27・GW、二日目
旅行先での二日目の朝。
別荘の窓の外には白い雲が綿あめのようにふわふわと青い空を漂っている。今日は少し暑くなりそうだった。
私は広いリビングで持参してきた宿題の数学のプリントを広げていた。
GWといえど学生にはしっかりと宿題があるのだ。お兄ちゃんはとっくに終わらせたみたいだけど、普通スペックの私はまだ終えることができていなかった。プリントの数字に唸る。
キッチンでは両親が仲良く朝食を作っていた。パンの焼ける香ばしい匂いがここまで漂ってくる。
二人は本当に仲が良い。
長年連れ添ってきた雰囲気を醸し出している二人だけど、これでまだ再婚して五~六年なのだ。それまでは他人だった二人が、縁あってラブラブ夫婦になるなんてと不思議に思う。
(そっか……二人が出会う前までは、私とお兄ちゃんも他人だったんだ)
答えが導けずに止まったシャーペンで、コンコンと白いプリントに点を打った。
(人生って縁の集まりできてるんだよね……)
それまで他人だった私たちがある日突然兄妹になったことさえ人の縁の結果だ。お父さんとお母さんが出会わなければ、私たちは兄妹にならなかった。
たとえばの話。もしお父さんが離婚していなかったら、たとえ今の両親が出会いを果たしたとしても再婚という選択肢はなかっただろう。
お父さんはあまり話題にしたことがないけど、前の奥さんとの夫婦仲はお世辞にも良いものではなかったようだ。突っ込んで聞いたことはないけれど、その人は母親としても良いものではなかったと聞いたことがある。
お兄ちゃんの口からその人の話題が出たことはこれまで一度としてない。
それは新しくできた母親や妹に対しての遠慮というものではなく、話題にすることすら嫌なんだと私は思っている。それくらい以前の母親の影がないのだ。
母親が写っていたであろうアルバムの写真は全てはぎ取られていた。そのことをお父さんに聞いたとき、それらは別れてすぐにお兄ちゃんの手によって焼き捨てられたのだと聞かされた。微かな痕跡すら、新しい生活には入り込ませたりしない。そんな執着さえ感じさせられた。
だからお兄ちゃんにその人のことを聞いたことはない。
お兄ちゃんにとっての家族はお父さんと今のお母さん、そして妹の私なのだ。
(兄妹にならなかったら、私とお兄ちゃんってなんの接点もなかったんだよね)
兄妹にならなければ通う学校も違っただろうし、街中ですれ違ったとしても見知らぬ赤の他人として通り過ぎるだけだったんだ。そう思うと、やっぱり人の縁ってすごいなと感じた。
「――ち。那智」
ぼーっとする私の目の前でお兄ちゃんの手がぷらぷらと振られていた。
「あ、ごめん。なに?」
「ぼーっとしてる。まだ疲れが取れてない?」
手が優しく私の頭を撫でる。
この手すら、妹にならなければ頭に置かれなかった……。
「うぅん、大丈夫。ちょっと答えに詰まっちゃって」
「教えようか?」
「うーん、もう少し考えて分からなかったら頼もうかな」
キッチンの方から「朝ご飯ができたわよ」と朝食の呼びかけがかかる。気付けばプリントに打った点が黒く大きくなっていた。黒い点はそのままで、プリントをファイルにはさんで閉じた。
朝食は卵やベーコンがたくさん乗った豪勢なサラダとコーンスープ、地元特産の小麦粉で作られたロールパンだった。
少し調子が悪いみたいだ。普段の私なら食べられる量もあまり食べられなかった。コーンスープだけは飲みきった。自分に出されたものくらいは食べ切りたいので、飲み終わってほっとして銀色のスプーンを空のお皿に置く。
みんなに心配をかけたくなくて元気に笑っていたけれど、スプーンを置くカンと鳴る音さえ耳に痛かった。
「食べ終わったら出かけましょうね」
「今日はたくさん歩くからな。歩きやすい格好で出かけるんだぞ、那智」
「はーい」
楽しそうに話す二人には体調が悪いということなんて言えそうにない。
(これくらいなら我慢できるし)
私は笑うことに夢中だった。お母さんに笑って返し、お父さんに笑って返し、こちらに向けられるお兄ちゃんの視線に笑って返した。顔面の表情筋に集中しすぎて、そんな私の態度をおかしいと思われていることにすら気づくこともできなかった。気付けなかったのはやっぱり体調が悪かったからに違いない、と思いたい。
午前中のうちに観光地で開かれている芸術展を見て回ることになった。
新進気鋭の作家たちが持ち寄ってこの地の色々なところで作品を飾っているのだそうだ。仲良く手を繋いで歩く両親の後ろについて作品を探して街を練り歩いた。
「……現代美術ってよく分かんない」
巨大な鉄筋の棒でできた物体を前に呟く。題名を見ると『過去から来た人』となっていたが、何が過去でどこが人なのか分からない。私にはただの黒い棒の集合体にしか見えなかった。
「これだけの作品を作るってのがすごいのよ、きっと」
お母さんが理解しているのかどうか分からないような感想を言う。巨大な作品を作る気力はすごいと思ったけど、これが芸術なら私には一生芸術は理解できそうにない。
見上げていると疲れるので、離れて後ろに下がった。お兄ちゃんも一緒に後ろへ。お父さんとお母さんは二人して近くに寄って作品を眺めていた。鉄筋の棒はうず高く積まれて空へと伸びている。
(暑いな……)
地面の方から天頂部へと視線をずらすと、眩しい太陽が目に飛び込んできた。
青い空に金色の太陽。明るすぎてめまいがする。
くらりと揺れた身体が大きな手に支えられた。
「父さん、母さん。那智がまだ宿題終わってないから戻りたいって。先に戻ってるから、ゆっくりしていきなよ」
お兄ちゃんが隙のない顔で二人に言った。支えられた身体は、そうと見えないように二人の視線に映らない位置で支えられていた。
「お兄ちゃ」
「しっ。二人に心配かけたくないんだろ。このまま別荘に戻ろう」
私の体調が良くないことはお兄ちゃんにはお見通しだったらしい。そのうえ、せっかく旅行を楽しんでいる両親に心配をかけさせたくないという心の内さえ、何も伝えていないというのに分かっていたみたいだ。
お兄ちゃんはさりげなさを装って私を連れて別荘に戻った。
部屋に一人きりになるのが嫌で、リビングの床に横になる。お母さんが見たら顔をしかめそうだけど、頬に当たる床の板の冷たさが気持ち良かった。
寝ころぶ私の傍でお兄ちゃんが座る。手が額をなぞって何度も往復した。額が汗ばんで髪がしっとりとしているのを感じた。
「病院に行く?」
「いや。病院には行きたくない」
病院は嫌いだ。白い布を顔に被せられた死んだ父を思い出すから。できるだけ行きたくない。
部屋は静かで、開けた窓から心地よい風が入り込んできていた。外は明るくて光の下では暑さを感じたけれど、影となっているここは丁度良い温度だった。相手をするのが私だけということもあり、周囲を気にしなくて良い分、お兄ちゃんの表情もいつもより柔らかかった。
目を閉じる。穏やかで静かな時間だった。柱時計の振り子がコチコチと揺れていた。
「今だけは……傍にいて」
体調が悪いときは誰かに傍にいて欲しい。今だけ私の相手をしてくれたら良いから、今が済んだらよそに行ってしまって良いからと我が侭を口に乗せる。
熱のせいで冷たく感じる指先が額にはりついた髪をすいた。
触れられる指の心地良さに意識は深いところに落ちていく。夢の中は暗かったけれど、触れ続ける指のおかげで少しも怖いとは感じなかった。
※ ※ ※
何も登場しない暗い夢は突然の浮遊感に打ち壊された。
身体が抱きかかえられて宙に浮いていた。意識がふわふわとしていて余計に浮遊感が増す。
「那智。悪いけど熱が上がってるから病院に行くよ」
病院と聞いて反射的に身体がすくむ。
「大丈夫。俺がついてる」
抱きかかえられた腕が私に安心感を与える。この人が「俺」と言うときは「僕」と言うときの十倍の信用度がある。そう言うならと、力の入らない腕の代わりに顔をすり寄せた。
やって来たタクシーに抱きかかえられたまま乗り込む。
ブロロロと鳴るエンジン音に重なって、後方からバイクのようなエンジン音が鳴ったような気がした。
私がかかった病院は真っ白な壁が何棟も続く大きな病院だった。
医者や看護師の白い制服が私に圧迫感を与える。病院が怖いだなんて小さな子供みたいだ。
不安感に隣に座るお兄ちゃんの手を握る。傍にいるよ、とでも言いたげに返される手の強さだけが私に生きて動く生物の暖かさを感じさせた。
待合室で会計を待っているときだった。
名前を呼ばれてお兄ちゃんが少しだけ席をはずす。それだけで不安感が増しただなんてことは言えないので、戻ってくるまでじっと目を閉じ続けた。
一瞬、心が安らぐような春の風が私の鼻をかすめた。
うっすらと目を開く。生理的な涙がじわりと瞳を潤して視界が悪い。ぼやける視界に何かが映った。
「あい、り……ちゃん?」
たくさんの患者が行き交う中、そこだけ光が当たっているかのように綺麗な後ろ姿が目の端を通り過ぎた。背もたれに預けていた重い体を起こす。
風になびく柔らかな黒髪を探して目を向けると、
「お待たせ、那智」
目の前にお兄ちゃんの顔が来て、他が見えなくなってしまった。顔をずらしたけれど、もうそこには知らない顔ばかりしかいなかった。
「那智?」
お兄ちゃんが心配そうに顔を近づけてくる。
「う、ううん。何でもない。……たぶん気のせい」
気のせいと言いつつ、私は確かに彼女を見た気がしてならなかった。
春の空気を纏った綺麗な黒髪の彼女を。
戻ってからさすがにこれ以上はごまかせなかったので、両親に体調が悪いことを伝えて部屋で横になった。
代わる代わる来てくれるお母さんとお父さんに、この家族になれて本当に良かったと感じた。そのうちでも何度も、両親以上の回数でお兄ちゃんは顔を覗かせてくれた。
夜がふけていくうちに訪問は途絶え、目を開けて傍にいるのはお兄ちゃんだけになった。額に乗せられた濡れタオルが気持ち良い。ずっと付いていて取り換えてくれていたみたいだ。
「迷惑かけて…ごめんね、お兄……ちゃん」
「もう少し寝て。傍にいるから」
それから幾度も暗い夢と電気の点いた部屋に景色が移り変わった。それでも目覚める度に傍にいてくれた人に安堵して、私はその度に安心して眠りについた。
浮かんでは落ちていく意識に声がかかる。
「俺を……」
閉じた目蓋に柔らかい圧力を感じた。
翌日、すっきりと晴れた頭で起き上がると、そこにはお兄ちゃんの姿はなかった。
部屋を出てリビングに向かうと、お兄ちゃんはそこで朝のコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、那智」
いつもの、対外的に向けられる完璧な笑顔が私に向けられた。
※ ※ ※
――求められてもいないのに気を回して誰かを助けようとするなんて面倒くさくて嫌いだ。
人の好さを装っていても、内心ではそう思っていた。
那智のことだって助けを求めてこないのならば放っておけばよかったのに、何故助けたりなどしたのだろう。
姿勢を崩す那智を見て、我慢されると後が面倒だとかそんな意識はなく、気付けば自然と手が伸びていた。
那智に関しては考えることより先に体が動く。理由はいつも後からついてくる。でもたいていは説明がつかず、「どうして?」と霞がかり動機づけに困った。考えるのも面倒で、そんなときは深く悩まずに「妹だから」で済ませていた。
少し呼吸が荒くなってきている。
冷たい木の床に頬を当てる那智の横に座って触れた額は微熱程度でまだそれほど高くはない。病院には行きたくないと拒む意志を尊重して、傍に座って様子を見ていた。
頬が上気して赤い。日中はまだ良いがこれから熱が上がりそうな様子だった。
那智は苦しいときほど誰にも助けを求めない。
こうして自分が気付かなければ、体調の悪いことを隠したまま動いていただろう。呼べば甘えた声で寄ってくるのに、苦しいときほど自分ひとりで抱え込む傾向がある。
(あのときも……)
ウサギに声をかける那智を思い出す。
あのとき、震える足を叱咤して那智は再び暗がりへと戻っていった。少しだけ見えた横顔は、これまで見たこともないような強さを秘めていた。
怖いのに、震えているのに、那智はそのウサギのために嫌いな暗闇に戻った。
「あなたです」
追った先で、那智は必至で何かを伝えようとしていた。何度も繰り返し言われる言葉が、拙すぎて逆に心に響く。那智の精一杯の心が向けられていた。
何かが伝わったのか、それまで動かなかったウサギの手があがった瞬間、体が動いていた。
理由は「大事な妹が傷付こうとするのを止めるため」であっているだろうか……。
「傍にいて」
うわごとのように呟かれた言葉にほっとする。
求められるならば手を伸ばせる。そこに自分の理由はいらない。ただ相手の要求を呑むだけで良いから、何も考えなくてすむ。
熱く汗ばむ額に指先で触れた。
深夜にかけて何度も部屋を訪れたのは、「傍にいて」という求めに応じた結果。
迷惑をかけたと謝る那智にもう少し寝るようにうながす。
今日はよく謝る。
(違う。謝ってほしいんじゃない)
「もっと俺を呼んで」
目蓋に口づけて我に返る。
脳内に散る桜の花びらと共に優しい微笑みが蘇った。自分が好意を寄せているのは彼女だ。
では那智は?
「妹……だよ」
呼べば「お兄ちゃん」と応える、甘えたがりの妹。それ以上の理由はいらない。必要としない。
部屋に入るべきではなかった。距離を測り間違えた。自分以外は所詮あの女と同じだ。いつか離れていく他人。
那智の傍を離れて、夜が明けるまでリビングで過ごした。一睡もできなかったのに疲れはなかった。
夜が明けて、頭を切り替えるために熱いコーヒーを注いだ。ほどなくして那智がやって来る。熱は下がったらしい。すっきりとした顔をしていた。この様子なら、もう手をかける必要はないだろう。
「おはよう、那智」
仮面はいつも通りに被ることができた。
暴走しかけて止まった兄。
崩れかけた壁を再構築。




