43・その行方
久々の諒ちゃんの家へのお泊りは、家主の帰宅を前に眠りに付いてあっという間に朝を迎えた。
自分のベッドとの感覚の違いに寝ぼけてベッドから落ちてしまったことは私だけの秘密だ。
諒ちゃんと時間差で登校して教室の扉を開けたところで、とりあえず会いたくないなぁと思っていた上位二番目の人物と出くわしてしまった。ちなみに一番目はお兄ちゃんである。
「おっはよー、ナッチー。今日も可愛いね。大好きだよ!」
出くわしたというか待ち伏せされていた感がハンパないんですが。
扉を開けて即効飛びついてきたので、身をかわす余裕もなかった。
「ナッチーは来るのが早いから、目覚ましをセットして急いで来たんだよ」
急いでって、多分二度寝したりしてたんだろうな。晃太先輩ならありうる。
朝からのこの無駄に高いテンションに、昨日の真剣な告白は冗談だったんだろうか、という思いにかられる。あれはきっと夢だったんだ。うん、きっとそうだ。
「毎日好きって言う約束だったでしょ? 有言実行。ボクってすごーい!」
夢じゃなかった。
「こらこら、晃太。そんな誰かれかまわず飛びつかないって言ったでしょ」
星太先輩が晃太先輩の腕を取ってたしなめる。そうそう。好意はうれしいですが、暑苦しいので離れてください。
「誰かれかまわずじゃないもん。ナッチーだからだもん」
言ってぎゅうと力を込めてくる。ぐふっ、苦しい。「ギ、ギブ」と腕を叩くとようやく離れてくれた。
「えっ、晃太それって」
「そう。ただ今モーレツアタック中!」
元気よく答える晃太先輩に、しばしの間星太先輩は目を丸くして動きを止めていた。星太先輩にとってはいきなりのカミングアウトだったらしい。
「なんか、そうらしいです」
当事者なのに他人事のように報告した。いっそ他人事だったら私も興味を持って観察できただろうに。なんで私?
「そ、そうなんだ。晃太ついに。うん……ボクが言うのもなんだけど、がんばって」
そう言ってポンと肩を叩かれた。星太先輩は最近けっこうな確立でテンションが並だ。晃太先輩と一緒にはしゃがれても困るので、この冷静な励まし(と言っていいのかは分かんないけど)はありがたかった。
「おはよう、那智ちゃん」
教室にいたのは海道先輩たちだけではなかったらしい。愛梨ちゃんもいたんだ……。
わずかの気まずさを感じつつ、私は「お、おはよう」と挨拶を返した。
最近、お兄ちゃんのこともあって愛梨ちゃんとは目を見て話ができていない。
昨日はとうとう家を出ちゃったし……、ってべつに愛梨ちゃんのせいなんかじゃないんだけど。
私一人が置いてけぼりになっているという思いに、幸せな二人を心から喜んであげられていない状況が続いている。
時々、愛梨ちゃんが何かを言いたそうにしている気配を感じ取ってはいたが、冷静に聞いていられる心境ではなかったのだと今なら白状できる。心が狭くてごめんなさい。
愛梨ちゃんが悪いわけじゃないんだよ。一人ぼっちだと確認させられるのが怖いだけなんだ。
以前の私だったら、根掘り葉掘り聞き出していたことだったのに……。自分のことばかりにかまけていて、すごく情けないことだ。しっかりしようよ、自分。
「おはよう、愛梨ちゃん」
かみ締めるようにもう一度、愛梨ちゃんの目を見て挨拶をした。愛梨ちゃんのくりんとした目が細くなって私を見返した。
こうして少しずつ向き合っていけたら、私も変わっていけるかな。そんなことを思った。
「まさか晃太先輩が那智ちゃんに告白するなんて思わなかったな。ビックリしちゃった」
「私もまだビックリしてる。ホントなのかなっていうのが正直なところ」
うん、大丈夫。ちゃんと話せている。
「ホントでーす! ナッチーってば疑ってたの!? ショックだよ。アイリちゃん慰めてぇ」
ようやく少し話ができたっていうのに入ってこないでください、という私のジト目も気にせず晃太先輩が間に割り込んでくる。
愛梨ちゃんがそのふわふわとした金色の髪をよしよしと撫でる。もう、愛梨ちゃんは晃太先輩に甘いんだから。
「えへへっ。ありがとぅ」
撫でてもらったことに満足したようで、晃太先輩の機嫌が直って笑顔に変わる。 晃太先輩のテンション上げ上げスイッチはずいぶんと軽い。扱いが簡単だなぁ。
「あのね、ちゃんと告白できる勇気を持てたのってアイリちゃんのおかげなんだ」
すすっと晃太先輩が愛梨ちゃんに近づいて耳打ちする。
手を添えてはいたけれど、元来の声の大きさから傍にいる私にも筒抜けだった。晃太先輩はけっこう色んなことに大雑把だ。内緒の話が苦手なタイプなんじゃないだろうか。
「えっ、私はなにも……」
「アイリちゃんがボクのことちゃんと見ててくれてるから、って言うのかな――アイリちゃんならボクがどんな失敗をしても、大丈夫好きだよって後ろで待っていてくれてるような気がしたから勇気を持つことができたんだ」
だからありがとう、と晃太先輩はアイリちゃんの両手をぎゅっと握った。
「あれ、これってボクの独りよがりってことになるのかな」
自分で言っているくせに首をかしげる晃太先輩に「いいえ」と愛梨ちゃんがやわらかく笑う。
「私、どんなことでも晃太先輩の選ぶことなら応援してますから」
自分でも嬉しいというように、愛梨ちゃんは晃太先輩と手を合わせて飛び上がった。
授業開始五分前のチャイムが鳴る中、愛梨ちゃんがポケットからうす桃色の紙を取り出して何かを呟いていた。
「こう……クリアか」
「どうかしたの?」
残念といった感じで再び紙をポケットにしまい込むので尋ねる。
「ううん、ちょっと確認事項があっただけ」
そう言ってふわりと愛梨ちゃんは笑った。
※ ※ ※
度々の晃太先輩の襲来をなんとか乗り切って放課後――。
校舎の片隅、人目につきにくい場所にて。現在、私は見知らぬ先輩に詰め寄られていた。
「頼む。モデルになってくれ!」
両手でお願いポーズをするこの人を本当に私は知らない。かろうじて分かるのは上靴が黄色なので彼が二年生だということくらい。
面識のないこの先輩に突然呼び出されてハルちゃんは「きゃあ、告白!?」なんて目を輝かせていたけど、そんな心配はまったくいらなかった。
「いや、そんなこと言われても……」
何がどうして、こんな平凡娘にモデルをと言ってくるんだこの人は。
モデルと言うならば、もっと大人美人でスタイルの良い人に頼めばいいのに。うっ、自分で言ってて辛い。
どうせ私は低身長のロリ顔ですよ。それがマニア受けするんだよ、とハルちゃんは言っていたが、そんなマニア受けする要素なんて知りたくないわ。
ハルちゃんは変な知識ばっかり持ち合わせている。色んなことに興味があるんだよ、と本人は言っているのだが、興味のあることが八方美人すぎる気がする。
「きみ冬吾先輩のモデルをやっているんだろ」
「いや、そんな事実はまったくないですが」
むしろ冬吾先輩のモデルといえば愛梨ちゃんだと思うけど。たまにこちらにカメラを向けてくるのは、それが私をからかうための手段となるためだ。
あの適当男はいったい何を言って回っているんだろう。
ふつふつと苛立ちがこみ上げてくる。本当にあの人は私を怒らせるのが上手だ。もうプロの域に達しているんじゃないだろうか。私を怒らせるプロ……迷惑極まりない。
「きみはモデルとしてすごくいいと思うんだ。先輩はきみを被写体にしたらいいものが撮れたって言っていたし。俺だってこれを見てすごく胸を打たれたんだから」
私の目の前にずいと雑誌が突き出される。
なんてことはないペラペラとした光沢のある雑誌だった。一冊千円弱ってところだろうか。
だが、そこに載っていたものに私は目をむいた――。
「こ、これって……」
「この賞って、なかなか素人では入選すら難しいってのにいきなり副賞だよ? だったら俺にもチャンスを――」
全神経がそのぺらい紙の上に集中して、それ以上の先輩の熱弁は耳に入ってくることはなかった。
「ダメもとでもいいんだ。是非僕の被写体として」
肩がわなわなと震え出すのを感じた。だって、これって……。
「あ、あんのチャラ男……」
「え、あの桂木さん?」
ようやく怒りが伝わったのか、先輩の足が後ろに下がる。
「肖像権の侵害はするなと何度言ったことか」
雑誌を持つ手がぷるぷると震え、振動が伝わって雑誌までバサバサと音を立てて大きく震え出す。
私が顔を上げると、先輩はもう涙目になっていた。とても恐いものを見るような目つきをしている。何て失礼な人なんだろう。ほら、私笑っているでしょ。ふふふふっ。
「先輩」
「ひいっ」
語尾にハートマークでも付きそうなほど優しい声音で言ったのに、なんでさらに後ろに下がるんですか。つくづく失礼な人ですね。
「とてもいい情報をありがとうございます。すみませんがモデルの件はお断りします。別の人をあたってください。あとこの雑誌、他の人の目に触れないようにしてくださいね。でないと私、何をするか……」
「は、はははいぃっ」
雑誌を渡すときに力が入ってしまい、びりっと先輩が指し示していたページが破れて取れてしまう。
「あ、すみません。ついうっかり……。破れてしまいましたね。弁償しましょうか?」
「う、ううん、大丈夫。ほ、他のページは無事だから。何ともないよっ。だからもう許してくださーい」
最後は遠くから響いてきた。猛ダッシュで私の目の前から消えていった先輩の雄たけびが校舎に反響して、「さーい」の部分だけがわぁんと鳴っていた。
手元に残されたページをくしゃりと握りつぶす。
「何て破廉恥な写真を」
言いようのない怒りに囚われてやってしまったが、あの先輩には悪いことをしてしまった。こんなものを見せられて頭が冷静になりきれなかったのだ。あの先輩も悪い、としておく。
けど、いつか校内で出会うことがあったら謝ったほうだいいのかな。さっきの様子では、私の顔を見た途端逃げ出されそうな気がする。
そんなに恐かったのかな、私の顔。ちょっとショック。
いいや、すべては冬吾先輩のせいだ。
「こんな写真……」
怒りや恨みは溜め込まないたちだが、これは怒っていいポイントだろう。というか今すぐ怒らないでいつ怒ればいいんだ。
「胸倉つかんで土下座させてやる」
先輩がすぐに帰宅することはあまりない。いつも校内をうろついて写真を撮っているから。まだ残っている可能性は高い。
私はぐしゃぐしゃになったページを制服のポケットに突っ込んで走り出した。
※ ※ ※
道場に竹刀の打ち合う音が響く。
白と赤のタスキを背中に付けて、試合方式で五対五に分かれる部員たち。それが二組。応援の声がけをする他の部員の声も混ざって、道場内は熱気に満ちている。
道場は広く、二組のチームが同時に二面を使用して試合を行っても余白はまだ十分にあった。だが、そのどちらの側にも「岩田」の名前はない。
「なあ、岩田。最近調子が悪いんじゃないか」
簡易の折りたたみ椅子に座る顧問。背は低いが体つきは頑強で、剣道部というよりは柔道部と言われたほうがしっくりきそうな体系だ。その前に正座して、じっと言葉を待つ。
「この間の練習試合も精彩に欠けていたし――」
今、部内の練習試合は副顧問が見ている。一方に偏らずそれぞれに檄をとばす姿は真剣に剣道が好きなのだと伝わってくる。――俺はどうなんだろう?
自問自答するが、答えは出なかった。
「しばらく剣道を休んじゃどうだ?」
はっと顔を上げると、困り顔の顧問と目が合った。
「いや、しばらくと言っても今週の練習だけだ。お前は貴重な戦力だから――だがな、貴重な戦力だからこそ、休んで英気を養って欲しいんだ。俺は若いうちは何も考えずがむしゃらに練習に取り組むことが一番だと思っていつも指導をしている。だがそれだって人次第だ。今のお前は真剣に剣道に取り組むことに対して悩みを抱えているんじゃないかって、俺にはそう思えてならないんだ」
一足先に着替えを済ませて道場を出る。
すぐに足を校門へと向けられず、外の水道で顔を洗った。練習などほとんどしておらず、汗もそこそこにしかかいていないのにそうするのは、頭を冷やしたかったからだ。
だが、冷たい水は頭の冷却にはほとんど功を奏しはしなかった。
「お前には考える時間が必要なのだと俺は思うよ。今回のことは、もう一度剣道について見つめなおす良い機会だと思えばいい。お前には長い剣道人生を歩んでもらいたいんだ。そのために一度歩みを止めてほしい」
顧問の言う通りだ。
この間の練習試合は散々だった。得意の面は生かしきれず、防戦に回ることも多かった。一発で決められずに次の二手、三手で手の内を変えて小手や胴で何とかその場を凌いだ。
試合に勝ちはしたが、いつものようにいっていないことは、顧問にはお見通しだったようだ。
最近自分の気持ちがよく分からない。言葉に出来ないもどかしさに囚われることが多い。何が好きで何が嫌いなのか、あれほど真剣に取り組んできたはずの剣道でさえ、好きかと問われたらはっきりと好きだと言える自信がなかった。
よく人を見ていると思う。
練習は厳しいが、慕われている顧問だ。
「俺の勝手な希望だ。嫌なら従わなくていい。だが、少し考えてみてくれ」
提案にはありがたく乗らせてもらうことにした。けれど、果たして週明けにこの鬱々とした気分が晴れているものだろうか。
もし、ずっとこのまま調子の悪い状態が続けば、せっかく得られた試合への参加権も失ってしまうのではないだろうか……。
「どうしたの。気分でも悪い?」
春の気配がした。
心安らぐはずの気配に、しかしささくれ立った胸が「来るな」と告げる。
「べつに」
今は声をかけてほしくなかった。短い言葉でも察知してもらえたらと思う。彼女なら察してくれるだろうという甘えが自分の中にあることにすら戸惑った。
「悪い。今はちょっと」
彼女に関わると、いまいち自分の思考というものがはっきりと浮かんでこなくなる。何かを言われると、ふわふわとした空気に彼女の言葉が正しいのだろうという気分になってしまうのだ。
「そっか。今は邪魔しないほうがいいみたいだね」
険のある空気を察知した彼女が一歩下がる。
笑う顔はきれいで、でも少し寂しげな様子だった。そちらこそ気分でも悪いんじゃないだろうかという気にさせられる。
「岩田くんは言葉にしないから、ちょっと心配なの」
言って二歩下がる。どこかで春の気配が遠ざかったことにほっとする自分がいた。
「私、岩田くんの真っ直ぐなところが好き」
突然の言葉だったが、それは告白めいたものには思えなかった。穏やかな目元が、先ほどの自分を心配する顧問の目とダブって見えた。
相手を労わるような目だ。同学年なのに、成長を見守る年長者のように感じられるのが不思議だった。目が合うと、すぅっとさりげなく逸らされた。遠くを見つめる横顔もまたきれいだと感じた。
「剣道に向かう姿勢もそうだけど、人に向かう姿勢も。でもきっと岩田くんみたいに真っ直ぐな人はあんまりいないんじゃないか、とも思うの。みんなどこかで少しずつ曲がったり、ねじれたりする……」
でもそうなって曲がったりねじれたりしたものも好ましいものだと彼女は言った。
彼女の言おうとしていることの本質は分からないが、感覚としてなら理解できるような気がした。目の前にいる彼女とは違う女子の姿が頭に浮かんだ。
「私はしばらく岩田くんに近づかないようにするね。でないと岩田くんはきっと自分の言葉を見つけることができないから」
努めて明るく言う態度に胸が締め付けられる思いがした。
そんなつもりで「今はちょっと」と言ったわけではない。ただ少し、自分の時間が欲しかっただけで。
寂しげに微笑む彼女の力に寄らなければと足が動いたが、それは彼女の手で押しとどめられた。
「きみに私の力は必要ないんだよ」
はっきりとした拒絶に胸が痛いと同時に安堵しているのは何故なのか。
どうしてそんなことを言うのだろう。自分が彼女に対して何かを求めたことはないのだから。でも彼女と関わることで、その静かな佇まいに落ち着きを感じていたこともあったはずだ。
気づかないうちに彼女に負担をかけていたのだろうか。言葉の足りない自分はどこで何をやらかしているか分からない。
先ほどの顧問とのやり取りも含め、自分の足元がおぼつかない感覚になる。「待て」と言えばいいだろうに、そんな短い言葉すら出すことは叶わなかった。
これは聞き流してほしい、と彼女は前置きをして言葉を続ける。できれば耳を塞いで欲しいという願いに請われるまま両手で耳を塞いだら、微かに目を見開いた後、笑われた。
「本当はけっこう前から分かってたの。少ない希望にすがりつきたい私の自己欺瞞で振り回してごめんね」
くぐもった声が塞いだ手の外側から聞こえてくる。
初めて彼女の本音を聞いたと思えた。寂しくて優しくて胸の奥に響くあたたかさを持っている。
「少しくらい曲がったり、ねじれてしまったとしても、岩田くんは――」
消え入る声は聞かずとも良いと思えた。
もういいよ、とかけられた声に両手をはずす。
「岩田くんの元気が戻ったら、試合を見に行ったり練習の見学をさせてもらってもいいかな?」
恐る恐るというふうにこちらを伺う顔。彼女がこんな顔をするのは始めてではないだろうか。だがこれまで見てきたどの顔よりも好ましい顔だと思えた。
かまわないと頷くとほっとしたように息を吐いていた。
だが、顧問とのやり取りはついさっきのことだ。部外者の彼女がそれを知っているような口ぶりをするのは何故なのだろうか。
浮かんだ疑問を感じ取ったように、「秘密の情報源があるんだ」と口元に指を当てる姿はいつもの彼女のようだった。
「ちょっと何なんですか、この写真はっ!」
静けさに訪れた喧騒は、最近耳に心地よい声のもので、だが何事かと振り向かせる強い引力を持つものだった。
声と同時に鳴ったのはドガッという鈍い音。
目を向けた先で顔見知りの上級生が前のめりに体制を崩す姿とその後ろに着地する女子の姿が見えた。
「女子がとび蹴り……」
つくづく予想の斜め上をいく彼女。
続けざまに詰め寄ろうとするので、慌てて止めに入った。委員長としてクラスメイトの暴行を黙って見逃すわけにはいかない。
さっきまでの鬱々とした気分がどこかに吹き飛んでいることには気づいていなかった。
※ ※ ※
探していた背中は剣道部横の植木の傍で発見できた。被写体を探しているようにうろうろと散策している。
「ちょっと何なんですか、この写真はっ!」
今がチャンスとばかりに私は助走を付けて思い切り飛び上がった。
きれいに決まった。冬吾先輩の体は前につんのめって体制を崩した。よしっ。
勢いのまま詰め寄ろうとしたところで、脇の下から手を入れられて引き剥がされた。もう邪魔しないでよ。いいところなのに。
「そのくらいにしておけ、桂木 那智」
委員長の低い声が耳元でして、高揚していた気分が多少落ち着きを取り戻す。だがまだ怒りの収まらない私は委員長の腕の中でもがいて暴れた。
「もう、離してよ委員長! 私の怒りはこんなことくらいじゃ収まらないんだから」
ほらもう復活して体勢を立て直している。せっかく背後からふいをついたのに。
「あいかわらず凶暴なんだから。今度は何? オレ今日は何もしてないと思うんだけど」
冬吾先輩が背中に付いた足跡を見てあきれた声で言った。
「何もしてないわけないでしょ!」
私はポケットの中からくしゃくしゃになった雑誌のページを取り出した。
ぱっと広げて見せると、「あ、見たんだ。なかなかよく撮れてるでしょ」なんてけろっとした顔をして笑ってくる。
「よく撮れてるでしょ、じゃない!! 私の承諾は!? 人権は!? 肖像権は!?」
委員長を振り払って詰め寄ると、なぜか嬉しそうに頭をよしよしと撫でられた。撫でるな。なんだその小さい子を相手にしてますっていう顔つきと態度は。
「あはは、ごめんねぇ」
それは謝る人の態度じゃない! だから撫でないでって。
「まあまあ。済んだことは水に流して――」
流せるか。
睨み付けるも、冬吾先輩の目は私を通り越して違う人物に向けられているようだった。
「実は応募するぎりぎりまで迷ってたんだけどさ、オレの直感に従って人工物にしたんだ。まずまずの結果が得られたから良かったんだけど、ごめんね」
「いいんです。冬吾先輩の出した結果ならそれで。私も雑誌見ました。すごく……、うぅん、すごいじゃ言い表せきれないほど良い写真でした」
後ろで愛梨ちゃんが笑っていた。哀しそうな目が私の怒気を一気に引き下げる。何かをしてあげなければ、という思いに駆られる目だ。
――愛梨ちゃん? ……ねぇ、どうしてそんなに哀しそうな目をしているの?
この感情は何と表現したらいいんだろう。単純に兄を取られたことへの嫉妬でもなく、どうして幸せそうにしていなければいけない人が幸せそうにしていないのかという怒りでもない……。
今すぐ触れないと溶けて消えてしまいそうに見えてしまうのがただ哀しい。そんな渇きが胸に広がっていく。
「ごめんね、愛梨ちゃん。この考えなしのバカ冬吾先輩がいらないことをしたばっかりに、辛い思いをしたね」
私は突きつけていたページが地面に落ちるのもかまわないで、寂しげに微笑む愛梨ちゃんの胸元に飛び込んだ。
「え、それはちょっと違うんだけど」
お門違いのことを言っていることは自覚済みだ。でも愛梨ちゃんの何を指して「哀しそうだったから」と言えない私は、冬吾先輩の写真のせいにして愛梨ちゃんをぎゅうと抱きしめた。
戸惑い気味に愛梨ちゃんが私を受け止める。優しい空気が私を包み込んで、あたためる。そこにわずかに流れる哀しみを取りこぼさないように、私は愛梨ちゃんの腰に回した腕に力を込めた。
「どうしたの、那智ちゃん。苦しいよ」
苦笑してやんわりと私を離そうとする腕の中で、私は嫌だと首を振る。
「私……お兄ちゃんのことも大事だけど、愛梨ちゃんのことも大事なの」
「っ!!」
愛梨ちゃんが息を呑むのが分かった。いつも好きだ、大事だと体全体で伝えてくれる愛梨ちゃん。でも彼女自身は誰かにそう言ってもらえているのだろうか。モテモテの人気者の彼女なのに、ふとそんなことが頭に浮かんで消えた。
「……ありがとう」
小さな呟きに顔をあげる。愛梨ちゃんのきれいな目じりに涙が浮かんでいたように見えた。
「もう、なんでそこまで嫌がるかなぁ。こんなに良く撮れてるのに。いつもの十割り増しなのに、ねぇ」
かさっと紙の鳴る音がして冬吾先輩のおどけた声が委員長のほうに向かって放たれた。
開かれたページがそれ以外目に入らないよというくらい近い位置で、委員長の目の前に展開される。
そこに写るのは――桜の花びらの舞う中(桜はまだいい。桜だけなら。私も花見は好きだもん)、うすく口元を開いて(バカみたいに呆けるように見える)うつむきがちに(ねえ、ちょっとこれ半目になってない? 大丈夫って誰か言ってぇ)遠くを見つめる私の姿が(たぶん、これ入学式のときのやつだ)――。
「やめてぇ。見ないでぇっ!」
私はぱっと愛梨ちゃんの胸元から離れて(ふくよかだった。羨ましい)、その忌まわしいページを冬吾先輩からもぎ取った。
委員長が驚いたようにこっちを見る中、私は奪ったページをぐしゃぐしゃに縮めて丸くして「ええい、こんなものっ」と放り投げた。
「えっと、一ついいかな」
私の行動に愛梨ちゃんと委員長は二人して固まっていたが、冬吾先輩だけは冷静に状況を分析していた。
最近立て続けに私の突飛な行動を目にしていたためだろうか。この人、ショックからの立ち直りが早くなっている気がする。
「あれ、誰かに拾われたら中身見られるんじゃないの」
「ああっ、しまったぁ」
その可能性にまったく頭が働いていなかった。猪突猛進な自分が憎い。
慌てて放り投げた先に走って行って捜索にあたる。
投げた先は植木ですぐに見つけられないくらいには緑が生い茂っていた。なんで こんなことにという後悔と、あれを誰かに見られてしまったらという羞恥心で涙目になる。
がさがさと避けられる植木は避けて探すも、目的の物体は見つからない。
必死で探す私に委員長が「俺も探す」と捜索に加わってくれた。ありがとう。でも中身は見ないでね。すぐに焼却炉に持っていくから。
愛梨ちゃんも加わり(冬吾先輩はそれを楽しそうに見ていた。そもそも先輩のせいなんだから加わってよ)、しばらくして委員長が「これか?」と丸まった紙を差し出してきた。
「よかった。委員長ありがとう。じゃあ」
さすが委員長。頼りになる。私はそれを受け取って、焼却炉方面にダッシュした。
中身を確認しなかったのは、委員長への絶大なる信頼と、もう中身を見たくないという猛烈な恥ずかしさのためだった。
※ ※ ※
「偽物を渡すなんて、見かけによらずやるじゃん」
彼女を怒らせた原因の上級生がカメラをこちらにかまえてくる。ファインダー越しににやりと笑う口元が見えた。
「さぁ、なんのことだか」
丁寧に折りたたんでポケットに仕舞い込んだ紙に気づいたのは彼だけではないようで、水野 愛梨がくすりと笑う。
仕舞った場所は胸ポケットの中。それが熱を持っているように感じて手を置く。
にやにやとした顔で面白げに見てくる視線に耐え切れず、これ以上の違和感を悟られないようにその場を去った。
ちょっとほのぼの。




