幕間:火曜日・夕刻
那智が告白された日の夕刻。
晃太:
家に帰ると玄関前で弟の星太と出くわした。
「うわっ。どうしたの晃太。びしょ濡れじゃん」
「うん、ちょっと雨の中で遊んでて」
おかまいなしに家に入ろうとして止められる。
「床が濡れちゃうでしょ」
二人だけだと、わりと頓着しないボクの面倒を見るのは星太だったりする。――ボクよりしっかりしているんだよね、星太は。
星太にタオルを取ってきてもらって体を拭く。
傘を持っているのに何をしているのかと問われて、「雨に濡れたい気分だったの」とぷうと頬をふくらませた。
「ちょっと待てばそんなに濡れなくてすんだのに」
「待てなかったんだよ」
だってあの子がさびしそうにしていたから。――いますぐ笑ってほしい、ってそう思ったんだ。
いままでのボクだったら、相手に好きになってもらうためにそうしただろうけど、彼女に関しては違った。
元気にさせたい。笑わせたい。力になりたい。
そんな思いが根底にあった。見返りなんて全然期待してなんかなかった――ボクの力でそうできたなら嬉しい、ってただそれだけだったんだ。
雨の中、はしゃぐ彼女が可愛くてつい捕まえてしまった。「ごめんなさい」よりも「ありがとう」が聞きたくて触れた唇に言葉が止まらなくなった。
もっともっと時間をかけてボクのことを好きになってもらおうと思っていたのに……。
ナッチーが好きだ。
迷惑そうな顔をして、近づくボクを避けようとするところも可笑しくて可愛くて、好き。好かれているわけじゃないのに、それでいいと思えるのは今のところ彼女だけだ。
「なに笑ってるの」
星太のあきれたような声に我に返る。
「えへへ、ちょっとね。雨の中でひらひら飛んでたチョウチョを捕まえたんだけど、困っていたから逃がしてあげたこと思い出してた」
逃がしはしたけれど、好きだと言った言葉はちゃんと受け止めてもらえた。
今はそれでいい。
明日から毎日好きだって伝えるんだ。
ボクは今、恋をしている。
きっと報われない恋なんだ。そんな予感がする。ちゃんとした答えは聞いていないけど、たぶんあの子の心には他の誰かが住んでいる。今日はその端っこにでも引っかかることができたからいいや。
決定的な失恋は先延ばし。明日のあの子の心はまだ決まっていない。結果が翻る奇跡だって起こるかもしれない。
「よぉし、明日からがんばるぞ!」
首をかしげる星太の横を通ってお風呂場に向かった。
※ ※ ※
愛梨:
帰り際にコンビニで購入した雑誌を広げる。
お勧めの撮影スポットや最新式カメラの特集を扱っているページはぱらぱらと流し読みして通り過ぎた。
目的のページに到達して息を呑む。
「すごい。記録にある中で一番かも」
そこには冬吾の撮った写真が掲載されていた。
タイトルは『憧憬』。
「憧憬、か……」
言葉が指し示すものは何だろう。
被写体自体が憧憬の念を持っているようにも見え、カメラを向けた人が被写体自体に対して憧憬の念を抱いて撮影したようにも見える。どちらにしても胸を打つ作品だった。
彼に声をかけるためのものだったそれは、思ってもいなかったため息をもたらした。
かさりと手の平に入り込む紙の感触に手元を見る。
いつものうす桃色の便箋に『感心している場合!?』と書いてあることに苦笑した。
「仕方ないじゃない。だってすごく素敵なんだもの」
比較的大きく載った写真に指をすべらせた。彼もこの出来なら満足がいっているだろう。
これは彼が自ら選んだ写真だ。
いつもなら愛梨にどの写真がいいか相談し、その後感心してもらうためだけに作品が載ったことを自慢してきただろうが、今回はそうならないだろうと思った。
複雑な心を持つ彼だが、少しは前に進めたのではないだろうか。そのことに「よかった」と言葉を漏らした。
『……バカ。お人よし』
先ほどのメッセージに続きが加わる。文字だけなのに、彼女がすねている様子が容易に頭に浮かんだ。
「いいのよ。それで上手くいくのなら」
今日は他にも良いことがあった。
女神からの報告で晃太が那智に告白したということを知った。
ショックはそれほどない。そっか、晃太先輩がんばったね。そう思った。
人に好かれることを闇雲なこだわりとして持っている彼が、いい返事をもらえるはずのない那智に告白したことがすごいのだ。
異性として好かれていない事実を知っても、今の彼ならきっと笑っているんじゃないだろうか。
彼に対してほとんど何もできなかったことだけは少し残念だけれど、彼の勇気を称えたいと思う。
そのことも女神をあきれさせる原因となっていることは知っている。「晃太先輩すごいな」という感想を漏らしたことに、『バカ』という言葉を続けざまに三回受け取った。
『諦めるの?』
ゲームを放棄してしまうのかと責めるというより、意志の低下を心配するような文字に目を細める。
きっと「諦める」という選択肢を選んだとしても、彼女はその意志を尊重してくれるのだろう。
このまま元に戻ってしまったとしたら――とても後悔することになる。
「ううん、私は諦めないよ。私の力を必要としない人もいるけど、まだ助けなければいけない人は残っているもの」
まだゲームの登場人物としてできることは残っている。
最初の頃はみんなを助けるための大きな力になるのだと、自分がそれだけすごい存在なのだと言われたことにただ喜んでいるだけだった。
ある種の使命感を感じてしまうのは、人外の存在に出会えば誰しもが起こしうる錯覚だ。
今は誰かの杖でありたいと願っている。――そう、支えるためだけの杖であればいい。だって結局、人が立って歩いていくためにはその人自身の力がないといけないんだもの。
その一方でこうも思う。
一人で立って歩けない人にとって杖は必要だが、一人で歩ける人にとって杖はただの荷物にしかならない。
不要な杖は取り去ってしまおう。
変わりゆくリアルに心は変化する。自分よがりの願いは他者に寄り添いたいという願いとなる。――きっとあの人にも私という杖は必要ないんだ……。
「諦めたりしないから、お願いだから途中で放り出すことだけはしないでね」
発した言葉に『もちろん』と文字が浮かぶのにほっとした。いい加減な女神だが、口にする言葉には真実しかないことを知っている。
明日、少し動いてみよう。それはきっと彼にとっても悪いことにはならないはずだ。
女神が知ったらまたあきれられてしまうかもしれないその思いをそっと胸にしまい込んで、手に持っていた便箋をびりびりと破いて捨てた。




