五話 駄天使候補、戸惑う
サラサが浩之と奇天烈な出会いをはたしてから二カ月が過ぎ、今日もサラサは浩之といつもどおり過ぎる日常を過ごしていた。
休日の朝、浩之とリビングのソファーに並んで画面に食い入るように見入るサラサ。昨日借りてきたアニメに完全に夢中になっているようだが、浩之は正直微塵も興味が無い。
目覚めたばかりで大欠伸をする浩之に、サラサは画面を指差して熱を込めて語り始める。
「ここからだよ、ヒロ……ヒグマロボが全ての人類の業を背負い、地球に襲い来るコンバインを単身で止めようとするシーン……熱過ぎる、クライマックスはやはりこうでなくてはならない……王道を超えるのは王道、製作者は分かっている……」
「俺にとっちゃヒグマとコンバインとロボットモノを結びつける製作者の意図が微塵も分かんねえよ。コーヒー入れるけど、要るか?」
「一番美味しいのを頼む……砂糖とミルクを忘れてはならない、半々がいい……私は常に自分を甘やかしてあげたい人間なんだ……」
「だからお前は人間じゃねえだろ。しかもそれってただのコーヒー牛乳じゃねえか。まあいいけど。ちょっと待ってろ」
サラサに突っ込みを入れることを忘れず、浩之は言われるままにサラサの望む分量でコーヒーを作る。
最近はサラサの好みどおりのものを作るのも慣れたもので、味見することなく浩之は一発でサラサの求めるであろうコーヒーの味を生みだす。
サラサの分と自身の無糖を用意し、テーブルへと運ぶ。サラサはそれを受け取り、そっと口に運び喉をごくりと鳴らして一息。
満足そうに表情を和らげながら、サラサはしみじみと言葉を紡ぐ。
「最高の味だ……ヒロ、君はもう私のために一生コーヒーを淹れ続けるべきだよ……私はずっとヒロが死ぬまで傍を離れない……」
「一年の約束はどこにいった?」
「一年経ったら契約更改するだけだよ……私のこれまでの働きぶりは永久契約にしてもいいくらいだと思う……ヒロ、私を捨てないで」
「俺が捨てる云々言ったところでお前、絶対出ていかないだろ」
「ばれた……? ヒロのような学生が私を捨てる捨てないの判断をしようなど、おこがましいと思わんかね……」
「心配しなくても、もう俺からどうこう言うことはねえよ。父さんも母さんもお前のこと喜んでるしな。まあ、いい加減自分の部屋を作ってそっちに移動しろという気持ちはあるが」
「ええ……やだよ、寂しいじゃん。私はずっとヒロの部屋にいるよ」
「最近、お前の私物が増え過ぎて俺の部屋じゃなくなってきてるよな。人形だと漫画だの少しは整理しろよ」
「私は自分の彼氏の部屋は自分色に染め上げたい主義なんだ……それに私ほど理解のある同居人は他にいないと思う」
「ほーお、例えばどんなところに理解を示してるんだ?」
「夜の八時から十時の間は絶対にリビングにいるじゃない……私だって鬼じゃない、ヒロが思春期の男の子だって理解してるゆえの配慮だ……やれ、私に構うな、存分にいたすといい……」
「お前本当に色々と最低な!」
下らない雑談に興じながら、気付けばサラサの借りてきていたアニメは終わりを迎えていた。
ディスクを取り出しケースにおさめるサラサに、浩之はその姿を眺めながら訊ねかける。
「それ確かレンタル期間が一泊二日だったろ? 今から俺が返してきてもいいぞ?」
「ヒロ、外に行くの?」
「ああ、ついでに色々ぶらぶらしてみようかと……な、なんだ、なぜ俺を睨む」
どうやら浩之の回答がすこぶる不満だったらしい。サラサはいつもより厳しめのジト目を向けながら、浩之を見つめる。
困惑する浩之に、サラサは大きく、そしてわざとらしく溜息をつき、浩之に語る。
「普通、そういうときって『一緒にいこう』って外に誘うもんじゃないの……? 本当に女心の分からない小童め……机の下の如何わしい本捨てるぞ」
「んなもん最初からねえよ! なんだよ、外に行きたかったのか。それじゃ一緒に遊びに行くか?」
「もち……準備するから待ってて」
「別に慌てねえからゆっくり準備してこいよ」
「……浩之の部屋で着替えするけど、私は常々思っている。同居人のラッキースケベは避けては通れない儀式なのだと。さあ、いつでも部屋の扉を……」
「さっさと着替えてこいっ!」
「ゆっくりしろだのさっさとしろだの、宮沢賢治もびっくりな注文な多さだ……着替えてくるね」
浩之から逃げるようにパタパタと二階にあがるサラサ。
そんないつもの調子の彼女に肩を竦めつつ、浩之も外出の準備をする。と言っても、既に着替え終えている浩之に特段すべき準備などないのだが。
財布と携帯を確認し、適当にテレビのチャンネルを切り替えていると、準備を終えたサラサが下りてくる。
以前、浩之と遊びにいったときに着ていた、彼の母親がサラサの為に用意した服。それらに身を包んだサラサが浩之に敬礼をして告げる。
「準備オーケー、いつでも出られるであります……」
「おし、んじゃ行くか。先に言っとくけど、俺今月そんなに余裕ねえからな」
「……お金がないことを堂々とする男ってどうかと思う。ちょー格好悪いんですけど……」
「誰のせいで金が無くなってると思ってるんだ? いつもいつも学校の帰りに人の金で買い食いしやがって、おお?」
「うう、割れる、頭が割れる……待て、少年、話し合おうじゃないか……私はいつでも対話の扉を開いている、ボールはそちらに……」
両拳をこめかみに押し付けられ呻くサラサだが、結局すぐに浩之から解放される。
お仕置きを終え、二人は並んで家の外に出て繁華街へと向かう。外は梅雨時ということもあり、ねっとりとした暑さが既に夏の訪れを予感させる。
「最近暑いよね……私は日光も嫌いだけど、暑いのも嫌なんだ……夏なんか嫌いだ、消えてしまえ」
「夏が駄目なのか。冬は強いのか?」
「寒いのも嫌だ……暑過ぎるのも寒過ぎるのも私のやる気をガンガン削いでくるからね、天敵だよ……毎日涼しければいいのに……」
「その願いほどこの地球上で幾度と望まれ叶わなかった願いもないよな。まあ諦めろ。すぐに夏本番だ」
「ヒロ、ヒロ、夏になったらプール行こう……プールで私のダイナマイトな体をひけらかして愉悦に浸るんだ……」
「叶わぬ幻想を抱くのは止めとけ。プールに行くのはいいが、海はいいのか? 海も近いしすぐにいけるぞ?」
「海は駄目だ……海は気持ち悪い生き物がうじゃうじゃい過ぎて生理的に駄目だ……水族館もいいね、ペンギン見ようペンギン」
「あーもう、色々行きたいのは分かったから、夏休み前にしっかり計画立てとけ。ちゃんと俺の懐具合も考慮に入れろよ。内容次第じゃ臨時バイト確定じゃねえか」
「働くヒロの横顔が大好き……私のために沢山お金を稼いできてね」
「お前も少しはバイトしてみようとか殊勝なことを思ったりしないのか」
「嫌だ……断固として働きたくない、私は何があろうとも、絶対に労働に身を置くことを拒否する……」
「どれだけ前向きになっても根っこの部分は完璧なニート体質だよな、お前って……」
「やだ、照れる……この胸のときめきはなんだろう……」
「褒めてねえぞ、この駄天使候補」
お互い慣れた軽口をたたき合いながら、繁華街の歩道を歩いていく。
真っ先にレンタルしていたアニメを返却し、荷物を空にしたところで二人の遊びの時間は始まる。
季節の変わり目ということもあり、夏物の服を見に行くかと浩之が誘えば、サラサはノーをつきつける。理由を問えば、浩之の母が買ってくるもの着てればいいし服選ぶの面倒だしなどという典型的駄目思考をいかんなく発揮。
結局サラサが最初に行きたいといったのは本屋だった。本屋、ゲーム屋、玩具屋、ゲームセンター。このサラサの外出黄金サイクルを壊すつもりはないらしい。
別段、浩之もサラサの趣味にケチをつけるつもりはない。あの反転生活引きこもり道をゆくサラサが自分からこうして外出したいというようになったのだ、これでも大進歩なのだから。
サラサに連れ回されるままに浩之は休日のショッピングへと回る。本屋で三回、ゲーム屋で二回、玩具屋で四回サラサのジト目おねだり攻撃にあったが、その全てをことごとく封殺した。
その代わりではないが、ゲームセンターで遊んだ後の昼食代はしっかり浩之が持っていたりする。厳しいようにみえて、やはりサラサには甘い男であった。
昼食の為に訪れた場所は、いつもと同じ翔子がバイトしてる喫茶店『パピー』だ。
浩之とサラサが店の扉を開くと、パタパタと駆けてくるのは店の制服に身を包んだ翔子。『いらっしゃい』と嬉しそうな顔をする翔子に、浩之は軽く手をあげて応え、サラサも笑みを零して余計な一言を一発。
「相変わらずエッチなようでエッチじゃない絶妙な制服だ……実に制服のなんたるかを分かっている、店長を呼べ……」
「店長なら今日は家族サービスで遊園地に行ってるけど」
「西森、こいつの冗談にいちいちまともに相手しなくていいからな。調子に乗るだけだから」
「ヒロが冷たい……翔子、慰めて……今日もヒロは私に三十二分の一スケールヒグマロボを買ってくれなかったんだ……」
「何で二万も出してプラモデルを買わにゃならんのだ……」
「あ、あはは。え、ええと、昼ご飯を食べに来てくれたってことでいいんだよな? とりあえず席に案内するから」
翔子に案内され、二人席に座る浩之とサラサ。翔子に渡されたメニューを受け取って目を輝かせてどれにするか迷うサラサに、翔子は思わず微笑んでしまう。
そんなサラサをからかうように、浩之は茶々を入れる。
「メニュー見てこんなに喜ぶ奴他にいねえよ。小学生みたいだろ」
「うん、でもサラサらしくていいと思う。私、そういう常に全力なサラサが好きだ」
「全力……? むしろ常にやる気ゼロで力をセーブしまくってる気がしないでもないが……」
「これだから見る目の無い男は……翔子の言うとおり、私はいつだって全力で今を楽しんでいるのだ……前にいた場所じゃ、こんな風に毎日が楽しいと思ったことなんてなかったから」
そう言って笑うサラサに、浩之は軽く息をつく。サラサの放った言葉、それは何一つ偽りの無い真実なのだろう。
天人界にいた頃の彼女の世界は常に閉じられていて、たった一人の隔離された世界。誰にも触れられず、自分から触れることも諦めて。
だからこそ、翔子の言うとおり、サラサは常に全力で今を駆け抜けている。彼女なりに心からこの世界の全てを楽しんでいるのだろう。
そんなサラサの心の内を感じ取った浩之は、優しく確認するように問いかける。
「サラサ、毎日が楽しいか?」
「さっき言ったばかりじゃない……最高に楽しいよ。こんな毎日がいつまでも続けばいいって常に思ってるくらい」
「そうか。まあ、心配しなくても嫌でも続くさ。お前は完全にウチの自縛霊みたいになってるからな、追い出そうとしても無駄ってもんだ」
「相変わらず一言多いよね、ヒロは……まあ私は出ていかないけど。翔子、もしヒロと結婚することになっても私は居座るから……義妹として末永く可愛がってくれるといい……翔子相手なら嫁いびりなんて絶対にしないから安心するといい……」
「け、けっこっ!?」
「お、にわとりか……?」
「あんま適当なこと言って西森を困らせんな。ほら、どうせ特盛メロンソーダとハンバーグだろ、早く頼めって」
「まるで私がバリエーションのない女のように……翔子、特盛メロンソーダとハンバーグセットお願い……ペッパー多めで」
「俺はカルボナーラと食後にコーヒー……お前、大丈夫か? 顔すげえ真っ赤になってるけど」
「あ、ああ、わか、分かった。だ、だいじょぶだ、うん」
顔を真っ赤にしてフラフラと去っていく翔子。その姿を眉を顰めて不思議そうに見届ける浩之といししと笑うサラサ。
結局、そこから昼食をとりながら、昼休みということで休憩時間に入った翔子も交えて夏の計画の話し合いに興じる。サラサとしてはプールと水族館は外せないらしく、可愛い物好きな証拠も水族館に賛同していたりした。
また、プールに行くために新しい水着が必要ということもあり、今度サラサと翔子と智で買い物に行くことも決定した。浩之も一緒に行こうと誘うサラサだが、それを顔を真っ赤にして翔子が断固反対する。水着の試着したりするところを浩之に見られるのだけは勘弁してほしいと涙目で力説していた。好きな人に水着姿を見て欲しい気持ちもあるが、最初に見せるのは最高に似合っている水着でいたい。恋する乙女は複雑である。
結局浩之が最初から行くつもりが無く断ったのでこの話は終わることになる。また別の休日に遊ぶ約束をとりつけ、浩之とサラサは喫茶店を後にした。
午後からの二人の行動は午前中とあまり変わりない。サラサが興味を示したところへ右に左に浩之がついていく。
百円均一ショップでパーティーグッズで着飾ってはしゃぐサラサをデコピンしたり、ペットショップで『この猫は私の生き別れの妹なんだ。だから連れて帰ろう』などと訴えるサラサの頭にチョップを入れたり、楽器屋で不快にもほどがある不協和音を奏でるサラサの首根っこを掴んで店から出たり。
結局、サラサに振り回されに振り回され、気付けは太陽が夕色に染まる時刻となってしまっていた。
夕焼けに染まる空の下、浩之とサラサは朝に出発したときのように、二人並んで家へ向かって歩く。サラサの手には先ほど浩之にねだりにねだって買ってもらったクレープがある。
それを美味しそうにはむはむと食べるサラサに、浩之は呆れながら突っ込みを入れる。
「晩飯が食えなくなっても俺は知らねーからな」
「大丈夫、甘い物は別腹なんだ……男と女では胃袋の作りが違うからね、甘味用の胃袋が内蔵されているんだよ……」
「またそんな適当な嘘を。甘い物は別腹って普通先に他のもの食った後に言わねえか?」
「私は常識にとらわれないのだ……ああ、おいひい」
「ハムスターかお前は」
頬いっぱいにクレープを詰めるサラサにやれやれと苦笑しながら、浩之は穏やかな時間の流れを感じて歩き続ける。
今日のようにサラサの自由気ままな行動に振り回され、一日が終わる。学園でも、家でも、休日でもそれは変わることはない。
けれど、そんな日常を浩之は決して自分が嫌っていないことを理解していた。サラサと過ごす日常を悪くないと、彼女に振り回される今を。
だからこそ、呆れながらも笑って彼女と並び歩く。こんな日が明日も明後日も、終わりなく続いていくと――この世の中に終わりのないことなど決してないことに、気付かぬふりをして。
家に無事辿り着き、玄関を開ける浩之とサラサだが、いつもの玄関とは異なる状態であることに気付く。
そこにはいつも通り家族の靴の他に、一組だけ異質な靴が存在していた。黒いヒールという、家の者が用いていない明らかに客人用の靴だ。
誰か来ているのか、そんなことを考えサラサと共に挨拶をしなければならないかと考え、浩之はサラサに声をかける。
「サラサ、多分母さんの客が来てるみたいだから、一応顔出して挨拶だけしとくぞ」
「うい、ちょっと待って、クレープ全部食べ終えるから……」
最後の一欠けらとなっていたクレープを口の中に押し込み、ゆっくりと咀嚼してこくんと一飲み。
準備オーケーとジト目で合図を送るサラサ。アイコンタクトだけで言いたいことが通じるようになっているあたり、二人がどれだけ一緒に濃密過ぎる時間を過ごしてきたかが伝わるだろう。
サラサを連れて、浩之はリビングへ足を踏み入れた。そして、テーブルを挟みあって彼の母親と向きあい談笑する女性に目を奪われる。
そこにはまさしく絶世の美女と評するに相応しい女性が柔らかに微笑んでいた。金の髪を背まで伸ばし、整ったスーツに身を包んだ美しい異国の女性。浩之とサラサの存在に気付いた女性は、二人に親しみを込めて小さく会釈する。当然、彼女のことなど全く面識もない浩之だが、隣のサラサの反応に意識を奪われる。まるで猫が激しい物音に驚いたように、ジト目を丸々とさせて驚きの声を紡ぐのだ。
「なぜ奴がここにいる……」
「おい、サラサ、あの人は知り合いなのか?」
「ヒロ、気を緩めるな……やつは、敵だ。天人界で無法の限りを尽くし、暴れ回り無辜の民を虐げ回った悪鬼羅刹――人呼んで神殺しの堕天使レミリーサだ……どうやら私たちの物語はバトル物へと転換するようだ……ヒロ、中世風の異世界へ呼び出される準備はできているか……」
「最近お前の馬鹿発言を聞いても『ふーん』と流せるようになってきた自分がいるんだよな。お前の声、聞こえてたんじゃないか? あの人、めっちゃお前のこと睨んでるぞ。笑ってるはずなのに目が全然笑ってねえよ」
浩之の指摘通り、レミリーサは笑顔を必死に保っているものの、頭には今にも怒りマークが吹き出そうな気配である。
そして、少し遅れて浩之の母、己佐緒が浩之たちの帰宅に気付き、楽しそうに笑いながら美女を紹介する。
「お、帰ってきてたのね。おかえり、二人とも。ほら、レミリーサちゃんが遊びに来てるわよ。サラサちゃんもそうだったけど、レミリーサちゃんを見てびっくりしちゃった。こんなに大きく美人さんになっちゃって」
「母さん、その人知り合いか?」
「何言ってるのよ。サラサちゃんのお姉さんでしょ。今、都心の大学に通ってるんだっけ」
「ええ、そうです。久しぶりですね、浩之さん、サラサ」
透き通るような礼儀正しい声で挨拶をするレミリーサ。浩之は一礼しつつ小声でサラサに確認を取る。
「お前、姉なんていたのかよ。全然聞いてねえぞ」
「そんなもんいるわけない……私は純粋培養の一人っ子だ。ヒロ、騙されるな、あれは詐欺師だ……ヒロのお母さんはオレオレ詐欺にひっかかってしまっているんだ。あの女は……天使だ」
「天使……? ああ、そういうことか」
サラサの説明に浩之は全てを理解する。彼女が天使というだけで、この現状の全てに納得がいく。
存在もしないサラサの姉を名乗り、それを己佐緒が当然のように受け入れている。この状況を浩之はサラサと出会ったときに経験している。
天使は他者に己の存在の違和感を消し去ることができる。もし、浩之がサラサと一緒じゃなかったら、美女の言う言葉を何一つ疑わず己佐緒と同様の反応をとっていただろう。
恐らく、金の髪で天使の羽がない姿も偽りの姿。浩之たち人間には見えないようにしているだけで、サラサと同じように本当の姿があるはずだ。
しかし、問題はそこではない。その天使がいったい何の用で我が家を訪れているのか。十中八九隣でぶつくさ文句を言っているジト目の駄天使候補絡みのことなのだろうが。そんなことを考えている浩之に、己佐緒は浩之たちに突然出かけることを告げる。
「それじゃ、母さん今から出かけなきゃいけないからレミリーサちゃんのことお願いね」
「え、あ、ああ……」
あまりに突然の外出宣言に、浩之は違和感を覚える。彼の母親は客人が来ているというのに、それを放り出すような人間ではない。
母親が外に出ていったのを見届けた後、浩之は少しばかり険しい目を美女――レミリーサに向けて訊ねかける。それは一種のかまかけのようなもの。
「レミリーサだったか。お前、母さんに何かしたな?」
「よく気付きましたね。サラサは良き人をパートナーに選んだようです。特に害のあるようなことはしていませんよ。あなたたちと会話をするために少しだけ席を外してもらっただけですから」
「ヒロ、伝わるだろう……? この女から漂う気配、まさしくそれはラスボスのそれだ……そんな風に笑顔で威圧するから、見合いの席で何度も失敗する事になる……失敗から学ばない女め……」
「それは今は関係ないでしょう! っ、こほん、失礼しました。とりあえず、座りませんか?」
レミリーサに促され、浩之は少しばかり考えたものの、断る理由はないと彼女に向きあうように座る。サラサもまた嫌々そうながら浩之の隣にちょこんと座った。
二人が席についたことで、レミリーサは軽く瞳を閉じる。そして、体を光に包ませ、そこから現れる本当の姿に浩之は驚く。
アメジストのような薄紫の髪と瞳、そして背中にはサラサのミニチュアな羽とは違う、大きく美しい純白の翼。頭の上にはサラサと同じ光の輪が輝いている。サラサの言う通り、まさしく彼女は天使。それもサラサのような候補ではなく、第一線で働く正真正銘の天使なのだ。
「あらためて自己紹介を。私はレミリーサ。天人界の天使学院という場所で教師を務めています。その娘、サラサの担当教師でもあります」
「天使学院……ああ、そういえば最初の頃にそんなことサラサが言ってたな。随分昔のことでうろ覚えだけど」
「私が天使学院劣等生筆頭、サラサである……ふふ、私の姉で大学生設定など、レミリーサの若作り設定はいつみても見事じゃのう……」
「て、天使や天使学院のことはサラサから聞いてますね?」
「大凡な。人を幸せにするのが天使って仕事で、その人材を育成するのが天使学院なんだよな? んで、サラサはそこで見事に成績不良で卒業できずに追試を受ける羽目になった、と」
「その通りです。長い歴史を誇る天使学院のなかで卒業不可なんて前代未聞、何としてもサラサには卒業して立派な天使になってもらいたい、ゆえに学長をはじめとした方々の決定によって、この娘は人間界にて追試を行っているというわけです」
「まだ私が立派な天使になるなんて夢見ているのか……もう諦めなよ、この子はやればできる子なんです、なんて言われ続けた子供の末路ほど直視しにくいものはないでしょ……やる気のない顔してるだろ、追試受ける気ゼロなんだぜ……」
「お前、自分のことなのに本気で容赦ねえな。清々しいくらいの駄目っぷり見せつけてるぞ」
「だって本当のことだし……追試クリアの条件は私がヒロを幸せに導くことだけど、そんなことできる訳がないじゃないか……むしろヒロ、君が頑張って私を幸せにしてくれないと困る」
「本当に清々しいくらい駄天使だよなお前」
サラサの淡々と告げる本音に呆れ果てる浩之。レミリーサに至っては頭を抱えてしまっている。
軽く息をつき、レミリーサはサラサを見つめてゆっくりと口を開く。
「あなたのこれまでの人間界での行動は全て観察していました。もう言葉もありません……むやみに使ってはいけない天使道具を自分の欲望のために惜しみなく使う、この家に居座るために離れ離れになったら命が危ないなどと契約者に嘘をつく、自堕落な生活を送り続けて契約者に迷惑をかける……あなたに代わって浩之さんに私が土下座したいくらいです」
「いいよ、好きなだけしていいんだよ……遠慮するなよ、こいつぅ。ヒロ、美人の天使に土下座される貴重な体験ができるよ……」
「お前、本当に最低だよな……というか、やっぱり離れ離れになったら俺の命が危ないってはったりだったんじゃねーか!」
「当たり前じゃないか……痛めつけて要求を呑ませるのは三流、ナイフを突き付けて脅すのは二流、カードをもたずに相手を脅すことができて初めて一流なんだ……手札がなければ生み出すだけのこと、それがサラサ流……」
「すみませんすみません、この娘がこんな風で本当にすみません」
頭を下げ続けるレミリーサと何故かすこぶる満足そうなサラサ。
そんな少女に呆れてデコピンを入れながらも、一応のフォローとばかりに浩之は言葉を挟む。
「確かに最初はそんな感じでどうしようもない奴だったけどさ、最近はそうでもねえぞ。昼夜逆転生活は治ったし、外にも自分から出るようにもなったし。その……なんだ、俺の親友も助けてくれたしな。確かに問題ばかり起こす奴だけど、俺は悪くねえと思うぞ」
「素直に好きだって言えばいいじゃない……ひねくれものめ」
「確かにあなたのいうとおり、最近のサラサの様子には驚かされてばかりです。私はこの娘の担任になって一年ほど経つのですが、この娘があんなにも自分から動き、他に触れようとするのを見たことがありませんでしたから。ご友人の西森さんに関して動いたことには特に驚かされました。天使道具を使って証拠を集め、それをもとに脅迫という確かに担任としてはあまり褒められた手ではありませんが……私個人としては、サラサを心からよく頑張ったと褒めてあげたいです」
「レミリーサが私を褒めてる……てっきり説教が三時間くらい続くかと思ってたのに」
「頑張って褒めようとしてるのに、この娘はもうっ!」
憤慨するレミリーサから隠れるようにサラサは浩之の背に隠れてべーと舌を出す。
そんな二人のやりとりを姉妹みたいなもんじゃないかと眺めながら、浩之は問いかける。いつまで経っても見えない本題を切り出させるために。
「それで、レミリーサさんはサラサのこれまでの生活の感想を述べるためだけにウチの来たのか? 他に何か用があるからウチに来たんじゃないのか?」
「え、そうなの……? てっきり私の生活態度に文句を言うためだけに来たのかと思ってた……」
「サラサ、あなたは私がそんな暇人に見えているのですか……わざわざあなたのもとに訪れたのは、用があるからです。とても大事な用が」
「面倒事は勘弁してよ……私は追試に必死で忙しいんだから」
「追試に必死ってお前、微塵も俺のこと幸せにしようなんて思ってねえだろ。レミリーサさん、俺は一緒にいていいのか? 何なら席を外すが」
「いえ、浩之さんも一緒に聞いて下さい。この娘の契約者であるあなたにも関係する大切な件ですから」
「……分かった」
真剣なレミリーサの表情に、浩之は頷いて彼女の説明を待つ。
ただ、サラサだけはレミリーサの空気の変化を感じていないらしく、やる気のないジト目のまま億劫そうにしている。
しんと静まり返るリビングの中で、レミリーサが無感情に放った言葉――それが全ての終わりの始まりだった。
「サラサ、あなたには天人界へ戻ってもらうことになりました」
「……え」
レミリーサから告げられた一言をサラサは即座に理解できなかった。
それも当然のこと、隣に並んで座り話を聞いていた浩之ですら理解するのに少し時間がかかったのだから。
サラサが天人界へ帰ること、それはつまり、人間界、浩之たちに別れを告げるということだ。
ようやくレミリーサの言葉の意味が飲み込め始めたのか、サラサは彼女にしては珍しく動揺しながら訊ねかける。
「な、なんで……? 私、追試クリアするまで人間界にいなきゃダメなんでしょ……? 私、まだヒロを幸せにしてないんだから、天人界に戻れないんだよ……?」
「ええ、本来はその予定でした。ですが、事情が急変したのです」
「急変って……なんで? なにがどう変わったの……?」
「上から指示がきたのです。『あなたが契約者を幸せにできていなければ、人間との契約を解除し、連れ戻せ』と」
「だ、誰……学院長? あのスケベジジイがそんな指示を出してきたの……?」
「違います。もっと上の方です」
「……まさか、そんな、もしかしてその指示を出した人って……」
「――そう、『天使長』様です。あなたのお父上からの命令なのですよ、サラサ」
天使長。その名が告げられると同時に、サラサの表情は絶望の色へと染まる。
まるで何かに怯えるように、口を閉ざして下を向く。そのサラサの表情は浩之が初めて見るものだった。
言葉を失うサラサに、レミリーサは軽く瞳を閉じて説明を続ける。
「あなたが天使学院を卒業できず、追試を受けていることを耳にした天使長が決めたのです。あなたが人間界におりて二カ月、もし未だに人間を幸せに導くことができなければ、天人界に連れ戻せ、と」
「つ、連れ戻されたら……私はどうなるの……?」
「天使長が直々に天使としての教育を施すというお話です。それ以上は何も聞かされておりません」
「そ、そんな……嫌だよ、私、帰りたくない。せっかく人間界で居場所を見つけたんだ……ヒロと、出会えたんだ。沢山の友達ができたんだ……そんなの、やだ」
「あなたが人間界で変わったこと、成長したことは認めます。ですが、天使長が決めたことを覆すことはできません。残念ですが、人間界であなたのことを知る人々からあなたのことを全て記憶から消し去ることになるでしょう」
「みんなが、ヒロが私のこと忘れちゃうってこと……? や、やだやだやだっ、そんなの、絶対に嫌だっ」
レミリーサの説明に耐えきれなくなったサラサは、浩之の背中に隠れて小さくなる。
そんなサラサを守るように背を貸し、レミリーサ睨みながらこれまで黙っていた浩之がようやく口を開く。
「よお、レミリーサさん……いや、もうさんづけは止めだ。レミリーサ、さっきから勝手なことばかり言ってるけど、そんなこと納得すると思ってんのか?」
「あなたが納得するしないの話ではありません。天使長は天使の長、私たちの職務の全てを決定する権利を有しています。その長が決めたことですので、何があろうと覆ることはないのです」
「そんなこと知るか。大事なのはサラサが何を望んでいるか、そこじゃねえのかよ。確かにこいつも悪い、追試を真面目にしていなかったことは本人も認めてる。けどよ、ここから頑張ればいいじゃねえか。たった二カ月でここまで変ったってアンタも驚いてただろ? だったら一年くらい待ってみろよ、そしたら驚くくらい立派な天使になってるかもしれねえじゃねえか」
「あなたの言いたいことは分かります、浩之さん。私も上層部も、そう思っていました。ですが、何度も言いますように長の決定なのです。サラサは未だ浩之さんを幸せにできていない、それは追試合格を果たしていない、ならば連れ帰って直々に教育する、それだけなのです」
「仮に今ここでサラサが俺を幸せにできたらどうなる? 連れ帰らずに済むのか? サラサは今の生活のままでいられるのかよ?」
「いいえ、それも不可能です。サラサがあなたを幸せに出来たなら、無事卒業となり正式に天使として道を歩き出すことになるのですが……天使といっても、仕事の種類は多種多様なのです。再びサラサが人間を幸せにする天使としての職を与えられ、あなたを契約者とする可能性はほぼゼロと言っていいでしょう。聞いていると思いますが、サラサのご両親は天使の中でも最上位の地位にいます。そのサラサが普通の職位を与えられるはずがありません。おそらく、ご両親どちらかの傍で徹底的に仕事を教えられるでしょう」
「なるほどな……つまり、サラサの用意された道はどっちへ向かっても天人界に連れ戻される道しかないってわけか」
「理解が早くて助かります」
怒りを込めて言い放つ浩之の言葉にもレミリーサは動じない。ただ淡々と感情を押し殺して命じられたままの言葉を紡ぐだけ。
話にならないとばかりに浩之は会話を打ち切り、背後で怯えるサラサに言葉を与える。
「おい、サラサ、こんな奴らの言うことなんか聞かなくていいからな。お前の気持ちを完全に無視して事を進めようとする連中なんざ相手するだけ無駄だ。こいつらが何を言おうと、お前は堂々とウチにいりゃいいんだ」
「ヒロ……」
「お前、俺に言ったよな? 天使になんてなりたくないって。今もそう思ってんなら、心のままに動けばいい。天使なんて止めて、お前はお前の望むままに生きればいいんだよ。天使なんて資格がなくたって、お前がウチの一員だってのは変わらねえんだ。明日からもいつもと変わらず学園行って、高城や西森や辰哉と馬鹿やって笑ってりゃいいんだよ。お前は何一つ変わる必要はねえ。レミリーサ、そういう訳で話は破談だ。分かったらそのことを天使長とやらに伝えてきな、サラサは嫌だって言ってるってよ」
「浩之さん、あなたの気持は痛い程に分かります。ですが、私がここで帰ったところで、未来は変わりません。私がその言葉を持って帰ったならば、天使長は私ではなく別の者を差し向けて『強引に』ことを進めるだけでしょう」
「……無理矢理サラサを連れ帰るってことかよ」
「非常に無理を言っていると思います。ですが、分かって下さい。まだ私が話相手であるうちは、サラサと別れの時間を与えることもできます。サラサの記憶を皆さんから消したと虚偽の報告をあげることもできます。どうか自棄にならず、私が相手であるうちに結論を下して頂けませんか」
そう告げるレミリーサの表情、一瞬見えた悔しげなその顔に浩之はレミリーサの本音を見た気がした。
彼女だってサラサの担任だったのだ。押しても引いても変わらなかったサラサが、人間界でこれほどまでに成長した。教育者として教え子の成長を喜ばない筈が無い。
だからこそ、彼女もこの決定を苦々しく思っているのだ。けれど、トップからの命令ゆえに逆らえず、本心とは異なっていても話を進めるしかできない。
彼女に強く当たったところで、問題は何も解決しない。そのことを理解し、浩之は小さく舌打ちをするしかできなかった。
反論が続けられない浩之に、レミリーサはゆっくりと立ち上がりながら言葉を続ける。
「一日だけ猶予を与えます。この世界で出会った友人たちとの別れの時間も必要でしょう。明日の夕刻六時、そうですね……この近所に公園がありましたね。人払いをかけておきますので、その場所にてお待ちしています。あなたたちが納得していただければ、そのときにサラサを天人界へと連れて帰ります。ですが、納得頂けなかった場合は……残念ですが、天使長へそのことを報告するしかありません。どうか、ご賢明な判断を期待しています」
「……大変だな、あんたも」
浩之の言葉に返答せず、一礼をしてレミリーサは家から去って行った。
レミリーサが去ってなお、サラサは震えていた。そんなサラサに、何とか声をかけようと口を開こうとした浩之に、サラサは今にも泣きそうな笑みを浮かべて言葉を紡ぐのだ。
「ヒロ……どうしよう。私、ヒロたちともう一緒にいられなくなっちゃったよ……」
そのサラサのか細い呟きに、ヒロは何も言えなくなってしまう。
こんなにも弱々しいサラサなど、今まで一度も見たことが無かった。風が吹けば消えてしまいそうなほどに、今のサラサは儚げで――
ここまでお読み下さりありがとうございました。次も頑張ります。
次の更新で最終回となります。しっかりラストまで描けるよう、頑張ります。