26・GW、一日目
GW編です。
桂木家は観光地へ旅行へ。
暗い灰色の廊下で一人、泣き続ける女子生徒がいる。両手で顔を覆い、自分は一人きりだと泣いていた。
(これは私だ)
私はむせび泣く私を後ろから見下ろす。
窓の外に見える景色から、ここが校舎の三階に位置するのだと分かった。
でもおかしい。私が一人で泣いていたのは中央階段を下りたところ、一階の廊下だったはずだ。
夢の中で泣く私はしきりに誰かを呼んでいた。
「――ちゃん。恭平お兄ちゃんっ」
〝恭平〟お兄ちゃん? 私はお兄ちゃんのことをそんなふうに呼んだことはない。彼女と私には大きな隔たりがあるように感じた。どこまでも同じであって、まったくの別物のような感覚。
委員長が傍にいたけれど、私は誰にも触られたくないと腕を振り回して泣き続けた。
「いやっ。触らないで! お兄ちゃんっ。恭平お兄ちゃん!」
私は狂っていた。
世界中で自分に触れていいのは同じ桂木の姓を持つ兄だけだと全身で語っていた。
「那智。ごめん那智。怖い思いをさせた」
振り回していた腕が取られて体をきつく抱きしめられた。腕の中に包まれてようやく私が静かになる。 この腕だけが私に触れていい。他の腕はいらない。私はそう思っていた。
いつの間にか私と泣く私が重なり合う。見上げた顔はひどく疲れた顔をしていた。私のせいで疲れているんだと分かっているのに、しがみついた腕を離すことができなかった。
「どうして一人にするの。どう、して……一人にしないで。ずっと一緒って約束したじゃないっ!」
違う。あの約束は互いに依存するためにしたわけじゃない。血の繋がりはなくとも私たちは兄妹なんだと、確かな絆が存在しているんだということを確認するための約束だったはずなのに、今はそれが二人をがんじがらめに縛っていた。
――……なさい。……ごめんなさい。
謝り続ける声。
――ごめんなさい。頼りきって、甘えきって、依存しきって……離れられなくてごめんなさい。
しがみつく腕は離せない。体は二人の隙間を作らせないようにへばり付いているのに、頭の中ではずっと謝り続けていた。
――こんな私でごめんなさい……
いっそ振り払ってくれたら、と思う。でもお兄ちゃんがそうできないことを言い訳に私はその腕を離すことができなかった。
――強くなりたい。
離れることが自分にとってどれほど身を切られるようなことであるかを知っている。それでも願わずにはいられなかった。このまま傍に居続けることのほうがつらいから。二人でいることのほうが一人でいることよりもより寂しさを増す事実に私は気付いてしまったから。
――強くなって、今度こそ私から恭平お兄ちゃんを解放するの。
願いは強く、でも腕が離せない。自分を包み込む腕を振り払えない。この手を離す勇気が今の私には足りなかった。
――ごめんなさい。ごめんなさい……
『忘れなさい』
生暖かい風がふわりと私を引き離した。
重なった体から私が抜ける。
遠ざかっていく泣くだけの自分。身体が天井を突き抜けてぐんぐんと暗い空へと吸い込まれていった。校舎が小さくなり、街の明かりが遠く小さな点に変わっていく。
『忘れるの。重なる記憶は精神に悪いから』
夜を抜けて、夢は電気の明かりも星もないただの暗黒に切り替わった。
「頭……痛い」
ものすごく気分の悪いリアルな夢を見た気がするけど、まったく内容が思い出せない。それでも不快感だけは残っていて、頭が鈍く痛む。
無理に思い出そうとするほど、頭の痛みが強くなる。これはもう無理に思い出さないほうがいいかもしれない。
外は夜を終えて、日の光がカーテン越しに目に優しく入ってきていた。
起き上がって壁に掛かった鏡に目をやる。そこに映った自分の姿にひどく胸やけを覚え、手を伸ばして鏡をひっくり返した。
机の上に置いた旅行鞄の中身を再確認する。
今日から土日月の連休。ゴールデンウィークの前半だ。桂木家ではその三日間の連休を使って二泊三日の旅行に出かけることになっていた。
宿泊先は観光地に隣接した別荘。別荘を持っている親戚がいて、そこを借り受けることになっているのだ。その親戚とはもちろんお父さん側の親戚だ。裕福な人の親戚も裕福ってすごい。
一通り荷物の確認を終えて部屋を出ると、ちょうど同じように部屋を出たお兄ちゃんと鉢合わせになった。
「おはよう、那智。早いね」
起きたばかりだろうに、お兄ちゃんの髪には寝癖一つついていない。
(寝起きから完璧ってなんなのこの人。疲れないのかな)
ぜんぜん覚えていないけど、夢に出てきていたのが主にお兄ちゃんだったような気がして、どうだったっけとまじまじと顔を見つめてしまった。
「ん? 何か顔についてる?」
(いえいえ、今日もパーペキです。麗しいほどに)
「お兄ちゃん……疲れてない?」
なんでそんなこと聞いたんだろう。目の前に立つお兄ちゃんはいたっていつも通りなのにそう尋ねた。
「疲れてなんかないって。那智こそ、あんまり寝れてないんじゃない? 目の下にクマができてる」
ちょんと目の下を突かれる。
「えっ、うそ、やだっ」
これは「もう、やだぁ、お兄ちゃんったら。うふふ」ではなく「げっ、見てんじゃないよ」の「やだっ」である。お兄ちゃん相手に頬をちょんと押されたくらいじゃ私は照れたりしない。
そんなことよりも目のクマだ。
私は顔を押さえて階段を駆け下りて洗面所に飛び込んだ。顔を念入りに洗って、蒸しタオルで目元を覆う。
さっきはすぐに鏡をひっくり返したから気が付かなかった。兄とはいえ、そんな顔を見られたとは恥ずかしい。じんわりと暖かい温度が目蓋に浸透していく。おっさんくさいかもしれないけど、蒸しタオルって案外気持ち良くて癖になる。
蒸しタオルに癒されていると、ふさがっている視界にくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、笑わないでよ。乙女にクマって恥ずかしいんだからね」
「クマができていても那智は可愛いよ」
それはフォローになっていないと思う。どこの世界にクマのできた可愛い女の子がいるというんだ。(いたら見てみたいわ)
「那智、もういいなら髪をセットしてしまおう」
肩を押さえて椅子に座らされた。
今日は休日ということもあり、いつもの二つ括りではなく、両サイドを三つ編みにして後ろに回して括ってもらった。
こういうお出掛け時の髪型も難なくアレンジしてしまえるお兄ちゃんはつくづく器用な人だと思う。
美容師になれば女性客が押し掛けて連日満席になること請け合いだ。常に予約一杯の美容院に頬を染めた女性客が詰めかける様子が容易に目に浮かぶ。
「お兄ちゃん……」
「なに?」
セットが終わってドライヤーを片づけるお兄ちゃんに声を掛けた。
「いつもありがとう。というか……ごめんね」
どうしてだか謝らなければいけないと感じた。
鏡越しに目が合う。お兄ちゃんが手を止めていぶかしげに私を見ていた。
「あ、その……妹の面倒見るのって大変だよね、って思ってさ」
それに対してお兄ちゃんはふんわりと笑うと、できあがったばかりの頭にポンと手を乗せた。
「そこはありがとうで良いんだよ。それに妹なら兄に迷惑かけて当然。気にするほうがおかしいって」
(それじゃダメなんだよ。お兄ちゃんは際限ないでしょ。絶対に疲れたなんて言わないんだから)
出来上がった髪はとても綺麗に纏められていた。それを崩さない力加減で頭を撫でられる。本来の私からお兄ちゃん大好き(仮)な妹へとスイッチが切り替わっていく。お兄ちゃんの前では我が侭で、でも程良い加減で迷惑感を与えない妹でいなければならない。配分って難しい。
「お兄ちゃんってば那智に甘すぎっ」
横を通り過ぎるときに少しだけ注意を促せば、お兄ちゃんは笑って「いいよ」と言った。
「甘えていいんだよ」
その答えに、どうしてだか胸が痛みに締め付けられた。
旅行先は綺麗な湖が名所の山の手前の観光地。家からは特急に乗って一時間半のところにある。あとから起きてきた両親と共に家を出て、昼頃には現地に到着した。
親戚に借りた別荘はウッド調のコテージで、内装は温かみのあるベージュの色で統一されていた。一人一人の部屋も程良い広さがあり、もう二人くらいは止まれるほどの部屋数があった。シャワールームやキッチンもシンプルだけど小奇麗で使いやすい棚の配置で、持ち主のセンスが光るものだった。
これでもまだ中規模の別荘らしい。間に一軒挟んだところの別荘なんか、ここの倍以上の大きさがあった。その別荘も人が来ているよいうで、前には金持ち臭のプンプンする黒塗りの車とバイクがとまっていた。
荷物を置いて軽めの昼食をとると、夕方まで各人自由に過ごすことになった。
「五時には戻ってくるようにね」
そう言い残して、両親は連れだって湖へと散策に出かけてしまった。二人はとても仲が良い。再婚してから何年も経つというのに未だに外出時は手を繋いでいる。ラブラブだ。
残されたのは私とお兄ちゃん。お兄ちゃんは冷蔵庫の扉を開けてペットボトルからミネラルウォーターを汲んでくつろいでいる。夕方まで別荘でのんびりするつもりなのかもしれない。
私はといえばせっかく旅行に来たのだからあちこち回って歩きたい。実はこの日のために事前にガイドブックを購入している。友達へのお土産も買いたいし、ゴールデンウィーク限定のスイーツなんかも食べてみたい。
荷物の中から赤丸チェック済みのガイドブックを取り出して地図を眺めた。
(さて、どこから回ろうか)
「チェックだらけ。これだけあると一日だけじゃ回りきれないな。初日だし、移動で疲れただろ。数店にしぼるとして、那智はどこから行きたい?」
別荘でのんびりするであろうと思っていたお兄ちゃんのまさかの振りに私は「えっ?」と横を見た。
(まさか……ついて来るつもりじゃないよね)
「私に付き合うことないよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんでやりたいこととかあるでしょ?」
気を使って一緒に行動することはないと思う。別行動でも私は全然気にしない。というか気にもならない。別行動でオッケー。むしろ別行動ウェルカム。お兄ちゃん大好き(仮)な立場では、もちろんそんなことは言えないので、一応気を使っているふうを装って遠まわしに遠慮してみた。
「私のことは気にしないで(どうぞ自分のやりたいことを優先させちゃって)いいよ」
そんな遠慮も空しく、ガイドブックはサッとお兄ちゃんの手の中に渡ってしまう。
「こら。父さんも母さんも行っちゃったけど、これは家族旅行なんだから一人で動かない。それに那智は一人で観光するより誰かと一緒にいるほうが楽しいだろ?」
そりゃあ私はどちらかというと一人でいるよりも人と一緒にいるほうが楽しい。けど、お兄ちゃんは違うだろう。むしろ一人のほうが楽しめると思う。
「え、でも、私の行きたいところに行ってもお兄ちゃんは楽しくないと思うよ」
「場所じゃなくて那智と一緒にいるのがいいんだよ」
(うわ、出た。ホスト発言。よくそんな恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言えるな)
なんて思っているうちに、ガイドブックのみならずたいして重くもない手荷物まで取ってお兄ちゃんが玄関へと向かうものだから、仕方なく私もその後ろをついて行くこととなった。
なめてました。うちの兄の人間誘蛾灯能力を。
白いシャツに茶のベスト、黒ジーンズといったラフな格好をしているのに、お兄ちゃんは女性の目を引きに引いた。
慣れていると感覚が麻痺してしまうからよく分かんなくなるんだよね。
観光に訪れているOL風なお姉さんやオシャレなマダムが横を通り過ぎるお兄ちゃんをわざわざ振り返って見ています。次いで「なにあの子、彼女?」な射殺しそうな目線が私に向けられるものだから、なんだか胃が痛くなってきた。
チェックしていたお店で限定ソフトクリームを食べたときもあんまり味がしなくて半分残してしまった。残すともったいないのでお兄ちゃんに食べてもらったら、これまた「なに、あの彼女ムカツク」な目で見られたので負のループだった。
これなら一人で来たほうが良かったかもしれない。
一人になれるところ、と入り込んだトイレで少し息をつく。鏡に映りこんだ顔を見ると、少し疲れたような顔をしていた。旅行ってテンションが高いうちはまだいいけど、一旦下がってしまうと疲労感がどっと押し寄せてくる。
(明日もあるし、早いうちに切り上げてしまおうかな)
ここを出たらお兄ちゃんにそう言おうとハンカチで手を拭いた。
「げっ、まただ……」
トイレを出ると、女の人に囲まれて困ったような笑顔を浮かべるお兄ちゃんの姿が目に入ってきた。これで三回目だ。さっきも私が可愛い雑貨屋さんに入っていった隙に逆ナンされていた。さっきまでは一人や二人だったけど、今度は集団で四人に囲まれている。
一回目や二回目は助け舟を出して「お待たせお兄ちゃん」と腕に飛びつきに行ったけど、三回目ともなるとやる気が失せる。
女子の集団に入っていく気力も尽きたのでたまには自分で頑張って下さい、と土産物屋の店先で何かないかと物色を始めた。
土産物のお菓子は美味しそうなものがたくさんあって迷う。その横の棚にはたくさんのストラップが飾られていた。
「あっ。これって意外と人気あったんだ」
ご当地物のゆるキャラに混じって眼帯ウサ吉のストラップを発見してしまった。この観光地限定のストラップらしい。黒が基本のウサ吉だけど、ここのウサ吉は白バージョンもあった。共に麦わら帽子をかぶって片手にソフトクリームを持っているけれど、服が違っている。黒いウサ吉がズボンで白いウサ吉がワンピースを着ていた。男の子と女の子に別れているようだ。
そのうちの一つ、黒いウサ吉を手に取って眺めていると、自力で女子の集団をおっぱらったらしいお兄ちゃんが私の横に立っていた。
「那智は眼帯ウサ吉が好きなの?」
好みを聞いているというのに、お兄ちゃんは何故か好きだとは応えづらい空気を醸し出していた。何か眼帯ウサ吉に多大なる恨みを持っているとでもいうのだろうか。
(これ絶対好きとか言ったらアウトなパターンだよね。好きって答えたら冷気が押し寄せてきそうな予感がハンパないんですが)
「特に好きなわけじゃないよ。最近よく見かけるなぁと思って、気にかかったというか」
そう答えた瞬間、ぞわりと立つ鳥肌に私は腕をさすった。
(な、なんか間違えたぁ!?)
「ご当地バージョンのウサ吉まで出るくらいだから、人気があるならお土産に買おうかなぁって思っただけだって。私が好きなわけじゃないし」
眼帯ウサ吉にどんな確執があるんだか。
「と、友達のお土産に買ってくるね」
一瞬ハルちゃんたちとおそろいで自分の分も買おうかと思ったけれど止めておいた。鞄につけているのを見られたら、また冷気が襲ってきそうな気がしたからだ。いらない地雷は踏まないに越したことはない。
いくつかを手に取ると、私はレジへ向かってささっと走って手早く会計を済ませた。
三時半を回り、そろそろ帰ることにする。少し疲れた。
お兄ちゃんはこれまで終始笑顔だった。移動で疲れたのはお兄ちゃんだってそうだろうに、その立ち姿はブレなく綺麗だ。
「お兄ちゃん、楽しい?」
返ってくる答えは分かり切っている。
「もちろん楽しいよ」
ほら。外に出てから、いや朝部屋を出たときからお兄ちゃんの笑顔は崩れていない。
(疲れた、って言って良いんだよ)
ほっと息をついて落ち着ける相手を手に入れられたら、お兄ちゃんは幸せになれるだろうか。
(って私相手じゃ無理……か)
私に言うのが無理なら彼女でも良い。黒髪の綺麗な可愛いあの子なら、疲れたときに身を寄せられるだろうか。
(なんか笑顔でいるのしんどい)
旅行疲れのせいか笑みを浮かべても頬が引きつるような感覚がする。こんな顔はお兄ちゃんに見せられない。
横に立つ腕にしがみついて、持ってきた帽子を目深にかぶった。
その日の夜は家族で鉄板焼きのお店に行った。
高そうなステーキも出してもらったけれど、昼間にちょこちょこ食べていたせいかあまり量は食べられなかった。
しばらくGW編です。
初日から那智はお疲れの様子。




