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30・GW、三日目、ステンドグラスのマリア


 日本の北の大地にて、教会の鐘がリィンゴーンと響き渡る。

 白壁にはめられた赤茶色の扉の上部には信仰の証である十字架が掲げられている。そこから回り込んで十数メートルほど進んだところにその家畜小屋はあった。


「もう、なんで休日なのに肉体労働なんてしなくちゃいけないのさ」


 鐘の音にまぎれてカンカンと金槌を打つ音が軽快なリズムをもって鳴らされる。


「ホント、ホント。もう腕がパンパン。なんでここまでぼろくなるまで放っとくかなぁ」


 文句を言いながら金槌を振る彼らを教会の老神父と家畜のニワトリたちが見上げていた。

「すまないね。雨漏りをするまで気が付かなかったんだ。きみたちが来てくれて助かったよ。私のこの曲がった腰ではそんな重労働はできないからね」

 その言葉通り、老神父の腰はずいぶんと曲がっていて高所の作業は厳しいように思われた。老神父は腰を抑えながら皺の寄った手でニワトリたちにトウキビ混じりの餌を撒いた。


 穴は数か所におよび、広く開いた穴からは日の光が差し込んでいる。その一つずつに木の板をあてがって二人は金槌を打ち付けていた。


「本当に来てくれて良かった。元気な顔を見せにきてくれることこそが私にとっては大いなる幸いだ」


 老神父がしわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑う。

 海道兄弟が物心つくころから、この老神父は腰の曲がった神父であった。

 二人にとって彼は祖父のような存在だ。ここに来るたびに優しく「おかえり」と迎えてくれる。多少の肉体労働はさせられるが、そんなものは祖父孝行の一環のようなものだ。文句を言いながらも、二人は手伝いを断ることはしなかった。


 彼らが中学校にあがるまで、海道家はこの地で暮らしていた。

 日本に来て間もなかった母に優しく接してくれたのがこの老神父だった。フランス語なら多少は分かるからと、片言で拙く話す彼女に懇切丁寧に日本の暮らしを教えてくれた。

 そして兄弟が小学校でイジメられて逃げてくるたびに両手を広げて抱きしめてくれたのもこの老神父だった。彼がいなければ二人は笑ってすごすことが出来なかっただろう。

 

「笑って生きていればそのうち良いこともあるさ。神様はちゃんと見ているよ」


 泣いてすがる二人によく言ってくれた言葉だ。その言葉があったから二人は笑顔になることができた。

 海道兄弟と母親にとって、この場所は日本における故郷のようなものだった。

 今回は連休を使って彼に会いに来たのだが、さっそく二人は家畜小屋の修理をお願いされてしまったのだ。

 さっきまではヤギ小屋の修繕をしていて、今度はこのニワトリ小屋だ。そのどれもが屋根がボロボロになって穴が開いていた。


 少し離れた教会から、オルガンの音と讃美歌の声が聞こえてくる。

 二人の母親の歌声だ。

 彼女は得意とする音楽を生かしてこの教会に聖歌隊を結成した。地域の女性たちに声をかけて結成された聖歌隊は、彼女がいなくなった今も地域のイベントなどに出て活動を続けているようだ。

 今歌っているのは母一人。

 この歌声に当時の地域の人々は惹きつけられ、そして異国の彼女に馴染んでいった。

 久しぶりに弾くオルガンの腕はまったくなまっていない。弾むようなタッチに澄んだ歌声がのせられる。キラキラとした湖面に反射する光のような歌だった。

 

 屋根の修繕が終わり、そのまま空をあおいで寝ころぶ二人に涼やかな風がそよぐ。二人の特徴である金色の髪が太陽の明かりを吸収したように光った。

 風と光の心地よさに二人同時に目を閉じたときだった。


 にゃあ


 真っ白な毛並に黒い首輪をはめた猫がトンと晃太の真横で足をとめた。小屋に隣接して生えている木を伝ってやってきたようだ。

「うわぁ、可愛い。おいでおいで」

 晃太が置きあがって手を伸ばす。けれども猫はペロリとざらついた舌で晃太の指をかすめると、晃太が撫でる前にぴょんと飛んで逃げていってしまった。

「あっ……」

「逃げられちゃったね」

 寝ころんだままの星太が言葉を継ぐ。

 晃太は「ちぇっ」とふてたように元の位置に寝ころんだ。

「もう、触ろうとすると逃げちゃうなんて……ナッチーみたい」

 黒い首輪に那智が普段髪に括っている黒いリボンを連想したのだろう。触れようとすると逃げられる。気まぐれで、こちらに懐こうともしないところなんて特に彼女にそっくりだと晃太は言った。

 

「そうかな。ボクはナッチーは猫っていうより犬って感じがするけど……」


 珍しく反論する星太に、晃太は不思議そうに首を捻った。食べ物などの好みの差はあれど、二人が人に抱く印象が異なることはあまりないことだ。

「そう? ボクは断然ナッチーは猫派だけどなぁ。だって近付きたいのに全然近寄らせてくれないんだもん。それにすぐ逃げるし」

「ナッチーは犬だって。呼んでもいないのに後を追ってくるし、あの黒いリボンが項垂れた子犬の尻尾みたいに見えるときがあるもん」

「えー、ボクには毛を逆立てた猫みたいな反応しかしてこないのに。それにボクたち二人のときだってナッチーってば警戒してばっかりで……って」

 晃太がガバッと起き上がって星太の顔を覗き込む。顔が影になって太陽を遮断した。

「さては星太……ボクの知らないところでナッチーと何かあったね!?」

 星太には太陽を背景にした晃太の金色の髪がそれ自身で光っているように見えた。


(何かって、改めて認識しただけだよ。ボクは影。まぶしい太陽に眩む星だって……)


『あなたです』


 声がした。自分の手を引いてくれたのは晃太でも他の誰でもない星太だとその声は言っていた。

(あなた……星太(ボク)……)

 ただ一人だという回答に星太はめまいを感じた。

(頭がぐるんぐるんする。太陽が眩しくて目が痛くなったからかな。それとも……)


「二人とも、お茶の用意ができたから下りておいで」


 下から老神父の呼びかけがかかる。

 むっとする晃太はそれでも動こうとしない。


「何もないってば。ナッチーが猫だろうが犬だろうがどっちでもいいじゃん。ボクはボク。晃太は晃太なんだから。感じる印象が違うことだってあるでしょ」

 晃太を押しのけて起き上がる。

「もおっ、星太っ。ぜーったい怪しいっ」

 太陽の名を持つ片割れは星太に向かってぷんぷんと唇を尖らせた。


 梯子を伝って屋根を下りてきた星太の頭に老神父が手を置く。しわしわの手は固く岩のようで、けれどとても暖かかった。

「星太、もうどちらがどちらだか当てられるゲームはおしまいかい?」

「神父様……」

 彼はよく二人の遊びに付き合って遊んでくれた。

 二人が入れ替わってどちらがどちらだか当てるゲームにしてもそうだ。いつも間違えて「二人ともそっくりだから私には分からないよ」と言っていたのは彼だった。当てられなくて困惑する姿が面白くて、何度も繰り返したことを星太は今でも色鮮やかに覚えている。

 いつも分かっていて分からないふりをしてくれていたのか、本当に分からなかったのか、真実を聞くのはためらわれた。真実がどうあれ、慈しみの微笑みで見守っていてくれていたことだけは事実だ。


(ボクはずっと気が付かなかっただけなのかもしれない。ボクを見てくれている人は本当は身近にいたんだ……)

 

『あなたです』


 星太の頭の中で、耳をくすぐる声が何度も繰り返し囁いていた。


 ※ ※ ※


 三連休の最後の日、剣道部に立ち寄ってから今度は生徒会室へと向かった。

 扉の前で立ち止まる。周囲を見て人が来ていないことを確認し、音を立てないように静かに扉を開けた。

 目当ての人物は来客用のソファに寝ころび、資料のファイルを顔に乗せて寝息を立てていた。

 来年以降に向けて先日の肝試し大会のデータのまとめを行っていたのだろう。資料のファイルには今年度の日付と「新入生歓迎会」の文字が印字されたテープが貼られていた。


 あらかじめ鞄から出しておいたクッキーの包みをソファ横の机に置く。間に『おつかれさまです。先日の星のお礼です。水野』と書いたメモを挟みこんだ。


 あとはぼんやりとした意識に自分の影を残すためにこっそりとファイルを取って頬に口づけるだけ――


「って、できないや」


 顔を傍まで近づけたが、行動することは止めた。

 彼の好感度は今のところ十分にあるもの、と心で思う。

 今は他の人の好感度をあげることに専念したほうがいいだろう。


「星をお返ししますね」


 作ってきたクッキーは丸型。その中に一つだけ星形のクッキーを入れておいた。丸型のクッキーよりも一回り小さいサイズだ。

 先日もらった甘い星を思い出して作ったものだ。

 あのとき、本当に自分は嬉しかったのだ。それをどう言葉で表せばいいのか分からなかった。言葉に出すと嘘くさい気がして、気が付けばたくさん作っていた。

 その中で一番仕上がりの良い物を一つだけ選んで潜ませた。その星はどのような感想をもって食べられるだろうか。

 

「ん……」


 眠りから覚めかけている声と共に身じろぎがおこる。顔に乗せていたファイルがススッとずり落ちていく。床に落ちる寸前でそれを受け止めて、慌てて扉をすり抜けた。

 


 ※ ※ ※


 休憩を終え、教会の中に入る。

 記憶にある景色よりは幾分古びてしまったけれど、説教台や長椅子たちは見覚えのある配置そのままで並べられていた。年月を経た焦げ茶色のそれらは窓から入り込む光の中で静かに呼吸しているように見える。

 先に入っていた晃太が壁の上部にはめられたステンドグラスを見上げていた。ステンドグラスは以前のまま、太陽の白い光を透過して鮮やかな虹の色を放っていた。

 晃太が見上げるステンドグラスには青い衣を着たマリアの姿が描かれていた。優しい微笑みで人々を見下ろす顔は慈しみの光に満ちている。


「ねえ、見て星太。あのステンドグラスのマリア様……ボクね、初めてアイリちゃんに会ったとき、はじめましてって感じがしないなって思ったんだ。あれを見て分かった。アイリちゃんはあのマリア様と同じ目をしているんだ」


 言われてみれば確かに似ているかもしれないと星太は思った。マリアの目はすべての人々を愛し受け止める許容の目。愛梨が自分たちを見る目もそんなマリアのような目をしている気がした。 


「アイリちゃんの傍にいて安心するのは、アイリちゃんならボクたちのことを絶対に嫌いにならないだろうって理由のない確信があったからなんだ」


 その意見には星太も賛成だった。

 彼女は最初から慈しみのまなざしをもって二人に笑いかけていた。愛梨のまなざしは、あの慈愛に満ちたステンドグラスのマリアや優しくこちらを見守る老神父と同じ類のもの。二人がどんな無茶をしようと受け止める包容力に満ちたまなざしだった。


「だからボクはアイリちゃんには安心して大好きって言えるんだ……」


 晃太は言葉の奥に誰かのことを思い出したかのように言葉を切った。 

 隣合って同じようにステンドグラスのマリアを見上げながら、星太はこんなふうにも思っていた。


(アイリちゃんはみんなのことが平等に大好きみたいだけど、みんな大好きってことは誰のことも好きじゃないってことだよね。誰かを特別に好きになったとき、そのときアイリちゃんはどんな目をするんだろう……)


 ステンドグラスの中のマリアはどこにも視線を固定せず人々を優しく見下ろしていた。

 

 漠然と感じていた己の個の不在に明確な形を与えてくれた彼女を思う。  

 彼女が形を与えてくれたからこそ不安は明確になり大きくなってしまったけれど、それゆえ那智の「あなたです」という言葉はより胸に響いたのだ。


 晃太の影になんてならなくていいと言ってくれたとき、彼女はこうも言っていた。

『星太先輩、あなたはちゃんとここにいる』

(アイリちゃんも神父様と同じようにボクを見ようとしてくれていたんだ……) 

 あのときは受け入れがたかった言葉が、自分という個に気付き始めた今なら受け入れられる。

(そういえばあのとき……)


『私と…ち…って……』


 記憶の隅に残っていた自分に向けられた慈愛の目が一瞬だけ曇った。

(何を言っていたんだろう)

 いったん消えてしまった記憶の中の声は不鮮明でなかなか浮上してこない。それでも忘れていたはずの曇った顔が思い出されると、何を言ったのか気になってしかたがなくなった。

 何かがひっかかり、それを頭の中から引きだそうとする星太にマリアの口が動いたような錯覚が起こった。


『私とは違って……』

 

 ぎりぎり聞こえるくらいの悲しみを秘めた小さな声。あのとき、彼女は確かにそう言った。

 すぐに誤魔化したように微笑んで、その綺麗な微笑みに曇った表情も声も掻き消えてしまったのだ。


(ボクのほうこそ、きちんとアイリちゃんのことを見てあげていなかった……?)


 誰にも気付かれなかった哀しみを指摘してくれた彼女。

(ボクは自分ばかりが哀しいって思ってた。ボクは……そんな自分に目が眩んでいたんだ)

 誰にも気付かれていないのは彼女も同じなのではないか。そういった確信に近い疑問が頭をもたげる。

 疑問と同時に癒されてばかりいたことに気付いた星太の口に苦いものが混じる。

(アイリちゃんだって人並みに悲しんで悩むことがあるはずなのに、それでもボクが自分の力で向かい合わないといけない問題に気付いて声をかけてくれた)


「え、どうしたの星太。なんで泣いてるの!?」


 ポロリと目からこぼれた一粒の涙を見咎めて晃太がオロオロと顔を覗いてくる。


「分かんない……分かんないけど、なんか悲しくて……そして嬉しいんだ」

  

 胸にこみ上げる熱い感情に流されるまま、星太はもう一粒の涙をこぼした。




星太はある意味純粋な子。

周りがよく見える分、気付くことも多いし、ちゃんと反省もする。

彼を変えたのは那智、そして愛梨。

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