28・GW、二日目、病室の彼女
――願いは一日の時間。これは眠り続ける彼女のために、たった一日の時間を得るためのゲーム。
電車に揺られて一時間半。駅についてからタクシーに乗り換えて十分。
降りついた先は白い壁が青空に映える病院の前だった。無機質にならないように植えられた木々の緑が優しく葉擦れの音を響かせている。
休日ではあるが、観光地に隣接している病院は患者の受け入れをしているらしく、それなりに人の出入りが多い。
透明な自動ドアを潜り抜けて見慣れた建物へと入って行った。
ピッ ピッ ピッ
機械音が規則的に鳴る病室。記憶の中の病室はこんなに静かだっただろうか。
風が外の爽やかな空気を室内に送り込んでくる中、ベッドを囲むように機械が並び、点滴がポタポタと滴を垂らしていた。
「不思議……私はこうして動いているのにね」
眠る彼女は微動だにせず、安らかな呼吸が掛けられた布団を上下させていた。
魂のない身体はそれでも生きて呼吸をしている。人間の魂と肉体の関係性というものがどうなっているのかと不思議に思うが、あの女神がそれを知っているとは思えなかった。聞いたとしてもそういうものだと返してきそうだ。
でも、約束通りこうしてベッドの主は生命活動を続けている。今はそれで良い。
指先で風に吹かれてほつれた彼女の髪を直した。
機械類や点滴が並んでいる室内は、一見するとごちゃごちゃしているように感じる。けれど彼女の荷物は綺麗に片づけられ、整理整頓が行き届いているのが分かった。
ベッドの横、壁際に置かれた荷物棚には小説に教科書、漫画が数冊、それとゲームのディスクが数種類並べられている。パッケージはどれもカラフルな色をしていた。
棚の上には小さな鉢植えの花が置かれている。根付くという意味があるから駄目だと言ったのに、それを置いた人が「どうせ入院は長いんだから、根付いてしっかり治療するんだ」と答えたのを思い出す。その強がった口調を思い出して少し笑った。
花はよく手入れされているようで、枯れた部分はなく、小さく綺麗な花を咲かせていた。
再びベッドの上の住人に視線を戻す。眠る顔は記憶にあるよりも血色が良いように思えた。
下を向くとさらさらと黒髪が肩を零れ落ちてくるので、片手でそれを掻きあげて耳にかける。眠る彼女は焦げ茶の髪。ふわふわとした質感で、内巻にくりんとクセがついていた。
もう帰ろうかというところで、カラカラと病室のスライド式の扉が明けられる。
「あ……」
誰もいないと思っていたのだろう。扉を開いた彼は驚いた顔をしていた。その顔は、眠る彼女によく似た面差しをしていた。
「こんにちは」
丁寧に頭を下げておじぎをした。
※ ※ ※
病院の屋上は周囲をぐるりとフェンスで覆われていたが、直接の空の下にあるため広く感じられる。
いくつかのベンチが置かれていて、そのうちの一つ、給水塔の影になっている部分を選んで腰を下ろした。
「妹は体調の良いときはよくここに来ていたんだ」
「知ってます。空に」
「空に近いから」
重なる声に二人して自然と笑みが漏れる。初対面の人間が打ち解けた瞬間だった。
「知らなかったな。妹にこんな美人の友達がいたなんて」
「ずっと病院にいると出会う人も少ないですからね」
「あいつの棚見た? 小説や漫画はまだしも、ゲームなんて乙女ゲーばっかり。何が良いんだって聞いたら、その中にあるキラキラした世界が好きなんだとさ。俺にはよく分からん。あいつは……」
言葉が止み、彼が手にはめた腕時計をくりくりといじり始めた。
彼は腕時計を緩めにとめる。ぴっちりしすぎると締め付けられているようで嫌なのだ。緩めのそれをいじるのは考え事をするときの癖だ。自分がそれを知っていることを彼は知らない。だからじっと言葉が発せられるのを待った。
「その話をしたとき、あいつ言ったんだ。自分はこのキラキラした世界の背景の一部にもなれやしないって。俺、どう返したら良いか分かんなくて……」
がしがしと頭を掻く人はひどくもどかしそうな顔をしていた。愚痴のような思いを初対面の人間にぶつけることに抵抗を感じているのかもしれない。それでも出てくる言葉を、理解してもらうというよりはただ垂れ流すように彼は呟いた。
「俺、そのとき……なれるよ、ってしか言えなかった」
白い雲の影が屋上を滑っていく。金色の太陽が地上を明るく照らし出していた。
「あー、ごめんな。こんな話して。よく分かんないよな」
ははっと笑う声は少し擦れていて元気がない。
「あいつさ。ここ一、二か月寝込んだきりで、起きてこないんだ……」
意識がない、とは言えないのだろう。寝ているだけで起きてこないと言うことで、ただ眠っているだけなのだと言い聞かせているようだった。
哀しげな口調が辛くて、視線を下に下げた。影が移動してつま先に光が当たるのが暖かく感じた。
「それなのに起きていた頃よりも顔色が良くてさ。医者が言うには、以前よりも病状が安定しているくらいだって。おかしな話だろ?」
「妹さんは……寝ているだけです」
ふせていた顔をあげる。
「良い夢を見てるから、夢の中の居心地が良すぎて起きられないんです。夢が終われば戻ってきます」
「そう……かな?」
向けられた瞳は言葉の中に救いを見出そうとしていた。もしかしたらこのまま目覚めないかもしれないという嫌な予感に押しつぶされてしまいそうで、初めて出会った人間の言葉にさえ縋らずにはいられない気持ち。似たような感情を知っている。だから笑った。笑顔一つで安心感を与えられるならば、と。
「そうです。絶対に戻ってきます。おはよう兄さんって寝ぼけた声で。……信じられませんか?」
小指を差し出して腕時計をいじる方の小指を絡め取った。
「指切り、です」
それからしばらく当たり障りのない日々の話をした。彼の通う大学の話や授業のこと。バイトのこと。いたって普通の日常の話を。
太陽が少し傾いた頃、立ち上がって去ることを告げる。
「今日は楽しかったよ。同じ年頃だからかな、久しぶりに妹と話をした気分になれた」
さっき彼自身の髪をがしがしとを掻いた手が、今度は自分に乗せられる。がしがしと撫でてくる手つきに懐かしさを感じた。
「学校は楽しい?」
「……っ」
何気ないことを聞かれたというのに答えに詰まる。
「遠慮しなくていいよ。この質問、俺もよく妹に聞かれた。俺なんて毎回胸張って楽しいって言ってたし。あいつは羨ましいって顔はするけど、悔しいって顔はしないんだ。逆にどんなだか聞かせろってしつこいんだから。あいつの聞かせろって、根掘り葉掘りだからうるさくて」
そうだった。眩しい世界の様子をせがんでは聞いていたのを思い出す。その様子を思い出したのか、彼は嫌そうな態度をとりつつも目を細めて笑った。
「どう? 楽しい?」
「楽しい……です。すごく」
「そ、なら良かった」
お世辞などではなく、真実そう思っているのが笑った顔から見てとれた。
「また何かあったら来てやってよ。俺もちょくちょく顔は出してるし」
「はい。また来ます」
「約束」
今度は彼のほうから小指を立ててかざす。
「私……しばらくは忙しくて来られないかもしれませんが、絶対にまた会いに来ます。約束……します」
自分も小指を立ててかざした。
つかつかと病院の廊下を早足で進む。
交わされた約束は、自分だけのものであった願いを強いものにした。
学校は楽しいかと聞かれて、楽しい中にも時折よぎる寂しさを言い当てられたようで胸が詰まった。そのことに今は蓋をする。
蓋をして厳重に鍵をかける。
それでも熱くなる目頭。唇を噛んで涙が落ちそうになるのをぐっとこらえて、握ったこぶしでぬぐいとった。
通り過ぎる人々が振り返る。
思いの強さに漂う強い春の気配にたまらず惹かれて彼女を見た。
うつむかず、前を見て歩く綺麗な後ろ姿が病院の自動ドアの外へと消えて行った。
※ ※ ※
病室で一人眠る彼女の兄が帰って三十分ほど後のこと。
腰まである艶やかなストレートの黒髪に白いワンピースを纏った美少女が眠る彼女を見下ろしていた。
度重なる訪問者にも眠る彼女は穏やかに呼吸を続ける。身体にに繋がれた機械の電子音がピッピッと規則正しく鳴っていた。
「これが現愛梨が見舞っていた子……」
赤い唇が言葉を紡ぐ。その声は鈴のよう。見下ろす瞳は大きく黒く、気位の高い猫のようだった。
彼女の横には、黒いライダースーツを羽織った青年が控えていた。天然パーマがかかったクネクネとうねる髪も無造作ヘアと言われればそうなのかもしれない。決して不潔感などはなく、返って洒落て見えるその黒髪を彼はつまらなそうにいじっていた。
「良かったっすね。旦那様に無理を言って旅行先を変更してもらって。思わぬ収穫ってやつ?」
世間話をするように横のライダースーツの青年が話し掛けた。自分の良いように髪が定まったのか、青年は手を止めて外に目をやる。窓の外の空は高く、緑の葉を伸ばす木の枝の影では小鳥が実をついばんでいた。
聞こえているのかいないのか、見下ろす美少女は何かを考え込んでいるようでじっと動かないままだ。「おーい、姫さーん」という呼び声にも、観察するようにベッドの上の住人を見るだけで応えることをしようとしない。
「姫さん、まさかその生命維持装置……はずそうなんて思ってないですよね?」
思いついたままを述べたような口調。その口調は、横にいる彼女が機械のコードを引き抜いても止めはしない、という印象を受けるものだった。
「お前の中で私はそんなことをしでかしそうな人間なのだということかしら? 一度お前の私に対する認識を改めさせたほうが良いようね」
ベッドに顔を近づけていた彼女が横目で一睨みすると、彼は肩をすくめて一歩後ろへ引いた。
「そんな、めっそうもない。姫さんが犯罪行為を侵そうと、俺が姫さんの下僕であることには変わりないっすよ」
うやうやしく長い黒髪を取る彼の手をぺちんと叩いてはたいて落とすも、彼はそんなことくらいでは傷付きもしないというように片眉を上げてみせた。
「論点が違う。とぼけたことを。お前が理解したうえで言っていることくらい、私には分かっているのよ。自分を下僕と言うくせに、お前は私をバカにしすぎだわ」
「はいはい。ただの下僕はだまりますぅ」
さらに煽りをかけるように口を尖らせたが、彼女はふんと鼻を鳴らすだけでとどめた。これ以上の応酬は言葉を重ねるだけ無駄だと分かっているのだろう。
「まだしないわよ、そんなこと」
それでも顔だけは不機嫌そうに歪められていた。それまで面白くなさそうな顔をしていた彼がその表情を見て少しだけ唇の端を上げたのを、視線をベッドに戻していた彼女は横目で睨むことで返した。この男は人が嫌がるのを見て喜ぶ性質がある。
(随分と趣味の悪いこと)
思うだけで止めておいた。むきになって返せば余計面白がらせるだけだ。
「まだ……ね」
おお恐い、と震える動作をする彼はちらりとも恐いとは思っていないのだろう。その瞳はからかいの色を含んでいた。
「この子と現愛梨との関係もよく分かっていないのに、不用意な真似はできないもの。今日はもう帰るわ」
青年の返事を待たず白いワンピースがひるがえる。青年は溜め息ひとつついて続いて病室を出た。
訪れた静寂に病室の機械は変わらず規則的な機械音を鳴らしていた。
数分後、病院の白い壁にエンジン音を反響させて、黒いバイクが颯爽と病院の敷地内を去っていった。
那智が見たのはやはり愛梨だった・・・。




