閑話:冬吾、鼻歌を歌って
冬吾の話+愛梨の話です。
それぞれが短かったので一緒にしました。
開け放たれた扉の向こうで走り去る足音が遠ざかっていく。
「あー、手には噛み付かれるし、床には倒されるし、腕は引っかかれるし、人工物と関わると生傷が増えるなぁ」
腕に突き刺さった爪痕は生々しい赤い線となって刻まれている。
「おまけにあの捨て台詞――」
『先輩は私の事が嫌いかも知れませんが……』
それに続くのが「実は先輩の事が」なんて漫画のような台詞が来るとは思いはしないが、直球で投げつけられた台詞はぷっと吹きだしてしまいそうなくらいストレートなものだった。
『私も先輩の事、大っ嫌いですから!』
散々ちょっかいを掛けた後なのでそう来るのは分からないでもない。
ビシッと音が鳴りそうなくらい指を真っ直ぐに突き出してくるものだから、ついつい調子に乗ってしまったのは可哀想だったかもしれない。
目を細めて「ふうん」と一言漏らせば、口が滑ったことに焦ったのか、すでに言葉を発してしまった口元をはっと押さえて駆け出して行ったのだ。
パタパタと去っていく足音が途中でリズムを崩す。つまづいたのかもしれない。きっとあの子はキョロキョロと誰かに見られなかったか周囲を見回して一人頬を赤くしていることだろう。
もしかしたら「冬吾先輩のバカ」と文句を言っているかもしれない。
「嫌われたもんだなぁ。でもオレのほうは嫌い、とはまた違うんだけどな……」
彼女が自分を見る目が苦手だった。表面を作っていたとしても、まだ純粋さの残っている彼女の目は自分の汚い部分を見透かしているように感じる。
「でも、まあいいや」
逃げてくれてよかった。
彼女といると停滞する時間が動いていくのを感じてしまうから。
鼻歌を歌う。
翼が欲しいと願う歌。大空へ飛んでいきたいと願った主人公はどこへ向かって飛んでいきたかったのか。
嫌いと言われたことには「残念」というよりも「それでいい」と感じている。彼女だけは自分の真実を見て嫌っていればいい。
見透かされることに腹が立つのに、同時に安心している自分がいる。
嫌悪感を抱いたのは自分に対して。分かっていないのは彼女たちのほうだ、と言い訳をしている自分が一番汚い。
(だってオレが嫌いなのはただ一人、オレ自身だもん)
それを認識しながら何もしない自身。ただ流れに身を任せるだけなのは楽でいいと思っている。だというのに、置いて行かれるような不安感を感じるのは……。
『――私を……』
耳の奥であの人の声が羽虫のように鳴る。
『みんなが私を殺した』
(そうオレもあの人を殺した一人)
滲み出る己への嫌悪感を自分に向けられたものだとあの子は思ったらしい。
自分と同じく人工的に作り上げた皮を被る彼女。
彼女に感情が向かってしまったのは、以前彼女が人のぬくもりが作り物の中にだってあると言ったことを思い出してしまったから。
作り物の自分にぬくもりなどあるのだろうか。
彼女がその答えを持ち合わせているはずなどないというのに。
鼻歌はクライマックスへ。自由な空へ飛んで行きたい、というフレーズ。その先に何を求めるのかは示されていない。主人公は希望を持って飛んでいったのか、それとも何かから逃げたかったのか。
(オレは逃げない。留まることを選んだから……)
いずれ自分もあの人のように死んでいく。
年々体が凍っていくのを感じる。少しだけ和らぐのはカメラを構えたときと誰かに触れたときくらいだ。
冷たく感じる体に人肌は優しい。
心はいらない。慰めのように人肌を求めるのだが、それでも自分だけは違うと思ってしまう者は時々出てきてしまう。いつかは死んでしまう心を求められても見返りを返すことなどできはしないのに。
赤い線をなぞる。
ついたばかりの爪痕は熱く熱をもってうずいていた。
少しだけ気分が良い。情事の後でもないのに胸が高鳴っている。
凍っていく心は最近では楽しさを感じにくくなっている。表面ばかりは楽しそうに見せているが、けれどあの子を困らせるのは少しだけ楽しかった。
歌が終わり、空を向く。
遠く上のほうで白い影が横切って行く。気持ちよさそうに翼をはためかせている姿を羨ましく思うのは、人が自分の力では飛べないからだ。人はないものばかりねだりたがる。
青い海の彼方へと白い鳥は飛び去り、やがて見えなくなった。
もう一度鼻歌を。
大空に飛び出して行った人を思いながら。
「あら、随分と機嫌が良いじゃない」
「何か良いことでもあったの?」
肩をいからせた元彼女が二人、仲良く並んで目を吊り上げていた。
彼女たちみたいな人間の相手をするのは楽だ。良くも悪くも自分の欲望に忠実だから。時々本気になられるのは困りものだが、自分にとっては傍にいて何も考えなくてすむ分相手にしやすいと思っていた。
それでも一人になったら泣いてしまうのだろうか。
でも軽薄な自分を求めたのは彼女たちだって同じことなのに……。
「あはー、ごめんね?」
怒りを爆発させてそれで気が済むのならば喜んで身を差し出そう。
より怒りを出させやすいように軽い調子で謝るのは、それが土屋 冬吾という人間だからだ。
両手をあげて降参のポーズをとれば、彼女たちの怒りはまたヒートアップした。
※ ※ ※
鏡の前で姿をチェックする。
今度の日曜日に着ていく服を何着か取り出してあれでもないこれでもないと試行錯誤した結果、無難なところでレモンイエローのワンピースを着ていくことに決めた。
黒い髪はどうしようか。片側によけて結ぶか、それともいつものようにおろしたままのほうがいいだろうか。
人と出かけることはとても楽しい。
自分だけで出かけるだけでは気が付かないような風景を教えてもらえるから。
けれど、だからといって今度のお出かけの相手は気を抜けない人物であるので、周りの景色に気をとられないようにしなければ。
日曜日は写真の被写体として土屋 冬吾と出かけることになっている。
彼は桂木 恭平に次ぐデリケートさがあるので一対一で向かい合うときには神経を使う。ぽんぽんと弾む会話の中にいくつもの地雷が潜んでいるので、うかつなことは言えないのだ。
人を被写体としてカメラを構えさせるのは、いわば彼にとってのリハビリとなる。
彼は真面目に人と向き合おうとしない。
それはカメラの被写体にも現れている。
自然にそこに存在するものは彼を傷つけない。変わらないものが彼の心を癒すのだ。
けれどそのままではいけない。
今は戯れにすぎないが、彼に人と向き合わせていずれ真摯に人を被写体とするようにするのが彼に対する愛梨の役割だ。
彼が今のように軽薄な一面を持つようになった背景には、いなくなった姉の未織の存在が大きく関係している。
冬吾にカメラを教えたのは姉の未織だ。彼女もまた冬吾と同じくカメラの才能を持っていた。その影響もあり冬吾もカメラを持つようになったらしい。互いにカメラを向け合って撮り合うこともあったようだ。
けれど才能を開花させつつあった彼女の写真家への道は父親によって閉ざされてしまった。海外アーティストの食器・雑貨の輸入をメインに取り扱っている土屋家の父親は厳格な人物で、跡取りとなる未織がプロの道へ進むことをよしとしなかった。
未織は女性ながら跡取りとして目されるほど優秀で、そして父親の言うことに反抗できないほどには従順であった。
それでもまだ、プロの道を閉ざされてもカメラを趣味として携えることは可能だったから良かった。
彼女の父親はその上で当時付き合っていた男性とも金の力を使って別れさせたのだ。
初めは家のためにと大切なものを一つ切り取られても諦めていた彼女も、もう一つの大切なものを切り捨てられたことには我慢ならなかった。
それら意外にもたくさんのものを切り取られてきた彼女は、様々な制約の中で死んでいく自分の心にすべてを捨てた。文字通りそれまで持っていたすべてをだ。
捨てたものの中には、仲の良かった弟冬吾も含まれている。
冬吾は自分自身も姉を傷つけた要因だと思っている。
家を捨てて行方をくらませた姉を追わせないために冬吾は自分を殺して会社を継ぐことを決意した。
成人まで自由を許されている身だが、いずれがんじがらめに縛られるため、人に心を許さず、人の心を求めず、けれど人肌だけを求めている。
冬吾は恭平とは違った意味で心に踏み込まれることをよしとしないのだ。
対象者たちには彼ら自身が持っている問題点の払拭をしてもらわなければならない。それがこのゲームの約束だから。
得られる好感度はいわば信頼度と置き換えてもいい。
信頼してもらい、彼らの未来へと続く道のりの手助けをすることが今の自分の存在理由。
(間違いを正すために私は呼ばれた……)
前任者は自分の欲に溺れて暴走してしまった。彼らの未来への道のりを閉ざしてしまった。何度も。何度も。
一人が救われても他の誰かが傷付き、次にその誰かが救われてもまた違う誰かが傷付いた。
(一番傷付いたのは……)
だから彼女にはあまり関与してほしくない。なにが作用して運命に関わってくるか分からないから。そっとしておいてほしい。そして、そっとしておいてあげたい。
『今度こそみんなが幸せになる道を――』
それが女神との約束。物語は常に変革していく。流れを掴みとればゲームに勝利することができる。
「私にできるのかな……」
でもやらなければならない。女神との約束を達成しなければ願いは叶わない。
「本当に悪魔との契約みたい」
鏡の中の愛梨に額をつける。ほうっと吐く息で鏡が湿るのは、この身体が生きている証拠。
できれば次の日曜日は楽しい一日となればいい。
そうしたら幸せな記憶がまた一つ増えるから。自分が「愛梨」になってから、たくさんのなんてことのない日常と少しのドキドキの時間が日々積み重なっていくのを感じる。
時々素に戻って涙が溢れそうになることもあるけれど、キラキラと輝く日々をくれたことだけは女神に感謝してもいいと思う。
ふと手にかさりと入り込む便箋は相変わらず神出鬼没だ。
丸文字で『日曜日は頑張って』と綴られる下に『P・S:悪魔じゃないもん。女神だもん』の追記が浮かぶ。
「冗談よ」
ふっと笑ってクシャリと便箋を握り潰した。
冬吾の背景なので今回は説明的な回になりました。
次は明るくいきたい。




