46・同行者たち
離れていく距離。
駅の券売機の前で、私はずっと同じ場所のボタンを押し続けていた。
けれどボタンは記憶にあるように点灯しない。おかしいなと思いつつ、私はずっと指を付けては離してを繰り返していた。
「――智。桂木 那智」
肩をゆすられてようやく今の状態に気づく。
「委員長……」
もう一度ボタンを押そうとしたところで、指が止まる。横に立つ委員長の存在。自分が立っている場所。駅構内の人のざわめき――。
「ごめん。……意識がぶっ飛んでた」
委員長の呼びかけに困惑が混ざっていたことに、私は自分の奇行の原因を思い出した。
私の鞄を取りに行っていた委員長が戻ってきたときかかってきた着信は、知らない番号からのものだった。
「はい――」
『もしもし、那智ちゃんかい』
誰だろう。年のいった男性の声だった。
『おれだよ。玄田のじじいだよ』
「玄田って、おばあちゃんのところの……」
『そうそう。その玄田』
玄田というのは、私の死んだ父方のおばあちゃんの近所に住んでいるおじいちゃんだ。
独りで暮らすおばあちゃんを気遣って色々と面倒をみてくれている気のいい人で、私も遊びにいくたび相手をしてもらった覚えがある。
でも、なんでいきなり玄田のおじいちゃんが私の携帯に電話をかけてくるんだろう。
『家に電話しても誰もでなかったから、電話帳で調べて那智ちゃんにかけたんだ』
あぁ、だから玄田のおじいちゃんは私に電話をかけてこられたんだ。思う反面、そうまでして電話をかけてこなければいけなかった理由が気にかかって、自然と息をつめた。
『心して聞いてくれ那智ちゃん。おばあちゃんがね、……倒れちまったんだ』
「えっ、倒れたって……」
『多分、心臓のほうかな。詳しいとこはこれから病院に行って聞いてくるから、っとすまねえ。迎えが来ちまったみたいだ。おれは一緒に行くから。那智ちゃんも急いで来てくれ』
慌てた様子でまくし立てられた後、プツッと電話は切れてしまった。
耳に反芻するのは、おばあちゃんが倒れてしまったという玄田のおじいちゃんの声。――倒れたって何? 意味がちゃんと飲み込めない。
人の声が絶え、機械音が続いているというのに、私は携帯を耳から離すことができないでいた。
「おばあちゃんが……」
委員長が私の名前を呼んでいたけれど、意識はぶつりと外の世界と遮断されていた。
おばあちゃんは三十歳半ばでお父さんを産んだ人だ。年は八十歳手前だというのに、元気で畑を耕していたのを覚えている。
以前は年に二、三回は遊びに行っていたけれど、お母さんが再婚してからはお盆の頃に一回行くくらいに回数は減っていた。
新しいお父さんとお兄ちゃんに母娘で遠慮していた部分もあったのだと思う。
そんな私たちに、それでもおばあちゃんはいつも温かく迎えてくれていた。たくさんご馳走を作って、夏だから浴衣を着付けてくれて、いっぱい甘えさせてくれて……。
「倒れたって」
優しかったおばあちゃんがいなくなる。その事実に私は呆然と立ち尽くした。
一つ大切なものを失ったと思ったら、また続けて一つ……。
大切にしたいものほど、手にすくった砂みたいにサラサラと流れ落ちていく。
「行かなきゃ」
おばあちゃんが私を呼んでる。もう何も失いたくない。
思った途端、走り出していた。
駅までは歩いて十五分。走って十分。私は夕方で帰宅する人たちをかきわけて、駅までの道をひたすらに走った。
委員長はそんな私の後ろを走ってついてきてしまったらしい。
「ごめんね。もう大丈夫だから。ちょっと行かなきゃいけないところがあって、急がなきゃいけないの」
委員長に持たせていた形になっていた鞄を受け取り、私は財布の中身を覗いた。
う、おばあちゃんのところまでぎりぎり運賃間に合うくらいかな。帰りは……後で考えよう。
お金を投入して目的の場所まで行けるだけの切符を買う。
ではここで、と改札口まで向かおうとする私の腕を委員長が取って引き止める。そのままがっちり委員長と券売機の間にホールドされて身動きができなくされてしまった。
何事かと思ううちに、委員長が自分の財布からお金を券売機に投入する。
押したボタンは私が押したのと同じボタンだった。
「俺も一緒に行く」
「なん、で……」
背後を仰ぎ見ると、委員長の真摯な目とかち合った。今まで目の前のことしか頭になかったけど、さっきのことも合わせて正気に戻ると近すぎる距離にどぎまぎした。
「あっ、……離して」
言いかけたところで、また後ろから腕が伸びてきて券売機のボタンを押した。
「そりゃ、あんな真っ青になって走っていくとこ見ちゃったら、誰でもついて行かなきゃって思うでしょ」
出てきた券をひらひらとさせつつそう言ったのは、私服に着替えた冬吾先輩だった。
着ているのは濃い緑色が基本となったチェックのシャツに、薄い色のジーンズという街歩き用というよりかはちょっとした山にも入っていけそうな服。
靴はいつも学園で履いているような黒い靴ではなく、こちらも山歩きなどに適しているようなしっかりとした底の厚いシューズだった。
肩には重そうなバッグとカメラを提げている。
どこかに泊まりで出かける用事だったのだろうかと思わせる装備だ。
委員長の先ほどの行動と突然現れた冬吾に首をかしげる。
「あの……これはあくまで個人的な用事なんで、ついて来られても」
「放っておけるか。とにかく一緒に行く」
「俺もついて行くね。面白そうだから」
二人の言葉が被って、委員長と冬吾先輩が顔を見合わせた。
「ごめんねぇ。お邪魔虫になるかもだけどさ、訳ありそうな男女の組み合わせって何事かって思うじゃん。同じ学園の先輩として心配してるんだよ」
冬吾先輩がにやりと笑みを作る。下世話な言葉には私から丁重に膝に向けて蹴りを入れておいた。
おばあちゃんの方面に行く電車は時間が遅くなるほど本数は減ってしまう。
二人を説き伏せる時間も惜しくて、ついてくるなら勝手にしろとばかりに私は改札口を入って電車の来るホームへと歩いて行った。
カタンカタンとお尻に響く振動を感じつつ、外を見る。
すでに日は落ちかけていて、茜色の空へと向かって電車は走っていた。
いつもなら明るいうちにお母さんと一緒に乗っている電車だ。そして時期はとても暑い。若干生ぬるいエアコンの風を額に汗をかきながら受けているのが普通だった。
体に残る記憶との齟齬に奇妙な感覚に陥りつつ、私は外へと向けていた視線を二人のほうへと戻した。
委員長は鞄と一緒に竹刀袋を持参していた。
そういえば委員長は部活禁止令が出ていたんじゃなかっただろうか。なんで竹刀を持ち歩いているんだろう。そんな疑問が浮かんだが、部外者の私が聞いていいものか悩んで結局話題にすることはしなかった。
委員長は黙したまま、外を流れていく風景に目線を投じている。自分がここにいることは当然というようにどっしりと構えているので、「なんで」とか「どうして」だとかの言葉もかけることはできなかった。
黙して語らない委員長の代わりにぺらぺらと自分のことを話していたのは冬吾先輩だ。
どうして駅にいたのかという理由は、泊まりがけで写真旅行に行くつもりだったという言葉ですぐに判明した。
実はその場に愛梨ちゃんもいたのだそうだ。たまたま放課後に会って、駅まで見送りに来てくれていたのだという。
血相を変えた私が走っていくのを見て、冬吾先輩は私を追いかけて、愛梨ちゃんは連絡係として残ることを一瞬のうちに決めたのだそうだ。
役割分担の指示を出したのは冬吾先輩。二人して私のことを追いかけてしまうより、何事かは分からないが人を残しておいたほうが後の行動に繋げられるからということらしい。
そんな冬吾先輩は私の行き先を聞いて何度か愛梨ちゃんと連絡を取り合っていた。この後の行動とか指示を出したりしていたんだろうけど、私はそれを気にする状況ではなかったので、何をどうこうするとかいうことは聞いていなかった。
「実は頭良かったんですね」
世間話のお世辞程度の褒め言葉を口にする。
「何言ってんの。知らない? オレって学年でもトップクラスよ」
この場合の頭が良いっていうのは頭の回転が速いという意味だったんだけど……。
冬吾先輩は意地が悪いので分かっていてそう切り替えしてきたのだと思う。つくづく相手にするのが面倒な人だ。
「いえ、先輩の個人情報はちらっとも興味がなかったもので。――それより、そのカメラ仕舞ってもらえませんか。目障りです」
「えぇっ。人工物ってばまだあのこと根に持ってんの」
先日私の写真が勝手に雑誌に載せられていた一件を言葉にあげて冬吾先輩が言う。
「……まあ、そんなところです。だから一刻も早くそれを私の目に触れない位置に移動してもらえませんか」
「オレの愛機に向かってそれ呼ばわりとか」
言いながらも冬吾先輩はカメラをバッグの中に入れてくれた。
私はそれを見てほっとする。
これまでも自分でおばあちゃんの家にカメラを持ち込む機会はたくさんあったはずなのに、冬吾先輩のカメラが持ち込まれることに何故だか苛立ちを感じる。
冬吾先輩のカメラを邪魔だと思ったことは何度もある。けれど目に入れたくもないという感情を持ったのは今が初めてだった。
理由付けのできない気持ち悪さに私は冬吾先輩から目を背けた。
電車で最寄りの駅までは一時間ちょっとかかる。道程は頭に染み付いている。――少し寝ても大丈夫かな。冬吾先輩も委員長もいるし……。
一定間隔の電車のリズムに眠気を感じて頭を窓に傾けた。
ここに至るまで、今日はたくさんの出来事があったので疲れてしまったのかもしれない。目蓋を閉じると、すぐに深いところに意識はもって行かれた――。
※ ※ ※
――セミが鳴いている。
日差しが暑くて帽子を被る。空気は都会よりも乾いていて、日差しを避ければ気持ちが良かった。
おばあちゃんの優しい家にたくさんの人がいた。
私とお兄ちゃん、それと諒ちゃんがいた。そこに加えて縁もゆかりもない人たちの姿も。海道兄弟に委員長や冬吾先輩。そして、愛梨ちゃん……。
河原で水遊びをしたりバーベキューをしたりして、夜は花火をして遊んだ。
『バカみたい』
私はそこから離れてみんなの様子を見ながら何度も同じ呟きを漏らした。
『みんなで記念に写真を撮ろう』
冬吾先輩がカメラをスタンドに置いて呼びかける。
そこに私の居場所はなかった。
『おいおい、妹ちゃんてば。笑顔は無理でもせめて前を向こうよ』
写真の写りを確認していた冬吾先輩が呆れたように言う。写真の中の私はそっぽを向いて不機嫌を隠しもしていなかった。
『せっかくの可愛い顔が台無しだよぉ』
海道兄弟が声をそろえて言う。
――何が。そんなこと少しも思っていないくせに。二人そろえて何言ってんの。共鳴してんのが気持ち悪いんだけど。喋るなら一人ずつ言いなよ。どんだけ似ててもあんたたちは違う人間でしょ。
『気に入らないなら撮り直せば?』
私はカメラを奪ってメモリーを消去し、冬吾先輩に突き返した。
みんなが楽しそうに笑っているのが気に食わなかった。
――おばあちゃんは年で、もう体も弱ってるっていうのに大勢でおしかけてバカ騒ぎして……。この家ももうこの夏でなくなるっていうのに、誰も悲しんでなんかない。
この人たちと一緒にいると、どちらが正常なのか分からなくなる。
悲しんでいる自分が異常分子であるかのように感じて、その場を離れることにした。
そこに委員長が立ちふさがる。
『桂木 那智……』
ふうとため息をつく動作で言いたいことが分かる。
『お前は和を乱すのか、って言いたいの? それならそれでいいよ。どうせ小波程度にも感じてないんでしょ。その目、止めてくれない? 真っ直ぐすぎてムカつく。委員長の真っ直ぐさはね、軌道がズレればただのお門違いって言うんだよ』
どうせ言っても無駄だろうけど、と加えると驚いたように目を丸くしていた。
待て、と捕まえてこようとする手を避けて走る。
赤ちゃんの頃から来ていたおばあちゃんの家。お父さんが育った家。大切な場所が何も知らない人たちに汚されている事実が悔しかった。
広い河に架けられたつり橋を一気に渡る。
『那智っ』
つり橋の向こうでお兄ちゃんが呼んでいた。
『いいよ、恭平お兄ちゃんは来ないで。那智一人で行くから』
――だって恐いんでしょ、高いところ。
お兄ちゃんが渡ろうかどうしようか悩んでいるところに愛梨ちゃんが寄ってくる。
耳元で何かを囁いていた。多分、「放っておけばいいのよ」とでも言っているのだろう。
愛梨ちゃんが笑っていた。その顔をひどく醜いものに感じる。率先して私の居場所を汚して奪っていく彼女。だから私は彼女が恐くて大嫌い。
お兄ちゃんが困ったような顔をして私を見つめる。暑い夏の日なのに、心はどこまでも冷たくなっていった。いっそ凍ってしまえば何も感じずにすむだろうに。
――悩むくらいならどうして追いかけてくるの。追いかけてもこないなら、諦めてしまえるのに……。そうやって中途半端に優しくするから、バカな那智はずるずると引きずっちゃうんだよ。
橋の向こうとこちらで、私たちは互いの出方を伺っていた。
次第に見ている景色がぐにゃりと歪んでいく。つり橋がぐねぐねとうねって長くなって、先にいるお兄ちゃんの姿が米粒ほどに小さくなっていく。
お兄ちゃんはそれでもずっとこちらに来ようか愛梨ちゃんと一緒に行こうか迷っているようだった。
――あのとき、お兄ちゃんは橋を渡ったんだっけ……?
不鮮明になっていく景色に、今度は私の体が揺れるのを感じた。
※ ※ ※
軽くゆすられて覚醒する。
「げっ、冬吾先輩」
近くに見えた顔にしかめっ面で私は崩れていた体勢を戻した。
「げっ、とは何だよ。せっかく起こしてあげたのに。うなされていたみたいだったから気を遣って起こしてあげればこれだからなぁ」
「嫌な夢を見ていたんです。」
妙にリアルな夢だった。あるはずのない景色なのに……。私や諒ちゃん、お兄ちゃんがいるならまだしも全然関係のない人たちまでいたなんて。
それに私、あろうことか愛梨ちゃんのことを大嫌いだと思っていた。
「何? どうしたの」
愛梨ちゃんの笑った顔を思い出す。夢の中の笑顔ではなく、普段私に笑いかけてくるときの顔を、優しく細められる目元を。――うん、好きだ。
そこに生じる感情に嫌悪感は微塵も生まれてこない。
「いえ、何でも……。それにしても最悪な夢でした」
「へぇ、どんな夢?」
「冬吾先輩に精神的慰謝料を払ってもらいたいくらいの嫌がらせをされる夢でした」
まだドロッとした胸の重みが取れなくて、冗談二割、本気八割でそう言ってみた。
「何だよ、それ。本当に人工物ってばオレに対してろくなイメージ持ってないよね」
「それは冬吾先輩の日ごろの行ないの成せるワザです。日ごろの分と合わせて精神的慰謝料を請求しない寛大な私に感謝してください」
「うわぁ、人工物って酷い」
こうして軽口をたたける冬吾先輩がそばにいてくれて良かった。委員長とは皮肉の応酬なんてできないからね。
テンポよく交わされる言葉に少しずつ胸の重みは薄れていった。
私が一つ言えば冬吾先輩がまた一つ言いを繰り返すうちに時間が経っていたらしい。
「もう着くぞ」
目的地を告げる車内アナウンスに委員長が鞄を持って立ち上がった。
駅を降りたらバスに乗り換える。
時刻は十九時半を過ぎていて、外はもう真っ暗闇になっていた。
ちょうど最終便に乗ることができたのは運が良かった。でないとタクシーを呼んで高い料金を支払わなければならないところだ。
そんなお金は持参していない。財布に残っているのはわずかな小銭しかないことは、駅で切符を買った時点でわかっていたことだった。
バスに揺られて三十分。平地を抜けて、バスはどんどん山間の道へと入っていった。
ブザーを押すまでもない最終地点のバス停で、私たちは銘々自分の荷物を持って降車した。
後ろについてくる二人を気に掛ける余裕もなく、おばあちゃんの家まで向かって走る。
すぐに木造平屋の家が見えてきた。
低い植木で囲われた家は暗闇の中でひっそりと佇んでいた。
縁側沿いの客間に明かりが灯っているのを見て、私は玄関から入るのも時間が惜しくてそこに続く引き戸に手をかけた。
玄田のおじいちゃんの電話で、おばあちゃんは病院に行ったと聞いていたけどもう戻ってきていたのかもしれない。
案外なんてことはない症状だったのかも……。
よぎるのは様々な期待ばかり。嫌なことはあえて頭に浮かべていなかった。
「おばあちゃんっ」
私は息をきらせておばあちゃんのことを呼んだ。中を確認する前に、すでに涙で目の前が滲んでいた。
靴を脱ぎ散らかして、部屋に滑り込む。
「おばあちゃん……?」
中に入って辺りを見回す。それは思いもかけない光景だった――。
※ ※ ※
那智が駅で切符を購入する少し前のこと――。
「気をつけて行ってきてください」
駅で冬吾に別れを告げる。
今日は恭平が生徒会長の西園寺 吹雪と一緒に帰るからと言っていたので、放課後の時間が空いてしまった。
たまたまという形を取って冬吾とここまでやって来たのは、彼の表情を確かめるためだ。
彼の表情は明るい。
この間取った賞は彼にとっても自信に繋がるものだったらしい。もっとたくさんの写真を撮りたいと意欲的なことを述べていることが微笑ましくかんじられた。
ついこの間までもっと惰性的にカメラを構えていたというのに。これもあの子の影響なのだろうか……。
待てという声に二人ともが反応したのは、続けて知っている名前が呼ばれたからにほかならない。
那智が何かに追い詰められたような顔をして横を通り過ぎていった。
「那智ちゃん?」
「人工物?」
重なり合った声にすぐさま荷物を持って走り出したのは冬吾のほうだった。
「オレはあの子を追いかけるから、そっちは連絡係でここで待機。詳しいことは追って知らせるから!」
咄嗟のことで、判断を迷ってしまった。我に返ったのはすぐだったが、彼らの姿はすでに雑踏の中に消えてしまっていて追いかけることは不可能だった。
「何があったの」
手の中に現れるべき便箋を待ち、その場に立ち続ける――。
「……女神?」
けれども彼女からの連絡は一向に訪れなかった。
何かがおかしい。だがこちらから連絡するすべがない以上、彼女の言葉を待つしかない。
一方的な状況に歯がゆさを覚えながら、何度も手を握り、制服のポケットに手を入れては出してを繰り返した。
不安と疑念を抱えること数分、ようやく冬吾から一報が入った。
彼の話によると、祖母宅から倒れたという知らせを受けて、那智は勢いのまま学園を飛び出してきたということだった。これから電車に乗って祖母宅へと向かうという。
「那智のおばあちゃんの家に行くって……」
またイレギュラーだ。
本来なら、自分たちがその家に行くのはお盆の頃だったはずだ。
良い避暑地を探していて、偶然那智の祖母宅のことを知ってみんなで遊びに出かけるという設定。
そこで彼女は何度も傷つけられた。――水野 愛梨の手によって。
那智の祖母は近年、足腰の衰えを感じていた。畑を続けるには限界が訪れていると。そこで家を手放して老人ホームへ移ることにしたのだ。
那智はささやかな思い出を祖母と共有して、父親が幼い頃に過ごしていた家と切なくも愛しい別れを告げるつもりでいたのだ。
それに水を差したのが水野 愛梨だ。
対象者たちを引き連れて、彼女は思いのまま楽しんだ。
彼らが楽しそうにするほどに、那智は傷ついた表情を浮かべていた。当然だ。大切な思い出の場所を汚されたのだ。
前愛梨は、対象者たちとの楽しい思い出作りに没頭して那智のことを疎かにしてしまっていた。楽しいことに集中して、そこにある孤独に気づいてもいなかったのだろう。
だが、それもおそらく初めのうちだけ――。
度重なる繰り返しの後、彼女は自分の意志で那智を傷つけるためだけにそのイベントをこなしていた。それは他のイベントを見逃しても執拗に繰り返されたことからも分かる。
あの場所は、那智と兄とを切り離す最初の決定的な転換となる場所だった。もちろん悪い意味のほうで。
彼女のやり方では、それぞれの精神的な巣立ちどころか歪な依存心を生み出させるだけだというのに、彼女はイベントの取り止めを選ぶことはしなかった。
彼女は手を変え品を変え、那智を孤独に追い詰めていった。
いっそ那智のことを憎んでいるとでもいうような……。いや、今はそれどころじゃない。
考えるべきは那智のことだ。
そんな場所に数は減っても対象者数名と一緒に行くことになるなんて……。何の因果かと思うようなことだ。何かしら恣意的なものを感じずにはいられない。
「どういうつもりなの。女神……」
これが偶発的に起こったことなのかどうか今すぐ問いただしたいというのに、女神からの連絡はそれ以降も途絶えてしまったままだった。
※ ※ ※
那智が学園を飛び出した直後のこと――。
屋上の柵に寄りかかり、下方に焦点を当てていた双眼鏡を下ろす。
「倒れたって連絡は無事に届いた、ってとこかな。兄との関係も見事に大きなヒビが入ったみたいだし……」
首から提げたイヤホンからは、さっきまで生徒会室で二人の穏やかじゃない会話が流れていた。
耳からの情報しかないが、どうやら恭平が那智に襲い掛かったらしい。
あの一見して優しい男を演じている兄がああも豹変するとは思わなかったが。目の前で見られなかったことが残念だ。さぞや面白い見世物になっただろうに。
国語教師がなだれ込んできて、人を殴る小気味良い音が鳴ったときは思わず口笛を吹いた。――あぁ、見たかったなぁ。盗聴器だけじゃなくてカメラも仕込んでおけばよかった。
そういえば委員長が那智の後を追いかけていっていたな、とお姫様への報告項目に一つ追加する。
あれは無表情ゆえに内心が読みづらい。
せっかく剣道部顧問に最近彼の様子がおかしい、悩みがあるのではないかと吹き込んで部活に出られなくさせたのに、効果のほどがよく分からない。
部活に出られなくても竹刀を持参してくるのは未練の表れとも受け取れるが……。
「さぁ、これからどう動く?」
同タイミングで投じた石がどう互いの波紋に影響していくのか楽しみに思いつつ、柵から離れて屋上の扉を抜けた。




