14・鬼ごっこ 5
やっと那智救出。
閉じ込められてから二十分ほど経った頃、カチャカチャという南京錠を開ける音がして、続いて扉が開けられた。明るい外の光が倉庫内を照らし、埃や土、石灰等の特有の匂いとは違った春の緑の香りを纏った風が入ってくる。
暗がりにいた目に外の光は眩しく、相手の姿は黒い影のように映って捉えづらい。
それでも私は、その影に向かって「うわーん。怖かったようっ」と飛びついていった。
後で飛びつく前に確認すればよかったと激しく後悔しましたともさ。後悔先に立たず。暗がりにいたことで、ちょっと判断力が鈍ってたのさ。……ぐすん。穴があったら入りたい。
私の激しいタックルにも相手はびくともしなかった。(ここで即効離れておけばよかった)
「ん……?」
抱きついた腰が想像していたよりもがっしりしていた。(気付けよ自分)
「あれ……?」
不自然に思い、さわさわと動かした手に当たる背中と思われる部分には、乙女らしからぬ鍛えられた筋肉がついていた。(だから気付けって)
「愛梨ちゃん……?」
包み込まれるような暖かさを期待してグリグリと回した頭に触れたのは、女の子の柔らかい脂肪ではなく、固い胸だった。(バカかお前は)
私の額にダラダラと冷たい汗が流れる。
(これ、誰……?)
ポンポンとこちらを落ち着かせるように肩を叩いてくる手は大きかった。(ギャーッ、穴は何処ですか! 穴っ!)
確認しようと頭をもたげた私の目に入ってきたのは、
「くすぐったい、桂木 那智」
わずかに口元を緩めた委員長の顔だった。
「〇◎◇@~っ!!」
羞恥心やら混乱やらで声にならない悲鳴を上げた私の体が浮上する。そう、文字通り浮上した。脇の間に手を挟まれた状態で持ち上げられて地面から離れた足が空を掻いた。
(こ、今度は何事っ!?)
突然の浮遊感に、自分の体が現在どれだけ高い位置に移動させられたのか脳の処理能力が付いてこなくて一瞬混乱する。
「那智、抱きつく相手が違う」
浮かんだ体はポスッと委員長とは違う腕の中に納まった。
顔のすぐ横には綺麗なご尊顔の麗しき我がお兄様。キラキラという形容がとても似つかわしい笑顔で「大丈夫?」と顔を覗き込まれる。
(救出班に加わっていたんだね)
あまりの綺麗な笑顔に、委員長に抱きついてしまったという衝撃が頭の中から吹っ飛んだ。この笑顔、きっと他の女の子だったら腰砕けになってただろうな。この顔を見てそういった状況に陥らない自分が、今更ながら慣らされてるなと感じた。
「泣いてた?」
目の端に付いていた涙の跡を擦られる。笑顔が曇り、眉を顰めるお兄ちゃん。
「いや、これは土埃や何やらでアレルギー症状が」
(って聞いてない!?)
みなまで言い切らないところで、お兄ちゃんの瞳がきらめいた。はい、復唱。瞳がキラメイタ。
(ヤバイヤバイ。その目はヤバイって。相手を殺すって意味でヤレちゃう目だって)
「やっぱり甘かったかな。今から戻っても間に合うかな」
お兄ちゃんはすっごい不穏な独り言を呟いて校舎の方に向けて視線を送った。その眼力は目からビームを発射できそうなほど強い。
(こ、こわっ!)
恐怖から本能的にのけ反ってしまった頭は、しかしお兄ちゃんの長い指によってがっしり掴まれて押さえ込まれた。
(イタッ、イタイイタイ。力強すぎっ。首がグキッてなった。グキッて)
掴まれた痛さからもお兄ちゃんの怒りが伝わってくる。私は恐怖心を押さえ込み、ブラコンモードをONにしてお兄ちゃんの首に腕を回した。
「お、お兄ちゃん。行かないで。那智の傍にいて!」
(そして残り少ない私の精神をすり減らさないで!)
「吹雪にはそれ相応の処罰を下してもらわないといけないね」
(コエーっ! 顔が見えなくなっても声と内容がコエーっ!)
吹雪というのはこの学園の生徒会長でお兄ちゃんの自称親友だ。吹雪は下の名前で、苗字は西園寺。外食チェーン店“サイオン”を経営するお家の息子で頭も良く、性格も明るく、先生受けは微妙だけど能力は認められていて生徒受けは良い、というよく分からないスペックを持った一応デキる生徒会長殿。
(ところどころバカにした感じの紹介になってるかもだけど、バカにしているわけじゃないよ。わけ分かんない奴。それが彼のスペックなんだから。あぁ、それにしてもアノ生徒会長に処罰させるとか、お兄ちゃん相当腹が立ったんだね)
あの人はお兄ちゃんの自称親友であって、お兄ちゃん自体は決して親友とは認めていない。むしろヅケヅケとしていてお兄ちゃんにとっては苦手としている部類に入る。
そんな相手にわざわざ頭を下げてまで(実際はしてないだろうけど)彼女たちの身柄を預けるなんて、よっぽど腹に据えかねていたんだろう。
(あの人もあの人でお兄ちゃんとはまた違った意味で痛いんだよね)
彼のは、お兄ちゃんの見ていてこっちの胃が痛くなるような報復とはまた違う屈辱的なお仕置きだ。
(可哀相に)
私は再び痛いお仕置きが待ち受けている彼女たちに心の中で合掌した。
そんなことをつらつらと考えながら身を震わせると、それを暗がりにいたことによる怯えと捉えたお兄ちゃんが頭をポンポンと叩いてきた。
「ごめんね。僕のせいでこうなった」
お兄ちゃんが言いたいのは、「僕の妹でいたから」ということなのだろう。
私は首をぶんぶんと振って「違う」ということを伝えた。直接言葉にしたわけじゃないから、伝わっているかは分からない。でも伝わればいいな、そう思った。
お兄ちゃんは幾分空気を和らげて私の頭に乗せた手をポンポンからナデナデに変える。
「でも無事で良かった。心配したんだよ」
「はい?」
撫でられる頭に、これまた馴染んでされるがままになっていた私は、喉に引っかかった小骨のような違和感を感じて思考が停止した。
「心配?」
「うん、心配」
「誰が?」
愛梨ちゃんや委員長とかのことだろうか。違和感を払拭するために聞いた。
「僕が」
(僕が? お兄ちゃんが心配? 私をですか?)
表面的に心配するそぶりをしたところで、言葉に出すなんてことしないと思っていた私には衝撃的だった。思わず化けの皮が剥がれてまじまじとお兄ちゃんの顔を見てしまった。
「って何? その顔」
怪訝そうに「僕が心配しちゃいけない?」という顔で私を見るお兄ちゃんに、慌てて首を横に振る。
(思ってませんから。お兄ちゃんが那智を心配したとか、衝撃的すぎて思考止まるわとか思ってませんから。……思ってマセンヨ?)
「いえ、あの、ご心配おかけシマシタ」
動揺しすぎて片言になってしまった。それでも満足げに微笑むお兄ちゃんに、私は何だかこそばゆい気持ちがしてその顔を見ていられなくなる。ごまかすために視線をずらせば、こちらに顔を向ける愛梨ちゃんと委員長の姿が見えた。
そういえばお礼をまだ言ってなかったと思い、声に出す。
「愛梨ちゃん、助けてくれてありがとう。あ、委員長も。助けてくれてありがとう」
「ううん、無事で良かった」
愛梨ちゃんは安心したような顔をして私に微笑み、
「いや、たまたま」
委員長は無表情で返した。愛梨ちゃんにお礼を言うのは当然だけど、たまたまだろうが鍵を持ってきて扉を開けてくれたのは委員長なのでお礼の言葉は必要だと思う。
「たまたまでもありがとう」
さっき間違えて抱きついてしまった分気恥ずかしかったけど、照れながらもお礼を言ったら、何故かもう一度頭を押さえ込まれてお兄ちゃんの首すじにめり込まされた。
(だからイタイってば。あう、また首がグキッてなった。明日はムチ打ちだ。首の)
「あーっ。ナッチー!」
「良かった。助かったんだね」
痛む首を押さえているうちに、海道兄弟もやって来て、気付けば鬼ごっこから一時間が経過していた。
閉じ込められたことで鬼から逃げおおせた私は、たった一人残った逃走者となり、お疲れ様という意味も込めてご褒美をもらえることになった。
(あれこれ大変だったけど、結果オーライ。ふははっ。やったぜ、ご褒美だ!)
数分後、喜んだ私はご褒美のあまりのショボさに泣くことになる。
※ ※ ※
「そーだよね。高校生の出せるご褒美ってたかが知れてるよね」
自販機で海道兄弟に奢ってもらったご褒美のアップルジュースをちびちび啜りながら遠い目をする。横ではお兄ちゃんと愛梨ちゃんが苦笑していた。委員長は無表情で自分が買ったスポーツドリンクを飲んでいる。
「はあっ。埃まみれになってまで得たご褒美がジュースって……」
「どうしたのナッチー。ジュースじゃ不満?」
晃太先輩が目をウルウルさせて私の顔を覗き込んできた。
(うっ、そんな目をするな。私が悪者みたいになるじゃないか。……って悪態ついてるんだから十分悪者か? ごめんなさい)
「不満タラタラ。声に出てるよぉ」
星太先輩が自販機からオレンジジュースを取り出して愛梨ちゃんに渡す。彼曰く、「頑張ったで賞」なのだそうだ。(うん、本当にありがとう愛梨ちゃん)
「じゃあご褒美にギュッてしてあげよっか? それともチュ」
「いえ、結構です。ジュースで充分です」
即効否定してやった。ついでに一歩距離を取る。
(ギュッとかいらんわ。それに今、チュウとか言いそうになったろ。んなものファンの子にでもしてあげろよ。昇天する勢いで喜ぶから)
チュウから身を守った私に、晃太先輩がキラッと瞳を瞬かせて詰め寄ってくる。
(いらないって言ったじゃん)
警戒する私を面白がるようにその唇がにまっと形作られて、手に持っていた缶が奪われた。
「走って疲れちゃった。喉が乾いちゃったから一口ちょーだい」
全然疲れてないように思える明るい声で言う晃太先輩は、奪った缶に口を付ける。
(欲しけりゃ自分の分買いなよ)
奢ってもらった身なのでそんな文句も言えず、私は恨みがましい目で晃太先輩をねめつけた。何でか分からないけど、晃太先輩の耳が少しだけ赤くなったように見える。走って疲れたというのは本当だったみたいだ。
(今になって疲れが出てくるとか、晃太先輩って意外と体力ないな。仕方ない、一口くらい許してあげるか)
走り回ったのが鬼ごっこのせいだけじゃなく、私を助ける為ということもあったので、広い心でジュースを飲まれたことを甘受することにする。
(ジュースぐらいでグダグダ言ってるってとこで、全然心が広くないって? そんなこと突っ込んじゃいけないんだよ。あぁ、どうせ狭いさ。那智は心が狭い生き物さ。けっ)
「えへへっ。ナッチー、これって間接キ」
今度は晃太先輩の手からひょいとジュースの缶が奪われた。奪ったそれに口を付けて飲んだのはお兄ちゃん。
「僕も走って喉が渇いたな」
私は確実に中身が減ったであろうジュースに、嘆きのために口を「あー」と開けた。晃太先輩まで口を「あー」と開けている。心なしか顔も青くなっている気がする。
「はい、那智」
返されたジュースを切ない気持ちで啜る。
(減った……中身が減った。シクシク)
「ふふっ。那智、これって間接キスだね」
お兄ちゃんが変なことをのたまう。
(なに言ってんの。家じゃ普通に一つのコップで回し飲みとかしてんじゃん)
そう突っ込みたかったけど、お兄ちゃんの顔が実に愉快そうだったので止めておいた。せっかく機嫌が良くなったというのにやぶ蛇で突っついてまた機嫌が悪くなられても嫌だったので、私は「えへへ。そうだね」とお兄ちゃん大好きっ子(仮)笑顔でお茶を濁すだけに留めた。
さっき散々怯えて(主にお兄ちゃんに)精神力を使い果たした私にこれ以上の不機嫌とか勘弁して欲しい。またの機会にしてください。
「それを言うならボクと」
「それを言うなら晃太先輩とお兄ちゃんも間接キスだね」
思ったことを口に出したら、お兄ちゃんはククッと含み笑いをして私の頭を撫で、晃太先輩は地面に沈み込んでガックリと肩を落としていた。
晃太先輩は男と「間接キス」とか言われてショックだったんだろう。外見が可愛く見えても、そこら辺は男の子なので、これからは気を付けてあげようと思った。
そして言った後で気付いたんだけど、これって私と晃太先輩も「間接キス」になっちゃうなと。でも、それを口に出してしまえば「なにこいつ。自意識過剰なんじゃないの?」な発言になってしまうので止めておいた。
(不要な発言はしないに越したことはないんだよ)
「まったく、愛梨といい那智といい余計な虫が付きすぎ」
そんな感じのことをお兄ちゃんが呟いていたけど、愛梨ちゃんはともかく何で私までという思いはすれど、虫が誰のことなのか思いもつかなかった。
首を捻っていると「那智は気にしなくていいんだよ」と眩しい笑顔で言われたので、むやみに気にすることはしないでおこうと思った。
(だって、聞いたら不機嫌オーラが発生しそうだったんだもん。我が身が大事。我が身が大事)
後で愛梨ちゃんには「助けるのが遅くなってゴメンね」と謝られた。
「ううん、愛梨ちゃんが大丈夫だよって声を掛けてくれてたから怖くなかったよ。それにしても、私が暗いところが怖いってよく分かったね」
カマを掛けるつもりで、なんでもないことのように言った。私の言葉に愛梨ちゃんは綺麗に笑う。何故かその笑顔がお兄ちゃんに似ているように思えた。
「女の子が一人で暗いところに閉じ込められたら、誰だってそう思うよ。それに、私自身が暗いところが怖いから、余計にそう思っちゃって……」
そう言われたらそうなのかもとも思ったけど、どこか腑に落ちなかった。愛梨ちゃんの言う理由が原因にしては取り乱していたように感じたからだ。普段慌てることがあっても、それと共に落ち着いている部分も持ちあわせている愛梨ちゃんを思うと、彼女らしくないなと感じた直感を忘れてはいけない気がした。私はこういった面での直感は鋭いと自負している。
「那智ちゃんも暗いところが苦手だって、知らなかったな」
優しいトロけるような笑み。春の女神様の微笑みだ。忘れたくないと思うのに、こちらを包み込むような春の空気に思いが揺らぐ。
何故だろう。それを哀しいと思う。
今感じた哀しいという気持ちすら、愛梨ちゃんの穏やかな微笑みは霧のように跡形もなく消し去った。
※ ※ ※
那智救出の少し前、三年生の教室が並ぶ一区画、髪を茶色に染め綺麗に化粧を施された見目の派手な女子生徒達に囲まれる男子生徒の姿があった。彼は彼女達と楽しそうに会話を交わしている。時折彼女達の髪や手に触れる手付きは慣れたものを感じさせるものだった。
「今ね、廊下で聞いたんだけど、なんか面白いことになってるって」
扉を開けて入ってきたのは、普段から彼を囲む女子生徒のうちの一人。その爪は綺麗な色で彩られている。少しだけ欠けたそれを気にしながら傍に寄った彼女に彼は顔を近づけた。
「えー、なになに?」
会話をするには近い距離に彼女は頬を赤く染める。
「えっと、一年の女子が体育倉庫に閉じ込められてるって」
「へぇ」
「確か名前が――」
聞こえた名前に大して興味なさげに頷く。
「ふうん、人工物が……」
「なあに、人工物って」
横にいた他の女子が聞きとがめて尋ねてくるが、あえて応えることはせず、その肩を抱き寄せて「何でもないよ」と囁けば、その子はポーッとして今尋ねたことすら忘れてしまった。
「でも穏やかじゃない話だね。面白そう。もっと聞かせて」
あくまで登場した名前には無関心に言われた言葉は、けれどしっかりと情報を聞き出そうと傾けられたものだった。
この場にいる女子は誰も気付かない。
彼が登場した名前を持つ少女に興味を持っていることに。
那智は勘は良いくせに、恋愛面ではからっきしダメです。反応しない。
きっとお兄ちゃんに慣らされているから(笑)
その代わり、お兄ちゃんにも反応しないという事実。




