。このままじゃ、お前は無理矢理天人界に連れて帰られるかもしれない、そのことが怖くて震えてるんだよな」
浩之の言葉に、サラサは小さく頷いて応えた。そんなサラサの反応に胸の痛みを感じながらも、浩之はサラサへ言葉を送り続ける。
何を言えば正解かは分からない。何を言ってあげれば正しいのかなんて分からない。けれど、それでも浩之はしっかり想いを言葉にする。
「意味分かんねえよな……いきなり現れて、天人界に連れて帰るだの、期限は明日までだの。勝手過ぎるよな……お前の気持ち、全部完全に無視じゃねえか。そんな理不尽なこと、通るわけねえだろ。他の誰が許しても、俺は絶対に許さねえ。認めるつもりなんてねえ」
「ヒロ……」
「ああ、そうだ。俺はそんなこと絶対に許したくねえのに、お前を安心させてやりたいのに……くそっ」
苛立たしげに言葉を口にする浩之。それは己の無力さへの怒り、サラサを安心させてやれないことへの苛立ち。
『俺に任せろ』『何とかしてやる』。そう言ってやれればどんなに楽だろうか。そう言ってあげられれば、どんなにサラサは助かるだろうか。
けれど、浩之は何でも奇跡を叶えられる神様でも何でもない。成人もしていないただの学生なのだ。浩之には、現状を打破するための策が何一つ思い浮かばなかった。
浩之が我儘を押し通し、レミリーサを拒絶したところで、サラサが救われることはない。後日、今度は強引にでも事を進める天人が派遣されるとレミリーサは確信を込めて浩之たちに説明した。だからこそ、自分が交渉相手のうちにサラサを天人界へと連れ戻した方がいい、と。それならば浩之たちの記憶からサラサが消されることもないのだと。
見習い天使のサラサですら、人間の常識を遥かに超える力を持つ道具を駆使しているのだ。これが本物の天使となれば、浩之一人が反抗したところでサラサを守り通せるはずが無いことくらい、浩之だって理解している。
サラサは賢く、人の心を読みとおせる少女だ。だからこそ、浩之が何の根拠もなく『何とかなる』などと口にしたところで、決して安心したりはしないだろう。むしろ現実の絶望を更に理解し、傷つくかもしれない。
サラサをどうすれば救えるのか。どうすれば人間界に居続けさせてあげられるのか。その策が思いつかず、そんな情けない自分に怒りを覚えるしかない。そんな浩之に、サラサはやがてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……罰が当たったのかな。これまで真面目に天使になろうとせずに、逃げてばかりだったから……」
「んなことねえよ……お前は人間界で頑張ったじゃねえか。自分の世界に引き篭もってたお前が、自分から望んで学校に行ったりましてや親友のために奔走したりしたんだぞ。二カ月前の俺にこのこと説明しても、絶対信じねえよ……それくらいお前は変わったよ、それはレミリーサも認めてたじゃねえか。成長したって、褒めてたじゃねえか」
「レミリーサ、お父さんの命令だって言ってた……お父さんの命令には天使は誰も逆らえないから……」
「天使長の命令とか言ってたな。お前の両親が高い地位にいるってのは聞いてたが、そこまでやばいのか」
「……全天使の上に立つ、天使の長。お父さんより偉い人は片手で数えるほどしかいないくらい……」
「そんなにかよ……お前、マジでお嬢様だったんだな」
「お父さんの顔も、お母さんの顔もほとんど覚えてないけどね……二人とも多忙で、ここ数年私は顔を合わせてないから……」
ぽつりと寂しそうに語るサラサに、浩之は言葉を返せない。
けれど、言葉に詰まる浩之を気にする事もなく、サラサは下を向いたまま独白を続ける。
「物ごころついた時から、お父さんとお母さんは凄く偉い天使で、私はいつも一人ぼっちだった……周りの人から、お父さんやお母さんは凄い人で、数え切れないほどの人間を幸せにしてきたんだって、天使の誇りだって聞かされてきたけど……私には、それがちっとも凄いことだなんて思えなかった」
「サラサ……」
「他人に幸せを与えるより、もっと一緒にいてほしかった……傍に居てほしかった……でも、いつだって二人は私の傍にはいなくて、顔も名前も知らない誰かを幸せにするために働いてて……そんな二人を誇らしいなんて、私は一度も思えなかった。天使なんて、大嫌いだった。自分以外の人を幸せにすることなんて、ただの偽善にしか思えなかった。だから私は、絶対天使になんかなってやるもんかって思ってたんだ……」
――だけど。そう一度言葉を切って、サラサは初めて浩之と視線を合わせる。
それは縋り付くような、子供が必死に親の熱を求めるような瞳で。サラサは浩之に儚げに微笑んで、言葉を続ける。
「最近は、天使も悪くないって思えるようになったんだ……ヒロと出会って、翔子や智や辰哉と友達になって、沢山遊んで……この人たちを幸せにできるなら、天使も悪くないかもしれないって思えたんだよ……みんなを、ヒロを幸せに導けたなら、それはきっと、私にとっても幸せで、何より誇らしいことだと思ったから……ヒロを幸せにすることが、天使になることだっていうならって、そう思えてたのに……お別れなんて、そんなの、ないよ」
それがサラサの限界だった。これまで必死に我慢していた感情が堰を切ったように溢れだしてしまう。
瞳から零れ落ちる涙。一人で胸にためこんでいた想いを吐露すように、サラサは涙を拭うこともせず言葉を紡ぎ続けた。
「約束したんだよ……夏休みに沢山遊びに行こうって、ヒロと約束したんだ。翔子や智と一緒に水着を買って、それを着てヒロやみんなと一緒にプールにいったり、水族館でペンギンをみたり、花火大会にいったり……沢山沢山遊ぼうって、約束したんだ。計画だっていっぱい立てて……これからだったのに、これからヒロやみんなと、沢山楽しい時間が過ごせるはずだったのに……!」
嗚咽を零して涙を流すサラサに、浩之はとうとう言葉をかけてやれなくなってしまった。少女の慟哭にいったい何を答えてやれるのか。
拳を強く握り締め、唇を食いしばり、浩之は己の無力さを痛感するばかり。何が力になるだ、目の前で泣いているサラサの涙を止めることすらできやしないではないか。
今、目の前で小さく震えて涙する少女に何ができる。その場しのぎの慰めをかけたところで何になる。
サラサを救うには、サラサを笑顔にするためには、彼女を人間界につなぎとめなければならない。彼女を天人界に連れていかれないようにしなければならない。だが、そのためにどうすればよいのか、浩之には何一つ名案が思い浮かばない。
結局、サラサの悲しみは眠りにつく時間となっても終わりを迎えることはなかった。結局、彼女が眠りにつくことができたのは、泣き疲れ果てた夜中となる。
明日がくることを怯えるように、必死に布団を被って震えながら、少女は意識を落とすのだった。
翌日の朝になっても、サラサは学園へ行こうとしなかった。
制服に身を包み、サラサに登校の時間だと告げる浩之に、サラサは布団を頭から被ったまま行きたくないと拒絶した。
その姿を見て、浩之は心に激しい痛みを感じてしまう。それはかつて家にきたばかりのサラサの姿ではないか、と。
全ての世界を遮断し、己の世界に逃げ、触れることも傷つくことも怖がっていたサラサ。たった一日で、彼女はあの頃の自分へと戻ってしまったのだ。
サラサと浩之の積み重ねた日々が崩れていく。外に出ることを、他人に触れる喜びを覚え、誰かのために行動するようになったサラサが今はいない。突然の別れが、彼女の積み重ねた全てを壊してしまった。
結局、浩之は無理にサラサをつれて登校することはできず、一人で学園へ向かうことにする。母親にはサラサは風邪をひいているから休むと告げて。
浩之も休みを取り、サラサと共に部屋に残ることも考えた。けれど、それでは全てが終わったしまうような気がした。
悲しみに満ちた部屋で、サラサと二人でタイムリミットを迎えてしまっては、本当に全てが終わってしまう。浩之はそんな未来を迎えるのはごめんだった。
絶対に助ける、絶対に何とかする。その強い想いは未だ折れてはいない。必死に考えろ、現時点で良い案が思い浮かばなくとも、もしかしたらひらめくかもしれない。決して諦めずに考え続けていれば、足を歩み続けていれば、奇跡は起こるかもしれない。
サラサのために、サラサを救う為にいったい何ができる。どうすればサラサの笑顔を取り戻せる、彼の心はそのことでいっぱいだったのだ。
学園に辿り着き、教室へ入る浩之。その彼の纏う空気に、教室の人々がざわめく。
ただでさえ目つきが悪く、また言葉が荒く鋭い空気を纏っている浩之が重い空気を醸し出しているのだ、重圧を感じない訳が無い。
鞄を机の上に投げ、席に座る浩之に、真っ先に声をかけたのは先に教室にきていた翔子だ。心配そうな表情をしながら、浩之に訊ねかける。
「ど、どうしたんだ、浩之……もの凄くつらそうな顔をしてるけど、何かあったのか?」
「いや、何でもねえよ……いや、何でもなくはねえな。サラサは今日は風邪で休みだ」
「風邪……?」
「ああ、また明日になったら元気な顔見せて学校にくると思うから……昨日もつらくて明け方まで眠れなかったみたいだからな。今はそっとしてやってくれ」
胃から押し出したような浩之の声に、翔子はそれ以上何も言えなくなる。
その後、翔子が何と声をかけても、浩之は半分上の空だ。智や辰哉が教室に来ても、それは変わらない。今の彼はどうすればサラサを救えるのか、そのことで頭がいっぱいで他のことを考える余裕がなかったから。
浩之の様子のおかしさに友人の誰もが違和感を覚えるが、結局浩之を追求しきれぬまま授業の時間を迎えることになる。
一つ、また一つと授業が終わるが、当然授業の内容など浩之の耳には入っていない、ノートすらとっていない。ただ無情に過ぎていく時間に焦り苛立ち、けれど答えは見つからない。約束の時間までまもなく残り六時間を切ろうとしている。動き続ける時計の針が浩之には憎らしく思えた。
午前中の授業の全てを終え、昼食時間になっても、浩之は弁当を食べようとしない。そんな余裕すら今は惜しかった。
三人に用があると告げ、浩之は一人校舎裏へと向かう。教室で顔をしかめて弁当すら食べようとしない姿などみせれば、友人たちは間違いなく困り果ててしまうと思ったからこそ、浩之は一人になれる場所を探したのだ。
人気のない校舎裏、そこに設置されている木製のベンチに腰をかけ、浩之はサラサのことを想う。結局何一つ浩之にはいいアイディアが生み出せない。
サラサが望むように、人間界に居続けるためには、何とか天使長というサラサの父親を説得しなければならない。納得できるだけの理由を考えなければならない。
だが、天使長はサラサを必ず連れ帰り、天使となるための教育を施すという。つまり、現段階の天使候補、すなわち天使になれていないことに業を煮やしたゆえの行動なのだろう。
では、サラサが先んじて天使になっていれば問題ないのかと言われればノーだ。仮にサラサが今すぐ浩之を幸せにし、天使として認められたところで、サラサの浩之に対する『人を幸せにする』という役目は終わり、別に仕事が与えられるとレミリーサは言っていた。
すなわち、サラサの天使になるか否かはここでは問題ではない。どちらにゆけど、彼女が浩之たちと別れを迎えることには変わりないのだから。
サラサを連れてどこかに逃げるか、それも拙過ぎる一手だ。相手は天使、サラサの天使道具以上の力を擁する相手に隠れることなど不可能だ。レミリーサ以外を窓口としてしまえば、サラサに関する浩之たちの記憶すら消されてしまう。
思考に思考を重ねても出口が見えない、まさしく八方ふさがり。心に絶望が侵食し始めた浩之だが――その彼を強引に絶望の沼から引っ張り上げてくれた少女がいた。
頭を抱え思い悩む浩之だが、唐突にその顔は上へと向けられることになる。彼の額がぱちんと中指で弾かれたためだ。
それはあまりに非力で、痛みなんて微塵もなかったが、それでも浩之の重い意識を引っ張り上げるには十分過ぎる刺激だった。顔を上げた浩之だが、そこには彼の親友である少女――翔子が佇んでいた。
視線を向けた浩之に、翔子はおどおどとしながらも、意を決したように浩之を見つめて言葉を紡ぐ。
「『一人悩んで胸にしまってちゃ、何も分かんねえだろ。つらいなら、限界だと思ったら吐きだせばいいんだ。俺だって高城だって辰哉だっている、お前は一人じゃねえんだから一人で抱え込む必要なんて何もないんだ。頼っちまえばいいんだよ』」
「西森……それは」
「昔、浩之が私に言ってくれた言葉だよ……私は浩之の言葉に助けてもらった。浩之のおかげで、私の心は救われたんだ。だから、今度は私が浩之を助ける番だから……お願いだ、浩之、一人で思い悩んでないで、苦しんでいることを言葉にしてくれ」
「苦しんでいること……お前」
「分かるよ……私はこの一年間、ずっと浩之を見ていたんだ。だから、浩之が一人で苦しんでいることくらい、泣きそうなくらい困っているんだって、分かるよ……お願いだ、浩之。そのつらさを私にも背負わせてくれ。一人で抱え込まないでくれ。私は、嫌なんだ……浩之がそんなにつらそうな顔をしてるのに、何も力になれないなんて……助けてもらうばかりで、浩之の力になれないなんて、そんなの嫌なんだ。私じゃ駄目か? 私じゃそんなに頼りないか……?」
「んなことねえよ……けど、これは」
胸の内を翔子たちに吐露しようとしなかった訳ではない。サラサのことを親友たちに相談するか頭をよぎったこともある。
けれど、翔子たちにそれを話すならば、サラサの全てを話すことになる。彼女が人間ではないことも、姿も経歴も偽って翔子たちに接していたことも、何もかも。
サラサが人間ではなく、天人界の人間などという荒唐無稽な話を誰が簡単に信じるだろうか。否、それだけではない。仮に信じたところで、全てを偽ってきたサラサを簡単に受け入れてくれるのか。
むろん、浩之は翔子たちが底抜けの善人だというのは理解している。だが、常識という世界に生きる人間にとって、それを受け入れるのは性格云々以前の問題なのだ。もし、浩之が逆の立場でも、簡単に信じられるはずもないのだから。
悩む浩之に、翔子は軽く息を吐き、再びゆっくりと言葉を紡ぐ。
「浩之が悩んでるのは、きっとサラサのことだよな……サラサの身に、何かあったんだな」
「……分かるのか」
「分かるよ……浩之が本気になるのは、いつだって他の誰かの為で……そして、そこまで思いつめるほどに大切な人は、サラサしかいないから。お願いだから、私にも話してほしい。サラサは私の親友なんだ……サラサと浩之は、私と東川さんを仲直りさせてくれた。今度は私が力になりたいんだ」
「西森、お前気付いてたのかよ……」
「気付くよ、少し考えれば分かることだから……お願いだ、浩之。私は後悔したくないんだ。サラサのために、浩之のために……私自身のために」
真っ直ぐに浩之を見つめる翔子。それはいつものおどおどした弱気の彼女ではなく、必死に強く在ろうとする、立とうとする少女の姿で。
その姿が浩之にはかつてのサラサと重なってみえた。たった少しの時間の中で、少女たちは信じられないほどに強くなる。それこそ眩く見える程に、強く逞しく在り方を変えることができる。
どこまでも誠実な翔子の想いに触れ、浩之はやがて悩むのを止めた。そう、初めから答えなど出ていたのだ。
サラサを本気で救いたい、それが一人の手で余るというのなら、誰かの手を借りればいい。一人では導けない答えも、親友と力をあわせれば新たな答えが見つかるかもしれない。
ゆえに、浩之は翔子に頭を下げる。彼らならきっとサラサの全てを受け入れてくれる。その上で力を貸してくれる。縋るように、浩之は言葉を紡ぐのだ。
「頼む、西森……サラサを、あいつを救いたいんだ。守ってやりたいんだ。お前の、お前たちの力を貸してくれ!」
「浩之……うん、うんっ」
目尻に溜まる涙を拭いながら、翔子は何度もこくんと頷いて応える。初めて浩之に頼って貰えたこと、それが嬉しかったから。
翔子に礼を告げ、早速智や辰哉を呼んで力を貸して貰おうとした浩之だが、そんな彼に翔子は少しばかり苦笑しながら教える。
「ごめん、浩之……二人なら、もう来てるんだ……二人も浩之のこと、心配してたから」
翔子の言葉を合図に、校舎の建物の裏に隠れていた智と辰哉が笑って顔を出す。どうやら完全に盗み聞きしていたらしい。
悪びれることなく、『最初から頼ってくれればよかったんだよ、荒波君の馬鹿馬鹿馬鹿』と逆に浩之に注意をする智。笑う辰哉。
そんなどうしようもなく頼りになる親友たちに、浩之は悪かったと頭を下げながら、そっと笑う。彼の絶望に包まれかけていた心に、わずかばかりの灯りが灯った。それは希望という名の灯り。サラサを救う為に、決して投げ出してはならない炎。
ベンチの周りに集まる親友たちに、浩之は覚悟を決めて全てを明かす。サラサが人間ではないこと、サラサと浩之の出会いの経緯、皆が見ているサラサの姿が偽りの姿であること、そして、サラサが自分の望まぬままに天人界へと連れ去られようとしていること。
昼休みの終わりのチャイムが学園中に鳴り響いても、教室に戻ろうとする者はいなかった。まるで授業など関係ないというように、三人は真剣に浩之の話を黙って聞き続けていた。
全てを語り終え、浩之は悲痛な表情で親友たちに必死に頭を下げる。
「頼む、サラサを救うために何か良い考えはないか、俺に知恵を貸してくれ! このまま天人界に連れて帰られたら、あいつはきっと二度と笑うことができなくなっちまう……二度と俺たちと会えなくなっちまう。そんなこと、絶対にさせたくないんだ……頼む」
「馬鹿者! この荒波君の大馬鹿ちん! なんでそういう大事なことをもっと早く言わないの! そんな重い物を一人で抱え込んで、悩んで……ああもう! 全部が終わったら、グレートデラックスパフェをみんなに奢ること、決定だからね!」
「パフェでも何でも奢ってやる! 俺の財布が空になるまで好きに使ってくれていい! だから、頼む!」
「とにかく手を考えよう。夕方の六時までに何とかしないと、本当にサラサさんが天人界ってところに連れ帰られるんだろ?」
「邪魔する事は出来ないかな? こう、日替わりでみんなの家に泊まったりとか……ウチはサラサちゃんならいつでも毎日泊めたいくらいだよっ」
「駄目だ。相手の天使って連中は、魔法みたいなことを簡単にやってのけるのはサラサで実証済みだ。隠したってすぐに見つけられるのがオチだ」
「サラサのお父さんに話し合いの席を設けてもらうとか……離れたくないって必死にお願いすれば、伝わったりしないかな……」
「サラサやレミリーサの話を聞く限りじゃ、無理っぽいな……サラサ自身、父親との面識がほとんどないらしい。娘の都合を無視して自分の思うように強制させるくらいだ、情に訴えても無駄だろうな」
「纏めようか。サラサさんの父親はサラサさんを『天使』にしたい訳だ。だから、『浩之を幸せにする』という条件を今日の夕刻までにクリアさせるか、それができなければ自分の手で教育して『天使』にする、そこまではあっているか?」
「ああ、あってる。問題は、そのどちらの選択を選んでもサラサが人間界に残れないっていう点だ。天使になった時点でサラサは俺たちとお別れなんだよ」
浩之の言葉に、辰哉は少し考えるように黙りこむ。
沈黙の中で、智はむーっと頬を膨らませながら、文句を紡ぎ続ける。
「勝手だよ、勝手過ぎるよ、勝手りんこだよ。サラサちゃんの気持ち全無視で全部無理矢理なんて、お母さん許しませんっ」
「あいにくサラサの母親も似たようなもんらしいぞ。とにかく、サラサの親に縋って何とかするってのは無理だ」
「でもでも、そんなの無茶苦茶だよ! 天使は人を幸せにするのが仕事なのに、サラサちゃん連れて行ったら私たち全員まとめて不幸のどん底だよ! これはもう訴訟モノだよ、天使の幸せ詐欺として地方裁判所に訴えるしかないよ!」
「どこの裁判所が天使相手の告訴なんか受け入れると……」
そこまで告げ、浩之はふと言葉を止める。先ほど感情のままに智が口にした言葉に何かひっかかりを覚えたからだ。
智の言葉におかしなところはなにもない。サラサが連れ去られたら、ここにいる全ての人間が悲しみ、不幸になるのは間違いない。
何もおかしなところはないが、浩之はその言葉が頭から離れない。喉に刺さった小骨のようにひっかかる言葉に捉われる浩之を置いて、三人は会話を続けていく。
「サラサがいなくなるととても悲しいってこと、何とか天使の人々に伝えられないかな……」
「訴えても聞いてくれそうにないんだよね……いっそ脅迫しよう! サラサちゃんがいなくなったら、私たちみんな悲しみのあまりご飯が喉を通らなくなって健康を害してしまうかもしれない! 私たちが倒れたら天使のせいだ!」
「それで天使様が就業規則に反するから勘弁してくれとダメージを受けるなら幾らでもするんだけどね……浩之の話じゃ、そうもいかないだろうし」
「不幸……天使……脅迫……規則……ダメージ……」
「ん、どしたの荒波君、そんな怖い顔して……」
「待ってくれ、少しだけ考えさせてくれ」
智の言葉を遮り、浩之は親友たちの紡いだ言葉の欠片を拾い集めていく。
それらはバラバラでは何の意味もなしえない言葉たち。サラサを助ける件には大きな意味を持つとは思えない欠片の数々。
けれど、それらは絡みつくように浩之のここに残って消えない。その違和感を、浩之は決して見逃さなかった。それだけ必死だったのだ。
サラサを救うためのヒントがここに隠されているような気がした。一度僅かに開かれた希望の扉、かすかにもれる光を見失ってはならない。
拾い集めた欠片を必死に握りしめ、浩之は意識を過去へと潜らせる。思い出されるのは、彼がサラサと過ごし続けてきた濃密な二カ月。
思い出せ、必死に思い出せ。そこにきっと、サラサを救うための何かが隠されているはずだ。大切な情報が眠っているはずだ。
サラサとの思い出、些細な会話、その内容。何でもいい、どんな小さなことでもいい、それはきっと、サラサを救う為に必要な力だ。サラサと積み重ねた日常が、きっとサラサを救うための何よりの武器になるはずだ。
必死に思考を過去に馳せ、そして浩之は一つの言葉に辿り着く。それはサラサと浩之が東川から翔子を救おうとしたあの日のこと。下らない雑談の中で、サラサが浩之に告げた些細な一言。
『人を幸せにすることは法律よりも何よりも優先される……天使は人を幸せにしなければならない、幸せを奪ってはならない。幸せは犯罪よりも重い、それが天使法』
その言葉に辿り着いたとき、浩之の中で何かが弾けた。バラバラに飛び交っていたはずの言葉が一つの線になり、形を為したのだ。
目を見開き、思わずその場に立ちあがる浩之。そんな彼にどうしたのかと声をかける友人たちに、浩之は腹の奥底から押し出すように声を放った。
「分かったぞ……サラサを救うための方法が、やっと分かった」
「ほ、本当に!?」
「ああ、多分……いや、絶対にいけるはずだ。お前たちのおかげだ、ありがとう、西森、高城、辰哉。これであいつを……サラサを、安心させてやれる」
授業を抜け出してまでここまで付き合ってくれた親友たちに礼を告げ、浩之は学園の壁に埋められた時計の針を確認する。
時計の針は三時を回っており、浩之に許された残り時間はあと三時間を切っていた。何とか間に合うことができたことに安堵し、表情を引き締め直して浩之は覚悟を決める。
サラサを救うため、闇を切り開くための剣は用意した。あとは担い手である自分が上手く振るえるかどうか、それに全てがかかっているのだから。
手に鞄を持たず、浩之は家への道を全力で駆け抜けていた。
サラサを救うための策を友人たちに話し、抜けがないかの最終確認を終えたのが夕方の五時。四人は完全に授業を放棄し、サラサを救うために綿密な話し合いを行っていた。
そして、サラサのもとへ向かう浩之に激励をし、全てを彼へと託した。明日、必ずサラサとまた出会えると信じて。
友人たちの期待、想いを背に、浩之は全力で疾走し、ようやく家へと辿り着く。家に入るなり、駆け足のまま自室へと急ぎ、部屋の扉を少し乱暴気味に開く。
そして、室内で未だ絶望に震え、布団に包まり続けるサラサに、浩之は声をかける。ようやく彼女に、言いたかった言葉が告げられるから。
「サラサ、俺だ、浩之だ。お前に伝えたい言葉がある、頼むから顔を出してくれ」
「やだ……お別れの言葉なんて、言いたくない……私、ヒロと離れ離れになんてなりたくないよ……私、私……」
「っ、サラサ!」
彼女の声に感情を抑えきれず、浩之は彼女が逃げ込んでいた布団を引っ張り取り除いた。
そこから出てくる小さな少女。目は真っ赤になるほど泣き続け、世界の空気に触れることすら怯えてしまっているサラサ。
見る影もない程にボロボロになってしまったサラサに、浩之は最早一刻の猶予もないと判断し、サラサの正面に座り言葉を放つ。
まっすぐに彼女の瞳を見つめ、浩之が放ったのはずっと彼女に伝えたかった言葉。かけてやりたかった言葉。サラサが何よりも、ずっと求めていただろう言葉。
「――サラサ、安心しろ。お前を天人界になんて連れて行かせたりしねえ。『俺が絶対に何とかしてやる』」
「ひ、ろ……」
「もう泣く必要なんてない。怯える必要だってない。俺がお前を守ってやる。何があろうとも、絶対にお前を守り抜いてみせる。だから――」
浩之が言葉を続けるのは、それが限界だった。目に涙をいっぱいに溜めたサラサが、浩之に抱きついたからだ。
彼の胸の中に飛び込み、サラサは溜めこんだ感情を爆発させた。わんわんと声にだし、子供のように泣きじゃくったのだ。
そんなサラサを、浩之は安心させるように強く抱きしめ返す。子供を安心させるように、強く。浩之に抱きしめられながら、サラサは嗚咽を漏らしながら必死にとぎれとぎれに言葉を伝えようとする。
「こわ、かった……こわかった、よ……ヒロの、表情を昨日、見て、もうだめだって……絶対無理なんだって、思ったら、何もできなくて……うええっ、ええええっ!」
「悪かった……俺が頼りないばかりに、お前を不安にさせちまった。今日、西森や高城や辰哉と話して、やっとお前を救う方法を見つけたんだ。本当に待たせて悪かったな……けど、もうお前を不安にさせたりしねえ。何度だって安心させてやれる。俺を、俺たちを信じろ、サラサ。お前は絶対に、俺たちが守ってみせるからな」
「ひろ、ひろ……ひろっ」
何度も何度も彼の名前を呼ぶことで、サラサは必死に安心を得ようとする。
浩之の存在を熱で、声で、何度も確認する事で絶望に染まった心にゆっくりと光を灯し、浩之もサラサの望むままに受け入れる。
サラサは安心したかった。残酷すぎる現実を誰かに否定して欲しかった。大丈夫だと、その言葉を欲していた。
それに浩之は遅ればせながら、しっかり応えた。心が壊れる僅か手前で、浩之はサラサの腕を掴み絶望の底からひきあげたのだ。
浩之の胸の中で心ゆくまで泣き晴らし、サラサの心が落ち着くまで十数分はかかっただろうか。顔を赤く染めながら、目をごしごしと拭ってサラサはぽつりと浩之に呟く。
「迂闊……私としたことが、ヒロのまでこんな醜態を……恥ずかしい」
「涎垂らして眠りこける顔を見飽きるほど見せておきながら何が醜態だっつーの。泣き顔なんかで今更どうこう思うわけねえだろ」
「ヒロは本当にデリカシーがないよね……私相手じゃなかったらとんでもないことになってるところだ」
「お前相手だから言うんだろ?」
軽口をたたき合い、浩之とサラサは笑いあう。サラサのその顔にはもう悲しみも不安も存在しない。
いつものジト目に光が戻ったのを確認し、浩之はサラサに真剣な表情を向け直して話を始める。
「さて、冗談はここまでだ。六時まであと三十分、あんまり時間に余裕がねえ。説明を始めるぞ」
「レミリーサをボコボコにする作戦だね……任せて、これまでの鬱憤の全てをこの拳に込めてくれる」
「何で思考回路が物騒な方にいってんだよ!? 真面目に聞けっつーの!」
サラサの額にデコピンを入れ、浩之は友人たちと立てた作戦をサラサへと語り始める。
最初は真剣に聞いていたサラサだが、段々とその表情が変わっていく。それはいつもサラサが浮かべている、楽しいことを見つけたときの表情だ。
輝き始めるサラサを見つめて、浩之は作戦の全容を語った。全てを聞き終えたサラサに、浩之はニッと笑って訊ねかける。
「どうだ、これが俺たちの考えた作戦だ。文句あるか」
「ないよ……実に私好みで卑怯な作戦だ。気に入った、それでこそ私の愛した男だ……ヒロもいつの間にか私色に染まっちゃって嬉しい」
「安心しろ、お前を守り終えたら迷わず脱色するからよ。それでどうだ、サラサ――俺の賭けに乗ってくれるか」
「答えなんて最初から分かり切っているじゃない――全てを委ねるよ、私の選んだヒロの決定に」
互いに不敵に笑いあい、サラサと浩之はレミリーサのもとへ向かう準備をする。
着替えと簡単に顔を洗い、泣き晴らした顔を幾分まともにして、サラサの準備は整い終える。そして、二人は家を出てレミリーサの待つ公園へと向かう。
その途中、サラサは無言のまま左手を浩之の右手に絡める。浩之の言葉に勇気をもらったとはいえ、まだ不安がないわけじゃない。
恐怖をゼロにするために、サラサは浩之の手を強く握り締める。そして浩之は、そんなサラサの心を安心させるために、強く手を握り返すのだった。