49・気づき
体感的に少し寒い感じはしたけれど、空気の入れ替えは必要なので家の窓を開けていくことにする。
おばあちゃんは冬でも全開とまではいかないけれど、少しでも窓を開けて空気の入れ替えを行うのでそれに倣って窓を開けていく。
庭に面した縁側は引き戸になっているので、きしむそれを開けると委員長が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
委員長は道着を着て竹刀で素振りをしていたようだ。冬吾先輩はカメラで委員長は剣道か。みんな朝から元気だなぁ。
ふと委員長には部活禁止令が出ていることを思い出した。でも部外者の私が口を出せたものではないので尋ねることはしないでおいた。
「朝から元気だね」
縁側に置かれていたスリッパに足を入れて座る。
おばあちゃんの家の縁側は高さがあって、私が座っても足がぷらぷらと揺れてしまう。私の足が短いんじゃない。この縁側に高さがありすぎるのだ。庭に出るときは地面にめり込んだ大きな石を踏み台として降りるようになっているのだ。そういう造りなのだ。
「習慣だから」
私の言葉に、委員長はいつものように短い言葉で返した。
会話がなくて沈黙していると、委員長は再び竹刀を振りかぶって素振りを始めた。
動きにブレがない。すっと持ち上げられた竹刀が真っ直ぐに委員長の腰の高さにきてピタリと止まる。それが何度も繰り返される。
男の子に対して動きが綺麗だと感じたのは吹雪ちゃんを覗いて(あれはほぼ女性だからな)初めてのことだった。
「ねぇ、私もやってみていい?」
見ていたら自分でもやってみたくなってしまった。
「ん」
差し出される竹刀を受け取って見よう見真似の構えをとる。
「持ち手が違う」
委員長が横に立って私の持ち手を変える。私は左手を上にして持っていたが、正しくは右手が上だったらしい。左手はしっかりと柄を握って右手は少し余裕を持って握るように言われた。
「そのまま真っ直ぐ上げて」
降ろす。真っ直ぐ降ろしたつもりだったけれど、竹刀の重さに揺られて軌道はへにゃりと曲がった線を描いてしまった。――あれぇ、思ったより難しい。
「降ろす瞬間に右手を握る」
言われた通りにすると、へにゃりという感覚は変わらなかったけれど、今度はさっきよりもちょっとはいい位置で止めることができた。おぉ、すごい。
「背筋伸ばして」
一度振るたびに委員長から注意が入る。
背中は真っ直ぐ。腰はぶれないこと。足は揃えず少し感覚を開けて。竹刀は手首で振るな。その他諸々……。――すみません。剣道舐めてました。
素振り一つでこんなにたくさん気をつけなければいけないことがあるなんて知らなかった。委員長は軽い感じで振っていたので、私にもできそうだなと思ったことを謝りたい気分になった。
「ちょ、ちょっと休憩」
二十回も振っていないというのに、腕の疲れを感じて休憩をお願いした。
軽そうに見えて竹刀って結構重たい。私は地面につけて汚さないように、竹刀を委員長に返した。
「これ毎日やってるの?」
聞くと、毎日しているのだと返答された。しかも回数は千を数えるまでやると聞き、私は顔が青ざめる思いがした。こんなきついのを毎朝千回って……。改めて尊敬の念が浮かぶ。
「委員長、すごいな」
素直にそう思ったから口に出したのに、委員長の返事はあまり振るわない「べつにすごくない」というものだった。心なしか少し機嫌が下がったように感じた。
「ただの習慣」
「でもすごいよ。毎朝なんて。私じゃとてもできない」
委員長にとっては褒められることもない普通のことなのだろう。でも素人の私からすれば十分にすごいことだ。これを毎朝千回とはいかなくても百回だってする気は起きない。
「委員長は剣道が好きなんだね」
言うと委員長の顔が少し驚いたような顔になった。
「好きじゃないとやってられないよ、こんなこと」
私は普段は使わないような筋肉を行使した腕をほぐすように伸ばした。
好きなものを仲間で集まってやるのが部活だと私は思っている。現に部活は学園で過ごすために生徒に課された義務などではない。私なんて帰宅部だ。
運動部なんかは真剣に練習に取り組まないと試合に勝てないという部分があるけど、それだって好きだから部活に入って真剣に練習するのだ。
「部活って前提条件に好きって気持ちがなければ成り立たないものなんじゃないかな。例外として親とかに強制されてやってるって人もいるだろうけど。あ、委員長がそうならごめん」
「うちは父親も祖父もみんな若い頃は剣道をしていたんだ」
だから自分もそうするものなのだと思っていたと委員長は言った。
「強制されたものではないんだよね」
「ああ」
じゃあ好きなんじゃん。
誰かの背中を見て始めたいと思った気持ちも、好きだという思いに分類してもいいだろう。しなくてもいいことをずっと続けるということはそういうことだろう。
委員長はよく考えたことがなさそうだけれど。でも部活に出られないのに竹刀と道着を持ち歩いているくらいなんだから、それはもう好きと表現してもいいんじゃないだろうか。
委員長は睫毛を伏せて私の言葉に少しの間黙り込んだ。
「当たり前すぎて考えたこともなかった」
委員長にとって剣道は物心付く頃には身近にあった存在なのだそうだ。だから剣道をするのが当たり前のことで、それが普通のことだったと委員長は言った。
そうか。委員長にとっては身近にありすぎて好きとかどうこうとか考えたこともなかったのだろう。
「でも、やるなと言われて初めて惜しいと思った」
じっと竹刀を見つめる顔には寂しさと悔しさが混ざっていた。――手放すことを惜しいと思うのは十分な好意だよ。
そこにあることが当たり前すぎて気づかない想いがある。
ずっと変わらないものなんてないのに、永遠にそこにあり続けてくれると信じていたものが失われそうになったときの喪失感。身の切られそうな感覚。今の委員長はそれを感じているのだろう。
当たり前すぎて気づくことができないのだ。身近にありすぎて自分の一部となってしまったものは、失いそうになって初めて大切なものだったのだと気づくことになる――。
委員長が惜しいと感じるのは、大切なものだから離れることが寂しいと思うことと同義だと思った。そう、大切なものと――。
あぁー、……しまった。
私は委員長との短くて深い会話の中から思い至ってはいけない思考に気づいてしまい、内心で舌打ちをした。
「余計なことに気づいてしまった……」
私はとっくに痛みが消えていた肩の疼きを覚えて、そこに手を置いた。その部分が熱を持っているように感じる。――なんで気づいちゃうかなぁ……私のバカ。
「痛むのか?」
私の様子に委員長が膝を曲げて視線を合わせてくる。委員長の真っ黒で固そうな髪に同じ色でも髪質の違う人の面影が浮かんで消えた。
「うぅん、もう痛くはないよ」
痛むのは別の部分だ。
「本当に?」
「うん。昨日はちょっと気が立ってて、壁に思いっきりガンッてぶつけちゃったんだよね。変なところ見られたと思ったら動揺しちゃって。ごめんね、ビックリしたよね」
本当のところは言えないので事実とは違うことを述べた。少しだけ事実を混ぜて、人と喧嘩をしたのだと言ったら、それ以上は突っ込まれなかったのでほっとした。
委員長は正義感が強そうなので、私がされたことをありのまま言ってしまったら怒ってしまいそうだ。それは私の望むところではない。
私は首を振って肩のことに意識が向いた委員長の気を逸らすために無理やり違うことを話題にあげた。
「ところで委員長。委員長って料理できる人?」
いきなり何を問うのだという顔をする委員長の腕を引く。
「おばあちゃんはまだみんなの分の朝食を用意するだけの元気はないと思うんだ。なにせ捻挫している人だからね。無理をさせないためにもお味噌汁とおにぎりくらいは作りたいんだけど、手伝ってよ」
言うとおにぎりくらいなら握れると返事があったので、「それは良かった。貴重な戦力ゲットー」と私は委員長の腕を引いて台所に連行していった。
「昨日の宴会で残った料理もあるからそれも出そうか。さぁ、そうと決まったら早速取り掛かろー!」
委員長にあれこれと指示を出しながら朝食作りに取り掛かる。
「箸はここに入ってるから。湯飲みも用意して、お茶淹れて」
そのうち諒ちゃんが起き出してきたので席に座ってもらう。二日酔いで足元がふらついている。――諒ちゃんはさすがにこき使うわけにはいかないか。
「あー、昨日は飲みすぎた。頭いてー」
二日酔いに苦しむ諒ちゃんにはお味噌汁だけを出して、あとの元気な人たちにはご飯をよそって朝食を食べてもらうように準備した。
「桂木 那智」
ご飯をかきこんでいると委員長が話しかけてきた。その背筋はぴんと伸びていて、箸を使う手つきも基本に忠実できれいなものだった。
「飯が食べられるなら大丈夫だ」
一人頷きながら昨日の宴会で残っていた煮物に手をつける。――えっと、これは励ましてくれてるってことでいいの……かな?
つまり、どんなに気落ちしていてもちゃんとご飯を食べることができているなら大丈夫だと。……分かりづらい。分かりづらいよ委員長。
でもその分かりづらい励ましが嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。
大丈夫。私は一人じゃない。こうして励ましてくれる人がいて、諒ちゃんみたいに心配して駆けつけてくれる人がいて、冬吾先輩みたいに私のために主義を多少変えてもあたたかい記憶を残そうとしてくれる人がいる。――だから大丈夫。
「お気遣い感謝、です」
こみ上げてくるものを飲み込むように、私は温かいお茶をずずっとすすった。
※ ※ ※
台所で後片付けをしていたら周囲を気にしつつ諒ちゃんが寄ってきた。
「那智、ちょっといいか」
洗い物をする私の横にさりげなく立って、世間話をするようでいて小さな音量で話しかけてくる。他の人には聞かれたくない内容なのだと思った。
「昼頃にあいつが来るから」
諒ちゃんの指すあいつというのがお兄ちゃんであることはすぐに分かった。ドクンと鼓動が跳ねる。それを悟られないように私は「ふうん」と相槌をうった。
「まだ許したくないなら会わなくてもいい」
気のなさそうな私の返事に諒ちゃんがそう付け加えてくる。
「許せなくても、迎えに来る意志はあるんだと知っておいてやってくれ。あいつはお前を」
「私がお兄ちゃんを許さないわけないじゃん」
諒ちゃんの言葉をさえぎるように私は笑った。――許さないわけないじゃん。だってそれがお兄ちゃんにとっての私なんだから。
「許すよ」
というか、初めから怒ってなんかいない。
許すだなんて――なんて傲慢な言い方だろうか。私のほうこそ許してもらわなければいけないのに……。
「お兄ちゃんは心が広いよね。こんな私でも迎えに来てくれるんだから」
「那智……」
「嘘だよ。冗談だって。今の言葉は忘れて」
言葉に詰まる諒ちゃんに私は洗い終わった食器を差し出した。
「それより手伝ってよ。諒ちゃんが手伝ってくれなきゃ、いつまで経っても洗い終わらないんだから」
泡まみれになった食器たちを水で流して、次々と諒ちゃんに渡していく。
食器を包む空気を含んだ泡に、私は膨れ上がりそうになる自分の心を重ねて手を止めないように間断なく水をかけていった。
気付いて封印……。




