32・あの約束
適応能力。
それは生きていく上で生き物が手にした優れた資質。人も例外じゃない。変化を柔軟に受け入れることで快適に生活していくことができる。
変わらないと思っていたものが少しずつ形を変えていく。それは分類するならば喜ばしい変化と言える。
その変化は私を不自由にすることはなくとも身を軽くするもので、そのことを素直に受け入れればいいのに、私の適応能力は拒否反応を示していた。
「――お兄ちゃんがそうしたいならいいのかなぁ、とも思うんだけどね……なぁんか気持ち的に落ち着かないというかなんというか……」
「なーに小難しいこと考えてんだか。はれて兄離れするチャンスなんだから、お前も自由にしてみろよ」
つん、と諒ちゃんの履いている靴の固いつま先が体に当たる。
(ちょっと、蹴らないでもらえますかね。人が考えごとしてるってのに)
痛くはないけど、されている行為に腹が立つ。
ほんの少しの違和感は数日が立っても変わることなく、最近ではその違和感が私の勘違いだったのかもと思わされるくらいに私の日常に馴染んできていた。
相変わらず朝はお兄ちゃんに髪をセットしてもらっているし、ご飯も一緒に食べるし、一緒に家を出るているはずなのに、何かが違う。
すごく言い表しにくいけど、お兄ちゃんが私と距離を取ろうとしているように感じるのだ。
言葉で言われたわけじゃない。でも、空気が「あまり寄って来るな」と言っているみたいに感じる。
(こう見えて、私空気の読める子。お兄ちゃん関しては特に)
突いてくる靴をペシッと払って更に奥へと引っ込む。
「ねー、諒ちゃん。私、なにかお兄ちゃんの気に障ることしたのかなぁ」
暗くて狭いところは嫌いだけど、ただの狭い空間は居場所的に落ち着いたりする。
現在、私は国語科準備室の事務机の下で膝を抱えてうずくまっていた。
昔から困ったことや考え事をしたいときは諒ちゃんのところに逃げ込んで、諒ちゃんのいる空間の狭いところを捜して潜り込んだ。
そんな私を諒ちゃんは猫みたいだと言う。逃げ込んでくる猫に対して文句は言うけど、今のところ無理やりに追い出された記憶はない。
「俺が知るわけないだろ。直接兄貴に聞いて来いよ」
諒ちゃんが私のもらす呟きに突っ込みを入れてくる。
いつもなら突き放すような言い方が、悩む頭には良い清涼剤になるのだが、今回に限ってはあまり利かなかった。どこまで考えても答えが見つからないからだと思う。
「んなことできるならとっくに聞いてるって」
解決策にもならないようなことを言われても困る。もしバカ正直に尋ねたとしても、「そんなことないよ。那智の気のせいだよ」と言われて終わりな気がする。
頭上では紙にペンを走らせる音が鳴っている。小テストの採点なのだそうだ。間違いの部分で諒ちゃんが逐一「ちっ」っと舌打ちをする。教えた部分が出来ていないのに腹が立つのだろう。
「諒ちゃん、そんなにイライラしてるとハゲるよ?」
下に私がいることで仕事の邪魔になっていることは横に置いてそう言ってみた。
足に反応はない。代わりに舌打ちが大きくなる。
「あっ、もしかして諒ちゃん……お兄ちゃんの相手が愛梨ちゃんってとこでイラッとしてない?」
諒ちゃんに対しては思ったことはそく口に。すると威力を強めた諒ちゃんのつま先がツツツンと私を突いてきた。
「んなわけないだろ。おい、そこの座敷童。仕事の邪魔」
(だから花の女子高生を蹴るんじゃありません! そんなだからモテないんだよ)
これ以上の詮索は諒ちゃんのイラつきをヒートアップさせるだけだと思い止めておく。
「いいじゃん。彼女いない歴二十六年の可哀想な独り身の従兄を思って、こうして可愛い女子が一緒に帰ってあげようって待ってあげてるんだから。泣いて喜べ」
言葉は可愛くなくとも小首を傾げて可愛らしさを演出してみた。
「自分で可愛い言うな。可愛くない」
言葉で可愛くないと言いつつ、諒ちゃんが今度は手で頭を撫でてくる。冷たくした後にはちゃんと優しくするのは、諒ちゃんの性格からくるものか、私の扱いをよく分かっているからなのか。
どちらにしろ私はそんな仕草の一つでつんつんと足で蹴られたことは水に流して机の下から顔を出した。
「お願い、一緒に帰ろ?」
一人は怖い。
弱いとなじられようが、根を張って抜けないそれが私の底に存在している。
お兄ちゃんが距離を取ろうとしている一端には、愛梨ちゃんと距離が近づいていることもあるんじゃないかと私は思っている。
最近二人は下校時に一緒に帰っているようだ。
今日もどちらが言いだしたのかは分からないけど、共に校門をくぐっていた。その後ろ姿を見て私はきびすを返して諒ちゃんのいる国語科準備室へとやって来たのだ。
お兄ちゃんが本命とちゃんとくっついてくれたら、それはとても素晴らしいことなんだと頭では分かっている。
並んで歩く二人は本当にお似合いだった。
そして、そんな二人の後ろ姿を見て私が思ったのは――、
「はいはい。一緒に帰ってやるから、ちょっと待ってろ」
諒ちゃんの指先が猫をあやすように頬をすべる。
絶妙な撫で加減は、私が本物の猫だったら喉を鳴らしてしまいそうに気持ちが良い。(にゃあ)
気持ち良さに目を細めて、私は目の前にある膝に顎を乗せて諒ちゃんをじっと見上げた。
生まれたときから私のことを知っている従兄の諒ちゃん。
一時期グレたこともあったけれど、私を見る目はいつも変わらなかった。イジワルをしてくることがあっても、いつも優しく見守ってくれるその瞳が私を嫌悪したことはない。
だから私は諒ちゃんには何でも相談できた。時にはお母さんよりも近くにいてくれた人。
「諒ちゃんはさ、いつも私を助けてくれるよね……」
諒ちゃんはいつも私が一人にならないように気を配ってくれる。
「あのとき、最初に私を助けてくれたのも諒ちゃんだった――」
※ ※ ※
あのとき、お父さんが死んですぐのときだったろうか……その頃は時間の感覚がよく分かっていなかったから、お父さんが死んだという知らせを受けてから数十分後だったかもしれないし数時間後だったかもしれない。
私はあの押し入れの暗い空間に入り込んでじっと縮こまっていた。外に出てしまうと怖いものがどっと押し寄せてくるんじゃないかと思って、不安でじっと静かに壁に身を寄せていた。
押し入れの外は騒がしくて、その狭くて暗い空間よりもずっと時間が早く流れているように感じられた。
押し入れの隙間から見える景色が私を怯えさせる。お母さんが泣いていて、駆けつけた叔母さんがせわしなく動き回っていた。
やがて部屋がシンと静かになって、私は本当の一人になってしまった。
外は日が暮れて暗くなってきていて、暗闇は一層暗さを増していった。見える範囲が徐々に短くなっていく。指先から暗闇に溶け込んでいくような錯覚が私を支配していく。
押し入れの中だけが時間が止まったかのように感じられて、このまま自分はこの空間の黒に溶けていくんだとそう思ったときだった。
「那智っ!」
電気がパッと点いて、諒ちゃんが押し入れの扉を力強く開けて私を抱きしめた。
「ごめんな、一人にして。怖かったろ? もう大丈夫だから」
大きな腕が私を包んで温もりを分け与えてくれた。私の身体はそれほどに冷え切っていた。
「りょー、ちゃん……」
私はそのとき初めて「一人」が怖いと感じた。
人の体温が暖かいこと、「暗い」よりも「明るい」ほうが安堵できることを知った。
それをきっかけとして暗くて狭いところが嫌いになったということは諒ちゃんには言っていない。もし諒ちゃんが来てくれなかったら、私はその空間にむしろ心地良さを覚えていたことだろう。
ほっとした私は何度も「りょーちゃん」と声に出して泣いた。それに対して諒ちゃんは何度も「ごめんな」と金色の髪を揺らして謝った。
泣いている私よりも諒ちゃんのほうがずっと苦しそうで、泣きながら「りょーちゃん泣かないで」と金色の髪を撫でていたことを覚えている。
葬式の間中、諒ちゃんはずっと私の手を握っていてくれていた。
お父さんとのお別れの日はあいにくの雨だった。
しとしとと降り注ぐ小雨は冷たいはずなのに、私は冷たさを感じなかった。諒ちゃんが傘を持って私の手を握っていて、傘は二人が入るには小さくて私の肩を濡らしたけれど、それ以上にそれを持っていた諒ちゃんの肩を濡らしていたから私は寂しくなかった。
諒ちゃんがいてくれたから、私はちゃんとお父さんにお別れをすることができたんだと思う。
※ ※ ※
「あの数か月後くらいだよね。諒ちゃんが金髪止めたの。何で、って聞いていい?」
採点していたペンが止まる。
「ダメ」
諒ちゃんの眉間にシワが寄る。心なしか頬が赤い。
私は身を乗り出して諒ちゃんの腰に腕を回した。
「大好きだよ、諒ちゃん‘パパ’」
根が真面目な諒ちゃんが更生して私に向き合ってくれたことを私は知っている。模範とするべき片親を失った私に向けて自分の背中を見せようとしてくれたのだ。
そういったこともあって、私にとって諒ちゃんは兄というより父親的存在になってしまっている。
「感謝してるよ」
私は諒ちゃんには「ずっと一緒に」とは言わない。
(諒ちゃんは言わなくても傍にいてくれるから)
反対に言わないと不安になってしまう、私たち兄妹の歪さはなんなのだろう……。
「今度の父の日は何が欲しい?」
へへっと笑うと、止まっていたペンの端っこで額をコンと小突かれた。
「こんなに大きな娘を持った覚えはないっての」
大げさに「いたーいっ」と額を押さえる私に諒ちゃんが採点の出来上がったプリントを整理しながら言う。
「那智、寂しいなら寂しいってちゃんと言えよ」
こうしてむやみに甘えてくることが私の発する信号だと諒ちゃんは分かってくれている。分かっていてそう言ってくるのは、私を思ってくれているからだ。
でも言わない。
それを言ってしまうと、私は諒ちゃんを困らせてしまうことになる。言ってしまえば、きっと諒ちゃんはずっと傍にいてくれる。私への好意があろうがなかろうが、諒ちゃんならきっとそうする。
(それはダメなんだよ)
吐き出してしまいたい言葉を今はぎりぎりで踏みとどまる。
「……言わないよ」
笑って、私は諒ちゃんのお腹に顔を埋めた。
帰る段になって、諒ちゃんが職員室に荷物を取りに行くと言うので、私は再び事務机の下で膝を抱えて小さくなった。
窓の外に浮かぶ綿菓子のような白い雲を目で追いかける。
漂う雲は呑気に青い海の中をプカプカ泳いでいた。
お兄ちゃんはもう家に帰っただろうか。
校門で並んで歩いていく二人はすごくお似合いで、自然な感じだった。
二人を見送りながら、私は立ち竦んでいた。
幸せな風景。このままお兄ちゃんは本命の子と結ばれてハッピーエンドを迎えるんだろうか。そう思うと胸に大きな石を乗せられたみたいなドォンとした重みが加わった。
(お兄ちゃんは心を許しあえる人ができて幸せになって、そうして私はどうなる? 私一人残される……? そうしたら私、平気でいられる……?)
足元がぐらついてすごく体が冷たくなっていくのを感じた。
同時にそんなことを考える自分に酷く吐き気を覚えた。
(なんて醜い……私、自分のことばっかり考えてる)
「そして諒ちゃんのところに逃げ込んで……メンタル弱すぎ」
抱えた膝をさらに胴体に寄せる。「寂しい」なんて言ってはいけない。「ずっと」なんて言ってはいけない。
それは私を私じゃなくする魔法の言葉。
手を取ってくれる人はいる。けれど、その言葉はきっとその人の運命を巻き込んでしまうくらいに強いい力を持っている。
いつかお兄ちゃんとした「ずっと」という約束は、もしかしたらしてはいけない約束だったのかもしれない。
あの約束は少なからずお兄ちゃんに枷を付けてしまった。お互いに不安なときはあの約束に気持ちが安らぐけれど、一方であの約束のせいでお兄ちゃんはお父さんやお母さんに対する以上に私に気を使ってしまっている。
そしてあの約束は私のことも縛っている。
こんなこと本当は思いたくないのに、私は裏切られた気分になっていた。
(お兄ちゃんはただ好きになれる相手を見つけただけなのに……)
本心を見せ合わないくせに、「ずっと傍に」と言える相手がいることに安心感を覚えてほっとしていた。それが今揺らいでいる。
お兄ちゃんに彼女ができたとしても私たちが兄妹でいることにはなんら変わりはないのに、いずれ離れるならばあんな約束しなければ良かった、と心が言う。
今までお兄ちゃんに彼女ができてもこんなこと思ったりしなかったのに、愛梨ちゃんが相手となるとそう思ってしまう自分が嫌だと思った。
カタンと扉の動く音がする。
「ねえ、諒ちゃん」
諒ちゃんが戻ってきたみたいだ。私は入ってくる足音に向かってポツリポツリと呟いた。聞いていてくれるのか、諒ちゃんが黙ったまま机の傍に近付いてくる。
「諒ちゃん……私、逃げてばっかりだ」
足音はゆっくりで、私の言葉を待っていてくれているように感じた。
「……強くなりたい。だから、」
優しくされるとつけ上がってしまうから。優しさにつけ込んで、自分が一人にならないために利用してしまうから。
これだけは言っておかなければいけない。諒ちゃんのために。私自身のために。
「だから私に優しくしちゃダメだよ」
床にチャリンッと金属音が落ちる。足音が入ってきたときよりも静かに遠ざかっていく。
「諒……ちゃん?」
静かすぎる諒ちゃんに疑問を感じてのそのそと身を乗り出すと、事務机の前に十字架のモチーフが通された銀の鎖が落ちていた。
それは以前、肝試し大会の夜に失くしたはずの十字架のネックレスだった。
次回からあの人登場。




