40・こわれたお姫様
午後からの授業は体育館で男子はバスケットで女子はバレーだった。
気の早い男子はとっくに体育館に集まって試合を開始していた。目当ての男子がいる女子は壁際に背中をくっつけてそれを応援する。
ちゃっかりバレーのコートだけは出して準備を終えているところがうちのクラスの女子の偉いところだ。バレー部の女子も先発組に加わっていたので、その子主導でさっさと準備を終えてしまったのだろう。
私は後発組としてハルちゃんと一緒に雑談をしながら体育館へと入って行った。
流れ的には後発組が片付けに回ることになる。特に言い渡されているわけではなかったけれど、そういうことになっていた。仲の良いうちのクラスは自然と雑事が平等に別れるようになっていたりするのだ。
「あっ。ヘアゴム忘れた」
体育館まで行ったところで私は髪を括っていなかったことに気がついた。
卓球とかならまだ髪を下ろしたままでもいいけど、バレーとなると長い髪は邪魔になる。
とはいえ体育のある日に髪をまとめるのがいつものパターンなのに、それを忘れるとかとんだ凡ミスだ。ぼーっとしている自覚はなかったけれど、最近の色々で集中力が途切れているのを感じた。
一緒にいたハルちゃんに借りようにもハルちゃんは括らなくてもいい程度の髪の長さなので持っていない。仕方がないので一言おいて私は体育館を出て教室のある棟へと向かった。
授業開始に間に合うように階段を息切れしながら駆け上がる。
一呼吸して教室の扉を開けようとすると、中から誰かの話し声が聞えてきた。
(まだ誰か残ってたんだ)
扉越しの音量だったので誰かまではわからないけれど、そこにいるのが男子の誰かであるということだけは声の低さから判別できる。
女子は着替えるための部屋があるからいいけれど、男子は教室だ。
遅れた人が着替え中だったらまずいと思い、私は数回ノックして「入ってもいい?」と声をかけた。
待ちの体勢でいると、数秒ぼそぼそという声がして扉が開かれた。
そこにいたのは猫背が特徴の若狭くんだった。服はまだジャージを着ていなくて、制服のままだ。
「ご、ごめん。電話してて。桂木さんは忘れもの?」
どもった口調で私に尋ねる若狭くんはひどく慌てた様子だった。
「ヘアゴム忘れて。若狭くんは今から着替え? 早くしないと遅れちゃうよ。私すぐに出て行くから、悪いけどちょっとだけ入らせてくれないかな」
「あ、うん。そうなんだけど……」
若狭くんの答えは歯切れが悪く、今から急いで着替えなければいけないような人のものではないように思えた。
「僕ちょっと抜けないといけない用事ができちゃって」
「用事って……授業はどうするの」
「うん、その……妹、そう、妹が体調崩しちゃって。僕しか迎えに行ける人がいないんだ。だから、さぼりって言われればそれまでなんだけど」
授業を放棄してまで行かないといけないなんて、妹さんはかなり体調が悪いのだろうか。
ぽりぽりと髪をかく若狭くんの眼鏡がずり落ちていく。自分の身なりはそっちのけで意識を外に向ける若狭くんの姿に妹さんのことを大事に思っているんだ、偉いなぁという感想を抱いた。
「そっか。わかった。先生には若狭くんのことは伝えておくから。行ってきなよ」
まかせておきなさい、と胸を叩く私に若狭くんが続けてお願いしてくる。
「あの、できれば妹のことは伏せておいて欲しいんだ。体調が悪いっていってもそんなに重症なわけじゃなくて……妹の我が侭みたいなもので……。先生にあんまり心配かけさせるってのも、どうかと……」
もじもじと指が動く。
もしかしたらこういったことはこれが初めてのことではないのかもしれないと思っていると、さっきまでしていた電話の相手は妹さんで、どうしても来てほしいと言われたのだと若狭くんは恥ずかしそうにこぼした。
「で、できれば内緒ってことで」
私は二つ返事で「先生にはうまいこと言っておくから」と若狭くんの肩を叩いて彼を送り出した。
鞄を持って走っていく若狭くんは思っていたよりも早いスピードだった。だったらなんで体育のときはあんなに遅いんだろう。以前長距離走をしたときは断トツのビリだった。短距離型の人なのかもしれない。
それにしても若狭くんに妹がいたなんて知らなかった。
あまり親しくはない人なので、兄弟姉妹の話をしたことがないので当然といえば当然なんだけど、イメージとしては一人っ子の印象だったので意外な気がした。
こちらを振り返りもしない彼に手を振って、時計を見ると授業開始三分前。
「あっ、やばい」
うちの体育教師は熱血先生なのだ。遅れたら校庭を走らされる。運動不足の私に持久力なんてない。走ってへばった後でも普通に試合に参加させられることは目に見えている。
私は自分の鞄の中に常備しているヘアゴムを取り出して、急ぎ足で教室を出て体育館へと戻った。
体育館では丁度委員長が綺麗な弧を描いてボールをバスケットゴールにシュートを決めているところだった。黄色い声援があがる。それでも平然としている委員長はある意味漢だと思う。
(へらへらしないところがまた良いんだろうな)
髪をまとめながらハルちゃんに近付いたところで午後の授業開始のベルが鳴った。
※ ※ ※
学園の外に借りている駐輪場からバイクを抜いてエンジンをふかす。
桂木 那智に妹だと言ったのは嘘だった。だが我が侭で呼び出されたというところは真実だ。
嘘をつくときは真実を多少織り交ぜておくと嘘だとばれにくい。慌てていたため「妹が」と言ったことは失敗だったが、人が良い奴なので簡単に信じていたようだった。
ヘルメットを装着して地面から足を離す。
身体に響くような振動を起こしながらバイクは走り出した。
心地の良い風を受けながら、気持ちだけは先へと向かっていく。
(こうして呼び出されるのは久しぶりだな……)
以前はことあるごとに呼び出されていた。
昼間だろうが夜中だろうがおかまいなしで、彼女が呼べば自分は行かなければならなかった。
一度発作が起これば授業中だとて関係はない。それを双方の保護者が当たり前のこととして受け入れるまでにはそう時間はかからなかった。
小学校は同じ学校に通っていた。中学高校と離れたところに通うようになったのは彼女がそう強く望んだからだ。
表向きは女子高に通いたかったという素振りを入れているため、自分以外は本当の動機を知らないはずだ。知っていれば彼女の望みなど受け入れられず、共学のどこかの学校に通わされていたことだろう。
高校にあがって、彼女が通う学校と彼女の自宅の中間地点に部屋を借りて住んでいるのは、彼女のお目付け役としての役割が大きい。
そのために免許の取れる年になってすぐにバイクの免許を取れたことは幸いだった。こうして買い与えてもらったバイクは何かと重宝している。その使い道を知られたら怒られそうな気はするが。
最近は楽しい遊びに夢中で発作も収まっていたのに……。
バイクの下を滑っていくアスファルトの道をしばらく行き、砂利を飛ばしてたどり着いたのは四階建てのアパートだった。
エレベーターを待つのも時間が惜しくて、三階までの階段を駆けていく。
自宅としてあてがわれている部屋のノブを回すと、抵抗なく扉は開いた。
鍵は持っているのだから不用心なと思うが、文句は後だ。
靴を脱ぎ散らかして狭い間取りの部屋を進んでいくと、寝室としている部屋でそれはタオルケットに埋もれるようにして丸くなっていた。
「姫さん……」
刺激しないようにそっとベッドに腰を下ろして丸いタオルケットに手を当てると、
「遅い」
一言の文句が飛んだ。
聞く者によっては怒りの言葉として受け取れるそれは泣いているように耳に届いた。
「すいません。ちょっと出て来るのに手間取って」
言い訳を述べると、そんなことは聞いていないとばかりにタオルケットの間から白い腕が伸びてきた。柔らかな身体は華奢で、やはりとても自分よりも年上の人間だとは思えない。妹だと言ったこともあながち間違いではないよな、と内心で感想をもらした。
「夢、見た……」
その言葉だけで、彼女の身に何が起こったのか分かるのは自分しかいないだろう。それだけ密接に生きてきた。
今彼女の中にはあらゆる時系列の記憶が渦巻いている。それは一日や二日話を聞いただけで理解できるものではない。
それを知っているのは、過去幾度にも渡って彼女の中にある感情の渦を飲み込まされてきたからにほかならない。
絡まる腕は腰に巻き付き離れようとしなかった。
「私を呼んで」
「姫さん」
震える背中をあやすように揺するも長い黒髪をふり乱して「違うっ」と叫ばれる。
学校でうたた寝をしてしまって、目覚めたときに自分がいる場所に違和感を感じて混乱したこと。今の自分がいったいどこの誰なのか、今いるこの場所はいったいどこで何故自分はここにいるのか不安になったこと。
分からなくなることの辛さがお前に分かるのかと彼女は涙声で訴えかけた。
「私は……誰?」
そう。これが彼女の発作。日常においてふと自分が何者なのか分からなくなる発作。
大抵は眠りから覚めかけた朝方か夢を見る深夜に起こる。
暴れて、時には物をそこらじゅうに叩きつけて癇癪を起こす。そうなるともう家族では手が付けられなくなる。嵐が通り過ぎるのを待つだけしかできない。
多少は遠慮してか物を叩きつけたりなどはしていないようだったが、代わりに腕を掻きむしった跡が赤く線を引いていた。
「より子。前田 より子」
呼んでみれば何ともない普通の名前だ。だがそれを知っているのは秘密を共有した自分一人だけ。
家族も知らない自分たちだけが知っている秘密の名前。それが魔法のように彼女の身体に浸透していく。
「そう。そうだった。より子……私はより子」
確認するように紡がれる言葉に従って纏う空気が落ち着いたものへと変わっていく。
だが彼女の発作はこれで終わりというわけではない。落ち着いているかに見えるうちはまだ中盤なのだ。
顔をあげると泣き腫らしていたことが一目瞭然のありさまだった。
自分が来るまでどれくらいの量の涙をこぼしていたのか。枕はぐっしょりと濡れていて、カバーを新しいものに替えなければならないほどだった。
「でもね、タケル。そんな名前の子はもういないのよ。より子は十四で死んじゃった」
ぼうっとしたまなざしは空中を漂い、夢の続きを見ているように見えた。
自分の以前の姿は前田 より子という名の女の子だったのだと彼女は言う。
それすら他人が聞いたら頭がいかれていると指差されるようなことだったが、彼女はそれを前提にして人によっては妄想と呼ぶような過去の話を自分に語りかけてきた。
長年の付き合いを経て、突飛に思える内容も今となっては喉を通り過ぎ、理解とまではいかない知識として蓄積されている。
「もうどこにもいないのよ」
腰に巻き付いていた腕がほどけて、今度は首に回される。締め付ける腕の力は弱くて、かろうじて首に掛かっている程度だった。
「そうだね。もうどこにもいない。俺だけは知ってるよ」
言葉にこくりと頷いただけでずり落ちそうになる彼女の体を支えるように背中に手を回してさする。
口調はいつもの通りにはいかない。彼女の変化に合わせて小さな女の子をあやすように自分の口調も変化するのは自然に身に付いた技だった。
同意の言葉に彼女は涙をこぼす。シャツが濡らされていくこともすでに日常のことで、そんな些細なことを気にすることも今となってはないに等しい。自分にとっては普通のことなのだ。
より子という人間はどこにもいない。だから忘れることだ。そう突き放すことは簡単だ。
だが、彼女は確かに存在していた。過去の記録を自分の足で歩いて確認したのでこれは事実だ。
前田 より子という人間は自分たちが生まれる少し前に死亡している。
普通の家庭に生まれて十四歳で死んでしまった少女と今ここにいる彼女には接点など一つも存在しない。
彼女たちが知り合いであればその記憶から自分がより子であると混同してもおかしくはない。けれど新聞の記事にも載ったことのないような少女の記憶を確実に彼女は受けついでいた。
仔細に至るまで合致する情報たちは彼女がかつてより子という人間であったことを裏付けていた。
専門家の手にかかればそれすらただの偶然だなんだと因縁をつけられそうだが、彼女にとって真実であるならそれが嘘でも関係はない。
ただの気のせいでこの発作が治まるのならば苦労はしていない。もし異論を唱える者があったなら、だったらこの立場を変わってみろよと叫んでいるところだ。
ひとしきり泣いた後、彼女は顔をあげずに自分に言い聞かせるように今の時間に戻ってくる。
「私はより子。でももう違うの……私は誰? 私は――」
「姫さん、もう大丈夫かな? 首が苦しい」
戻ってくるのはいいが、力を加えるのは止めてほしい。細い腕でも絞められれば苦しいのだ。
ぽふぽふと白い腕を叩けば、からかうように首元に鼻先を付きつけてきた。
年頃の男子にそんな煽るような態度はどうしたものか。うっかり発情しても侮蔑のまなざしを向けられて逃げられるに違いない。
そんなことも多少の我慢で抑えがきくところが慣らされた犬みたいでいかんともしがたいところだった。
「ねぇ、恭平先輩は苦しんでる?」
若干幼かった口調はいつもの高圧的なものへと戻っている。
確信犯的な態度も目の前の男が絶対に自分には手を出してこないと信じているからこそだ。
「寂しいって、自分は一人ぼっちだって実感しているのかしら」
顔を見なくても笑っているのが分かった。笑った拍子に漏れる吐息が首筋に触れてこそばゆかった。
「最近は愛梨とべったりみたいっすよ」
彼女がもとに戻れば自分も戻る。背中に回していた手もどけて、体を支えるためにベッドの上に下ろした。今までのことをなかったこととして振る舞うのが自分たちの不文律だった。
「ふぅん」
一気に温度が下がったような声。慌てて続きを報告する。
「でも焦ってるみたいっすね。自分を抑えるのに精いっぱいって感じで、余裕がなさそう? 妹も遠ざけてるみたいで、そっちのほうも表面上は取り繕ってるけどかなり落ち込んでるみたいっす」
「そう。だったらあの人に連絡を取った甲斐があったというものだわ。今の愛梨も頑張ってはいるみたいだけど、私に比べたらまだまだ詰めが甘そう。おいしいタイミングだっていうのにつけ込むことも出来ないなんて」
その情報は彼等にとっては不幸でも彼女にとっては至高の果実であったらしい。いつだって彼女が喜ぶのは彼等の不幸せな状況の報告だ。
さっきまで泣いていたカラスがもう笑っている。この感情の落差に付き合うことももう慣れっこになってしまっている。
あの人――桂木 恭平を追いつめる手札に手を付けたのは彼女の仕業だった。
なんだかんだと上手くまとまりそうになっている彼等に水をさすことができるのは多くの情報を握っているからだ。
見ているだけもつまらないもの。そう言って記憶を辿りながら電話番号を押していく彼女はとても楽しげだった。
体を押されてベッドの上に仰向けになる。
彼女はそのままの位置で簡単に倒れる自分に圧し掛かってきた。あんまり煽らないで欲しいな、とされるままに苦笑する。
覗き込んできた目蓋だけが赤く腫れていて、泣いていた名残を残していた。
「みんな一人になって寂しく泣けばいいのよ。そう思わない?」
こわれたお姫様はそう言ってくすりと笑った。
次回もまたこの二人。




