23・肝試し大会、慟哭
長いマントは容易に周囲の空間を切り取り、私と吸血鬼の二人だけのスペースを作り上げていった。
鮮血の赤が私の横を通り過ぎる。男女の身長差もあり、マントは私の身体を容易に包み込んで隠してしまった。
「ここは顔を赤らめるところだと思うよ?」
私を囲う吸血鬼のふざけた台詞が右から左へ通り過ぎていく。長い犬歯が喉元に食い込む様子がぱっと頭に浮かんできて、私はとっさにスカートのポケットに手を突っ込んだ。
怖かった。
暗がりにいることが、目の前にいるのが吸血鬼という化け物の姿をしていることが、慣れた人でない相手とのこの近すぎる距離が怖かった。
視界がぼやけていく。
人前で涙することが嫌で、ぎりぎりのところで耐える。ポケットの中の十字架の尖った部分が手の平を突く痛みで、泣くなと自分を押さえ込んだ。
「…うっ……」
唇を噛んでぐっとこらえるけれど、声が漏れそうになる。
「っ……ふぅっ……」
弱気を見せたら負けだと思うのに、それでも息が漏れる。ここで泣いたりするもんか、その意地だけで今にも落ちそうな涙を引き止めていた。下を向いてしまうと雫が落ちてしまうので、私は怖いのを我慢して相手を睨み付けた。
「えっ、ちょっ、ごめん。まさか泣くとはっ――」
吸血鬼がオロオロとうろたえ始める。でもまだ距離は取られず、肩口に置かれた手はそのままだった。格好付けて登場した吸血鬼は、今や泣く寸前の小さい子を前にどうしようかとうろたえる新米パパへと変貌してしまっていた。
身体を覆うマントが解かれる。鮮血の赤は翻り、闇色の表面が暗がりに波打った。
いっそわんわん泣いてやろうかと思ったけど、それをするのはプライドが邪魔をした。
目に力を込めて睨み付けると、吸血鬼は弱点の十字架やニンニクを突きつけられたみたいに怯んで半歩後ろへ下がった。(もっと後ろへ下がれ、このヤロウ)
困るくらいだったら最初からするな、と言いたい。でも、口を開いてしまうと泣き声が出そうだったので唇に力を入れた。錆びた鉄の味が舌を刺激する。それでも込めた力を抜くことはしなかった。
「泣かないで。そんな顔されると困る」
本当に困っているみたいで、眉が八の字に下がっていた。
「まだ泣いてません」
早口でそう反論し、再び唇をぐっと噛んだ。
「十分、泣いてる」
長い指が私の頬に触れる。その指は冷たくて、熱くなった頬にはそのひんやりとした触感が余計に冷え冷えと感じられた。
冷たい指先が数センチの距離を伝って目蓋に触れそうになった瞬間、
ドガッ
私はなけなしの勇気をもってこぶしを振りあげた。(注意、この行動は勇気というより無謀です。後先考えていない行動です。良い子は絶対真似をしてはいけません)
スカートのポケットから十字架がこぼれ落ち、キラキラと光りながら小さな音を立てて床に流れた。
涙でぼやける視界の中、冬吾先輩の顔をした吸血鬼がお腹を押さえて前のめりになっていた。私の繰り出した拳は弱いながらもなかなか良い位置にめり込んだみたいだ。相手も痛そうだったけど、私も拳が痛かった。余裕がなかったので力一杯いかせていただいた分の反動に痺れてじーんとしている。
「うっ、ひっく……もぅ、やだぁ」
涙の雫が一粒落ちていく。不覚にも涙が落ちてしまったけれど、相手はうずくまっているので見られてはいないだろう。
私は強引にごしごしと擦って、無理やり涙を拭き取った。
足は留まることを選ばず、再び先へと走り出していた。
私の後ろ姿に吸血鬼の最後の言葉が投げかけられる。
「ナ、ナイス拳。……ぐふっ」
私にもう少しだけ勇気が残っていて後ろを振り返ることができたら、親指を上に立てた今にも死にそうな儚げ系イケメン吸血鬼の姿を見ることができただろう。(そんなの見たくもないし、振り返るなんてできるわけもないけど)
昼間であればそれを写メに撮って売りさばいていたところだが(きっといいお金になっただろう)、ビビりの私の足は「逃げる」もしくは「この場に留まる」の二択のうち当然「逃げる」を選択した。
(ごめんなさい。屍は他の人に拾ってもらってください。私には無理っ!)
そして、またもや道順を指し示す矢印に誘導されて中央階段までを私は一気に駆け抜けた。
短いようで長い廊下を走る中、私の足音を聞きつけて次々と各準備室の扉が開いていく。中から腕まで白く塗りたくられた腕が何本も飛び出してきておいでおいでとくねった。それと共に真っ白な仮面のお化けが「うー」やら「おー」と低いうなり声をあげて私を見つめた。
知り合いの顔をしたお化けにはなんとかギリギリで耐えていた私だったけど、もう理性が恐怖を抑えきれないところまで来てしまった。(アレで耐えていたんかい、という突っ込みはしてはいけません)
完全にパニック寸前状態。呼吸がなんとかできているのが幸いだった。
機械的に右足を出したら左足を出し、決して止まることはせず、私は恐怖の廊下を走りぬき、階段を駆け下りた。闇に溶け込む階段はどこまでも続いているみたいで怖かったけれど、一段一段足をもつれさせながら先へ行くことだけを考えて足を進めた。
走り過ぎて息が苦しい。
ひたすら下へと進んだところで最後の一段を踏み外して、私はつんのめって前に倒れこんだ。とたんに熱が打ち付けた膝へと集中する。
転んだことで一旦動きが止まってしまうと、再び視界はぼやけて、溢れた涙が表面張力を超えてポタポタと下に落ちていった。
「うっ……ひっく……」
痛みと怖さに頭がじんじんする。
(こんなところに一人は嫌)
暗さと静けさに一人分の嗚咽が響く。闇が私を押し潰す。いつもはたくさんの生徒達の息遣いで賑わっている校舎はがらんどうで、まったく次元の違う世界のように感じた。
(嫌だ。ここは暗くて怖い。こんなとこいたくない。もうやだ)
なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないんだという理不尽な怒りに捕らわれる。
こんなことになるなら、後で諒ちゃんに正座させられようがサボッてしまえばよかった。なんで逃げなかったんだろう。なんで嫌だとごねなかったんだろう。なんで、なんで――、
ぐるぐると回る思考に溺れて息が苦しくなる。
「た、すけて。傍に……来てよ」
奥の奥の薄皮一枚分自分と異なる自分が誰かを呼ぶことを頑なにためらっているのを感じた。
(もういいでしょっ。ここまで頑張ったんだからっ!)
「助けて。……――っ」
けど、助けを求めた相手の名前が音になることは叶わなかった。
――呼んじゃダメ。
深い意識の底で自分が叫んだ。その声はとても距離が離れているところから叫んだみたいに、小さく小さく響いた。
※ ※ ※
七番目のペアを見送った数分後、講堂を出た自分達の足並みはとても遅かった。
原因はクジで八番を引いた自分ではなく、堅物委員長に順番を変えさせられた若狭副委員長にあった。彼は一歩歩くごとに自分の足音にビクビクとし、猫背の背中を更に丸くして縮こまった。
「若狭くん。怖いなら、手を繋ごうか?」
怯える彼は同年代というよりも小さい子のように思えてしまう。自分の提案に照れたのか、一メートル程後ろを歩いていた彼は口元を覆ってぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいよ。でもごめんね。僕、こういうの苦手で」
「気にすることないよ。誰にでも怖いものの一つや二つあるでしょ」
振り返る自分に、若狭副委員長は俯いて視線を下に落とした。階段に差し掛かったところ、三段ほど進んだ位置で止まってしまったため彼を見下ろす形となっている。通りかかる人がいたなら、しょげる彼を自分が叱っているみたいに見えたかもしれない。
「水野さんは、優しいよね。こんな僕なんかにも」
下を向く彼の表情は読み取れない。けれど落ち込んでいるのは口調から読み取れた。
本当に気にする必要はないのだ。自分だって狭くて暗いところは嫌なんだから。しょげる彼を何とか励ましたくて、軽い声で激を飛ばした。
「こんな、とか、なんかとか言わないの。背中を丸くして下を向いていると、見えるものも見えなくなってしまうよ。見えないと余計に怖さが増しちゃうから、顔を上げて」
笑みを向けると、彼は位置のずれた眼鏡をくいと直し、さっきよりかはわずかに顔の角度を上げて応えてくれた。
「あ、ありがとう。頑張って付いて行くから、悪いけど先に進んで」
後から来るペアもいるのでいつまでも止まっているわけにはいかない。先へ進むことを促す彼に一つ頷いて、下に向けていた懐中電灯を上に向けた。
「実…模範的……これ………勝てない……」
「えっ、何?」
いまいち聞き取れなかった声に、「もう一度」と返すと「何でもないよ」と首を振られた。
「水野さんは強いから、僕じゃ勝ち目がないなって思って」
振った拍子にぼさぼさがちの彼の髪が一房、他のものから突出してピンと飛び出してきた。それが余計に小さな子みたいに見えて、ふふっと笑って「若狭くん、髪が」と直そうと手を伸ばす。すると触れられることに怯えたように彼が一歩階段を後ずさった。
「あっ、これは……」
そのとき、上の階から「うわ~んっ」という叫び声が届いてきた。
びっくりして上を見る自分の横を風が通り過ぎる。声に驚いたのだろう。若狭が「う、うわぁぁーっ!」と悲鳴をあげて通り過ぎて行った。長い叫び声はドップラー効果で音が変わるみたいに周波数を変えて階上に消えていった。
あまりに機敏な動きすぎて彼を引き止めることはできず、後には暗い階段を照らす自分だけが取り残された。
「えっ、ウソ……置いていかれちゃった?」
見ているだけで済ませてね、と願ったその日にこの状況というのはいかがなものだろう。
相変わらず、彼女が絡むと見事に予定が崩される。
「あの子ってば、ことごとくイベントクラッシャーよね」
ペアの相手に置いていかれたので、仕方なく前を照らして階段を進む。
本来のイベントルートならば、委員長とペアとなるのは自分だった。そして、那智とペアとなるのは委員長以外のクラスメイト。
暗闇とお化けへの恐怖のため、那智は早々に動けなくなるはずだった。それを後から来た自分たちが見つけて委員長を彼女の傍に付ける。自分は助けを求め(この場合、恭平。那智は彼以外に触れられたくないと半狂乱になってしまうため)、先へと進む。各お化けたちとの遭遇イベントの発生だ。
女神の記録ではそうなっていた。
那智は立ち止まらず、先へと進んだみたいだ。結局怯えて逃げ出してしまったみたいだが、動くことを選んだ彼女は凄い。良い兆候なのだと思う。
クジを引く際、委員長が動いたことも興味深いと感じた。彼は責任感は強いが、任された事以外で自分から積極的に動くタイプではなかったはずだ。
みんながそれぞれ変わりつつある。
一歩でも先へと進む彼女はこれからのイベントにどう関わってくるだろう。自分はそれを見定めなければいけない。必要なのは一定以上の好感度。それが良い未来を紡げるように祈る。いや、祈るだけでは何もできない。動き出さなければ何も変えられない。
まずは先へ。
階段を上りきり、三階に足を踏み入れた。
※ ※ ※
泣くだけの自分が嫌で、惨めで、情けなくて、無様で……私はずっとずっと以前から、こんな自分が嫌いだと感じてきたような気がする。
強い自分になりたくて、変わるんだと決意した瞬間が確かにあったはずなのに、それを思い出すことができない。
「……――っ」
何度試してみても、呼び声は音にならなかった。声を出そうとするたびに喉がひゅっと空気を遮断した。その音に該当する部分に通りかかるたびに喉が空気の流れを拒絶した。
もどかしさと同時に、それでいいんだと囁きかける自分がいるのを感じる。
何故呼べないのか、何故呼んではいけないのか、その理由は分からない。
「ふぇっ、うっ…く……」
ここに体育倉庫に閉じ込められたときのような日の光は一筋だって降り注ぐことはない。窓の外は暗闇で、わずかな人工の明かりが青白く世界を染め上げるだけ。
どこかで緩んだ蛇口から滴り落ちる水滴の音が一定の間隔をもって落ちていた。そんな小さな音さえ耳を打つ。
いやおうなしに一人きりだということを実感させられる。
暗くて狭いところが怖いのは、世界に一人きりで残されたみたいに感じるからだ。
いきなりぽつんと取り残された感覚。
「っ……」
(バカ、考えるな)
一人を実感したとたんに、苦しかった呼吸が更に苦しくなる予感に身を震わせた。腕を抱きこんで自分を押さえる。
そのときだった。
涙で潤む目に、小さくて、でも眼球に突き刺さるような光が入ってきた。目が刺激を受けて痛む。痛みを和らげようと、更に目が水分を蓄えた。既に決壊しきっていた目はそれを留めることはできず、大粒の雫が下へと落ちていった。
目に痛いまぶしさに腕を前に出して顔を覆う。
「こっち」
誰かが掲げた腕を優しく引いた。
泣き崩れる那智はぎりぎりで誰かに助けられ・・・。
一つのイベントが長い(汗)
まだ半分くらいです。




