42・降る
バッティングセンターからの続き。
バッティングセンターの前でハルちゃんと別れて腕時計を見る。
時刻は午後六時。
日も暮れてくる頃だが、まだ帰らなくても遅い時間じゃないことが私の足を止めていた。
「どうしたの、ナッチー?」
六時半を過ぎればさすがに家路につかないとまずいとは思う。
でも今朝、お兄ちゃんに捨て台詞を吐いて家を飛び出した手前、三十分といえども遅く帰りたいという気持ちがあるのも確か。
だからといってこの三十分という中途半端な時間。晃太先輩を引き止めておくのは悪い気がして、私は「いえ、なんでもないです。帰りましょうか」と顔を上げた。
(天気も悪いし……)
空は相変わらず曇っていた。もしかしたら、さっきよりも雲の量が増えているかもしれない。これは雨が降り出さないうちに帰ったほうが無難な気がした。
「あ、雨……」
晃太先輩がかざした手に雨粒が浸みていく。
それはすぐに二滴、三滴と増えていった。粒の大きさは径を増して、一分と経たないうちに土砂降りとなって地面をあっという間に水浸しにしていく。
地面の少しへこんだ部分が大きな水溜りとして点々と姿を現し始める中、屋根の内側まで降りこんでくる雨を避けて後ろに下がった。
「どうしよっか……」
二人して空を見上げて途方に暮れてしまう。
ハルちゃんのくれた眼帯ウサ吉の傘では到底このどしゃぶりから身を守ることはできないだろう。
可愛いだけが取り得のこの小さい傘では、一人でもせいぜい肩が濡れずにすむくらいだということは二人とも言葉に出さずとも分かっていたことだった。
「すみません。私がぐずぐずしていたから」
さっさと別れていれば、晃太先輩だけは多少濡れることにはなっても傘を差して帰れただろうに。
ごめんなさいと横を見れば、晃太先輩が傘を畳み、建物の柱に鞄を置いてどしゃぶりの中に飛び出していった。
「えっ、晃太先輩!?」
「どうせびしょ濡れになるなら、ちょっと遊んで行こうよ」
一歩外に踏み出せば、跳ねる雨のしずくが何重にも重なり合って白くけぶる世界だ。
屋根で隔てられたその水の世界に、晃太先輩は躊躇なく走っていった。
雨はあっという間に晃太先輩の髪を濡らして、光る金色の髪を灰色に変えていく。天然のシャワーはものの十数秒で先輩の全身を水で浸した。
そんなことなどおかまいなしと水溜りに飛んで着地しては楽しそうに笑い声をあげて次の水溜りに飛んでいく先輩は、雨の到来を喜ぶカエルのように見えた。
晃太先輩が「楽しいよ」とぴょんぴょん飛んで私に笑いかけてくる。
飛ぶ飛沫が水溜りに落ちて波紋を広げていった。晃太先輩の動きに合わせて跳ねる水が楽しいリズムを刻んでいるようだ。
「ほら、ナッチーもおいでよ」
雨の中で手を差し出してくる晃太先輩はずぶ濡れなのに、そこだけ明るく太陽に照らされているように感じた。
楽しくてたまらないという顔に引かれて、まあ、どうせ濡れるなら、と私も鞄を置いて外に飛び出す。
水溜りに飛び込むと、やっぱり靴はぐしょぐしょになってソックスがべったりと肌に張り付いてきた。
それを気持ち悪いと思う間もなく、晃太先輩に手を取られて次の水溜りに移動する。
髪も服も雨に濡れて張り付いてきた。けど、水滴を拭う間もなく雨が落ちていくのでかまう余裕もなくなって、気づけば私は晃太先輩につられて声を上げて笑っていた。
一つの水溜りに跳んで入って、じゃぶじゃぶと子供がするみたいに足を踏み鳴らす。
小さい頃、雨の降る日はいつもこうやって、腰から下がびしょびしょになって家に帰っていたことを思い出した。
スコールのようなどしゃぶりは十分ほど続いて小雨に変わった。
これならバッティングセンターの中で待てば良かったとも思ったけど、濡れねずみになってしまったことを差し引いても楽しかったと言えたのでこれで良かったのだと思う。
「晃太先輩」
「なに?」
私の呼びかけに晃太先輩が首をかしげる。全身ずぶ濡れで灰色に変わってしまったのに、先輩の瞳は澄んだきれいな色をしているなと感じた。
「さっきのこと、ごめんなさい」
自然と晃太先輩に謝りたい気持ちになった。いつのことかと聞かれて「職員室の前でのこと」と言い添える。
「みんな楽しいことに流されたいって言ったの、ただの八つ当たりですから」
みんなが楽しいと感じるのは、晃太先輩がみんなを引っ張っていくからだ。
気持ちが落ち込んでいる人もその引力に引っ張られて楽しい気持ちになれる。考えてみれば、そういうことができる人って実はあまりいなんじゃないだろうか。
誰かを楽しませたりすることはとても簡単なことのように思える。
でもその簡単なことを難しいと考える人もこの世にはたくさんいるのだ。逆に自分だけがはしゃいで置いていけぼりにしてしまう人だっているだろう。
全員を楽しい輪に入れてあげられる能力が晃太先輩にはあるのだ。
晃太先輩の「楽しい」の時間にみんな惹かれる。
私も例に漏れず、今の時間を心から楽しいと思えた。
「先輩とじゃなきゃ、きっと今だって楽しいと思えなかった……だから、ごめんなさ、」
「謝るよりはありがとうって言ってもらいたいな」
ふっと小雨が止まって黒い影が頭上を覆った。晃太先輩が眼帯ウサ吉の傘を差して私を見下ろしていた。
小さな影の下、晃太先輩が指で私の「ごめんなさい」という言葉を止めていた。濡れた指先が私の唇に触れて雨のしずくが顎を伝っていく。
「ナッチーは今日ボクと一緒にいて楽しかった?」
こくりと頷くと、伝わった水滴が下にポトッと落ちていった。
「そっか。良かった」
傘に落ちる雨音が響く。小さな傘はやっぱり二人で入ると狭いと感じた。
「最近はさ、こうして傘に当たる雨の音を聞くことが雨の日の楽しみ方になっちゃってるけど、全身で雨を感じることも楽しいことだよね」
私の髪から落ちるしずくを晃太先輩が拭い取って頭を撫でてくる。
いつもは晃太先輩が頭を撫でられるほうなのに、されるほうに立場が変わると気恥ずかしい感触がした。
少し身をよじってしまう。
でも避けた先まで晃太先輩の手が追ってきて、萎れて垂れた黒いリボンが捕まってしまった。
「ボク、ナッチーのことが好きだよ」
いつにない真剣な顔に、それ以上の逃げ場を見つけられなかった。
「わ、私は――」
好きじゃないと言いかけて、以前の哀しそうな顔を思い出して口をつぐんだ。晃太先輩は誰かに嫌われることが嫌いだ。私はそれを知っている。
困り顔をする私を見て、晃太先輩が苦笑する。
「ボクはみんなと楽しいことをするのが好きで、みんなを楽しませたいとずっと思ってきた。それでみんながボクのことを好きになってくれると嬉しいって――それがボクの行動原理なんだ」
見返りが必要なんだよ、とちゃかして言うのが晃太先輩らしくないと感じた。
「だからボクのことを好きじゃない人には好きになってもらいたい。そのためには一生懸命ガンバってきた」
あぁ、だから私にかまってきていたのか。以前、私が「聖人君子じゃあるまいし、誰にでも好かれることなんて出来ませんよ」と言ったからだ。
その後で嫌いではないというフォローはしたけど、晃太先輩は私が先輩のことを好きじゃないと思っていたからちょくちょくかまってきていたのだと理解した。
理解して胸がチクリと痛んだ。――私、本当に先輩のことは嫌いじゃないのに……。
「でもナッチーは別。好きになってもらわなくてもいい……」
その言葉に少なからずショックを受ける。
みんなのことが大好きな晃太先輩にまでこんなことを言われるなんて、私ってどれだけ嫌われ者なんだ。
私はどこに行っても一人なのかと感じて、行き場のなさにその場にしゃがみこみたくなった。
我慢して唇を噛むことで耐える私に「うわ、待って。ちょっと誤解してない!?」と慌てた様子で先輩が傘を放り出す。
「誤解もなにも、晃太先輩は私のことが嫌いってことですよね」
うっ……、自分で言葉にすると更にショックが倍増なんですけど。もう帰っていいですか。
「やっ、待ってって。今、好きだって言ったばっかりでしょ」
「だって、私に好かれなくてもいいって言ったじゃないですか」
やさぐれモードでそっぽを向いた。
とても晃太先輩の顔を見て話をする精神状態じゃない。ぶすりと刺すなら、いっそのこと一気に終わらせてほしい気分だった。
「あー、もう。なんて言ったらいいのかな。好きになってもらうことって、イコールボクなりのこだわりってことなんだけど……。その、ナッチーが本気で考えて出した答えがボクのことを好きじゃないってことだったら、すんなり受け止められるような気がするんだ。……ということを言いたいんだけど。うーん」
しどろもどろの説明に私になんとか理解させたいという気持ちを感じて、私なりに晃太先輩の言葉の意味を考えてみる。
えっと、みんなに好きになってもらいたい先輩は私にも好きになってもらいたい。これは理解できる。
晃太先輩は誰かに好かれないことが嫌いで、みんなが自分を好きになってくれたら幸せハッピー。それは先輩なりのこだわりで行動原理。うんうん、そうなんだろうなということは気づいてた。
でも私には好かれなくてもかまわないと言っている。それは私のことが嫌いだからということではないらしい。うー、ちょっと難しくなってきた。
こだわりを捨てても私の出した答えはすんなり受け止められると言っている。それは「好き」でも「嫌い」でもどちらでもいいということなのかな。
ずっとみんなに好きになってもらえないと満足できなかった先輩が、私に関しては好きになってもらいたいというこだわりを捨てられる。
そして私に向かっていつもはしないような真剣な顔をして好きだと言ったということは――、あっ。それってつまり……。
顔が熱くなるのを感じた。
髪から顔に落ちる雨のしずくがやけに冷たい。
「もしかして理解……できた?」
覗きこんでくる顔に焦点が合って、とっさに下を向いた。分かった。分かりましたから、こっちを見ないでください!
晃太先輩の視線が突き刺さる。
こくこくと頷いて返事の代わりとしたら、また頭を撫でられた。
「すぐに答えは出さないで。今のナッチーは他の事で頭がいっぱいみたいだから」
頭の片隅に置いておいてほしいと晃太先輩は言った。
「片隅にって、こんな爆弾をいつまでも置いておけるわけないじゃないですか」
早く処理してしまわないと、本当に頭がパンクして破裂してしまいそうだ。
だって、答えは出ている。
晃太先輩のことは嫌いじゃない。けど異性として好きかと聞かれたら「違う」と即答できる。
「じゃあ、いっぱい考えて。他の事が吹き飛んじゃうくらいにボクのこと考えて答えを出してくれたら嬉しい。今はそうじゃなくても、明日のナッチーはボクのこと好きになるかもしれないでしょ?」
冗談めかしていたけれど、目は真剣だった。
そんな目をされたら、考えないわけにはいかないじゃない。
お兄ちゃんのことだってあるのに、また考えることが増えてしまった事実にため息をついた。
「……分かりました。でも答えは変わらないかもしれませんよ」
「いいよ。それでもボクは毎日ナッチーに好きだって伝えるから」
変わるかもしれない明日のために、と晃太先輩は付け加えた。
いつの間にか雨は止んで、雲の晴れ間に暗くなり始めた空が見えている。
傘をたたんで「家まで送るよ」と申し出てくれた晃太先輩に断りを入れて私は首を振った。
家に帰る前に諒ちゃんのところに寄ろうと思った。よく考えたら家より諒ちゃんのところのほうがここからは近いんだった。
諒ちゃんのところに寄ってお風呂に入らせてもらおうと思った。ついでに服を乾かして晩御飯を食べさせてもらったら、家に帰るのが遅くなる口実になるんじゃないかという計算をした。
晃太先輩の告白に加えて今朝のお兄ちゃんとの確執があるので、パンクしそうな頭がどうにかなりそうだった。少し時間をおいて頭を冷やしたい。
親戚の家が近いからそこで服を貸してもらおうと思う、と言うと「本当に大丈夫?」と心配そうに言われてしまった。
日が暮れかけている中を女の子一人を歩かせるのは不安なのだそうだ。
「大丈夫です。本当にすぐそこですから」
諒ちゃんだって生徒に自宅がわれるのは困るだろう。
しかも相手は晃太先輩だ。突然「お宅訪問~!」と押しかけないわけがない。晃太先輩ならみんなを誘って行きそうだ。そんなイメージしかない。
「そっか。くれぐれも気をつけてね。ナッチーはボクの大切な子なんだから」
鞄を拾い上げる横で晃太先輩がふいうちの頬チューをかましてきた。
「な、ななっ」
いきなりの頬チューに対してつっこめばいいのか、「ボクの」とか言っていることをつっこめばいいのか混乱してあわあわと口を動かす。
そんな私の様子に満足したように晃太先輩はにんまりと笑って、「じゃあね」と手を振って軽く跳ねながら帰っていった。
「……ふいうちズルイ」
私は頬を押さえてその背中を見送った。
※ ※ ※
インターフォンを押して扉を叩く。
「諒ちゃーん。那智だよ。可愛い従妹が来たよぉ。あけてー」
五、六回扉を叩くと部屋着に着替えていた諒ちゃんが「近所迷惑だから扉をガンガン叩くな」と不機嫌そうな顔を出してきた。
「やっほー」
手をあげて挨拶をすると、無言で扉が閉められた。ガーン、ちょっとショック。閉め出されたよ。まだ中に入ってもいないのに。
待つこと四十秒。ドタドタと足音が鳴って再び扉が開いた。
「わっぷ」
諒ちゃんが持ってきたタオルでごしごしと体を拭いてくる。
「お風呂へ直行!」
あらかた拭き終わるとお風呂に連れて行かれた。浴槽にはすでにお湯が溜まり始めている。ついでに非常時用に諒ちゃんの家に置いてある私の部屋着も出してあった。
あの短時間にここまで出来るって、諒ちゃんの対私スキルって……実に高いよね。
小さい頃から私の面倒を見てきた諒ちゃんに無駄な動きはない。ちょくちょく泥んこになったり濡れねずみになっては押しかけてくる従妹の扱いは上級者の域に達している。
お風呂に入って存分に温まって出てくると、味噌汁のいい匂いが部屋に充満していた。
「髪はしっかり乾かしておけよ」
頷くと二人分用意されたご飯が並べられていく。普段は「手伝え」と煩いけど、今日の手伝いは免除らしい。ラッキー。
ご飯が並ぶのを待って二人でいただきますと箸を取った。
「家には連絡入れといたから」
さすが諒ちゃん。手際がいい。
今日のご飯は味噌汁としょうが焼きと漬物だった。いきなり押しかけてきたので量は少なかったけれど、多少のこげつきはきにならないくらい美味しかった。
全部をお腹に納めてごちそうさまをする。
「ねえ、今日泊まってもいい?」
食後のお茶をすすりながら、上目遣いに諒ちゃんに言った。
「どうした。何かあったのか」
即座にこう尋ねてくるとき、諒ちゃんが教師であることを思い出す。生徒の相談によく乗ってあげているから、すぐに話を聞く体勢に入ってしまうのだ。
諒ちゃんの場合、私がこうして甘えてくるときは何かあるのだという心構えがあるからなおのことだった。
「へへっ。ちょっとお兄ちゃんと喧嘩しちゃって」
私は今朝あったことから濡れねずみになるまでの経緯をかいつまんで話した。
晃太先輩に告白されたことは恥ずかしかったので黙っておいた。私を元気付けるために一緒に遊んでくれたとだけ報告しておいた。
「売り言葉に買い言葉って感じで飛び出してきたから、ちょっと帰りづらくって……あっ、でも諒ちゃんが迷惑なら帰るから」
気にしないでと、もう一度お茶をすする。
「いや、泊まっていけ」
しばし考え込んで諒ちゃんは「やっぱり」と言葉を濁した。
やっぱり、ってことは泊まらず帰ったほうがいいとジャッジしたのだろうか。
諒ちゃんがそう言うなら従うほかない。もう少しすれば洗った服も乾く頃だろう。そうしたら帰ろうと思い中身の無くなった湯飲みを置いた。
「那智、しばらく俺の家に泊まれ。これ命令だから。しばらくあの家には帰るな」
(あれぇ、諒ちゃんが一泊どころかしばらく滞在しろと言っているような気がするんですが。私の耳が悪くなっちゃったのかな?)
「いいな?」
「……はい」
有無を言わせないドスの利いた声だった。
諒ちゃんが「命令」と言えば私に逆らう権利はないのだが、本当に泊まってもいいのだろうか。そりゃあ、そうしてもらえるのなら嬉しいにこしたことはないのだけれど。
今日はまだ火曜日で週末まで授業はあるのに……。迷惑じゃないのかな。
「黙って見守るつもりだったが、堪忍袋の緒が切れた。うちの那智をずぶ濡れにした罪は重い」
「いや、諒ちゃん。ずぶ濡れになったのは晃太先輩と一緒に遊んだせいであって」
「そこに至る経緯に持ち込んだのはあのアホ兄貴だろうが」
すべてをお兄ちゃんになすり付けて考えている時点で諒ちゃんの過保護ぶりが発揮されている。
どうしよう。嬉しくてキュンとする。……じゃなかった。止めないと。
「そんな。私も悪かったんだよ。空気読まずにお兄ちゃんに電話の相手が誰なのとか聞いちゃったから」
「お前は悪くない」
「それは私もそう思う。けどお兄ちゃんにとってはナイーブな問題だったのかもしれないよ?」
「んなこと知るか。お前がちょっと帰りづらいって言ってる時点でアウトなんだよ」
あー、もうね、うん。止められない段階な気がしてきた。
自分の頭を冷やしに来たはずなのに、逆に諒ちゃんをヒートアップさせてしまった。
結局、「那智は大人しく待っていろ」と諒ちゃんは桂木の家まで私の荷物を取りに行ってしまった。
諒ちゃんがお兄ちゃんに出くわしてしまったときに喧嘩を売らないかな、と心配しつつ私は無くなったお茶のおかわりをするために席を立ち上がった。
※ ※ ※
桂木の家に行くと、事前に一報入れておいたためか伯母に玄関先で出迎えられた。
「那智はしばらく俺の家から学園に通わせるから」
そう言うと、訳知り顔で頷いて当分先必要とする那智の私物が入ったバッグ類はこれだと示された。バッグの他にも紙袋が二つばかり。教科書とノートが詰め込まれていた。
「あの子最近元気なかったのよね。お兄ちゃんと喧嘩でもしているみたいで。でも二人とも表に出して大きな喧嘩をしたりしないから、仲裁にも入れなくて困っていたのよ…」
少々ぽやんとしている伯母にさえ、二人の関係の悪化は伝わっていたらしい。
「お兄ちゃんも前よりあまり話をしなくなっちゃって……。少し離れればお互いに頭も冷えるでしょうよ。那智は諒ちゃんのことが大好きだから、困ったときは私に甘えるよりもそっちに行っちゃうのよね」
自分はずっと仕事ばかりだったから、と伯母は続けてうすく微笑んだ。
「伯母さんが那智を可愛がっていること、ちゃんと那智は分かってるよ」
「そうだったらいいけど。那智のことお願いね」
車に荷物を乗せてくるから待っているようにと言われ、自分がやるからと断ったが、「これくらいさせて」と押しとどめられた。
待つ間に二階から階段を踏み鳴らして下りてきたのは、件の兄。
これはいいところに来た、とばかりに玄関に下ろしていた腰をあげた。
「那智は俺がもらっていくから」
言えば相手の眉がぴくりと動く。これは機嫌を損ねた表情なのか、それともどうとでもしろという意思表示なのか……。
那智は大丈夫という顔をしているし、根が強いのでまだまだ現状に耐えられるだろう。
待ったをかけるタオルを投げたのは、最近めっきり表情の乏しくなったこの義理の従弟のためであった。
負の感情を隠すこともなく「那智には関係ない」と言い放ったと聞いて、これはまずいと思った。
このままでいれば彼はきっと遠からず那智を傷つける。意識的にでも無意識的にでも、傷つけるという行為に違いはない。そうなってからでは遅いのだ。
「お前が那智に帰ってきてほしいと思うようになるまで、那智は俺の家で寝泊りさせるから」
「どうぞご勝手に」
一瞥しただけで去っていく背中に舌打ちをする。強情な。背中から伝わる気配は明らかに苛立ちと怒気だ。
「お前の問題が片付くまで、那智を返すわけにはいかないんだよ」
呟いた声がむなしく玄関に消えていった。
家に帰ると、ソファで那智が眠っていた。家主に気を遣って、自分はここで夜を明かすつもりだったらしい。
起こさないよう抱きかかえて寝室まで運ぶ。
「ん……諒ちゃん」
「いいから、ここで寝ろ」
降ろして布団を掛けると服をぎゅっと掴まれた。
「お兄ちゃんに会った?」
か細い声で聞いてくる。会った、とだけ伝えると服を引っ張られてベッドに腰掛けさせられた。
「那智のこといらないって言ってなかった?」
寝ぼけているらしい。いつもなら自分のことは「私」と言って、冗談めかしたときだけ「那智」と言うのに。
ここにいる存在と兄とを少し混同してしまっているのかもしれない。
「言ってないよ」
布団から覗く頭を撫でると、落ち着いたようにすうすうと寝息を立て始めた。
あの煮え切らない兄が那智のことをいらないと言ったら殴り飛ばしているところだ。今のところ「ご勝手に」という言葉はもらっているので、今後の対応しだいではそうすることもやぶさかではない。
もしいらないと言ったとしたら――、
「そのときは責任を持って俺がもらってやるから」
ふと、儚く笑う誰かの顔が思い出されて、寝返りを打つ那智の布団を掛けなおして寝室を出た。
考えるべきことはたくさんある。
「なんで俺の周りはこう手のかかる奴が多いんだ」
誰にも聞かれることの無い愚痴をこぼし、冷蔵庫から冷えたビールの缶を取り出してタブを起こして一気にあおった。
頭を襲う酩酊感に夜は刻々と更けていった。
晃太がさらっと告白したぁ!




