8・待ち伏せは慎重に
『――ちょっとくらい出来がよくたって、笑わないなんて本当に可愛げがないわね。子供らしさの欠片もない。気味が悪いわ』
口紅の赤とあのむせかえるような香水の匂いだけは今でもはっきりと覚えている。
赤い唇を歪めて言ったその人はいつもブランド物に身を包み、遊びも派手で、家には滅多に寄り付かない、そんな最低な女だった。
彼女の目の前には、まだ小学校低学年の素直な自分が言われた言葉に萎縮して椅子の上に小さく座っている。
笑わないことはなかったのだ。
可笑しいときはきちんと笑っていたし、ただ常に笑顔というわけではなかっただけ。そして笑っても向こうが気付かなかっただけ。
『私、出て行くわ。恭平は置いていくから』
『待って。笑うから。もっと勉強も頑張る。他の事だって。だから置いてかないで』
カンカンと高いヒールの音を響かせ、荷物を抱えたその人が去っていく。追いかけた足はその場で往復するだけで先には行けなかった。体が重くてだるくて仕方がなかったけれど、動かす足を止められなかった。
徐々に消えていく背中に、とうとう足が止まる。
うずくまり、小さくなる自分に誰かの声が聞こえた。
『お兄ちゃん――』
そこで目が覚めた。
髪を掻きあげる。まだ暑い季節でもないのに、夢見が悪かったせいか髪がしっとりと濡れていた。
気持ち悪さに、シャワーを浴びようと起きて階段を降りる。
起きる直前に聞こえたのは那智の声だったように思う。
そういえば、今日からしばらく朝は早く出ると言っていた。それに合わせて起きようと思っていたのに、夢に囚われて出来なかったみたいだ。
不器用な妹のことだ。髪はいつものようにお下げにせずに適当に結って家を出たに違いない。
明日からはきちんと彼女よりも早く起きて髪を整えてやろう、と思いながら熱い湯を出すためコックを捻った。
シャワーを浴び、すっきりと冴えてきた頭で最近のことを思い返す。
『あ、今笑いましたね』
常に笑顔を絶やさない自分に向かって言われた言葉。全てが作り笑いだと思い込んでいた自分が、まだ自然と笑えていることがあるのだと教えてくれた人。
水野 愛梨。
妹の入学式の日に出会い、徐々に仲良くなった子だ。妹も彼女のことを気に入っているようで、会話の端々に彼女の名前が出てくる。
綺麗な子だ。ただ綺麗なだけの女は見てきたはずなのに、入学式のあの日、視線は彼女に囚われた。親しくなるにつれて、心までが徐々に囚われていくのが分かった。彼女の傍にいると、どこか浮ついた気分になる。他の男が傍にいると嫉妬心まで感じた。
これを恋というなら恋なのだろう。
けれど、似たような感情を昨日感じた。そのことに少々困惑している。
木の下で妹に近づき、親しげにリボンを結んでいた同学年の土屋 冬吾に妙に苛立ちを感じたのは何故だろう。
愛梨に対して覚える感情を恋愛による『嫉妬心』とすると、妹に対して覚えた感情は『執着心』かもしれない。
一緒にいるときはずっと「お兄ちゃん大好き」と自分だけを見つめるその存在に、鬱陶しいと思いながらもどこかで「那智はこれでいい」と安堵を覚えていた。
その那智が他の男を見て親しげにしていたことから、自分から離れていってしまうと思うと苛立ちを感じた。苛立ちと共に焦りも。ずっと傍にあるものだと思っていたのが、いつか離れていってしまうのだと、そう初めて実感した。兄妹なのだ。いずれ恋人の一人も作るだろうし、いつかは結婚もする。
そのとき、自分は一人取り残されるのだろうか……。
(なら、ずっと二人でいられればいいのに)
そんな黒い感情が芽生えた。二人だけの世界などありえないのに。他人と触れないで生きていくことはできない。自分もこれからたくさんの人に出会うだろうし、那智もそうだろう。
兄と妹以外のたくさんのものと出会っていく。それでも、世界に二人だけの兄妹ではありたかった。
だから確認した。
『那智は、ずっと俺の妹だよね』
妹はそれに応えた。そこに否やという答えが入り込む隙間はない。
『那智はずっとお兄ちゃんの妹だよ』
妹から始めたその言葉遊びに、妹よりもむしろ自分が捕らわれている。
その日の放課後、それでも不安に感じていた自分の心を感じ取ったように妹が桜の木の下に立っていた。
胸に手を当てて行われた宣誓に、焦燥感にかられていた自分がバカらしくなって可笑しくて笑った。
可愛い妹だ。無知でも無邪気でも。
キュッ
コックを捻ってシャワーを止める。水滴が髪からポタポタと零れ落ちるのを手で拭った。
「那智に彼氏はまだ早い」
身勝手にもそう呟いた。
※ ※ ※
「お兄ちゃん、行ってきます」
まだ部屋で寝ているらしいお兄ちゃんにドアの前で挨拶をして家を出る。
「あら、早いのね那智」
朝の出勤の準備をしていたお母さんが声を掛けてきたけど、
「うん、小テスト対策に友達と一緒に勉強しようって約束してるの」
昨日お兄ちゃんにも言ったウソとまるっきり同じ答えをしてローファーに足を引っ掛けた。
学園に着くと、丁度委員長もやって来たところだった。
「おはよう」
靴箱から上履きを取り出しながら挨拶をすると、委員長は怪訝な顔をしながら挨拶を返してきた。
「おはよう。桂木……那智?」
(おいおいおい。その反応は何だ? 毎日、教室で見かけているはずの私の顔に覚えがないとかないよな。昨日もきちんと私を認識して名前を呼んでたじゃん)
内心でツッコミをいれながらもある可能性に至り、はたと動きを止める。
(もしや……)
今日の私の髪型は、いつものお下げに黒リボンではなく、一つくくりのポニーテールだ。髪のウェーブも自分で整えたのでいつもよりゆるい。
(朝は早いし、お兄ちゃんも起きてなかったからこの髪型にしたんだけど……。委員長にとって私の識別ポイントってお下げの黒リボン? だからって、だからって……)
「委員長は髪型変わると人を識別できなくなる人なの?」
私はポニーテールを解き、髪を両手で二つに縛って握った。そこまでしてやっと、委員長の顔が得心したものに変わる。
その真面目な顔でまじまじと観察された後、元のポニーテールに戻した私が
「もう桂木 那智だと認識してもらえたかな?」
と聞くと、
「すまん」
と返事が返ってきた。
私が「桂木 那智」であると認識した委員長が上履きに履き替えるのを横で待つ。
「もう覚えた」
背筋をぴんと伸ばした委員長は短い言葉で私に告げた。身長が180cmはある委員長を155cmの私が見上げるのは首が痛い。それでも私は彼を見上げて目をパチパチとしばたかせた。
(それはポニーテールバージョンの私のことか?)
「覚えたって……また髪型が変わったらどうするの?」
「また覚える」
委員長は至極真面目にそう答えた。
(委員長はもしかして天然?)
そう考えるに至る十分な返答だった。
「そ、そうっすか……。そのときはまた声を掛けるから、覚えてね」
はぁっと溜め息をつく。
(こっちは戦闘態勢ばっちりな気合いを入れて来たのに、朝っぱらから力が抜けるようなボケをかますなや!)
私は力が抜け落ちてしまった肩を奮い立たせるために、「頑張れ自分」と委員長に聞こえないように小さく呟いた。
私たちは1Aの隣、1Bの教室で犯人が来るのを待った。私一人なら教壇の下にでも隠れるのだけど、図体の大きな委員長と二人でそれは無理なのでそうすることにした。
1A側の扉近くにしゃがんで聞き耳を立てつつ、何となく沈黙もイヤだったのでひそひそと話しかけた。
「委員長、今日は朝練ないの?」
「ある」
「出なくてよかったの?」
「朝練は自主的に出るものだから。別にいい」
うちって結構な強豪校だったと思う。それなら、自主的な参加とはいえ出ないのはどうなのだろう。
罰則とか受けたりしないのだろうか。
(委員長は自分が受ける罰とかあまり気にしてなさそう。そんでもって紳士だから、そんなことになっても私には言わなそう)
心配げな顔を浮かべた私に、委員長からフォローが入る。
「用事があれば出ない人間もいる」
「こんなの用事のうちにも入らないよ。今日犯人が来なくても、明日からは本当に私一人で大丈夫だから。部活の方に行きなよ」
親切心はありがたいけど、女子相手だったら本当に私一人で大丈夫なのだ。相手の顔さえ分かれば、逃げられても手は打てる。
(元々委員長の介入には反対だったんだよ。こういった問題に男子が入り込むと逆にこじれて面倒なことになりかねないんだから)
そんな思いもあって、丁重に辞退を勧めてみた。それでも委員長は頑なに介入を辞退してはくれなかった。
「女一人は危ない」
「それは昨日聞いた。でも、相手も女の子だから」
「二人いる。人数で不利だ」
小さい頃は男子と殴り合いの喧嘩もしょっちゅうだったので、いざそうなっても私なら勝てると思う。
右腕のストレートパンチは体格の良い委員長には無理でも、女の子相手ならまだまだ通用すると信じている。
(ま、だからって女の子を殴ったりはしないけどね)
「うーん、強情だなぁ」
困って唸る私に委員長は表情を崩さず言った。
「心配だから、では駄目なのか?」
委員長の瞳はどこまでも真摯で、そのせいで私は頬にポッと熱がこもった感覚に陥った。
彼みたいに誠実・硬派な文字が顔に書いてあるような人にこんな台詞を吐かれると背中がむずがゆかった。裏がない分、あのカメラ好きのチャラ男に言われるよりも数段も照れる。
(もし言われたら「はっ?」って返す。もしくは「なに冗談言ってんですか」って言う)
直球なその言葉に、私は照れをごまかすために
「ろくに人の顔も覚えてないくせに」
と悪態をついた。
「すまん。ちゃんと覚える」
そう言うと、委員長の黒く澄んだ瞳がつぶさに観察するようにこちらに向けられた。その表情は剣道で相手の隙を見定める剣士のようだ。
「いや、だからって人の顔をまじまじと見つめなくてもいいから」
じいっと眉間にシワを寄せてガン見する委員長に
(やっぱ委員長って天然だわ)
くすりと笑ったら、怪訝な顔をして小首をかしげられた。
そのとき、隣の1Aの教室の扉をガラッと開ける音がした。
私は慌てて立ち上がり、扉から外へ出ようとした。委員長もその反射神経のよさを発揮して、私とほぼ同時に身を乗り出した。
結果――、もつれたよね。うん、大いにもつれた。
「えっ。委員長っ」
扉を出ようと重なった身体に振り向こうとした私に覆いかぶさるように体勢を崩した委員長が降って来た。
その鍛えられた腕は咄嗟に廊下に腕立て伏せの形態をとり、彼の全体重が私に圧し掛かってくるのを回避したけど、私は頭をゴチンと打って目の前に星が舞った。
「イタタッ」
「うっ。すまん」
委員長の息遣いがすぐ左横で聞こえた。
私は痛む頭を左に向け、委員長も顔を左に向けた。互いに顔を突合せた状態でそれを行えばどうなるか―――、委員長の唇がチュウと私の頬にぶち当たった。
(当たりましたよ。頬に、唇が。唇に、唇が、じゃなくてよかった。って違うだろ私!)
その柔らかい衝撃に、私は瞬間固まり、そして叫んだ。
「ぎ、ぎぃやあぁっ! 私のセカンドがぁっっ!
朝の静けさをたたえた廊下に「がぁっっ!」の部分が何度もこだました。
「な、なななにやってんの、キミ達!?」
教室にやって来たのはクラスメイトであり1Aの副委員長でもある若狭くんだった。
若狭くんが自分がされたかのように頬を染めるものだから、私は「うわぁぁん」と上に乗っかる委員長顔を思いっきり押しのけた。ぐきっと音がしたみたいだけど、気にする余裕はまるっきり残っていなかった。
私はショックで涙ぐみ、委員長はすばやく起き上がってアワアワとハンカチを取り出して「すまん」「悪かった」とペコペコと頭を下げながら私の頬を拭いた。
その日は結局空振りで、犯人確保はまた明日以降に持ち越しとなった。
※ ※ ※
翌日――。
「おはよう」
前日と同じく靴箱の前で委員長と鉢合わせた私はぶすっとした顔で挨拶をした。
本日は朝一緒に起きてくれたお兄ちゃんの手によって、いつも通りのお下げに黒リボンだ。髪もふんわりとゆるく巻いてもらった。
むくれた顔をしていても「今日も可愛いよ」と言ってくれるお兄ちゃんは、将来職にあぶれたらホストにでもなればいいと思う。きっとお金持ちのマダムがせっせと通い詰めてくれるに違いない。
「おはよう。桂木 那智」
委員長はそれに幾分困った顔をして返した。
「昨日は、」
「みなまで言うな。アレは忘れて。私も忘れたから」
言いかけた委員長にストップと手を出して止める。
ファースト頬チューに失敗し、セカンドこそはと夢を描いていたところに悲惨なアレをぶちかまされて、昨日の私はものすごく機嫌が悪かった。
ぶっすーとむくれた顔をしてクッションを殴りつける私に、お兄ちゃんが気を利かせて
「学校で何かあった?」
と聞いてきたほどだ。
「責任は取る」
委員長は固い顔をして私に向かって言った。委員長の様子では勢いで「嫁にもらう」とまで言い出しかねない。
昔のお武家さんじゃあるまいし、そんなことまでは要求していない。
(ちょっと顔を突き合わせづらいというか、どんな顔をしたらいいのか分かんないというか……)
昨日の事件が頭に甦る。
頬に当たった生暖かい感触。委員長の黒く澄んだ瞳。その息遣い――。
昨日触れられた部分がボッと赤く熱を持ったように感じて、咄嗟に左頬を押さえた。その様子を見た委員長もつられたように首を抑える。
気まずい空気が流れる。
「コ、ココア」
「ココア?」
「食堂横の自販機の〝まろやかココア〟。それで手を打つ」
委員長は顔を赤くしてうつむく私を数秒見つめた後、「分かった」と返事を返した。
私たちは昨日のように1Bの教室で犯人が来るのを待った。
打ち合わせをして、誰か来たら委員長が先に出ることに決める。
(昨日の二の舞はごめんだもん)
しばらく無言でじっとしていると、ガラッと1Aの教室の扉が開かれる音が鳴った。
委員長は硬派で天然。
次回、犯人登場か?