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29・GW、三日目、委員長


 パンパァン


 竹刀のぶつかり合う音が道場に響く。

 準備運動として素振りが三百回。次に技の基本的な動作の連続の打ち込み。面の打ち込み、続いて小手・胴、他にも小手から面、面から胴への連続の打ち込みを重ねていく。

 このような基本的な動作でさえ、剣道においては各人の能力差が如実に表れる。


 主要な戦力となる上級生たちは均整のとれた肉付きの腕から一打ち一打ちを力強く打ち込んでいく。

 ただ打ち合っているというのに、受け手の腰が引きぎみになっている。それは受け手が一年生であり技とともに体力面でも未熟であるということも言えるが、彼らの技能が相手をはるかに上回っていることの表れでもあると言えるだろう。


 今日は六月初めに行われる県大会予選に向けての候補選手が選ばれる日。

 選ばれるのは主要選手枠五人、補欠が二人の計七人。

 多くの部員たちがその枠を目指して打ち込みに力を入れていた。一年生の自分が選ばれることはないかもしれないが、その迫力に負けじとそれでも普段と変わらぬ力で打ち込みに応じた。


 一通りのメニューが終了し、休憩を五分はさむ声が顧問からかかる。

 面から解放された顔に一気に汗が噴き出る。

 ここまでがウォーミングアップ。まだ疲れは感じない。けれど他の一年生は早々に疲れた顔をしていた。数か月前までは中学生。高校生の先輩方に比べればまだまだひよっ子。自分たちにとって今の時期は選手枠を狙うどころか先輩たちの訓練について行く体力を蓄えているのに必死な時期なのだ。

 でもまだ足りないと思った。


「お、おつかれさま」


 手ぬぐいで汗をぬぐう彼に三年の女子マネージャーがタオルを持って近付いてくる。その横には他にも二人の新人マネージャーが付き従っていた。

 目線は合わない。

 怖がっているくせに何故こうして一年生の新人にすぎない自分のところに来るのだろう。団体で動かないと近寄ってこられないほど自分を怖がっているのなら、部の上級生たちのほうを労わればいいのに。

 

「大丈夫です」


 一言断ってその場を去る。

 道場の扉脇に立ち、背筋を張りつめ過ぎないほどに伸ばして外を見るのが自分なりの休憩の仕方だった。

 ここに立つと、数分の間一人になれる。

 空は快晴。心地よい風が道場内にこもった熱気を冷まして通り抜けていく。その風が好きだった。

 持参したペットボトルのフタを開ける。凍らせて持ってきたお茶が中で半分溶けて、キンと冷たい感触が喉を伝った。

 外側につく水滴が一つ玉になってこぼれ落ちる。


 先日見た涙のようだと思った。



 休憩が終わり集合の時間になる。

 息を整えた部員たちが面を装着していく。

 自分も面を置いていた位置に正座し、皺の寄った手拭いをパンと一振りして頭に巻きつけていった。


 後ろでこそこそと話し声が聞こえて振り返る。こちらを見ていたマネージャーたちがさっと視線を逸らして気まずそうにしていた。少し顔が赤く見えるのは、道場内にこもった熱気にあてられたためだろうか。


 自分は女子に怖れられている。


 以前からそう思っていた。

 原因は、うまく伝わらない端的な言葉とあまり表情が変わらないこの顔。それらが複合的に相手に苦手意識を持たせるのだ。

 口数の少なさも、無愛想なこの顔も生来の性質ゆえなかなか改善することができないでいる。

 そのため怖い印象を女子には特に与えてしまうようで、さきほどのマネージャーたちにしてもクラスメイトにしても、目が合えばさっと逸らしてそっぽを向くことが多い。

 マネージャーなどは部員ということもあり気を使ってはもらえているが、そうでなければ関わってこなかっただろうと思う。


 そんな自分に普通に接してくる女子は二人。


 一人は水野 愛梨。

 彼女は平等に人に接することができる良い性質を持っている。誰に対しても嫌な顔をせずにこやかに接することができることは誇って良いことだ。

 彼女は自分に対しても朗らかな笑みで近付いてくる貴重な人間だ。委員長という役割もあって教師から色々と頼みごとをされるときなどによく手伝いを買って出てくれる。


「岩田くんは責任感が強いよね。たまには頼ってくれていいんだよ」


 それが彼女の親切心なのか、彼女は度々そう言った。

 他にそう言ってくれた者はいなかったので、彼女の気遣いを珍しく感じた。同時に自分はそんなに抱え込んでいるように見えるのかと思った。

 考えてみたが、べつに委員長の仕事が辛いと感じてはいないという結論に至った。むしろやりがいのある仕事だと思う。でもその優しさはありがたく受け取った。


 水野 愛梨の纏う空気は清浄で綺麗だ。

 彼女の本質を言い表すなら、歪みのない真珠。おうとつがなく滑らかで、それでいて固い印象を与えないやわらかな光を放つ真珠だ。

 美しい輝きは触れて手垢を付けるのをためらわせる。


 この感情をどう言い表せば良いのかは今のところ分かっていない。


 もう一人は桂木 那智。

 いつも前を見て、泣くことなどないだろうと思っていた彼女があの日はたくさん泣いていた。

 最初の頃、彼女のことは苦手だった。もとより女子全般が苦手なのだが、彼女のことは特に苦手意識を持って接していたように思う。


 彼女は好き嫌いがはっきりとしていてすぐに顔に出る。

 いつも笑みを絶やさず人当たりの良い彼女の兄とは正反対の自分はきっと、彼女の前に立てば怖がられて視線を逸らされるだろうと思っていた。

 いかにもな女子の典型として桂木 那智のことは捉えていた。彼女に対しては、女子全般への苦手意識の象徴のように感じていた部分もあったと思う。

 基本的に人当たりが良く、男女共に変わらず接しているようだが、自分に対してはどうだろうか。彼女はきっと怯えるだろう。あからさまに顔を背けられたら、どう対応してよいものか。


 けれどその予測は良い意味で裏切られた。

  

 彼女は普通だった。

 怖がりも恐れることもなく、普通の男子生徒と同じように接してきた。

 畏怖されたいわけではない。ただ普通に接してくるのは物珍しかった。また同時に感じるこそばゆさは新鮮にさえ感じた。

 他の人間に「委員長」と呼ばれるときはその中に責任を含んでいるようで身がシャキッとするのだが、彼女が「委員長」と呼ぶときはただの呼びかけに聞こえた。あだ名と同じ、ただ自分に呼びかける名称。

 

 普通すぎるその対応。おかしな人間だと思った。


 水野がやわらかい光を放つ真珠なら、桂木 那智は泥の基盤に生えた一本の木。

 真っ直ぐ立っているようで、その表面はでこぼことしている。その足元はぐらついていて不安定なのに、何故かしっかりと根をはって枝を伸ばしているのだ。

 触れがたい印象を受ける水野 愛梨と比べて、桂木 那智は触れてその感触を確かめたくなる。きっと暖かくもなく冷たくもない、けれど自然な感触が得られるのだろう。



 面を付けたら、ランダムで本番形式の試合を行う。

 対戦相手は二年生ながら中堅をはる上級生。彼は小柄ではあるが、素早い身のこなしを生かした小手を得意としている。

 対して自分が得意としているのは上背を生かした面。一見派手だが、決めてとならなければ返されて小手や胴を入れられる危険性も大きい。


 強い相手と対戦するときの高揚感はたまらないものがある。目を見ただけで血が熱く湧き上がる。

 目の前の彼は強くて尊敬に値する人間だ。強い人間には惹かれるものがある。


(ああ、そういえば桂木 那智もたまに強い目をするな……)


 竹刀を向け合った上級生の奥に、強く前を向く桂木 那智の顔を見た。


 あの日、水野 愛梨の教科書を投げ捨てた犯人を追いつめたとき、兄妹間の血の繋がりに関して悪く言われた彼女は強く壁を叩いて前を見据えた。

 こんなに強い目をする女もいるものなのだな。そう感心した。


 強い人間は嫌いじゃない。


 彼女への認識は次々と移り変わっていく。女子らしい人に甘える上手さを持っているという認識はおもしろい人間へと移ろい、次に女のわりに芯が固くて強い人間だという認識に変化した。その認識に加わったのが人間らしい弱みも持ち合わせているということ。

 まさかあれほどお化けを怖がるとは思っていなかった。

 怯えて、震えて、立ち止まりかける足を何度も前に進み続ける彼女に差し出した手は最後まで取られなかった。

 代わりに掴まれた服の裾にやたらと意識は集中していた。 

 

 上階にあがる階段で掴んだ腕は、木の固さではなくやわらかい肉の感触がした。あのときの自分はその当然の感触に驚いて変に力を入れてしまった。実は抱き留めるまでもなく、腕の一本で余裕で支えられたのだと言ったら、顔を赤くして怒るだろうか。

 彼女は怒った顔も面白い。ぷくっと赤い風船のようにふくれていく頬は思わず突いてみたくなる。

 でも、本当にぞくっとするのは真に怒ったときの表情だ。あの日、叩かれた壁の音は直接触れたわけでもないのに自分の心臓をドンと響かせた。


 きっとあのときからだ。桂木 那智に興味を抱いたのは。

 それまではただのクラスメイトの女子という記号にすぎなかったのに……。


「はじめっ」


 構えの姿勢から立ち上がる。竹刀の剣先が触れ合う。じわじわと前へ後ろへ、相手の隙を伺って移動する。


 強いものは好きだ。たとえ弱くとも強くあろうとする姿勢は好ましい。


 なら桂木 那智は?


 分からない。でもあの夜、触れた体温の暖かさは、確かに熱く血をたぎらせた。

 

 ※ ※ ※


 水道を捻って顔に水をかける。初夏のこの季節、透明の水が太陽の光を反射してキラキラと零れ落ちていく。

 試合は得意の面で勝負がついた。


「岩田、次の県大会の予選にお前先鋒で出ないか?」


 顧問の台詞だ。


「先鋒は気が重いかもしれんが、もし負けたとしても後に四人も控えているからな。なに、先輩たちの肩を借りるつもりで出てみろ。勝ち負けは気にするな。責任は重大ではないとは言わないが、お前のこれからにとっても良い経験になると思う。出てみないか?」

 

 期待のまなざしに一も二もなく頷いた。

 自分にとってはふって湧いたチャンスだ。出ないわけにはいかない。いったいどんな強い人間に出会えることだろう。

 期待に胸は膨らみ、気分が高揚していく。

 熱くなった頭を水で濡らしてぶんと振った。


「きゃっ」


 まさかこんな休日の日に顔を見るとは思わなかった。


「水野 愛梨……」


 飛んだしぶきが彼女の制服のスカートに丸い水滴を作っていた。彼女は取り出したハンカチで水滴を拭き取ってこちらに笑いかけてきた。

「ふふっ、驚いたって顔してる」

 敏い彼女は変化の乏しい自分の表情も読み取ることができるらしい。微細な変化にも気付くことができることが、彼女の気遣いの心に通じているのかもしれない。


「宿題のプリントを忘れちゃって。取りに来たの。そしたら剣道部の発声が聞こえてきたから、ちょっと覗いてみようかなぁって思って」


 水滴をかけられたというのに、彼女は不快な顔ひとつ浮かべない。


「ねぇ、マネージャーの人たちの話が聞こえてきたんだけど、今度の試合で選手として出ることが決まったんだってね。おめでとう。岩田くんは努力家だもんね。クラスメイトが認められるって、私もなんだか嬉しいな」


 それどころか、大げさすぎない賛辞の言葉が優しい響きを持って贈られる。 

 彼女の傍にいると気持ちが安らぐ。


「岩田くん、その試合見に行ってもいい? 応援したいな」


 だというのに、すぐに頷くことが出来ないのは何故なのか。


「見にきてもつまらないと思う」


 どうして断ろうとするのだろう。  


「うぅん、そんなことないよ。遠くから岩田くんの部活姿を見たことあるけど、すごく格好良かったもん。どんな試合をするのか見てみたいの。ダメ……かな?」


 困ったように、それでいて綺麗で歪みのない微笑みが向けられる。

 いつもより意識して綺麗だと感じた。

 

 了承の意を伝えて別れた後、道場脇に立つ木に手を置いた。

 見上げた木は緑の葉を揺らしてさざめいていた。暖かくもなく冷たくもない、ただそこにある木の感触に安堵を覚える。


 どうして手を置いたのか、その理由が分からない。

 さっきまで分かっていた気がするのに、急に分からなくなっていた。




愛梨が本気を出した!?


本質が歪みのない真珠であるかは別として、委員長の愛梨への印象は彼女のスペックのため。


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