47・時間は何も解決しない
国語科準備室の扉をノックして返事を待つ。
「……ここにもいない」
室内からの応答はなく、廊下には自分の息遣いしか響かない。
ここに来る前は職員室にも立ち寄ったが、木村の姿は見当たらなかった。もしかしてもう自宅に帰ってしまったのだろうか。
女神からの連絡を待つことはとうに諦めた。
あの好奇心旺盛な女神は普段から何かとあるとこちらにメッセージを送ってきていたというのに、駅に着いた後から一切の連絡は入ってきていない。
おそらく彼女のほうにも何らかのイレギュラーが生じているのかもしれない。
そうであるなら、動くのは自分の頭と体に染み付いた記憶に相談ということになる。
「先生の今日の予定は……」
彼らの大まかな動きなどはメッセージによって知ることが可能だ。今日は朝にそれを受け取っていたので自分はそれを知っている。
咄嗟には思い浮かばず、落ち着けと自身に言い聞かせてメッセージの内容を思い返した。
「そうだ。生徒会の会議」
だとしたら学園に残っている可能性は高い。
職員室にも国語科準備室にもいないのだとしたら、会議後に生徒会室に残っていることも十分に考えられる。
「とにかく急がなきゃ」
なにをどうしたらいいのかという指針はないが、自分にできる精一杯をしなければと息を切らせた体を叱咤して動かした。
※ ※ ※
生徒会室の前に到達して一度息を整える。
「お前、自分がしたことが分かっているのかっ」
軽くノックしてカチャリとノブを回した扉の向こうから、低い声がした。木村の声だった。
いつも生徒に対して使っている優しい声色ではなく、本気で怒っているという気配がひしひしと伝わってくる声だった。
「那智を傷つけるなんて」
その言葉に扉を開けかけた手が止まる。――なにを言っているの? 那智を傷つけるって……。
恭平に限ってありえない。恭平が大切にしている妹の那智を傷つけるだなんて。しかし室内のこの言葉はどうだ。まるで事実として話が進行しているみたいではないか。
「分かっていますよ。もういらないから傷つけたんです」
恭平のふっと笑う声が聞こえた。それは木村の言葉を肯定しているものだった。
那智から距離を取ってなるべく二人きりとなる状況を避けていたのは恭平自身の意志だ。那智自体がそう行動していた面もあったが、それを改善しようとすることもしなかったのは恭平のほうであり、数日前に那智が家を出た、とわずかに安堵した様子で教えてくれたのも彼のほうだったのだ。
自分が少し離れていた間に何があったというのだろう。二人きになる状況ができてしまったというのか。
「後の処理はお願いしますよ、諒一さん。もう那智を僕に近づけないでください」
「恭平、お前っ」
ゴスッと鈍い音が鳴って、小さく悲鳴をあげて耳を塞いだ。
「あぁ、もう。先生ってばヒートアップしすぎ」
間に入っているのか生徒会長の西園寺が止めに入る声がする。
「少し休憩しましょうか。お客さんも来ているみたいだし」
扉の向こうに誰かがいることを察知していたようで、西園寺が二人の動きを制した。
こんな中に入っていけというのか。噂に聞くとおり厳しい人だ。自分をダシにして二人の仲裁をしようとするなんて。
耳を塞いでいた手をどかして、おそるおそる扉を開けた先に見たものは、床に座り込む恭平とそれを見下ろすように立っている諒一の姿だった。
「水野……」
「先生、すみません。でも急ぎの用件なんです。那智ちゃんが――」
事情を説明する間に恭平の目が見開かれていく。それを見て少し安堵した。まだ恭平は那智を大切に想っている。なら修正する余地はあるはずだ。
「そうか、分かった。話は後だ。恭平、俺は今から那智を追ってあっちに行く」
お前はどうする、と木村は床に座り込んだままの恭平を見下ろした。
「僕が行ってどうするんですか」
恭平の返事はそれだけだった。自分が行ったとして、那智を傷つけるだけだ。そう言いたいのが分かった。
そうじゃない……そうじゃないよ。那智はあなたが来てくれるのをきっと待ってる。だって彼女は――。
「お前がどう思っていようとな、」
思った言葉は木村が引き継いだ。
「那智は痛みでも何でも、お前が与えるものなら何だって飲み込んじまうんだよ」
それに続いたのは吹雪だった。頬に手を当てて「あの子、本当におバカだものね」とため息を吐くそぶりを見せる。
「恭平クンがあげたら、腐ったリンゴだって美味しいって言って食べちゃうのよ」
彼らの言葉を恭平はうつむいて聞いていた。
「……そんなわけないだろ」
ゆっくりと立ち上がって生徒会室を出て行く恭平。
追いかけたい気持ちに動きを迷っていると、「傍に付いててやってくれ」と木村のほうから声をかけられた。
「今のあいつには誰かが付いててやらないといけないみたいだから。そう思ったから、今までもずっと傍で付いててやってくれたんだろ?」
こくりと頷く。この人は分かっていたのか、と思う。分かっていて自分たちを見守っていたのかと。
でも――、
傍にい続けたこと、黙って見守っていたこと、距離を置いたこと、そして距離を取らせたこと。それらが正しいことだったと誰も胸を張って言えないのではないだろうか。ふとそう思った。
それぞれの優しさがゆがみを作り出していっているのではないだろうか。
自分たちはゆがみを正すことはができるのだろうか――。
「これから電車に乗って行くにはもう時間がないから、俺は車で直接向かうことにする」
何かあれば連絡が取れるようにとお互いの番号を交換する。「無理なお願いかもしれないけどな」と肩にぽんと手を置かれた。
「できれば那智があっちにいる間にあいつに迎えに来させてやってほしい。そうでないともう修正がきかないからな」
彼にとっても恭平は大事な身内なのだと思っているのが分かる言葉だった。それは那智のためであり、恭平のための言葉であった。
「はい」
自分では力不足かもしれないけれど。でも出来ることなら力になりたい。支えになりたい。恭平だけでなく那智にも、そして目の前にいる彼のためにも……。
「あたしはみんなが戻ってくるのを待ってるわ。ただし、良い結果しか受け付けないからね」
言って西園寺は待ちの体勢を宣言した。
そしてそれぞれの出来ることのために別れて行動を開始した――。
※ ※ ※
まずは校内から回っていく。各教室、図書館、屋上。校内の隅々まで巡ったが、恭平はどこにもいなかった。
もう学園を出てしまったのだろう。だがそのまま家に直行するとは考えづらい。
なら商店街に駅、その他にも公園が数箇所。広いとはいえ、限定された学園の敷地を思うと頭が痛くなってくる。
そんな中、木村から入ってきた連絡は心を休めるものとなった。
「――はい。そうでしたか。那智ちゃんのおばあちゃんは大丈夫だったんですね。良かったです。……本当に良かった。私はもう少し恭平先輩を探そうと思っています。はい、ええ。気にしないでください。はい、先生も気をつけて」
互いの状況とこれからの行動を教えあい電話をきった。
とりあえず懸念していた那智の祖母の安否は確認できた。なら、あとはあの二人のことだけに集中できる。
「早く見つけないと」
だってまだ間に合うんだから。思って、安心を伝えてくれた携帯をぎゅっと握った。
※ ※ ※
散々探し回ったあげく、恭平の姿は桂木家の近くの公園で見つけることができた。
以前、傍にいてくれと懇願された場所だった。
恭平はブランコに座ってじっと地面を見つめていた。
あれから数週間の時間しか経っていないというのに、随分と時間が経ってしまったような気がする。
あの日から自分に何ができていたというのだろうか……。ただじっと傍にいることしか出来なかったように思う。――本当にダメね、私。みんなの救いになりたいと願っていたのに、何もできてやしない。これじゃあ、ベッドの上で無意味な時間を過ごしていたのと何も変わらない。
パソコンゲームの中では勝手にイベントが巻き起こって、出てくるキャラが次第に生長していくのに、現実の時間ときたら何の解決もしてくれないのだ。
問題を解決するのは人の心だ。ならば彼の心を動かさなくてはならない。
「恭平先輩」
しゃがみこんで視線を合わせる。
「愛梨……」
恭平の瞳は虚ろで暗さを帯びていた。
「聞いただろ。俺は那智を傷つけた」
「先輩……」
膝の上に置かれていた手を取ると、冷たく凍っていた。
「遠ざけようとしたんですよね」
今までの記憶が染み付いたこの身体なら、彼の思っていることがよく分かる。彼が何を考え、どう行動するのか。
分かるのはこの身体。でも胸を締め付ける痛みは自身の心からくるものだった。
「もっと酷いことをしないように、傷つけて那智ちゃんのほうから離れるようにしたんですよね」
握った手がぴくりと反応する。言ったことが正しいと伝えているようなものだった。
よく考えてみれば分かることだった。恭平が那智を本気で傷つけるはずがないのだ。
いつだって、何度繰り返したって、彼はそうだった。愛梨に心を奪われてさえ、那智が泣いて呼べば傍に駆けつけた。愛梨との間に亀裂が入ろうともだ。
どれだけ内心で疎んでいても、彼は妹を守ろうとすることをやめなかった。
その感情を何と呼べばいいのかは分からない。おそらく誰も分かってはいなかっただろう。当の本人たちでさえ。
一言に愛情と呼べばいいのだろうが、種別のつきにくい繋がりが彼らの間には存在したのだと思う。
那智も恭平も、幾度他に想う相手ができても一番に想うことは互いのことだった。
そして恭平は、今回は彼自身から彼女を守ろうとした――。
「……笑っていたんだ。俺がいなくても楽しそうに」
なら良かったと素直に思えばよかったのに、暗い感情に支配されてしまったと恭平は言った。
自分に依存していたはずの存在が、実はそうでもなかったと知った。泣いていないことに苛立った。自分だけを見て、甘えて、姿を見れば笑って。そうでなければその場に立ち続けることすらかなわなくなる存在だと勝手に思っていた。
「そう、確かに以前のままの那智ちゃんならそうだったかもしれない」
前回までならそうだった。
兄に依存しきって離れられなくて、もがいても抜け出せなくて那智は苦しんでいた。そして恭平はそんな彼女を内心でバカにしつつ、彼に依存しなければ生きていけない存在に心救われていた。
「でも今は違うんです」
彼女は強くなった。
「先輩がどんなに酷いことをしたって、ちゃんとごめんなさいって言えば笑って許してくれるんです。今の那智ちゃんはそうなんです」
的外れな予感でもないだろう。
きっと恭平のほうから歩み寄れば、簡単に受け止めてしまえるのだ。今の那智はそういう子だ。――彼女は変われた。だからあなたも変わってください。
「また傷つけるかもしれない」
あの日、公園で懇願されたことを思い出した。
那智と二人きりになれば何をするか分からない。だからできるだけ傍にいて欲しい。傍にいてくれれば暗い感情も少しは納まる気がするから。恭平はそう言ったのだ。
恭平が恐れていたのは、自身の過去と対峙することではなかった。彼が一番恐れていたのは、過去と対峙することで生じる心の闇が那智を傷つけることだった。
今になって封印していた過去が身近に迫って、近いうちに感情をコントロールしきれなくなることを彼は危惧していた。
「俺を止めてくれ」
あのとき、彼はそう言ったのだ。
「先輩は那智ちゃんを傷つけません」
言い聞かせるように目を見た。恭平の瞳が揺れている。――あぁ、そうか。あのときはこう言えばよかったんだ。
やっと正解にたどり着いた気がする。二人を遠ざけるべきではなかったのだ。だからこうしてねじれてしまった。
「そんなこと分からないだろ」
「いいえ。私には分かります。先輩はずっとそうだった。那智ちゃんを守るのが先輩なんです」
自分はそんな完璧な人間じゃない。恭平がそう呟いた。何度こちらに笑いかけてくる顔にどろりとした感情が沸いたことか、と。
「そんなこと思っても無駄です」
暗い感情に蓋をするように、恭平の唇に指を当てた。
「先輩が那智ちゃんを傷つけることはできないんですよ」
安心させるように笑みを作る。
「だって先輩が何をしたって、那智ちゃんは本心から傷つけられたなんて思わないんだから」
「なにそれ」
否定したがっているようでそうではない声。それをわずかの雪解けに感じた。だがまだ固い。
「誰が何と言おうとそうなんです。木村先生だって言っていたでしょう。那智ちゃんは痛みでも何でも、先輩が与えるものなら何だって飲み込んでしまうって」
「でも……」
彼の腰がひけている理由なんてお見通しだ。
「一つ重要なお知らせです」
彼は行って祖母のことで落ち込む那智に付け入ることになるかもしれない事実ができあがることを想定しているのだ。
たとえそうは意図していなくても、その状況で作り出された和解は後に自分を苦しめるだけだと。
弱っているところにつけ込む卑怯をしたくないのだ。それは彼が実直だからではない。仮面をつけて生きてきたからこそ、大事な場面でそんなことをしようとする自分を許すことができないのだ。
「那智ちゃんのおばあちゃんは無事でした。だから先輩は何も考えずにただごめんなさいって言えばいいんです」
熱が伝わったのか、握っていた恭平の手にぬくもりが戻ってきているように感じた。
「行きましょう、先輩。行って確かめてみれば分かります。那智ちゃんが全然怒ってないってこと」
恭平が手を返してきゅっと握ってくる。――どうか行くと言ってほしい。那智はきっと待っている。今行かないと、彼女のほうこそ取り繕った仮面(それこそ今以上に分厚いもの)を被ることになる。
「少し……考えさせてほしい」
数分の沈黙の後、恭平はそう言って立ち上がった。
※ ※ ※
家に戻って何度か冬吾や木村と連絡を交わす。
冬吾は委員長と共に那智の祖母宅に一泊させてもらうことになったという。
木村のほうは途中の休憩所でこちらに連絡を入れた後、桂木の家に連絡を入れたりなどして、二十一時前には祖母宅に到着したという。
彼もそのまま一泊すると言っていた。
「俺は明日の夕方まで那智と待ってる。それまでに来なかったらこっちを出るから」
「先輩のほうは大丈夫だと思います……多分。無理でも私が引っ張っていきますから」
「ははっ。強気な発言だな。でも、そうしてもらえると助かるよ」
しばらくの沈黙があって、「悪かったな、水野」そう言って通話はきれた。
恭平から那智に会いに行くと連絡が入ったのは夜も深まり日付が変わろうかという頃だった。
愛梨から見た彼らの繋がり。




