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私が傍観者な妹になった理由  作者: 夏澄
きみの写真編
59/63

50・固く凍れ

それは悲しい呪文。

 ――落ち着かない。

 お兄ちゃんが来るということを聞いてから、私はそわそわとする気持ちを抑えるようにとにかく身体を動かした。

 みんなが食べた朝ごはんの片付けに洗濯、床掃除に庭の箒がけ。

「そんなにしなくてもいいよ」

 おばあちゃんがそう言っても、やれることを見つけて体を休めないようにした。止まれば余計なことを考えてしまいそうだった。


 布団を干し終わったとき、とうとうおばあちゃんに「少し休んでおいで」と家を出されてしまった。

 仕方がないので、散歩に出ることにする。


 他のみんなは朝ごはんを食べ終えあと、玄田のおじいちゃんに引き連れられて畑に行ってしまった。

「泊めてもらった恩を返さないとね」

 冬吾先輩はそう笑っていたけれど、こちらこそ色々と気遣ってもらった身なので心苦しく思う。

「若者は働いてなんぼだ」

 そんなことを言う玄田のおじいちゃんは人使いが荒い。

 お客さんに働かせるなんて、と止めようとしたことは「フミちゃんのためだから」とおじいちゃんに制されてしまった。

 足の捻挫のせいで畑のことができないおばあちゃんのためだと言われては、そう強く出ることはできなかった。

「那智は家のことをやってて。そうしたら気も重く感じないだろ」

 諒ちゃんは優しい。そうやって私に考える時間を持たせてくれたのだろうと思う。


 しかし私の動揺が見えていたための気遣いなのだとしたら、私はもっと心を静めなければいけない。感情の波を揺らさないようにしなければいけない。――だってお兄ちゃんは私の変化に鋭いから。


 おばあちゃんの家を出てあぜ道を歩いていく。

 アスファルトに慣れている足の裏に感じる土のじゃりじゃりとした感触。茶色い土ばかりが続く道はいつも不思議な感覚を覚えてしまう。

 むき出しの地面だけでなく、下草の生えているところを歩くともっとそうだ。

 柔らかい草が足を押し返してくるのが楽しくて、小さい頃はお父さんや玄田のおじいちゃんとどこまでも歩いていった。

 子供の足だから実際にはそんなに距離を歩いてはいないだろうけど、帰りは疲れきって背中におぶってもらった。それくらいどこまでも歩いていた気がする。


 見覚えのある道は、大きくなった今ではすぐに到達できてしまう。

 澄んだ水の流れる小川に沿ってたどり着く突き当たりの土壁。あぜ道の草の切れ間に立つ小さな小屋。小道に入っていった奥で待つ竹林。

 いくつかの道を行ったりきたりして、私は小さい頃一番好きだった場所に行くことにした。


 それは河に架かったつり橋だった。

 浅いけれど広い河に架かる長いつり橋だ。山と山の間に架かっているようなもので、高さもかなりある。高所恐怖症の人にはお勧めできない橋だ。

 昔からある木製の橋だけど、足元は補強されているから板の隙間から下の河が見えてしまうということはない。

 ただ、つり橋だからということで歩いているとやはり少し揺れてしまう。

 そこを手を離して歩いた。

 私は多少揺れても気にならないので、そのままとんとんと向こう岸まで歩いていった。


 そういえば一度だけお兄ちゃんとこの橋を渡ったことがある。たしか小学校六年生の頃だっただろうか。

 あのとき、お兄ちゃんは高いのが怖いのにそうじゃないふりをして一歩ずつ慎重に渡っていたなと思い出す。

 本人は怖いという感じを極力出さないようにしていたつもりだったようだけど、顔が引きつっていたので、遠目からでも怖いんだろうなということが分かった。

 私は渡りきっていたけど、戻って手を引いてあげたんだよね。お兄ちゃんのところに戻ろうとして橋が揺れたときには恨めしい目で見てきたっけ。

 それでも手を引いたら嫌がらずに強く手を握ってきたのを覚えている。渡りきったあとは平然とした顔を作ろうとするんだもん。あれは笑っちゃったな。

 弱みを見せるのは嫌なんだよね。

 あのあとからは私が散歩に出かけるときには付いてこなくなった。多分、つり橋に誘われるのが怖かったのだろう。


 お兄ちゃんとの思い出は精神的に疲弊することは多かった気がするけれど、嫌な思い出はほとんどない。

 表面的に取り繕ってはいるけれど、なんだかんだ言ってお兄ちゃんは優しい人なのだ。疎んでも私が嫌がることは絶対にしてこなかった。


 対岸に着いたら今度は山に向かった。

 そこにある石造りの階段を見上げる。数は五十段。いつも数えながらのぼっているから覚えている。

「一、二……」

 昔のように石段を数えながら上に向かった。

 振り返れば下のほうに私が渡ってきたつり橋が見える。ここはつり橋を渡って正面に位置しているのだ。

 途切れた先には小さな神社がぽつんと立っている。古びてはいるけれど、この地の土地神様が眠っていると言われている由緒ある神社だ。

 賽銭箱まで小さくてこぢんまりとしている。

 そこにお賽銭を入れて神様に手を合わせた。

「神様、神様……」

 ――お参りするときはこうして神様にお伺いするんだよ。

 そう教えてくれたのはお父さんだ。

 これは今でも続いていて、初詣のときなどついぶつぶつ呟いてしまう。友達には変なのと笑われてしまうけれど、癖になってしまっているので仕方がない。

 それに言葉にすれば無言で祈るより聞き届けてくれそうな気がする。私は目を閉じてお願い事を口にした。


 そろそろ帰ろうかな。お昼ごはんの用意もしないといけないし。

 石段を降りようとしたところでつり橋の先に誰かが立っているのが見えた。つり橋の高さに躊躇しているように見える。

 その人が顔を上げる。


 視線が絡みつく――。


 電車の中で眠っていたときに見た景色を思い出した。夢の中のお兄ちゃんは多分渡ってこなかったのではないかと思った。きっとあのまま背中を向けて立ち去ったのだ。

 今のお兄ちゃんはどうするのだろう。つり橋が怖くてそのまま帰ってしまうかもしれない。

 そうなったら私はどうするのだろう……。多分少しだけ泣いて、何事もない顔をしておばあちゃんの家に帰るのだろう。

 でもお兄ちゃんが立ち去る気配はなかった。

 私を待っているのかもしれない。ならここでするべきことは、いつものようにお兄ちゃんからではなく私から歩み寄ることだろう。

 それはつまり私がつり橋を渡ること――。

 でもそうはしたくなくて、私はお兄ちゃんにそこから去るかこちらに来るかの二択どちらかを選んでほしいと思った。


 このままお互いに見合ったまま時間が過ぎるのかと思ったとき、お兄ちゃんが橋の高さに首を振って覚悟を決めたように一歩を踏み出した。

 踏み出したあとの視線は私に向けられたままで固定されていた。

 私も視線をそらせないまま、石段を一歩ずつ下りていった。しかしその速度は亀並みに遅い。

 つり橋を渡るお兄ちゃんの歩みに同調したのか、すぐに下に着いてしまいたくないのか……。多分その両方だった。


 先に着いたのは私だった。お兄ちゃんは半分を過ぎたところまで来たところだった。

 ――怖いくせに。

 手を伸ばす。

 ――でも来てくれた。おばあちゃんの家で待っていることもできたのに。

 少し歩みを速めて最後の一歩のところまできて、お兄ちゃんが立ち止まる。

 手が私のほうに伸ばされかけて降ろされた。私の手を取るべきかどうか迷っているのだろう。

 それを見てほっとする。躊躇される自分が嬉しいと感じた。

 ――ありがとう。私はもうそれだけでいいよ。

 躊躇するお兄ちゃんの手を取って引く。すると簡単にお兄ちゃんの足は橋を離れて地面に着地した。

 怖かったのだろう。その手は少し震えていた。


「お兄ちゃん……」


 呼びかけにお兄ちゃんの口が私の名前の始まりの文字を形作ったところで終わる。それはお兄ちゃんの私にしたことへの気まずさの表れだった。

「知ってたよ。お兄ちゃんって高いところが苦手なんだよね……那智知ってた」

 他にもたくさん知っている。

 コーヒーは酸味があるものはあまり好きじゃなくて、苦味が濃いのが好きなこと。

 パンはジャムを塗ったりするより、バターを塗って焼いたのをそのまま食べるほうが好きなこと。

 推理小説みたいな頭を使う本を読むとき、少しだけ眉間に皺が寄るよね。でも呼びかけると笑って顔をあげるんだ。

 歩くのはいつも私に合わせてくれてる。でもお兄ちゃん一人のときでも結構ゆっくり歩いているのを知っているよ。一人の時間を楽しんでいるんだよね。


「本当は知ってたよ。お兄ちゃんが完璧じゃないこと」

 私の知っていたという言葉にお兄ちゃんが反応する。きっと私は完全に騙されていてショックを受けていたと思っていたのだろう。それが少しおかしかった。

「欠点なんかないなんて、そんな人いないんだよ。欠点がないように見えるなら、そう見えるようその人が努力してるってことだよね。――私は、お兄ちゃんの努力に感謝しているよ」


 裏側がどれほど酷いものだって、表に見せようとしてくれるものに私はずっと救われてきたのだ。

 これまでお兄ちゃんは嘘でも笑ってくれた。嘘でも優しくしてくれた。嘘でも私を助けてくれた。何度も、何度も……。

 誰もいない家の中で寂しさを感じたとき、お兄ちゃんが玄関から帰ってきてくれたことにどれだけ助けられたことか。


「本当に今更だよ」

 だから私はお兄ちゃんのことを――。

「実際のところがどんなだって聞いたって、嫌いになんてならない」

 一度唇をぐっと噛んでこみ上げてくるものを飲み込んだ。こみ上げてくるものに目頭が熱くなる。

「どれだけお兄ちゃんのことを見てきたと思っているの。本当がどうだって受け止めるよ」

 自分の想いに気づいたと同時に知ってしまった。

 お兄ちゃんが寂しさを感じたとき私との約束を思い返してくれることに喜びを感じていたことを。

 そんなとき私は、どうかこの人を助けてくださいと願う反面で私を必要としてくれている人がいることを嬉しいと感じていたのだ。

 お兄ちゃんの孤独に隅っこのほうで喜んでいたのだ。寂しさの中で約束を思い返す時間、その時間だけは私だけのものなのだと――。

 なんてあさましい感情……。

 気づかなければよかったのに――なんて酷い妹だろうね。お兄ちゃんはこんな感情必要としていないのに。


 ――神様、神様……これから私は嘘をつきます。どうか本当のことが分からないように見守っていてください。


「どれだけ家族やってると思ってるの。ちょっとくらい嫌なことされたって嫌いになんてならないよ。だって私はお兄ちゃんのことが――」


 ――だから一度だけ、本当のことを言わせてください。


「好きなんだよ」


 ――どうかこの言葉がお兄ちゃんの耳に家族としての好意だと伝わりますように。


 お兄ちゃんが何より欲していない感情を私は抱いてしまった。

 お兄ちゃんが私に求めているのはそんなふわふわしたものじゃなくて、確固とした繋がり。何をしたって離れない絆。

 私もお兄ちゃんも家族という繋がりを大切に思っている。家族でいる限り、ずっと先まで共に過ごすことはなくても、どこかで繋がっていると信じられるからだ。

 それ以外の感情なんて、いつ消えてしまうか分からないもの。だから信じることができないでいる。

 お兄ちゃんが信じられるものを与えることができるなら、自分の感情なんていくらでも殺せる。

 この嘘をつくことにごめんなさいなんて私は言わない。

 お兄ちゃんがつり橋を渡ってきてくれたから、心を決めることができた。

 怖い気持ちを押し込んで歩いてきてくれたから、少しは大事に思ってもらえているのだと知ることができたから――もう、それだけでいいよ。

 この感情は、お兄ちゃんが心から大事に思える人を見つけられるまで閉じ込めておく。そのときは近いかもしれないけれど、閉じ込め続けていけばきっと消えてしまうだろう。

 残るものはお兄ちゃんへの家族としての情だけ……。


「ちょっとくらいダメなとこがあったって嫌ったりしないよ。だって家族なんだから」


 繰り返す家族という言葉に喉の奥が切れそうになるくらいの痛みを感じる。

 けれど血を吐いたとしても私は嘘をつき続けるだろう。

 ――固く凍れ。

 熱い感情なんていらない。固く凍って溶け出さないようにと私は自分の中に渦巻く感情の時間を止めるための呪文を唱えた。


「頼りないかもしれないけどさ」

 胸の位置を指して言う。

「那智のここはそんなにやわに出来ていないんだ。簡単には潰れないんだから」

「那智……」

 ようやく私の名前を呼んだお兄ちゃんは、言いにくそうに視線を泳がせたあと息を深く吐いた。

「あの電話先の相手、あれ……俺を産んだ人」

「知ってた。というか、そうじゃないかなとは思ってた」

 気安く「恭平」と呼んでいたから、そうなのだろうなと予測をつけていた。

 あれほどお兄ちゃんの感情を揺らせる人はいないのではないだろうか。

 長年培ってきたうわべを取り払ってまで私にあたってしまうくらいに彼女のことを嫌って、いや憎んでいるのだろう。簡単に母という言葉を使いたくないくらいに――。


 お兄ちゃんにとってそれを告げることがどれだけの勇気がいることか。私には分かる。

 弱みを見せたがらないお兄ちゃんは私を家族として信用して話してくれたのだ。だったら私はその信用に報いなければならない。


「俺はあの人のことが」

「いいよ、聞かない」

 言いにくそうにするお兄ちゃんを見て続く言葉を止める。

「聞いてもお兄ちゃんが那智のお兄ちゃんであることには変わりないから。だから聞かない。でも味方だから。家族だもん。家族を傷つける人を那智は絶対に許さない」


 お兄ちゃんの顔は少し情けない感じになっていた。泣きそうでそれを堪えているようだった。

「そんな情けない顔しないでよ。お兄ちゃんは笑った顔が最高に恰好いいっていうのが那智の自慢なんだから」

「なにそれ。ついさっきどんなでも受け止めるって言ったくせに」

 軽い口調で言いつつ、お兄ちゃんが恐々と手を伸ばしてきて私の口に触れた。

触れられる瞬間、私はお兄ちゃんに向かいたがる感情のスイッチを切れと自分に命令を下す。

 同時に感じる胸の軋みなど気にしてはいけない。


 ――固く凍ってしまえ。


 お兄ちゃんはそのまま指先でぐにっと私の唇をつまんで引っ張ってきた。

「そんなことを言うのはこの口?」

 痛いと訴えるとつまんでいた指をさっと離された。あんなことをした手前、しばらくは痛い関係のことはしてこれないだろうな。そう思った。

「許すとは決めたけど、あれ結構痛かったんだからね。三途の河が見えたんだから」

 言いながら今までの那智だったらどうするだろうか、と私はそんなことを考えていた。

 しばらく離れていたこともあって、どうすれば普通に戻れるのかが分からなくなっている。


 不自然じゃないだろうか。ちゃんと今までどおりにできているだろうか。

 口に触れられた瞬間も心臓が跳ねそうになったことに慌てている。

 咄嗟に痛いと言って離してもらったけれど、固めたばかりの感情はまだ完全ではなくて、すぐに溶け出していきそうに思えた。

 ――凍れ。固く、もっと固く。

 その呪文で自分を縛る。


 この先も私はこの呪文で逐一動き出そうとする感情を止めようと努めることになる。

 だけどそれがどれだけ難しいことか、このときの私はよく理解していなかった――。





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