45・代償
兄に追いつめられた那智は…。
お兄ちゃんの「久しぶり」という言葉に私は返す言葉なく後ろに下がった。
背中が流し台に当たって動きが止まる。
いつもは一番に助けを求める相手に対して恐怖を感じ、他の誰かに助けを求めようとする。でも誰の名前も思い浮かばず、ひゅうっと空気が喉を通っていった。
「なんでここに……?」
出した声はかすれていた。
いつもの私なら、お兄ちゃん相手にスラスラと色々な言葉を並べられていたはずだったのに、何を言ったらいいのか分からずそんなことを言っていた。
「吹雪と一緒に帰る約束をしていたんだ」
そうならそうと言ってよ、吹雪ちゃん! だったらここに来たりなんかしなかったのに。
一瞬、吹雪ちゃんが仕掛けたことかと思ったけど、それは違うと判断した。吹雪ちゃんはこんなことしない。
基本的に吹雪ちゃんはその人の問題は丸投げ&放置だ。行くところまで行ってようやく救いの手を差し伸べる。今朝の私への警告はまれにみる吹雪ちゃんの介入だったのだ。
ということは吹雪ちゃん……私が放課後ここに来ること、念頭に置いてなかったな。私が掃除機かけるよって言ったとき、心ここにあらずな感じだったもん。なんてこと……。
「何考えてるの」
お兄ちゃんの冷気が押し寄せる。はーい、お兄ちゃんのことが大好きなバカ吹雪ちゃんのことでーす! ……なんて言えるわけないじゃん!
お兄ちゃんが一歩を踏み出してくる。
私はこれ以上下がりようがないことに目線を左右に動かした。――逃げ場を……。窓は? はい、無理。ここは三階。落ちたら死ねる。廊下側は? お兄ちゃんがいるからダメ。鍵もかけられてるし。ひぃっ。鍵。詰んだ。私、詰んだよ!
「あっ、そうだ。吹雪ちゃんと約束してるんだよね。もう帰ってくるとは思うけど、お茶でも飲んで待ってようよ。吹雪ちゃん、いい紅茶隠してるんだぁ」
とにかく時間稼ぎ!
私が笑ってもお兄ちゃんの表情に変化は見られなかったけれど、私はがちがちに緊張しながら食器の準備をし始めた。
わざとかちゃかちゃ音を立てて食器を出していくのは、この空間を支配する無音に耐えられなかったからだ。
早く帰ってきてよ、吹雪ちゃん。
紅茶を勝手に出したことは後で吹雪ちゃんに怒られるかもしれない。けど、この気まずさよりはずうっとマシだと思える。
「いいよ。喉は渇いていないし。それよりこっちに来て座ったら」
お兄ちゃんが傍に来て、落ちたままだった携帯を拾い上げて私に手渡した。そのまま手を軽く引かれて促される。
断りようのない状況に、私はおずおずとソファに腰をおろした。
間……間が息苦しい。
何故、隣同士で座るの!?
向かい合わせも目が合うから辛いけど、こうして見下ろされている状況もかなり辛い。そのため、私は視線を床のほうに下げて、なるべくお兄ちゃんと目が合わないようにした。
「元気にしてた?」
はい、それはもう。桂木の家にいるよりずっと精神は安定していました。
「ご飯はちゃんと食べてる?」
はい、今日は私がご飯当番です。メニューはお母さんが作ってくれた肉じゃがにプラスして豚汁とサバの味噌煮を作る予定。
でも夕食を作らないといけないから帰りたいとか言っちゃダメなんだよね。……帰りたい。
「って、そんな心配はいらないか。木村先生と仲良くやってるみたいだし……」
何、その間ぁっっ!
諒ちゃんとの電話、聞いてたんじゃん。聞いていてその質問とかっ。口調は優しいけど、今絶対に目が笑ってないでしょ! 那智には分かるよ!!
「ねえ、那智」
はいいっっ!
お兄ちゃんに肩と頬を掴まれて横を向かされる。触れ方は軽いタッチなのに、その強制力はハンパなかった。
お兄ちゃんが私に顔を上げさせて、そのままコテンと頭を私の額につけてくる。
以前なら他愛の無い触れあいに、今の私はびくりと体を揺らした。主に恐怖で。
「那智は僕と離れてもちゃんといつもみたいに笑っていられるんだね」
吐息がかかりそうなくらいの近距離でお兄ちゃんが呟く。
「お兄、ちゃん……?」
そのままお兄ちゃんに体重を掛けられて、私の体はポスンッとソファの上に倒れこんだ。
※ ※ ※
会議が終了して部屋を出る。
今日の会議は六月半ばにある球技大会についてだった。
体育委員を前面に進行を行い、補佐として生徒会役員はもちろん、各クラス委員長や運動部各部からの応援も例年通り要請することで実行役員に折り合いをつけた。
あとは競技の取り決め。これも少々問題はあったが例年通り、女子は体育館でバレー、男子はバスケ。外は女子がテニスで男子がサッカーとなった。
「はいはーい。小学生の気分に戻ってドッジボールとかどうですか。他にも玉入れとか、大玉転がしとか」
「ドッジボールはともかく、他はもはや球技ではないわ! ふざけたこと抜かしていると、その服ひっぺがして男子の制服を着用させるぞ」
いらない提案は顧問によって提案者ごと葬られた。顧問の投げつけたペンが西園寺の眉間にクリティカルヒットして、わずかな間を置いて机の上に落ちた。「シュウゥゥッ」と煙を上げる幻覚が見えた。
それを見て一瞬場が凍りついたが、「続きまして――」と会議を続行した役員たちはさすがに彼らのやり取りに慣れている。
会長がつぶれても、つつがなく会議は進行していった。とても頼もしいことだ。
「ホントに頭が固いんだから。ドッジボールとかのほうが絶対盛り上がるのにぃ」
会議終了後もぶつくさ文句を言う吹雪の頭を丸めた資料で叩く。
「あまりあの人を興奮させてくれるな。もう年なんだし、労わってやれよ」
「どこが年よ。あの人は絶対百歳超えるまで生き延びてるわよ」
それには同意するが、もう少し大人しくしていてほしいものだ。
吹雪はこれで譲歩しているつもりなのだ。
前回の新入生歓迎会で肝試し大会を強行したため、今回はあまり強く出られなかったのだということはこれまでの付き合いから分かる。――次はまた派手なことをごり押ししてくるんじゃないだろうな。
間に挟まれる俺の身にもなってくれ、とはあっと息を吐いた。
壁の時計を見て「五時半過ぎてるじゃない」と吹雪がぼやく。
「会議はもっと簡潔にぱっと切り上げるべきよねぇ」
割いた時間のいくらかは自分と顧問とのやり取りに使われていたことなど思いもつかないらしい。
「お前が大人しくしていれば早く終わると思うんだが」
「あら、違うわよ。あたしが大人しくしていたらもっと会議がだらだらに長引くに決まっているじゃない」
断言した……。こいつ会社のトップとかになったら独断実行で重役と揉めるタイプだよなぁ。
会社を傾けることになるか飛躍させることになるかはその人物次第だが、吹雪は大成するタイプだから飛躍させるほうだなと副顧問の贔屓目としてそう思った。
「あーあ、恭平クン待っていてくれているかしら……」
「何か約束でもしているのか?」
出てくる名前に反応する。現在最重要案件の中心人物として気に掛けている相手だ。
「一緒に帰る約束をしているのよ。それでね――」
続けざまに、いかに自分が苦労して約束を取り付けたかを熱を込めて語ってきだすのは吹雪のデフォルトだ。いつものことだったので、それは無視して携帯を開いた。
「ちょっと、聞いてるの!?」
「聞いてない。俺はこれから電話するの。煩いから黙ってろ」
デコピンを放って遠ざける。「もうっ」と上目で睨んでくるが、ちらっとも可愛げがなかった。それなら那智のほうが可愛い。
あの上目遣いは言うことを聞かないと、とてつもない罪悪感にかられてしまう。だがそれに気づかれると容赦なく戦略として使ってくるので、今のところ本人にそれを言うつもりはなかった。
「――ああ、こっちも後片付けしてから行くから。じゃあ駐車場で待ってる。急いで転ぶなよ」
一緒に帰る約束を取り付けて携帯をしまう。
「何よ、今の会話」
ずーんと重たい空気を放って吹雪がじと目で見てくる。
「何が?」
「あんたらは付き合いたてのカップルか。新婚さんか」
「何だよ。気持ちの悪いことを言うな。あれは従妹だ」
言うと吹雪はがしがしと髪をかいて「従妹とは結婚できるのよっ」と叫んだ。
「ああ、もうっ。その事実がどれだけ恭平クンを追い詰めているか分かっているの!? 恭平クンってば先生がチビッコを引き離してから相当荒れてるんだからね。今はあたしに当たるだけで済んでるけど、いつキレてもおかしくないんだから」
「傍にいて那智が傷つけられても困るんだよ」
それに関しては那智が一番だ。恭平が暴れようとキレようと那智に被害が及ばなければいい。被害が吹雪に集中しているだけなら、那智を返す理由はどこにもない。
那智が一番の自分と恭平が一番の吹雪とでは、どこまでいっても話は平行線だろう。
「それに那智がいて落ち着いたとしても、それは表面上だけの話だろ。本質を解決しない限り問題はなくならない。あれが原因をゲロして一緒に解決してくださいって言うタイプか? 違うだろ。だったら自分で解決して那智を迎えに来ればいい」
小さい頃から面倒を見てきた従妹が理由もはっきりと言わないような兄のストレス発散のはけ口にされるのだけは我慢ならない。
那智自身は渦中に置かれていても「えへへ、平気だよ」なんて笑うだろうけど、避けられる困難は避けさせたいという親心ならぬ従兄心があるのだ。
恭平は何かしら暗い部分を持っている男だが、けして自分の力で解決できない男じゃないはずだ。そう信じたい。
だがその思いに吹雪は反論で返した。
「それでも今あの子を返しておかないと揺り返しが怖いのよ。先生は分かっていないわ。あたしたちって体は大人に近いけど、心はまだまだガキなのよ」
傍に誰かがいることが必要なのよ、と吹雪はそっぽを向いた。
この年代が大人に向かって未熟さを露呈するということがどれほど屈辱的なことなのかは知っているつもりだ。吹雪はそこまでして「何とかしろ」と訴えかけてきているのだ。
「……分かったよ。考えとく」
自分だってずっと那智をこのままにしておくわけにはいかないということは理解している。
口にはしないが、那智だって戻りたがっているのだ。兄のいる方角をいつも気にしていることくらい知っている。
上手い解決策は模索中だ。
確約はできないが善処するという言葉を出すと、吹雪は少し安堵した様子を見せた。
「まあ、いいわ。今は恭平クンのもとに急がなきゃ置いていかれちゃう。それでチビッコは? 駐車場で待ってるって?」
「いや、生徒会室の掃除をしていたって。吹雪に確認してもらってから行くと言っていたけど――」
「あっ……」
見る間に吹雪の顔が青ざめていく。今の会話のどこにそこまで青ざめることがあったのだろうか。
「何だ。どうした」
「ごめんなさい、先生……」
こちらを見る口元が引きつっている。
「あたし恭平クンに会議が終わったら生徒会室で、って言ってあるの……」
今朝、那智が生徒会室の掃除機をかけてあげると言っていたことを今の今まで忘れていたと吹雪は言った。
二人して顔を見合わせる。たらりと冷たい汗が流れる――。
「阿呆か。なに二人をブッキングさせてんだよ。今鉢合わせしたらマズイどころか最悪だろ」
「何よう。あたしだって考えることが多くてつい忘れてたのよっ。つい、よ。うっかりよ」
「いつも抜かりないくせに時たまやらかすよな、お前は。今こそうっかりを発動すんなよ。那智に何かあったら、あらゆる権限行使して卒業するまでお前を顧問付きの御用聞きに任命してやるからな!」
「御用聞きって、要は下僕じゃない。あの人泣いて喜びそうだけど、断固お断りよ!」
「じゃあ、気合入れて走れ!」
「走ってるわよ!!」
放課後になって生徒のいなくなった廊下の真ん中を常にないスピードで生徒会室までの道のりを走る。――頼むから、鉢合わせしないでくれ。
望みの薄い希望を胸で唱え、ひたすらに長く感じる廊下を走って階段を駆け上がった。
※ ※ ※
お兄ちゃんが私に馬乗りになって顔を覗き込んでくる。二人分の体重を受けて、ソファが深く沈んだ。
押さえつけられた肩が痛かった。
片方の手が私の喉に回され、冷たい指がそっと這ってくる。締め付けてくる力はぎりぎり呼吸が出来るくらいで、息苦しさにじわりと涙が浮かんだ。
お兄ちゃんが浮かんだしずくを口を近づけて吸い取る。
生ぬるい感触に私はぎゅっと目を閉じた。
「ずっと面倒だと思っていたんだ」
感情がごっそりと抜け落ちたような声だった。
恐々と開けた目に私を冷たく見下ろすお兄ちゃんの顔が見えた。
「朝、起きて顔を見るところから嫌だった。朝から寝るまで人に愛想振らなきゃいけない生活がずっと続いていくのが、どれだけ疲れる生活だかわかる? 年下だから僕のほうが気を遣わないといけないし――」
喉の締め付けよりも、お兄ちゃんの言葉に息が止まりそうだった。
「最初から、僕に妹ができるって知ったときからずっと面倒に思ってた。一緒に暮らすようになってからは、僕に擦り寄ってくるのがうっとうしかった。僕に笑いかけてくる顔が鬱陶しかった。本当はずっと泣けばいいのにと思っていたんだ。そうしなかったのは、僕にも世間体ってのがあるからだよ」
ぎりっと肩に置かれた手に力が入って顔をしかめる。
「みんな僕がいい子だと安心して放っておいてくれるからね。本当は何を考えているのかなんてどうでもいいんだ。那智だってそうだろ?」
私は弱々しく首を横に振った。
そうしてこぼれ落ちそうになった涙のしずくを、私の否定を止めるようにお兄ちゃんが再度吸い取った。
「ねえ、僕は優しい兄だっただろ。勉強が出来て、人当たりが良くて、他人に自慢できる兄……。自分だけは特別だって思ってた? 他は遠ざけて那智だけを傍に置いていたのは、ただの虫除けだよ。那智が見てきたのは虚構品。全部、嘘の作り物だよ」
また肩に置かれた手に力が込められる。痛みで熱を感じる。――これはお兄ちゃんの痛みで辛さなんだ。
「もう限界なんだ。可愛くもない妹を大事にするふりなんかするのは」
すごく痛い。痛いけど、うめき声を上げることだけはしなかった。それをしたら、お兄ちゃんを完全に否定していることになりそうだった。
「家を出て行ってくれて清々したよ」
一度息をすうっと吸って、お兄ちゃんは吐き捨てるようにそう言った。
下を向いて落ちる前髪。その間から覗く目が私の拒絶を求めていた。――髪、伸びたね。切りに行かなきゃいけないよ。
そんなことも気に掛けていられないくらいの時間がお兄ちゃんの中を通り過ぎていたことが哀しかった。
「幻滅しただろ」
確認するようにお兄ちゃんが呟く。
私はそれに否定も肯定もせず、苦しい息の中、手を伸ばして私を押さえつけるお兄ちゃんの左胸に触れた。
温かい鼓動が手の平を通して伝わってくる。そのリズムはどこまでも冷静な声に反して、早いリズムに感じた。
清々したなんてひどいこと言うね。
ごめんね、私が言わせたんだ。私がお兄ちゃんの前でもっとしっかりした妹でいなかったから。だからお兄ちゃんは私を切り捨てなくちゃいけなくなった。
頭が弱くて、我がままで、甘えたがりで……そんな妹じゃとても頼ろうなんて思えないよね。へへっ。キャラ作りちょっと失敗しちゃった。
これは代償だ。吹雪ちゃんの警告をちゃんと聞いておかなかったことへの。
「もう家に戻ってこないでいいよ。木村先生のことろでぬくぬくと生きていけばいい。誰にも傷つけられない幸せな場所で笑っていればいい」
誰かこの寂しい人を助けてよ。この人、私じゃ無理なんだって。
愛梨ちゃん、今こそお兄ちゃんの傍にいてあげてよ。もう一人が寂しいとか思わないからさ。お願いだから、支えてあげてよ。
「――兄ちゃん、ごめんね」
滲んでいた涙が今度こそあふれかえって落ちていく。抜け落ちていく力に持ち上げていた腕が離れていった。
「っ……那智」
首を締め付けていた指の力が弱まって――、
「那智っ!!」
扉が大きく開いて、お兄ちゃんの体が吹き飛んだ。
げほげほと喉を押さえながら横を向くと、お兄ちゃんが床に落ちた状態で諒ちゃんを睨みつけているのが見えた。口の端から血が滲み出ているのが痛々しい。
諒ちゃんはその姿を拳を握りこんで戦闘態勢で見下ろしていた。
「大丈夫!? チビッコ」
駆け寄ってきた吹雪ちゃんが私の体を起こしてさっと乱れた服を正してくれた。
「那智、お前は先に帰ってろ。俺はこいつと話があるから」
恐い顔をして諒ちゃんが低く言う。
「違う、お兄ちゃんは」
「いいから」
反論しようとした私を吹雪ちゃんが止める。
「立てるわね? 一人じゃ不安かもしれないけど、行きなさい。あたしはここで木村先生がやり過ぎないように見張っててあげるから」
「でも……」
「今はどんな言葉も届かないわよ。いいから行くの。あんたがここにいると、あの二人いつまで経っても冷静になれないわよ」
私に言い聞かせるように「ねっ」と言って、吹雪ちゃんは私を生徒会室から追い出した。
パタンと閉じる扉に完全にお兄ちゃんとの間を閉ざされる。
そこで初めて、私は自分の肩に手を置いて呻いた。肩が痛いことより、胸の痛みのほうが強かった。
私が言わせた。お兄ちゃんが私を切り捨てたんじゃない。私が切り捨てさせてしまったんだ。
「――めん。ごめんなさい」
届かない声は静かな廊下に消えていく。
しばらくそうして生徒会室の前で佇んだ後、開かない扉にのろのろと私は動き出した。
※ ※ ※
私、どうすればよかったんだっけ……。
ふらふらと階段を下りて廊下を進む。行き先に悩んで、諒ちゃんの言葉を思い出した。
「先に帰れって言ってた……」
帰るってどこに? 諒ちゃんの家? 今はそこが私の帰る場所なんだっけ。
歩き出すとき、気をつけなきゃ。いつも最初の数歩を桂木の家に向けてしまうから。
下駄箱まで来て鞄を持ってきていないことに気が付いた。
鞄、どこに置いたっけ? 数秒考える。あぁ、思い出した。確か教室に置きっぱなしにしていたはずだ。自分のことなのに、つい数十分前の行動が思い出せない。
「鞄、取りに行かないと」
教室に行こうと体を反転させたところで、何かにぶつかって後ろに転びそうになった。
転ばずにすんだのは、その何かが私の腕を掴んで引っ張ったからだ。固くて大きい手だった。その感触に既視感を覚えて顔を上げる。
「委員長……」
「大丈夫か。桂木 那智」
見下ろしてくる委員長に心配という文字が浮かんでいて少し驚く。心配すべきは私じゃないよ。お兄ちゃんのほうがずっと心配されなきゃいけないのに……。
お兄ちゃんの顔が思い浮かぶ。涙が滲んできて、咄嗟に唇を噛んで痛む肩を押さえた。
「大丈夫、じゃないな」
向かい合う顔の眉がひそめられると同時に震える肩が引き寄せられて、ほんの数瞬委員長の腕の中に囚われる。
浮かんでいた涙が委員長の制服のシャツに吸い込まれていった。
温かい陽だまりの匂いに心が緩む。もっと大泣きしてしまいそうだったので、私は委員長との隙間に手を差し入れて体を離した。
「ありがと、元気出た」
全然元気じゃない声が出てしまった。むしろ声は震えていた。与えられた衝撃から立ち直るには時間が短かすぎた。
「ここで待ってろ」
そんな私を見て委員長がやんわりと肩を押してその場にしゃがませる。
理由を聞こうとしない優しさが嬉しかった。言葉に甘えて委員長が戻ってくるのを大人しく待つことにする。
今もこうして誰かに助けてもらっている。お兄ちゃんはずっと一人だったのに……。こんなんじゃ切り捨てられたって仕方がないよ。
自分の情けなさに悔しさを感じて、委員長が戻ってくるまでの間、少しだけ泣いた。
「待たせた」
待たせたというほどでもない時間で委員長は私の鞄を持って戻ってきてくれた。
「ごめんね。ありがと」
立ち上がってスカートについたホコリを落とす。
目が少しはれぼったかったけど、涙は止めることに成功した。
諒ちゃんが戻ってくるまでに今までどおりの私に戻っておかないと、ますますお兄ちゃんへの印象が悪くなるだろう。
あれで本気で私を大事に思ってくれている諒ちゃんだ。明日以降も話し合いが続いては困る。諒ちゃんの言う「話し合い」が言葉だけですむだなんて私だって思っていない。
この目元で近所のスーパーをうろうろすることにちょっと気持ちが引いたけど、諒ちゃんが家に戻ってきたときすぐに夕食を食べられるようにしておこうとこれからの自分の予定を立てた。そうでもしないと動けそうになかった。
一人で帰れるから、と委員長の同行を断っていたときだった。スカートのポケットに仕舞い込んでいた携帯が着信を告げた。
着信相手は不明。
「はい――」
いぶかしみながら出る。
電話の向こうの言葉に、私は鞄を落としてその場に立ち竦んでしまった。
「桂木 那智?」
血の気がさあっと引いていく。急激に減った血流に指先がじんと痺れる。
「おばあちゃんが……倒れたって」
言った途端、着信の途切れた携帯からどうしようもない孤立感が体に滲みて行くのを私は感じていた。




