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私が傍観者な妹になった理由  作者: 夏澄
きみの写真編
58/63

閑話:委員長、心に触れるもの

委員長の感じたこと。

 探していた言葉は意外とすぐに見つかった。


「委員長は剣道が好きなんだね」


 普段人からは真面目に取り組んでいることばかりを褒められていたから、そう評価されたのは初めてのことだった。

 他人から見てそう思えるのなら、そうなのだろうか。疑問に思う。

 好きだからやっていることだろうと聞かれて、何を思って剣道に取り組むようになったのかを自分に問う。

 それは遠い記憶――、


 四歳になった頃、父親に初めて竹刀を持たされた。

 真新しい竹刀が目に眩しく映る。振ってみたそれはひどく重かったが、祖父や父がいつもしていることだと思うと、その重さに誇らしささえ感じた。

「丹田に意識を置くんだ」

「タンデン?」

 丹田とは剣道において体の中心となる箇所のことだ。力の集約する点とでも言えばいいだろうか。父親はみぞおちの辺りを押えてそう言った。

「自分の中に動かない点があると思えばいい。そこを中心として動けば体がぶれることもない」

 日常において言葉数の少ない父親は、剣道を教えることに関しては饒舌になった。

 普段の生活のことや友人関係のことなどあまり聞いてこない父親だったけれど、剣道に関してはよく話をしてきていたように思う。

 滅多に笑わないあの父親が、剣道に関しては口の端を持ち上げて笑うのだ。

 父親が剣道を好きなことはよく伝わってきたし、なにより彼が好きだと感じるものを自分にも与えてくれようとする気持ちが嬉しかった。

 初めは尊敬する父親が好きなものを好きになるためだった。

 それをすれば一緒の時間を過ごすことができる。初めはそれくらいの気持ちだった。


 時間を過ごすうちに真剣に取り組むようになって思いは変化していく。

 竹刀を振ることが上手くなっていけば、次は基本動作を覚えていくのに集中していった。基本動作がきちんとできるようになっていけば、次はそれらを組み合わせた技の展開に興味を引かれていった。

 同じ剣道をする者同士で打ち合うようになるともっと面白くなった。

 うまく技が決まれば嬉しい。試合に勝てたら嬉しい。もっと強くなりたい。

 始めて数年は楽しいや面白いという気持ちが優先されていたように思う。

 だがいつの間にか身近にありすぎて、どのような感情を以って行っていたのかすら忘れてしまっていた。

 好きで始めたことは、気づけば義務となって自分に圧し掛かってきていた。

 失敗はしてはいけない。試合には勝たなければいけない。弱ければ意味がない――。

 誰からも背負えとなど言われていないというのに、勝手に背負ってしまっていた。

 家には祖父や父親の多くの道着姿の写真や試合の功績を称える表彰状が飾られていたから、自然と自分もそれに並び立つ人間でなければならないと思っていた。

 そのことに気づけたのは彼女のおかげだ。まったくの初心者の彼女に手ほどきをすることで、父親の楽しそうな姿を思い出し、自分の始まりの気持ちを思い出した。


「好きじゃないとやってられないよ、こんなこと」


 そう言われればそうだと思う。

 彼女にとっては「こんなこと」なのだ。義務でもなんでもないことだ。好きだからがんばれるし真剣になれると言われて、背負っていた気になっていた荷物がすっと軽くなった気がした。

 剣道はしなくても生きていける。けれど、自分からそれを引き離しては生きていけないのだと思った。

 やめるという選択肢は初めからなかったが、根幹にある気持ちを思い出せて良かった。

 顧問から剣道をするのをやめようと提案されて呆然となってしまったのは、剣道に対してそれなりの想いがあったからだ。

 部活には出られなくても、どうしても竹刀と道着を持って歩かざるをえなかったのは、根底にそういった気持ちがあったからだと分かった。

 未練や悔しさを感じるのは、それを好きだと思っているからこそだ。なにも思っていなければ、未練も悔しさも沸いてはこないだろう。言われるままに始めて、言われるままにやめるだけ。


 やはり彼女と話をするのは心地よい。そして短い会話の中で自覚する。自分は剣道が心底好きなのだと。同時に、彼女に対してもそう感じていることを自覚した。

 いつだって心を軽くするのは彼女だった。変化する髪に翻弄されることなく記憶していたいと思うのも彼女。泣いたりせず笑顔でいてほしいと思うのも彼女。

 泣きそうな顔を見てつい手を伸ばしてしまうのは、なにも彼女が自分よりも弱い存在だと思っていたからではない。

彼女が泣くと自分が辛いと感じるからだ。

 悲しいと思う気持ちを自分の中に取り込んで、彼女がそれ以上泣かないようにできたらいいのにと思うからだ。

 だが、その笑顔をこちらに向けてほしいと願う心には封をした。

 肩を押えて「余計なことに気づいてしまった」と漏らす言葉に分かってしまった。分からないほど鈍くはない。


彼女の想う相手は自分ではない。


 喧嘩の相手は同性ではないと思った。本能で喧嘩の相手は男だと察知する。それも相手のことを考えて涙するほどの――。

 学園の下駄箱の前で震える声に咄嗟に抱き込んだ体はすぐに離れていった。「ありがと、元気出た」と言った顔がどんなものだったのか、彼女は気づいてもいなかっただろう。

 服に滲み込んだ涙が傷つけられた心を物語っていた。

 だというのに、――傷ついて、それでも彼女は相手の心象を悪いものへと変えられないのだ。

それほどの相手か、と思った。

 その人物はきっとあの写真の中で彼女が見つめていた先にいるのだ。そんな気がした。

 『憧憬』と題された写真は、視線の先にあるものへの憧憬が上手く表現されていた。

 写真の中の彼女は視線の先に憧憬を感じ、写真を見た者は彼女に対して憧憬を感じる。そんな写真だった。

 それを見たとき、言いようのない焦りを感じた。

 今となってはその焦りの理由が分かる。言うなれば切望。手の届かないものを欲しがる気持ち――。


 あの後、教室に鞄を取りに行くまでの間で昂ぶった気持ちを抑えるのには苦労した。手を出そうにもどうせ関係ないことだからと言われるのが関の山だと分かっていた。

 彼女は肩のことに関して触れられたくないと思っている。そう感じたからこそ何も言えなかった。

 直後に来た着信によってうやむやになってしまったが、思い出すたび痛みを感じていることは先ほどの態度を見ても推察できた。


 楽しげに朝食に手をつける彼女。周囲に元気な姿を印象づけるようにしているのだと思う。あの俯いたときの表情を見ていなければ、いつもどおりだと感じたことだろう。

 痛みを彼女自身の中で消化しようとしているのが分かった。すべてを呑み込もうとする姿が痛々しい。

 一方でそういったところが桂木 那智という人間の持つ強さなのだと感じる自分もいる。

 受け止めて消化して、今はまだ傷ついたままだが、きっとその傷すらも自分の一部として取り込んでいくのだ。

 そんな強さは自分にはない。受け入れられないものは自分以外の異物として感知しない。それが自分だった。

 固いとか真面目だとかの評価は、他に侵食せず他を受け入れない人間だということを口当たりよく表現したにすぎないものだ。融通が利かないと言われたことは星の数ほどある。


 桂木 那智はけっして真っ直ぐな人間ではないが、柔軟さとしなやかさをもって人に対する人間だ。

 か弱い見た目に反してその中身は変則的で、少しだけ歪で、固い芯が通っている。

 彼女は傷ついてわずかの時間瞳を揺らしても、すぐに凛とした光を灯すのだ。

 沈んだり落ち込んだりしても、何度だって立ち上がっていく姿に強いと感じた。そんなところに徐々に惹かれていったのだと思う。

 今はまだ付いたばかりの傷に手間取っているようだが、きっとすぐ元のように戻るのだろう。

 取り込まれて彼女の一部になっていこうとしている存在を羨ましく思った。


 朝食の準備を鼻唄を歌いながらする背中を見て、自分も周囲の一人だといやおうなく実感させられた。

 ならば離れるかと思うと、心が嫌だと反論する。

 自分にできることはなんだろうかと己に問いかけた。少しでも彼女の心を軽くすること。彼女が自分にそうしてくれたように。それくらいしか思い浮かばなかった。

 飯が食べられるうちは大丈夫だと言うと、少しだけ泣きそうな顔をしてから「お気遣い感謝、です」と言葉が返ってきた。

 桂木 那智は向けられる優しさに弱い。そこにつけ込むこともできるだろうが、自分では到底実行に移すことはできないだろう。良くも悪くもそれが自分なのだと思う。


 彼女への明確な想いに気づいた瞬間、想いを言葉にすることはしないと決めた。

 ただ、彼女が泣かないようにだけ努めたいと思った。それしかできないとも言えるが。

 笑顔にさせるのは自分の役目ではない。それができるのはきっと一人だけなのだろう。

 形を捉えられず浮遊していたものが明確な言葉になった。足元のおぼつかなさが消え確かな想いに気づいた今、それでわりと満足している自分がいる。


『私はしばらく岩田くんに近づかないようにするね。でないと岩田くんはきっと自分の言葉を見つけることができないから』

 ふと以前言われた言葉を思い出す。

 むしょうに彼女の顔を見たいと思った。彼女に自分の中でいつの間にか育っていたものに対する明確な言葉が見つかったことを報告したいと思った。





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