表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が傍観者な妹になった理由  作者: 夏澄
きみの写真編
60/63

51・まぶしい世界

「帰ろうか」

 ようやく今まで通りの感覚をつかめるようになった頃、お兄ちゃんがそう口にした。

 そろそろお昼ご飯の時間だ。帰りが遅くなってしまってはおばあちゃんたちも心配してしまうだろう。

「そうだね、おばあちゃんたちも待ってるし」

 同意した私にお兄ちゃんは首を振った。

「帰るっていうのは桂木の家に、って意味なんだけど。……那智はどうしたい? このまま諒一さんのところに帰る?」

 あぁ、もう。そんな顔しないでよ。

 これまでだったら私の顔色の確認なんてご機嫌伺い程度くらいのものだったのに、今の顔は本気で不安がっているものに見える。美形の子犬的表情は心臓に悪い。

 ぐらりと傾きそうになる決意を奮い起こして私は桂木の家に帰ることを了承した。




「少し遠回りして帰る?」

 実はおばあちゃんの家に戻るにはつり橋を渡る他にもう一つルートがある。

 三百メートルほど先まで行かないといけないけれど、つり橋じゃないしっかりとしたコンクリート製の橋が架かっているのだ。もちろん揺れることなどない。

 それを教えると、お兄ちゃんが少しむっとした声を出した。

「えっ、そんな橋があるの知らなかった」

 あると知っていたらわざわざ怖い思いをしてつり橋なんて渡ってこなかったのにとでも言いたいのだろう。

 でも私にとってはお兄ちゃんがつり橋を渡ってきてくれたという事実が大事なので、お兄ちゃんが知らなかったことは逆に良かったことなのだけど。

「教えてくれててもいいのに」

「聞かれなかったから」


 いつもお兄ちゃんはおばあちゃんの家への訪問について来てくれた。

 でも、ただでさえ旅行で気を遣っているので疲れるのだろう。散歩に誘えば家を出るけどあまり遠出をしたいようには見えなかった。

 短い時間でも一人にしてあげようと思ったんだよ。

 だからつり橋の先の神社には一人で来ていた。嫌がっているものを連れ出すのは気が引けた。


「だって私の散歩になんか興味なかったでしょ?」

 先を歩きながら後ろに続くお兄ちゃんを見る。

 気まずそうな顔をしてお兄ちゃんが笑う。図星なんだよね。

「今はちゃんと興味を持ってるよ」

 嘘つきだなぁ。

 他人に対して興味の持てないお兄ちゃんが腹の内が少々ばれたところで、私になんか興味を抱けるはずがないでしょ。

 でも優しい嘘をつき続けるお兄ちゃんを私は責めることができないのだ。

 そんなに甘いと付け上がってしまいたくなる。止めた感情の時間が動き出しそうになる。

 ――固く凍れ。

 私はすでに癖になりつつある呪文を心の中で唱えて笑った。


 戸惑いに気づかれたくなくて、道端に落ちていた小石を蹴りながら歩き出す。

「……だからあんな酷いことをしたんだ」

 お兄ちゃんが小さく呟く。お兄ちゃんに関しては裏に潜む意味を大抵理解してきたつもりだったけれど、その言葉の真意が分からなくて私は首を傾げた。

「ごめんね、那智」

 急に謝ってきたりして、どうしたのだろう。昨日のことならもう橋の前で許したはずだ。まだ謝罪しきれない思いがあったのだろうかと、私は「いいよ、もう」と頭を横に振った。


「今度はちゃんと大事にする」


 真面目な顔をしてそう言ったあと、「だからもう離れないで。今度こそどうしたらいいか分からなくなるから」と目を細めてお兄ちゃんが笑いかけてきた。

 照れるからやめて。

 この顔に「大事にする」と言われて舞い上がらない女子はいないと思う。今までの私だったら「嬉しい」と言ってお兄ちゃんの腕に抱きついたことだろう。

 少し前までなら平気だったのに、今はちょっとできそうにない。

 お兄ちゃんの言いたいのはもちろん家族としてという意味だろう。分かってる。ちゃんと分かってるって。

 むずがゆい気持ちにそっぽを向く私の手を取って、お兄ちゃんは私に合わせてゆっくりとした足取りで横を歩いた。


 ※ ※ ※


 二人は大丈夫だろうか。

 ふうとため息を吐く。

「あいつらなら大丈夫だって」

 それに気づいた木村が隣で笑いかけてくる。普段なら屈託のない笑みをしてくる彼だけれど、その笑顔も今はぎこちない。不安なのは同じらしい。さっきからずっとそわそわとしている。

「不安なら恭平先輩について行けばよかったのに」

「二人の問題だ。ついて行くのは野暮だろ」

 言っても視線は外に向けられている。

「先生、足が落ち着いていないようですが」

 縁側に座って二人の帰りを待っているのだが、落ち着いているように見せかけて木村のつま先はずっと地面をとんとんと叩いている。

 ぐっと呻いて木村はつま先の動きを止めたが、今度は組んだ手の指をせわしなく動かし始めた。

 これ以上つっこむのは可哀想だろう。彼は那智の保護者分なのでどうしたって動きたくてたまらないのだ。それほどに大切にされている那智が少しばかり羨ましく思えた。




 恭平と共にあちらを出発したのは今朝方のことだ。

「僕が逃げ出さないように捕まえてて」

 迎えに行くとはいってもやはりまだ気持ちとして複雑なのだろう。

 言ったことは冗談としても、気晴らしの相手をそばに置いておきたいと思っているのが明白だった。

 できれば自分は行かないほうがいいのでは。そうも思ったが、必要とされるのならばついて行くしかない。

 到着したあとは二人が仲直りするまで、恭平のそばにいることは控えよう。二人の間に自分が立つことは余計なことだと感じていた。


「那智を迎えに来ました」

「だったらこっちに来ずにさっさと迎えに行ってやれ」


 木村に一言告げに行ったときの会話だ。

 殺気だっているように見えて、恭平が去ったあと木村はほっとした顔を見せていた。

「ありがとな。あいつを連れてきてくれて」

 頭を撫でられたことに少し肩の荷が下りた気がした。


 ※ ※ ※


「那智ちゃんのお友達だってね。こんな遠いところまで来てくれて、大変だったでしょ」

 那智の祖母だ。

 捻挫したとのことだったが、不自由な足で客にお茶を出してくれたらしい。

「そんなことないです。すみません、気を遣わせてしまって」

 一言謝って受け取ったお茶に口をつけた。


 記録としては知っていたが、生身で訪れるのは初めてのこの家。

 磨きこまれた床。訪れる人を寛容に受け入れる適度に整えられた居間。家の主の趣味なのか、庭には可愛らしい花が植えられていた。

 家の中の家具たちは長い時を経て古びてはいるが、すべてのものが大切に使われてきたように見える。

 ぬくもりを感じるのは、そこに住む人の心があたたかいからだ。那智の祖母は彼女に似て優しげな目元をしていた。

「素敵な家ですね」

 木の柱に触れる。ささくれなどはなく、つるりとした木の感触が手を通して伝わってくる。

「古いだけが取り得の家よ」

 言葉は遠慮がちではあるが、慈しむ目に大切な家だと思っているのが分かった。

「でも、もうすぐお別れしようと思っているの。私ももういい年だし……」

 そうだった。夏には彼女は家を手放すことにしていたのだった。思い出して、その事実に胸が痛む。

 こんなあたたかい場所が消えてしまう。それをとても寂しいことだと感じた。

いつかこの家に別れを告げるときがくる。その日がくればきっと那智は泣いてしまうだろう。


「どうにか、ならないんですか?」


 気づけばそんな言葉が口から出ていた。

「差し出がましいとは思います。気に障ったらごめんなさい。……でも、なくなってほしくないんです。ここは那智ちゃんにとっても大切な場所なんです。お父さんとの思い出の場所で、那智ちゃんにとっては安心できてほっとする場所なんです」


 なんでそんなことを知っているのかと問われることを気にすることなどできなかった。

 ただ訴えたかった。那智にとってこの家が大切な場所なのだと。


「この家はなくなってはいけないと思うんです。こんなに大切にされている家、私は他に知りません。一人で暮らしていくのが大変なのは分かります。私が言っていることがすごく無神経で我がままなことだっていうのも理解しています。でも言わせてください。この家にずっといてください。このあたたかい場所を那智ちゃんに残してください」


 涙を見せるのは卑怯だと思えて、見えないように頭を下げて顔を隠した。

「お願いします」

「水野……」

 木村の戸惑った声が聞こえる。

 でも何がしかの返答がない限り顔を上げるつもりはなかった。

 何かをしたかった。こことは違う世界で何度も壊れてしまったものを繋ぎとめたいと思った。

 繋ぎとめることができるならいくらでも頭を下げよう。もし結果が出なくても、この行為が自己欺瞞にしかすぎなくても、そうしたいと思った。


「いいじゃねえか、フミちゃん」


 返事をしたのは、那智の祖母宅の近所に住んでいるという老人だった。確か玄田という名前だったはずだ。

 畑仕事の後でここに直接来たのだろう。手や足に泥が付いたままで農作業のクワを抱えていた。

「畑がきつければ規模を小さくすればいい。家庭菜園くらいならまだまだやれるだろ。近所の煩いばばあども、フミちゃんがいなくなったら寂しがるぞ。家の補修だって、おれんとこの婿にやらせりゃいいんだ。あいつは畑以外はいつも暇してるからな」

 言葉はきついが口調は優しいものだった。

 彼が笑みを作る。目じりの深い皺がもっと深くなって、少々怖い見た目も和らいで見えた。

「一人が寂しけりゃおれがいる。寝込んでも世話くらい見てやるさ。それでいいじゃねえか。無理に出ていくことはないんだ」

 照れているのだろう。言い捨てたあとは横を向いて、みんなの視線を避ける素振りをみせた。


 玄田のことは実はあまりよく知らない。

 那智とは懇意にしているようだったが、騒がしい若者たちに眉をひそめている姿ばかりが記憶されていたので、このように気のよい人物だとは知らなかった。

 いつも傷ついた那智の逃げ場となっていたことは記憶している。はしゃぐ前愛梨に注意を促したこともあった。

 まさか自分の援護をするような言葉をもらえるとは思ってもいなかったので、本当に驚いた。

 目を見開いてまじまじと見れば「あんまり見るな」と苦笑いしてきたが、そこに嫌悪の感情はなかった。初対面なので当然といえば当然なのだが、本当にまさかというのが率直な感想だった。


 那智の祖母が反応を示すまでには多少の間があった。「仕方ないわね」と息を吐く姿に望みを感じる。でもまだ安心してはいけない。彼女の心はもうすでに固く決まっているかもしれないのだ。

「こんなにまで言ってもらって家を出て行くなんて私にできるわけないじゃない」

「じゃあ」

 もう否定の言葉はないだろう。けれど先の言葉を求めた。

「そうね、最後までお世話してくれると言ってくれる人もいるし、もう少しがんばってここに残ろうかしら。売るとは決めていたけど、まだ何も行動はしていなかったし」

 聞いた途端、止めようとしていたものが溢れそうになる。――よかった。……本当によかった。


 下を向いていると重力に従って涙が落ちそうになる。

 だから上を向いた――遥か遠い、青い空を。


 ふとした瞬間に上空を見上げてしまうのが以前からの癖だった。そうするのはいつも不安の中にいるときだった。

 閉じ込められているような圧迫感から逃れたくて見上げる空は、青いほどに心を解き放ってくれる。

 明日の知れない自分に見上げる空はどこまでも広く、自由の象徴のように見えた。

 孤独のまま一生を終えてしまうなら、いっそ空に溶けて消えてしまえたらいいのに……。何度も思って目をつむり、通り過ぎていく風を感じていた。


 今見上げるそれはまた違った感覚を自分にもたらした。


 守れたと思う。たぶんきっと。

 もう少しがんばると言ってくれた。正直そんなことを言ってもらえるとは思っていなかった。「やっぱり無理よ」と否定されると思っていた。

 心のどこかで諦めていたものが繋ぎとめられた。

 ささやかな結果が胸を締め付ける。これは幸福感だ。


 この世界は本当にたくさんの感情を自分に与えてくれる。


 この身体を得てできるようになったこと――息をすることが楽にできるようになった。咲く花を見て綺麗だと感じ、音楽を聴いて調べに身をゆだねられるようになった。人の顔を見て話すことが楽しいと思えるようになった。

 些細なことができていなかった自分を知った。

 そして、たくさんの知らなかったことを実感した。

 誰もがやっている当たり前のことが、これほど幸せなことなのだということを知らなかった。

 誰かのことを想って生きることが、これほど幸福に満ちているということを知らなかった――。


 ふと空いていた手に触れるものがあった。

 木村の手だった。大きな手が包み込むように重ねられる。

「お前、いつも独りで空を見上げてるよな」

「っ……」

 言われた瞬間、体の奥底からあふれ出してきたものにぎゅっと目を閉じた。


 胸が苦しい。

 急激に湧き上がってくる感情にめまいを起こしそうになる。

 人の心の機微を敏感に察知するこの人のことが好きだと思った。

 自分が感じていることの正体など思いもついていないだろうに、折に触れて手を伸ばしてきてくれるこの人のことが――。

 思わず口をついて出てしまいそうになる言葉を「好きなんです、空が」と言ってごまかした。

 このような感情が芽生えることすら奇跡のように感じる。今ならあの気まぐれな女神に対しても手放しで感謝できそうな気がした。


「それに、今は独りじゃないです」

 一緒に空を見上げてくれる人がいる。それが彼でよかったと思った。

「少し、まぶしいですね」

 言って閉じていたまぶたに手を添え、滲む水滴を拭き取った。




 ほどなくして畑仕事に駆り出されていた土屋と岩田が戻ってくる。

 今の状態にはっと気づいて、繋いでいた手をさっと離した。――離した瞬間、外気に触れた手を冷たいと感じた。


 ※ ※ ※


 おばあちゃんの家に帰ると愛梨ちゃんと諒ちゃんが玄関先で迎えてくれた。


「しっかり捕まえられとけ。こういうのは二度とごめんだからな」

 私が一人で突っ走ってこんな遠いところまでやってきたことを揶揄しての言葉だった。

「そんな、イヌのリードみたいな」

「あながち間違いではない」

「ひどいよ。……次はちゃんと諒ちゃんに相談する」

 言うと「当たり前だ」と頭を小突かれた。

「ちゃんとするって約束できるなら、ひとついいニュースを教えてやる」

「するよ。するする」

「あのな――」

 諒ちゃんの教えてくれたニュースに、私は嬉しさで胸がいっぱいになって愛梨ちゃんに飛びついた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ