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一話 駄天使候補、天井を貫く




 卒業不可。





 天使学院三年生であるサラサは担任の天使からそう告げられても、手に持つ煎餅をボリボリと食べ続け、どこ吹く風だ。

 まるで他人事のよう。否、実際問題彼女にとっては他人事と同じなのだろう。そんなサラサに、担任のレミリーサは大きく息を吐きだした。

 やる気なさそう、というよりも皆無なのだ、目の前の少女は。卒業不可、ふーん、だから何。言葉にすればきっとそういう気持ちしかないのだろう。


「サラサ、事の重大さを分かっていますか。あなたはこの天使学院始まって以来、初めて卒業不可を受けた天使候補なのですよ。これがいったい何を意味するのか分かっているのですか」


 レミリーサの疑問に、サラサは煎餅を口に運ぶ手を止め、いつものジト目を少し細ばめて、少し考える仕草をみせた後、ぽつりと返答する。


「これでまだ私は働かずに済む。らっきー」

「違います! 天使学院に留年制度なんてありません! このままではあなた、天使の資格が取れないのですよ!」

「取れないのなら天使として馬車馬のように働かずに済む。望むところだわ……堕天使サラサとして、生まれ変わってくれる。堕天使になった暁には、良い子で甘ちゃん揃いの天使たちに、現実の苛酷さをつきつけてくれる。さあ、やれ、私を堕天使にしろ。構わん、やれ」


 バリボリと再び煎餅を食べ始めるサラサに、頭痛を感じずにはいられないレミリーサ。どうしよう、こいつ。それが率直な想いであった。

 天使とは、天界の住人の中でも一握りの才ある者だけがなれる特殊な職業だ。その仕事は上位神の傍仕えから、人間界でも選ばれた人間の育成、魂の救済など、高貴かつ重要な仕事は数えれば切りがない程だ。

 その天人の中でもエリートの中のエリートを育成する機関、それが天使学院。そこには天界でも選りすぐりの人材が集められ、誰もが成績優秀で天使として飛び立っていく場所である、そのはずだったのに。

 レミリーサの目の前で寝転がり、煎餅を食べる天使サラサ。この娘はどうしようもないどころでは済まされない、天災級の問題児だった。

 何せとことんやる気がない。天使候補として当然持つべき素質である勤勉さや清らかな心を何一つ持たず、毎日授業をサボってぐーたらぐーたらぐーたら三昧。

 無理に授業を受けさせても、三秒後には鼻ちょうちん。体罰厳禁の教えがなければ、教師の拳がいったい何度サラサの顔に突き刺さったであろうか。

 過去には学園中の熱意あふれる教師が何人もサラサを矯正しようと手を挙げ乗り出した。そしてその教師全てが辞表を叩きつけて学園から去って行ったほどだ。

 唯一、自分から手を挙げたわけではなく、気付けば担当を受け持たされたレミリーサだけがサラサ教育係の生き残りだった。

 しかし、結局最後のこの日まで、サラサがやる気を出すことはなかった。飴を与えようが鞭を与えようが、サラサは最後の最後までこの有様だったのだ。

 頭を悩ませた天使学院上層部だが、悩み抜いて出した結論が卒業不可。サラサを今の状態で天使になど、とてもできないと実に賢明かつ英断を下したわけである。

 そのことを今しがた、サラサに伝えたらこの有様だった。いったいどこの天使候補が自分を堕天使にしろなどとほざくのだろうか。

 ゴロゴロと転がって煎餅を頬張るサラサに、額に血管が浮き上がらないように必死に努めつつ、レミリーサは一つの提案を提示するのだった。


「確かに、あなたはこのままでは天使になれません。ですが、そんなあなたに最後のチャンスを与えようと神々が温情を下さいました」

「それさあ……温情っていうか、面子の問題でしょ……全員天使に必ず育成を掲げてるのに卒業不可なんて出したら、いったい何人の首がとぶのかねえ」

「そこで! あなたはこれから地上へ向かい、天使として相応しい言動を重ねてもらいます! 我ら天使の役目の一つに、人を導き幸せにすることがあるのは知っていますね? あなたに与える追試の内容とは、地上に降り立ち、天使として力を貸すに相応しい人を見つけ、その人を幸せへと導くこと! もし達成できたならば、あなたが天使としてやっていけると私たちも認めましょう! それが終わるまで決して天人界に戻ることは許しません、いいですね!」

「私が他人に対して幸せにするなんて善行を積むと思ってるのか……ああ、なるほど、積まないと分かっているから、こういう方法にしたのか。やるね、ハゲジジイども……これは私を地上へ追放するにはちょうどいい口実になるってわけだ。ふん、こんな天人界なんぞこちらから願い下げだわ……いくわよ、ボブ、ジェシカ」

「誰ですかそれ」

「知らない」


 それがサラサの天人界での最後の言葉となる。我慢の限界に達したレミリーサは、寝転がるサラサの下に地上への道を作り出し、そのまま彼女を天人界から追放したのだ。

 気付けば済み渡る程に美しい青空を絶賛落下中のサラサは、ボリボリと煎餅を食べながら呟くのだった。


「……地上にも煎餅って売ってるのかな。天使マネー補充してたっけ」


 どこまでもマイペースな天使候補、サラサである。


















 学校の帰り道。荒波浩之は上機嫌だった。

 高校生活二年目、その初日に発表されたクラス替えで仲の良いメンバーと同じクラスになれたのだ。

 いつも四人組で馬鹿をやってまわっている浩之としては、これは嬉しい結果であった。

 思い返せば、今日は朝から何もかも上手くいく日だったなと浩之は思う。目覚ましが鳴る前に目覚め、ニュース番組内の星座占いでは一位、授業中に当てられることもなく、友人に賭けに勝って学食を奢って貰い、その学食ではおばちゃんに天丼のエビを一つサービスして貰った。

 小さな幸せの積み重ねではあるが、それが連続して続けば人間誰だって嬉しいものだ。浩之も例外ではなく、ツキの巡り合わせの良さについつい舞い上がってしまうのも不思議はない。

 自宅へ辿り着き、意気揚々と二階の自室へ向かうために階段を昇っていく。一歩一歩軽々と上がりながら、浩之は上機嫌で一人呟く。


「調子の良い日は何をやっても上手くいくもんだな。これも流れってやつか」


 鼻歌交じりで階段を上がり、自室の扉を開く。

 六畳一間にあまり飾りっ気のない至ってシンプルな部屋、それが浩之の城だった。

 鞄を机の上に放り投げ、ブレザーをハンガーに適当にかけて、私服へ着替える。使い込まれたパーカーとジャージは彼が愛用する気楽な部屋着であった。上下で七百円、古着屋で発掘した彼のお気に入りの一品である。

 学園の制服を脱いだことで肩が軽くなり、リラックスするために浩之はベッドに背中から倒れ込むように寝転がって体を弛緩させる。

 大きく息を吐き出し、心地よい気分のなかで浩之は我が世の春とばかりに言葉を紡ぐのだ。


「新学期初日でこれなら、今年も良い一年になりそうだ。俺にはどうやら幸運の女神様がついているみたい――なんてな」


 調子に乗って心にも思っていない言葉を口にして、うんとベッドの上で一伸びしたその瞬間だった。

 家中に響き渡るほどの轟音と震動が浩之の部屋を襲ったのだ。伸びをして目を瞑りかけていた浩之はあまりの衝撃にベッドから転げ落ちてしまう。

 いったい何が起きたのか、これがいわゆる直下型大地震というものなのか。思考が冷静さを取り戻せない浩之だが、幼い頃より学校で習った防災意識は確かに根付いていたようだ。

 慌てて学習机の下に飛び込み、激しく小刻みに震え続ける部屋の振動が収まるまでその身を守り続けていた。

 やがて揺れが収まり、数秒間余震が訪れないことを確認して、浩之はおそるおそる机から顔を出す。


「な、なんだ……滅茶苦茶揺れた割には、携帯から災害速報の通知もないし、いったい何がどうなったって言うんだ――」


 そこで浩之の言葉は途切れることになる。彼の視線はある一点に完全に釘づけになっていた。

 膝をついたまま浩之は呆然と部屋の上方、天井を見つめて唖然としていた。そこに生えていた『物体』によって完全に意識を奪われてしまっていた。

 浩之の視線の先にあったもの――それは生首だった。天井であったはずの場所からまるで梅雨時のきのこの如くにょきんと生えた女の子の首。

 淡い水色の髪をツインテールのように両端で結び、重力に遊ばれるままにだらりとぶら下げている。日本人離れした整った容貌だが、それ以上に特徴的なのは瞳だろう。

 一言であらわすなら『じと目』。どこまでもやる気なさげで輝きのない瞳が少女の美しき容貌の全てを帳消しにしてしまっている。まさしく美形の無駄遣いを全速前進してしまっている容貌だ。

 そして、何よりも目立つのは彼女の頭上から十センチほど離れた場所でふわふわ浮いてぺかぺか輝く光の輪だ。いったい何がどういう理屈で光の輪が浮き、家庭用蛍光灯のごとく燦然と輝いているのだろうか。

 自分の部屋の天井から見知らぬ少女が生えてきたことも、頭の上で光の輪が自己主張激しく輝く意味も全く理解できず困惑する浩之。そんな彼に、口元に加えた煎餅をぱくんと飲み込みながら、少女は第一声を紡ぐのだった。


「おめでとう、名前も顔も知らぬ目つきの悪い人間の少年……君は運命に選ばれた」

「い、いや……な、何なんだ、お前」

「さあ、選ばれし少年よ、迷うことはない。その両の掌に力を込め、私を引き抜くが良い。我が名は聖剣ローズブラッスグ、古より数多の……いやもう、本当に助けて。一人じゃ抜けられそうにないの。このままじゃさっき食べた煎餅が胃袋からポロロッカしてしまう」

「助けて欲しいなら最初からそう言えよっ!? 聖剣の下りいらねえだろ!」


 少女が救助を求めていることをようやく理解し、浩之は慌てて椅子を少女の下へと運び、その上に飛び乗って少女へと近づく。

 だが、見事なまでに首だけが出ているため、少女を引っこ抜くには首を思いっきり引っ張るしかない。だが、そんなことをしては激しい痛みを少女に与えるだけだ。

 どうしたもんかと頭を抱える浩之に、少女は何かを悟ったように軽く息を吐いて言葉を紡ぐ。


「皆まで言わないで、おじいちゃん……私、長くないんだね」

「誰がお前の爺さんだ。しかし、困ったな……これじゃ引っ張り出すなんて到底無理だぞ。そもそもお前、なんで人の家の天井に突き刺さってんだよ……天井に突き刺さるって何だよ、自分で言ってて意味不明過ぎるだろ……いったい何なんだよ、お前は……」

「このまま私は人間界のオブジェとして生涯を終えるのか……あの嫁ぎ遅れめ、幽霊になったら見合いの釣書に悪戯書きしまくってやる。ああ、死ぬ前に蜂蜜が飲みたい」

「袁術は黙ってろ。しかし、本当にどうしたものか……仕方ない、首の周りの天井も壊すか。ああもう、こんなの父さんと母さんになんて説明すればいいんだよ……」


 愚痴を零しながら、浩之は部屋の押し入れの中から工具箱を取り出してくる。

 むろん、彼の持ち物ではなく彼の父の所有物である。手にハンマーと打金を取り出し、天井へ向けてコンコンと何度も打ち付けて少しずつ穴をあけていく。

 そして、少女の首の周囲に少女が腕を出せるだけの穴を作ることに成功する。先ほどは首だけ出ていた少女が、今はその両腕まで出すことに成功していた。

 上半身が自由になった少女は、腕をぱたぱたとさせて浩之に語りかける。


「おお、自由だ……羽ばたける、私はまだ遠くの空へと力強く羽ばたいてゆける。白鳥はかなしからずや空の青、海のあをにも染まずただよふ……そういうものに、私はなりたい」

「いや、なんで両腕が出せるのに全身が抜けないんだよ。お前、肩回りを超えるくらい腹出てるのか? どれだけ太ってるんだよお前は」

「失礼だね、君は……背中のエンジェリュックが引っ掛かってるみたい。少年、私の背中あたりの天井をブロークンしておくれ」

「分かった、分かったからじっとしてろ。あーもうっ! 手をバタバタさせんな! 顔に当たって痛いっつーの!」

「月に叢雲花に風。軽やかなること鳥のごとし、花鳥風月ここにあり」

「意味分かんねーよ!」


 少女の言葉を流しながら、浩之は要望通りに少女の背中あたりの天井をハンマーと打金で壊していく。

 どうやら彼女の推測は正しかったらしく、その部分の天井を破壊すると同時に少女の体は重力に逆らうことなくずるりと天井から落ちていく。

 だが、彼女の落下方向にあるのは目を見開いて驚く浩之。まさか一気に落下してくるとは予想しておらず、哀れ少女の下敷きになるように浩之は椅子から落ちてしまった。

 背中を床に打ち付け、痛みに悶え狂う浩之に、彼の体の上に跨ったまま少女はやる気の感じられないじと目のまま口を開いた。


「ちゃっちゃっちゃーん……少年は伝説の剣を手に入れた。今すぐここで装備していくかい?」

「しねえよ! さっさと俺の上からどいてくれ! 地味に重いわ!」

「つくづく失礼だね、君は……よいしょっと」


 やれやれと息をつきながら、少女は心から億劫そうに浩之の上から移動し、彼の前にちょこんと座る。

 打ち付けた背中を摩りながら、ようやく浩之は少女の全身を視界に入れることができた。

 淡い水色の髪と髪の両サイドを結んだ長髪。恐ろしく整った美しき容貌、それらを全てあまりあるほど帳消しにするほどの特徴的なやる気皆無のジト目。頭の上はぴっかぴっかと電気屋のショーケースに展示された蛍光灯のごとく輝く光の輪が浮き、その身には白布のような薄手の衣を纏っている。そして背中にはこじんまりとした小さな白い羽と、先ほどまで天井にひっかかっていたらしい小柄な少女に良く似合うピンクのリュックが背負われていた。

 やる気ゼロのジト目さえ見なければ絶世の美少女であることは間違いないのだが、浩之にとっては少女の容貌など思考の外のことだ。

 彼にとって少女は己が城塞に突如飛び込んできた闖入者。もっと言うなら、天井をぶち壊してくれた人間災害。少女と向かいあうように胡坐をかき、頭をかきながら浩之は少女に訊ねかけた。


「……で、お前、何なんだ? 登場の仕方が突拍子も無さ過ぎて、名前を訊けばいいのか、素姓を訊けばいいのか、警察に連絡しなきゃいけないのか、全然分かんねえよ……」

「人に名を訊ねる前に自分から名乗るのが礼儀だと習わなかったのかね……そうかそうか、君はそういう奴なんだな」

「なんで人の部屋の天井ぶち壊してダイナミック過ぎる来訪かました奴に礼儀を問われにゃならんのだ。まあいい、俺の名前は荒波浩之だ」

「長くて言い難いね。私の名はサラサ、上から読んでも下から読んでもサラサ。よろしく、ウマナミモロユキ」

「荒波浩之だっ! なんで五秒前の自己紹介された名前すら覚えられねーんだお前は!」

「だって長いんだもん……私の脳による他人の名前の記憶容量限界は三文字だから」

「少な過ぎるだろ! もうちょっと頑張れよ! 浩之だ、ヒ・ロ・ユ・キ!」

「ヒロね。ヒロ……よろしくヒロ」

「ああ、よろしく……って、よろしくしねえよ!」


 差し出してきた少女――サラサの手を危うく握り返しそうになる自分の手を抑えて浩之は絶叫する。

 そんな彼の反応に首を傾げながら、相変わらずのジト目を向けながらサラサは浩之に斜め上の言葉を投げかけ続けている。


「握手とは……万国共通の友好の意。それを拒否されてしまっては、残る道は戦争しかないじゃないか……ペンを捨て、剣を握れ若者よ……敵は本能寺にあり……」

「友好の前に説明をしろ。お前はいったい何なんだ、どうして俺の部屋の天井に突き刺さってたんだ」

「話せば長くなる……例えるならそれは、運命の大河に流されし歴史を語るがごとし。全ての事情を英雄譚のごとく熱を込めて語り終えようとしたなら、君と夜を語り明かさなければならなくなる……」

「熱も調味料も込めんでいいから、簡単にかいつまんで話せ。話さないなら今すぐ警察に連絡する」

「そういう困ったらすぐに警察に頼ろうとする風潮……それでいいのか、若者よ……社会は残酷だぞ、上司は親じゃない、困り果てても君を優しく助けてくれるとは限らないんだ……今からでも自分の力で問題を乗り越える力を養ってこそだね……」

「交渉決裂だな。警察呼ぶけどいいんだな」

「しかたない……ちゃんと話すよ、真面目に聞いてね。ポップコーンとコーラの準備はいいのかい?」

「少なくともお前よりも真面目になってるつもりだよ」


 早くしろとせっつく浩之に、サラサは背中のリュックを下ろしながら渋々説明を始める。


「ヒロの部屋に突き刺さっていたのは、私が空から降ってきたからだよ。私は空をまだ自分の力で飛べないんだ。ヒロの部屋の天井を壊してしまったことは本当に偶然で……大変遺憾に思っている」

「空から降って来たって……お前、飛行機か何かから落下でもしたのか? そもそも屋根をぶち抜いて天井に突き刺さって、よく怪我ひとつないな……超人か何かか、お前は」

「お前じゃない、サラサって名乗ったばかりだよ。さっきヒロが私の名前を訊いたんじゃないか……その名前が良いねとヒロが言ったから」

「言ってねえから。んで、おま……ごほん、さ、サラサは何で空から降ってきたんだよ。一番大事なそこを説明しろ」

「何で噛むのさ……ははん、さてはボーイ、女の子を名前で呼ぶのが恥ずかしいんだな。思春期を脱しきれない小僧め、愛い奴愛い奴」

「うるせー! いいから説明しろ!」

「説明、要るの……? 私がどこから来たのかなんて、人間なら私の姿を見たら一発で分かるもんなんじゃないの……?」


 そう言って、サラサは己の頭上の光の輪っかを指差した。

 続いてその場で立ち上がり、浩之の前で背中の小さな羽をぴこぴこ動かして再び座り直す。

 そう、彼女の頭の光輪と背中に生えた白き純白の翼。そして天から降ってきたという証言。これらから、浩之の中でもしかしたらという予想は立っている。

 だが、彼女がそうだと浩之は認められない。なぜなら彼は無宗教、リアリスト。そんなものがこの世に存在するなどと微塵も思っていないからだ。そんな彼に、サラサはジト目を向けたままポツリと呟く。


「人は信じられない光景に出くわしたときにその者の本質が出るという……ヒロ、思考停止で足を止めるのは愚の骨頂だとは思わないかね。ありえないと鼻で笑い、こいつは馬鹿だと指をさして嘲笑することは誰だってできる。大事なのはそこから一歩踏み出して自分の感性を信じて動くことだとは思わないかね。さあ、勇気を出して一歩踏み出し、部屋から飛び出して私のためにお茶を汲んできておくれ……喉が渇いて死にそうなの」

「ただ単に飲み物欲しいだけじゃねえか! 前半真剣に話聞いて損したわ!」

「もういいじゃん……考えるだけ無駄だし、受け入れようよ。私、天使だよ。正確に言うと天使見習い。空から降ってきたことも、常人なら死ぬような目にあってるのに無傷なのも、この一言で片がつくでしょ……分かったら、早く私にリンゴジュースを持ってきて」

「お茶から要求微妙に吊り上げてんじゃねえっ!」


 文句を言いながらも、舌打ちをしながらも、仕方ないと部屋から出て一階まで飲み物を取りにいってあげる辺り、浩之の人の良さが滲み出ているだろう。荒波浩之、何だかんだでお人好しである。

 冷蔵庫にあったオレンジジュースを二人分グラスに注ぎ、トレイに乗せて部屋まで戻り、サラサに差し出す。

 浩之からグラスを両手で受け取りながら、サラサはぺこりと頭を下げる。その礼儀正しい姿に、浩之は少し感心するのだが、その好感はすぐさま地に叩き落とされる。ストローごしに一口飲むや否や、ジト目をヒロのグラスに向けて文句を言いだした。


「ヒロのジュースの方が明らかに量が多い……不公平だ、断固抗議、交換を要求する。トリック・オア・トリート」

「大してかわんねえよ! しかもお前、それ既に口付けた後じゃねえか!」

「大丈夫、私は気にしない。私はジュースが沢山飲めてラッキー、ヒロは美少女と間接キスができてラッキー、ウィンウィンの関係になれる……」

「馬鹿だこいつ! いいから話を戻すぞ! サラサが天使っていうのは……本当なのか」

「正確には天使候補だけど……なんだ、信じられないのかブラザー……嘘を言っているように見えるかい? この羽が作りものだとでも?」

「誰がブラザーだ。けど、確かにその天使の羽と頭の光輪は作りものには見えねえな……」

「ごめん、頭の光の輪は作りものなんだ……天人界の法律で光の輪っかは常に装着するように書かれてるからね」

「作りものなのかよ……」

「ちなみにこれ、学校近くの電気街にいくらでも投げ売りされてるよ……ワゴンの上にクフ王も興奮するくらいのピラミッド詰まれてる」

「止めろ! それ以上天使の幻想を壊すな!」

「幻想を持つほど信仰もしていないくせに。ほーら、ぺかっぺかっ」


 浩之の前で光の輪から出た紐を引っ張って光をつけたり消したりして遊ぶサラサ。

 その光景のせいで、浩之のなかの天使像は音を立てて崩れていく。神も天使も信じていない浩之ではあるが、幻想や夢は大事にしたい、そんな年頃だった。

 大きく息を吐き出し、額を片手で押えながら、しかし浩之はなんとか現実を受け入れる。背中の羽は本物であるようだし、確かに普通の人間ならば天井に突き刺さって無傷でなどいられるわけがない。

 悲しいが、悔しいが、彼女が人間ではなく浩之の常識の外の人間――天使であるという事実は受け入れなければ先に進めない。観念して、浩之は重々しい声でサラサに語りかける。


「百歩……いや、千歩譲って、お前が天使だと認めるとしよう」

「なんでそんなに嫌そうなのさ……あと天使候補だってば。簡単に説明すると、この人間界のはるか上空に私たちの住む世界があって、そこで天使を目指して学業に励んでいたぴっちぴちの学生、それが私」

「全然よく分からん……空の上に俺たちがよく考える神様の世界があるのなら、そこに住むお前は既に天使なんじゃないのか?」

「違うんだな……ヒロたち風に言うなら、天使は職業なんだ。そして天使候補である私はそれを目指す学生だと考えると分かりやすいかな。あと、ヒロのいう空の上に住む私たちを指し示す言葉は『天人てんじん』だね。だから、私たちの種族が天人ってことになるんだ」

「いまいち要領を得ないが、とりあえずサラサがその天人ってのは分かった。本当に、ほんっとーーーーに信じ難いことだが、お前たちのような存在がいるということも認める。そこで疑問なんだが、空の上に住む天人様であるお前が、なんで見ず知らずの俺の部屋の天井をぶち壊してくれてんだ?」

「本当に不可抗力なんだ。悪いのは私じゃない、あの嫁ぎ遅れの女が落下地点をここに指定したのが悪い……私だって常識はある。誰が望んで何の関係もない人の家にダイナミック来訪なんてするものか……ところで、何か食べるものない? 飲み物を出して茶請けを出さないなんて片手落ちもいいところだよ……あとオレンジジュースなんで百パーセントじゃないの……私、百パーセント以外好きじゃないんですけど……」

「微塵も常識ねえよ! いったいどこの常識ある奴が出されたものに全力でケチつけてくるんだよ!?」

「まあいいや、煎餅が残ってるしそれ食べながら話すね……ヒロも食べるかい? 天人界、人気の老舗の一品だよ」

「……もらう」


 リュックから煎餅を取り出し、浩之と分けながらサラサの説明は続く。


「私が人間界にやってきたのは、天使学院で卒業試験の追試のため。私さ、天使を目指す学校に通ってるんだけど……劣等生なんだよね。このままだと、卒業できないんだって」

「いや、それは非常に納得できる。というか、お前のような天使がいてたまるか。俺が教師なら即刻退学にしたいくらいだ」

「酷いこと言うね……まあ、その通りなんだけど。私も全然天使なんてなるつもりなくてさ……でも、学院のお偉方は私を退学処分に出来ない理由があって……私から学院を辞めることも認めないわけだ」

「そうなのか。まあ、自分に合わないことを無理に続けてもなあ……それで?」

「ん。そこで学院のお偉方は考えたわけだね。私の追試を人間界で行い、ある条件をクリアするまで天人界には戻らせない。こうすることで私が必死こいて追試をクリアするだろうと考えたんだろうけど……甘い、甘過ぎる。このサラサを舐めないでいただきたい。他人の思惑に乗って今更勤勉に励むとでも思っているのか。天人界なんてこっちからお断りだ……私は生涯をこの人間界で謳歌する事に決めたんだ」

「覚悟を決めるのはいいが、頼むから煎餅をボロボロ床に零さないでくれ。あとで掃除機かけるの俺なんだぞ」


 サラサの話を聞きながら、浩之は大きく溜息をつきながら思う。これはもしかしなくとも、とんでもない爆弾が飛び込んできてしまったのではないだろうか、と。

 未だ現実感のない感覚は否めないが、目の前で煎餅をボロボロこぼしてくれている少女の存在が今ここにあるのは確かに。何より天井に空いてしまった穴から差し込む太陽光が嫌でも浩之にこの現実を教えてくれる。

 いったいどうしたらよいのかと浩之は頭を悩ませる。警察に彼女を連れ込み、『天から見放された天使娘です、不法侵入と器物破損です、なんとかしてください』などと言っても笑って追い返されるのがオチだ。そもそもこの天井をどうすればよいのか。

 今日はとことん幸運に恵まれていた、素晴らしき一日だったというのに、どうして最後の最後でこんな目に。頭を悩ませる浩之に、サラサはこくんと煎餅を飲み込みながら、声をかける。


「大いに悩め、ヒロ。人は悩み、そしてその度に大きくなるのだから」

「悩みの種が偉そうなこと言ってんじゃねえ! それで、ある条件て何だ。どうすればお前は心安らかに昇天してくれるんだ」

「人を自縛霊か何かのように……卒業許可の条件は、『選んだ人間を幸せにすること』。私が選んだ誰かを幸せにして、無事判定が下れば私は天使認定されて天人界へ戻ることになる」

「人を幸せにできたかどうかの判定って、誰がどうやって下すんだ?」

「これ」


 そう言って、サラサは頭の上の輪っかを指差す。それは彼女が天人界の電気街で購入した特売品の天使の輪っかであった。

 訝しげに眉を顰める浩之に、サラサは輪っかを人差し指で弾きながら説明を続ける。


「この輪っかには人の幸せ判定機能がついてるんだ……その人の心が幸せかどうかを読みとることができる。ちなみに今は蛍光灯モードにしてる状態」

「投げ売り品のくせに無駄に高性能だな、おい。天人界の電気街どんだけ凄えんだ」

「こんなものは序の口の序の口……私のエンジェリュックの中には数え切れないほどの電気街グッズが収納されてある。こう見えても裕福だからね、私……セレブだよ、セレブ」

「ふーん。なあ、試しに俺に使ってみてくれ。ちょっと興味が湧いた、何か心理テストに使う機械みたいで面白そうだ」

「いいよ……はい、手を出して光の輪っかに触れて。先に言っておくけれど、後悔しないでね……使いたいって言ったの、ヒロだからね」

「おい、何だその怖い前置きは。もしかして使うことでその場で爆発とか、そういう命の危険とかあるんじゃないだろうな」

「ないけど……一応ね」


 頭の上から両手で光の輪っかを握り、サラサはずいっと浩之の前に差し出す。

 両手を差し出し、光の輪っかを握りしめた浩之に、サラサは必死に笑みを噛み殺しながら冷静を繕って説明を続ける。


「それじゃ、これから私の言葉に続けて全部『はい』って答えてね。そうしないとこの輪っか起動してくれないから」

「わかった、『はい』って答えるだけだな」

「それじゃいくよ……『汝、天使の導きのもとに従い、共に歩むことをここに誓うか?』」

「はい」

「『天使の言を信じ、天使の心に添い、天使と共に頂きを目指すことをここに誓うか?』」

「はい」

「『よろしい。汝の誓いは見届けた。その言葉全てを信じ、天使は汝と共に道を歩むだろう』――いいよ、ありがと」

「……おお、随分本格的なんだな。何だか教会に来たみたいだった。いや、親戚の結婚式くらいでしか行ったことねえんだけどな」

「形から入るのが好きなのは人間も天人も変わらないよ……それじゃ、起動するね。浩之の幸せ度は……っと」


 そう言いながら、サラサは光の輪っかを胸の前でくるっくるっと二回転、三回転と回してみせる。

 すると、光の輪はふっと灯りが消えたかと思うと、禍々しいくらいに目に優しくない真紫へと変色してしまった。それが激しく点滅するものだからたまったものじゃない。浩之は目を閉じながら、サラサに慌てて訊ねかける。


「お、おい! なんか気持ち悪い色になって暴走し出したぞ! 故障か!?」

「大丈夫、アマツガハラの電気街の品物だよ……千年フル稼働しても大丈夫が謳い文句だから、壊れる訳が無い、電池は切れるけど。これは浩之の幸せ度判定の結果だよ。これが浩之のハッピー度を教えてくれてるってわけだね……」

「つまり、どういうことだよ?」

「幸せのしの字も感じられない、この世のどん底にいるかの如く不幸現在進行形ってレベルだね……こんな不幸感じてる人見たことないよ、いったい何があったって言うのさ」

「ま、マジかよ……俺ってそんなに不幸な人間だったのか。いったい俺の身にどんな不幸が襲っていると……襲って、いると……」


 頭を抱えて困窮する浩之だが、ふと視線が目の前の少女へと向けられる。

 ジト目を向けたまま『元気出せ、あとジュースのおかわり』などと身勝手な要求しながら浩之の肩をぽんぽんと叩くサラサ。そしてふと視線を見上げればぽっかり空いた天井の穴。彼女の頭の上には相変わらず目に優しくない紫の点滅。

 それらを視界に入れ、やがてワナワナと体を震わせる浩之。そんな彼に、空気を微塵も読もうとしないサラサは首を傾げて訊ねかけた。


「どうしたの、生まれたての小鹿のように震えて……トイレ?」

「俺の不幸全部お前のせいじゃねえかあああああああああっ!」


 びしっとサラサを指差して浩之は怒りの咆哮をあげた。そう、彼の不幸、その全ての原因は目の前で呑気に煎餅を貪る少女にあった。

 彼女が空から降ってくるその直前までは、浩之は確かに幸福の真っただ中にあったはずなのだから。

 突然現れ、天井は壊す、自分は天使候補などと言う、あげくのはてに煎餅をボリボリと床に零しに零す。こんな爆弾を放り投げられ、不幸でないはずがない。

 不幸の原因を理解した浩之は、すぐさま不幸の原因を排除するための行動に出る。その場に立ちあがり、部屋の扉を指差してサラサに言い放つ。


「出ていけ。俺が不幸になってるのは全部お前が原因なのは明白だ。お前が出ていけば俺は間違いなくハッピーになれる。そうすればお前も人を幸せにした功績が認められ、成仏できるだろう。天井のことは……もういい、とにかく早く出ていけ」

「マッチポンプって言葉を知ってる……? 私がヒロの不幸の原因だというなら、私が出て行って解消したところで幸せにしたなんて判定下る訳ないじゃない……放火魔が消化活動をすれば英雄になれるかい……? ヒロは実に馬鹿だな……ジュースのおかわりまだこないんですけど」

「永遠にこねえよ! とにかく家から出ていけ! 早く幸せにする人間をとっ捕まえて、天人界でも魔界でも好きなところに帰ってくれ!」

「大丈夫、その人間は既に確保したから……私、有能」

「捕まえたって……おい、まさかお前」


 青ざめる浩之に対し、サラサは煎餅をこくんと飲み込んで口元を緩めて笑う。

 それはまさしく美少女の微笑み。やる気のないジト目でなければ、見惚れない者などいないほどの笑みで、サラサは浩之に宣言するのだった。


「おめでとう、ヒロ。君はめでたく天使候補に選ばれた人間だ……私が君を、幸せにしてあげる……まるで漫画の主人公のようでしょ? さあ、咽び泣いて喜ぶといい」

「喜べるわけねえだろ! 俺を全力で不幸に叩きこんでくれてる奴がどの口で幸せにするなんて寝言ほざいてんだ!? 冗談はいいから、さっさと出ていけって!」

「私、冗談なんて嫌いなんですけど……いつだって真剣に今を生きてきた。今を本気で生きられない者に、明日を語る資格なんてないんだ……いつだって今を全力で生きるしかない……私は今を、後悔のないように日々面白おかしく生きているよ」

「やっぱり面白おかしく生きてんじゃねえか! だいたいお前が俺を幸せになんてできる訳ないだろ! むしろ不幸のどん底に叩き落としてくれてるんだよ! そこを理解しろよ、いい加減にしろよホントマジで!」

「いいんだよ。そんなヒロだからこそ、私は君を相棒に選んだんだから……」

「はあ? それはどういう意味だよ」


 サラサの意味不明な言葉に浩之は言葉の意味を問いかける。

 そんな彼に、サラサは無言で空になったグラスを左右に軽く振る。つまり、続きが教えてほしければおかわりを持ってこいという要求だ。

 ジト目による無言の要求に、浩之は彼女の額にデコピンをして応える。赤くなった額を摩りながら、サラサは説明を続けた。


「言ったでしょ。私は追試に合格し、天使になるつもりなんてサラサラないんだ……人間を幸せにするなんて冗談じゃない、そんなことをしてしまったら私は天人界に戻らなくちゃいけなくなるじゃないか……」

「おま、お前っ、今さっき俺を幸せにするって……」

「ヒロを幸せにすると言ったな……あれは嘘だ……ヒロ、幸せは他人に与えられるものじゃない、自分で掴むものなんだ……甘ったれるな」

「天使の役目全否定してんじゃねえよ!?」

「そういう訳で、私は誰かを幸せにするつもりなんてこれっぽっちもない……天人界に帰りたくないんだ……私はこの人間界で悠々自適に毎日を面白おかしく惰性と堕落に塗れて生きていきたいんだ……具体的に言うと、私はこの人間界でニートになりたい……」

「こいつ、清々しいくらいに最低なこときっぱり宣言しやがった……」

「その私の夢のために、必要なモノが幾つかある……その一つが、住む場所と食事を提供してくれる人。そして私は幸運にも、それを用意してくれそうな素晴らしい人間に巡り会うことができてしまった……これも運命としか思えない」

「お、おい……冗談だよな?」

「言ったよ、私は冗談が嫌いだって……ヒロ、私は君の家に居候することに決めた。人間界で悠々自適な生活をするために、ヒロの力が必要なんだ。私、君の家族としてこれからを生きるって決心したよ……こんな私を、受け入れてくれるかな?」

「受け入れるわけねぇだろおおおおおがあっ! 頭沸いてんのか、このパッパラ天使! もういい、強引にでも家の外に叩きだしてやる!」


 サラサの腕を掴み、引っ張り上げて玄関まで運ぼうとする浩之だが、それは叶わない。

 浩之がいくら力を込めて引っ張れども、サラサはびくとも動かない。まるで分厚い岩石がそこにあるかのごとく、一ミリたりとも動かせないのだ。

 肩で息をする浩之に、サラサは煎餅を口に運びながら勝ち誇って告げるのだ。


「無駄だよ……天使道具『イワクニ』によって私の体重は通常の十倍に引き上げられてるから。ちなみにこれはアマツガハラ電気街のガシャリンポンでワンコインで当てた玩具ね……」

「ま、また無駄に高性能なもんを適当な方法で入手しやがって……いいから出ていけ! お前がどれだけ抵抗しても、俺はお前が居座るなんて絶対に認めないからな!」

「果たしてそうかな……? いいのかい、私が本当に出ていっても……後悔するよ?」

「どういう意味だよ……」

「私がもし、ここから出て行って浩之の傍を十日以上離れると……君は死んでしまうことになる」

「ハッタリなんか通用するか! とにかく簀巻きにしてでも、家の外に放り投げて……」

「本当だよ……私がここから出ていくと、君は死ぬんだ」


 きっぱりと言い放つサラサ。やる気のない瞳から放たれる言いようのない圧力に、浩之は思わず屈してしまいそうになる。

 気押される浩之に、サラサは頭の上で紫に輝く光の輪を指差して、彼女の台詞の意味を語っていく。


「さっき、この光の輪でヒロの幸福判定をしたよね……この幸福判定のシステムはさ、誰でも利用できるって訳じゃないんだ」

「どういうことだよ」

「天使の仕事は選ばれた人間を必ず幸福に導くこと、それは人間と天使との二人の誓約によって違えてはならない……さっき、ヒロは天使の輪を使うときに誓ったでしょ? あれで私とヒロの関係は『選ばれし人間』と『天使』の関係として光の輪は認識したんだ……だからこそ、幸福に導くために幸福判定システムが使えるようになったんだね……」

「……それと俺が死ぬことと何の関係があるんだよ?」

「ヒロは今、私を追い出そうとしている。それはすなわち、天使との契約を反故にしようとしている行為なんだよね……それは光の輪にとって不義の行為と認識され、『不適格』と判断されちゃうんだ。もしそう光の輪が判断してしまったら……まあ、そういうことだね。天使にとって誓約は絶対だから」


 ごくりと息を飲み込み、浩之はサラサの言葉に恐怖する。

 言葉からして、間違いなく自分の命を奪いに来るのだろう。いったいこの身に何が起こるというのか、光の輪に切り刻まれるのか、はたまた燃やし尽されるのか。

 はっきり言って、サラサの言葉が九割以上の確率でブラフだとは浩之も認識している。彼女の言葉を鼻で笑って家から叩きだすことが賢明だとも分かっている。

 だが、残りの一割未満の『もしも』が捨てきれない。目の前でボリボリと煎餅を食べる少女は疑う余地もなく『人外』、常識の外に生きる存在なのだ。

 その理解の範疇を超えた得体の知れなさが浩之の決断を鈍らせる。もしもがあるかもしれない、そう考えるだけで人は厳しい選択をできなくなる生き物なのだから。

 恐ろしい想像が脳裏をよぎる浩之に、サラサは大きく間をあけて、ゆっくりと言葉を紡ぐのだ。


「さあ、蹴り飛ばした椅子を戻し、話し合いの席につこうじゃないか……ヒロ、人は分かりあえる生き物だ……拳ではなく誠意で通じ合えると私は信じているよ」

「お前は人間じゃない上に思いっきり拳振り上げて恫喝してるんだけどな」

「頼むよヒロ……行き場を失った私には、君の力が必要なんだ……私の素晴らしきニート生活のために、君と一緒にいたいんだ……」

「それで首を縦に振る奴なんかいるか!」

「一年でいいんだ。一年経てば、この光の輪の電池の寿命も訪れて、君も傷一つなく解放される……私も新しい住居へ移るから……お願いだよ、ヒロ」


 指一本立てて、サラサは浩之にジト目を向けてお願いする。相変わらずのやる気のない瞳を向けられ、浩之は大きく溜息をついて思考する。

 行動原理は最悪だが、サラサが人間界において居場所がないというのは事実だろう。だからこそ、あの手この手で浩之にお願いしているのだ。

 だが、事態が事態だけに浩之も簡単には頷けない。例えここで了解したところで、サラサがこの家に住める訳ではない。この家はあくまで浩之の両親の家であり、浩之が家主でもなんでもないのだから。

 見ず知らずの女の子、それも天人などとのたまう変人を家に住まわせてほしいなどと浩之が言ったとき、親はどんな顔をするだろうか。間違いなく激怒する。学生という親に養われている身でありながら、女と同棲させてほしいなど誰であっても激怒する。

 加えて、何より一番の理由は浩之がサラサと同棲生活など心から望んでいないことだ。当然だ、突然空から降ってきて天井をぶち抜いて、平穏な自分の生活を一瞬にしてひっかきまわしてくれた天災と誰が共に生活を送りたいと思うだろう。

 浩之は破天荒な人生を望んでもいなければ、人と異なる波乱万丈な人生も求めていない。周りにどう見られているかはさておき、平凡な学生生活を享受できるならそれにこしたことはないという人間だ。

 その生活の中にサラサという異物を入れてしまえば、間違いなく今日から生活は一変する。一変どころではない、急転する。暗転する。

 それが分かっているからこそ、浩之の心は拒否の一手だったのだが、サラサと離れると命の危険があるかもしれないという点がどうしてもひっかかる。

 絶対嘘だと思うが、それでも完全に否定できない。こいつならやりかねないという想いが浩之の心から拭いきれないのだ。

 腕を組んで必死に頭を悩ませる浩之だが、結局いきつく答えは一つだった。それらだけなら、浩之は断固として断っていた。命の危険などと言われても、最後には信じることなく蹴り飛ばして家を追い出しただろう。

 彼が最後に決断を下さざるを得なかった理由、それは浩之に最後にお願いしたときのサラサの表情と声。ジト目のせいで薄れてしまっているが、その表情はとても寂しそうであり、その声は縋るようで。このとき、浩之は初めて少女の『本当の姿』に触れたような気がした。

 悩みに悩み、悩み抜いて、苦悶の表情で浩之は決断し、言葉を紡ぐ。この決断が、絶対に後悔するものだと分かっていても。


「……一年だな? 一年経ったら本当に出て行くんだな?」

「うん……約束する。誓約してもいい」

「……分かった。ひっじょーーーーーーーーーーーに不本意だけど、力は貸してやる」

「本当……?」


 浩之の絞り出した言葉に、サラサの表情がぱーっと明るくなる。相変わらずのジト目ではあるが。

 そんなサラサに対して掌を突き出し、ぬか喜びをさせないために浩之は『ただし』と前置きして言葉を続けるのだ。


「俺が力を貸すのはあくまで両親に頼むだけだ。この家は当然俺の家じゃない、父さんと母さんの家だ。お前をこの家に置くかどうかの権限なんて俺にはないからな。もし親が駄目だと言ったら、悪いが諦めてくれ。そこは納得してもらう」

「いいよ……『ヒロが納得してくれたなら』そんなことは些細な問題だもん……ヒロは『私が一緒に棲むことに協力してくれる』んだよね」

「あ、ああ」


 サラサの言葉の意味が分からず、浩之は首を傾げるしかない。対してサラサはしてやったりと笑うばかり。

 そんな二人のもとに、タイミングが良いのか悪いのか第三者が訪れる。部屋の扉をノックする音と共に、外から『浩之、入るわよ』という声が聞こえてきたのだ。その声に浩之はたまらず背筋を伸ばす。

 その声は彼の母親である荒波己佐緒のものだった。彼はサラサとドタバタ騒ぎ過ぎて気付いていなかったが、どうやら母親が買い物から既に帰ってきていたらしい。

 目の前でジト目で煎餅を食べ続けるサラサ、天井にぽっかり空いた穴。これらを浩之は母に前用意なしで今から説明しなければならないのだ。浩之でなくとも慌てずにはいられないだろう。

 協力して一緒にお願いしてやるとは言ったものの、さっきの今では上手い言葉など思いつくはずもない。慌てふためく浩之、威風堂々のサラサ。そんな二人を余所に、母は部屋の扉を開けるのだった。

 黒髪を肩ほどで切り揃えた、年齢より若く見える妙齢の女性、それが荒波己佐緒、浩之の母であった。


「さっきから浩之の声が家の中に響いてるんだけど、誰かお客さん来てるの? ……って、あら」

「わ、わ、わ! 母さん待て! ちょっと待て! まだ心の準備が!」


 扉から顔を覗かせた己佐緒が、浩之の後ろにちょこんと座るサラサを発見する。サラサもジト目で己佐緒を見つめ返すだけ。

 たっぷり十秒は経っただろうか。二人が浩之越しに見つめ合い、沈黙を保ち続ける。何から説明すべきかと困惑する浩之を置いて、己佐緒はやがて表情を破顔させて嬉しそうに声をあげるのだった。


「まあまあまあ、サラサちゃんもう来てくれてたのね。長旅疲れたでしょ?」

「お久しぶりです、おば様……なんとか無事に着くことができました。今日からお世話になります」

「ええ、ええ、外国からだもの、疲れたでしょう。今日はお祝いするから、楽しみにしててね。本当に大きくなっちゃって」

「え、ええええ、か、母さんこいつと知り合いなの?」

「何言ってるのよ浩之。従姉妹のサラサちゃんよ。今日からうちにホームステイするって前々から言っていたでしょ?」

「はああ?」


 頭のてっぺんから突き抜けるような変な声を思わずあげてしまう浩之。いつからこんなメガトン級爆弾が従姉妹になったのか。

 眉を顰めながら振り返る浩之に、サラサは口元を吊り上げて笑うだけ。その顔に、浩之はやっと把握する。こいつ、また何かやりやがった、と。

 そんな浩之を置き去りにして、サラサと己佐緒の会話は続く。


「サラサちゃんが来てくれて本当に嬉しいわ。私、ずっと楽しみにしてたのよ。ほら、ウチって浩之だけだから。ずっと女の子が欲しいなって思ってたのよね」

「そう言って頂けると私も助かります……日本のことは右も左も分かりませんが、色々教えて頂けると嬉しいです」

「嘘つけ! お前さっき若山牧水諳んじてたじゃねえか! 左右どころか奥底まで知ってんじゃねえか!」

「それとおば様、この家に訪れる際にちょっと天井を壊してしまいまして……」

「あらあらまあまあ、見事に大穴空いちゃってるわね……これ、どうしたの?」

「色々と交通網を利用した結果、空から来訪という形になってしまいました……なにせブリテン生まれなので勝手が分からず、自国の誇るブリティッシュ式ダイナミック来訪を敢行してしまったのです」

「そうなの。ブリティッシュなら日本の勝手が分からなくても仕方ないわね。流石紳士の国は規格が違うのねえ」

「何だよブリティッシュ式ダイナミック来訪って!?」


 軽くサラサと談笑をして、己佐緒は笑顔で一階へと戻っていった。その表情はサラサの言葉や存在に微塵も違和感を感じていないようだった。

 あまりにも異常過ぎる光景に、浩之は説明しろと視線でサラサを問い詰める。煎餅を頬張りながら、サラサは隠すこともなく理由を説明した。


「『契約者』と『天使』の関係に誰も違和感を覚えないようになってるんだよ……分かりやすく言えば強力な暗示が人間全員にかかってると言えばいいのかな?」

「暗示……?」

「そう。『契約者』と『天使』が一緒に行動する事にいちいち疑問を持たれちゃうと、天使としての仕事が出来ないでしょ……それを防ぐために、この光の輪から認識阻害波が放たれてるのね。周りの人間には、私とヒロが一緒にいること、その理由、何もかもに疑問を持ったりしなくなる……当然違和感を覚えないんだから、頭の輪っかも背中の羽も全部当たり前だと思っちゃう……違和感がないように、私とヒロの関係を君のお母さんは『ホームステイに来た従姉妹』だと認識したんだね」

「お、おいおい……これって洗脳の一種なんじゃ……」

「天使として大事な役目を遂行するためだよ。現にこの人間界では数え切れないくらいこの装置が使われてるはずだよ……天使がお仕事をするときの必需品だからね」

「そんなヤバい装置が投げ売りワゴン売りされてんのかよ……怖えよ天人界」

「アマツガハラ電気街に置いてないものはないんだね……それよりもヒロ、親は納得してくれたよ。これで私がここの家に住むことを認めてくれるんだよね……」

「反則技じゃねーかっ!」

「誤審だと訴えたところで、審判がセーフと言ったらセーフなんだ……たとえ強引でも、力技でも、私はヒロの親に許可を得た。そこの頑張りは認めてほしい……」


 あまりに暴論ではあるが、確かにサラサが浩之の親から許可を得たのも事実だ。

 頭を悩ませる浩之だが、彼は確かに宣言した。親さえ認めたら、許可してやると。その助力もしてやると。

 手法はあまり褒められないが、彼女は必死でこの人間界で自分の居場所を確保するために手を尽くし、勝ちとったのだ。そこは認めてやらねばならないだろう。

 肺の奥底から大きな息を吐き出し、参ったとばかりに表情を崩してそっと右手を差し出すのだった。そしてぶっきらぼうに告げる。


「……一年だけだからな。それと勘違いするなよ? 俺はあくまで自分の命を守るためにお前を置くのを認めるためであってだな……」

「ん……分かってる。これからよろしくね、ヒロ。私を傍に置いてくれたこと、絶対に後悔はさせないから……」

「お、おう」


 そっと握り返された小さな手のひらの柔らかさ、温もりに浩之はそれ以上言葉を続けられない。

 照れくさそうに視線を外す浩之に、少しばかり柔らかくなったジト目でサラサは彼を見つめながら声をかけるのだ。


「……ところでヒロ、ジュースのおかわりまだ来ないんだけど。健気な女をその気にさせるだけさせて、いつまでも待たせる男って正直どうかと思う……」

「既に後悔させてるじゃねえかこの駄目駄目天使候補!」


 不満げにグラスを突き出すサラサの顔面めがけて、浩之はあらん限りの力でクッションを投げつけるのだった。







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