9・痛みに強い
犯人は呆気なく捉えることができた。
開かれた扉の音で1Aの教室に乗り込むと、油性マジックを握った一年生女子二人が「しまった」という顔でこちらを振り返った。
愛梨ちゃんの机の横にいたので、さっと落書きでもして立ち去る腹積もりだったようだ。
(どんな言葉を書くつもりだったんだか)
彼女達は私の予測通りお兄ちゃんのファンであることが判明した。なかなか振り向いてもらえないのを、最近お兄ちゃんと親しくなり始めた愛梨ちゃんのせいにしてイヤガラセを決行したらしい。
「こんなことをして恥ずかしくないのか――」
委員長は教室の後ろで正座させた二人を前にこんこんと説教を垂れている。
「言いたいことがあるなら本人に――」
(んなことは言われなくたって分かってるんだよ。それでも押さえが利かない嫉妬心にかられてやらかしたってとこでしょうが)
正論を言ったところで、嫉妬心にかられた女子に通用するわけがないわけで、二人はただ右から左へ聞き流している。
(そんなんじゃ駄目なんだよ、委員長)
私は委員長の横から一歩前に出た。
「ねぇ、私が誰の妹だか知ってるよね?」
その台詞に二人がびくっと肩を揺らした。さっきから私に視線を向けないことから、妹の私ルートでお兄ちゃんに悪事がバレることに怯えているらしいことが伺えた。
「人にイヤガラセする頭だけはご立派だね。その努力をもう少し他のことに回したら?」
斜め四十五度の角度で高圧的に見下ろす。傍から見ると私の方が悪人みたいに見えたことだろう。
「那智だったら、こんなことする前に自分に振り向いてもらえるように精一杯頑張るけどなぁ。あっ、ソレで努力した後だって言うんならゴメンねぇ」
私の嘲笑に二人の肩が怒りに震えだすのが分かった。
(もう少しかな)
私は彼女達から取り上げた油性マジックを手でもてあそびながら二人に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「努力が無駄に終わったから、教室の窓から教科書を放り投げて、今度は机に落書きして憂さ晴らし? 醜い嫉妬心だね」
お兄ちゃん観察によって得たスキル『何処から見ても綺麗な笑み』で二人に微笑む。
「それで愛梨ちゃんが気にしてお兄ちゃんから離れれば、振り向いてもらえるとでも思った? それはそれは素敵な涙ぐましい努力だね」
そうやってニッコリと微笑めば、二人のやり場のない憎悪は私に向けられた。
「あんたに何が分かるのよっ!」
一人が手を上げて私の頬に振り下ろした。
パンッ
寸前で間に手を挟みこみ、打ち付けられるのを防いぐ。
(私の反射神経をなめんなよ)
「あ、あんたなんて血の繋がりがなくても、妹ってだけで桂木先輩に優しくしてもらえて……。あんたに私たちの気持ちなんて分かんないくせにっ!」
激昂した彼女が叫ぶ。
(嫉妬心をぶちまけるのは構わないけどね。でもね、それは言っちゃいけないよ。多少のことには目をつぶるけど)
ガンッ
沸々とこみ上げる怒りに、私は力任せに壁を殴った。相手の彼女は(乱暴なことをしそうにないという意味で)可愛らしい見た目の私がまさかそんなことをするとは思わなかったらしい。びっくりして目を見開いていた。
「分かりたくもない」
出した声は凍てついていた。心が急激に冷えていくのを感じたけど、反対に壁を殴った拳は痛みで熱を伴っていた。
※ ※ ※
コクコクコク
私は食堂横の自販機の前で委員長に奢ってもらった〝まろやかココア〟を堪能した。
(このコクと絶妙なトロミがたまんないんだよね)
ここの自販機の品揃えの中、今最もはまっているのがこのココアだ。季節は春だけど、先ほどのことで凍った私の心はココアの温かさに溶けていく。
「良かったのか?」
私の横でスポーツドリンクを購入した委員長が声を掛けてきた。
「何が?」
「あんな言い方して」
紙コップで購入したそれを一口飲んで私を見下ろす。身長が高い分、威圧感はハンパない。(委員長は責めてるつもりはなくてもね)
犯人の二人は未遂ということもあり、氏名を確認した上で「今後はこういうイヤガラセは行わない」という約束をさせ開放した。
それでも内心まだ嫉妬心が燻っている様子だったので、また何かしてくる可能性がないとは言いきれない。
「自分が恨まれるだけだ」
「いいんだよ。それが目的だったから」
私があえて恨まれるように酷い言葉を並べたのは、彼女達の標的を愛梨ちゃんから私に切り替えるためでもあった。
「私に目が向けば、今後愛梨ちゃんに何かしてこようとは思わないでしょ?」
最後の一滴を飲み干すと、「ご馳走様」とゴミ箱に容器を捨てた。
「那智はこんなこと慣れてるから全然オッケー。何の問題もなし! はい、この話は終了」
きびすを返して教室に戻ろうとした私の手が取られた。委員長の大きな手が私の手を包んだ。大きくてがっしりした手だ。剣道の竹刀で鍛えられていて、固くて少々かさついているけど暖かい温度が私の手に伝わってきた。
「痛みに強いからといって、それで問題がないわけじゃないだろ」
手の痛みよりも胸の痛みの方が勝っていた。
『桂木兄妹に血の繋がりはない』
隠し立てしてるわけでもないので、知っている人は知っている情報だ。大抵の人は普通の兄妹として見てくれるけど、中には彼女達みたいに下世話な詮索を向ける人もいる。
普段ならお兄ちゃん大好き(仮)を演じている私だけど、不意に突きつけられた事実は刃のようにこの胸を抉った。私たちの繋がりを否定されたようだ。
私たち兄妹は『絆』とまで強くはないけど、確かに『繋がり』を持っている。それは細い蜘蛛の糸のようで、それでいてなかなか容易には切れたりしない。
いつもは光に透けて見えないそれは、手繰り寄せると確かにそこに存在している。
けど、こんなにも簡単に揺らいでしまう。
(手……震えていないかな。自分じゃよく分かんないや)
そこに存在する温度が私に安心感を植え付ける。
「ありがとう。困ったことになったら助けてね」
背の高い委員長に顔を向けるのは少々首が痛かったけど、しっかりと顔を見てお礼を言いたかった。分け与えられた体温は、ココアよりも私の心に沁みた。それを言葉に出すのは恥ずかしいので、ただ「ありがとう」の言葉だけを伝えた。
「ん」
たった一言で応えてくれたそれは、私の胸を確かに暖かく満たしてくれた。
普段は表情の変わらない委員長が、このときは目元を少しだけ和らげていたので笑っていると分かった。
ほんの少しだけ、胸がトクンと音を立てて鳴った。
※ ※ ※
「保健室に行った方がいい」
委員長の勧めもあって、彼と別れた私は一人保健室へと向かった。
保健室の先生は丸メガネの小太りのオバちゃん先生だ。気さくで快活な彼女は意外と生徒たちの相談役にもなったりしているらしい。
保健室のオバちゃん先生に「擦り剥きました」とだけ告げて、利用記録に記入をして包帯を巻いてもらった。多少血が滲んだ程度だったので消毒だけでも良かったんだけど、「女の子の手なんだから」と押し切られて巻かれた包帯は実際の傷よりも見た目が派手になってしまった。
お兄ちゃんに突っ込まれても面倒だったので、放課後まではそれで過ごして、家に帰る前には外してしまおうと決める。
今日一日付けていれば傷も多少は癒えるだろう。
(家に帰ったら、とにかくお兄ちゃんにバレないように隠し通そう)
「ありがとうございました」
礼を取って保健室を後にした。
風通しをよくするため開け放たれた階段の窓は爽やかな緑の匂いを含んだ風を送ってくれる。新緑の木々の葉が風に揺れてサワサワと葉ずれの音を鳴らしていた。優しい春の風を感じながら、私は1Aの教室へと階段を上った。
「おはよう那智ちゃん」
教室に戻ると、来たばかりなのか鞄の整理をしていた愛梨ちゃんが声を掛けてきた。
「おはよう愛梨ちゃん」
今日も完璧美少女な愛梨ちゃんの微笑みに影はない。お兄ちゃんの彼女に、と思って狙ってはいるけど、私自身も彼女のことは気に入っていた。ヘタな嫉妬心に晒されて、この笑顔に影が落ちなかったことに喜びを覚える。
「今日はまた元の髪型なんだね。いつも恭平先輩が結ってくれるんでしょう? 私には兄弟がいないから仲が良い兄妹って羨ましいな」
お兄ちゃんとの仲を認められたようで嬉しくなって、愛梨ちゃんの腰に飛びついてぐりぐりと頭を摺り寄せた。
愛梨ちゃんの纏う空気は春の暖かさだ。とても心地良い。こちらを許容し優しく包み込むオーラのようなものを私は愛梨ちゃんから感じ取っていた。
(お母さんオーラっていうか、これは聖母オーラだな。あれ、そういえば毎日お兄ちゃんに髪のセットしてもらってるって愛梨ちゃんに話したことあったっけ?)
一瞬そう思ったけれど、愛梨ちゃんの優しい微笑みに私の思考は霧散した。
「愛梨ちゃんの傍って落ち着くぅ。癒されるわぁ」
「もう那智ちゃんってば。あれ、その手どうしたの?」
私の手に巻かれた包帯を見咎めた愛梨ちゃんが笑顔から一転心配そうな顔に変わる。
「あぁ、ちょっと擦り剥いちゃって。見た目ほど重症じゃないんだよ? 保健室の先生に大げさに巻かれちゃって」
「そうなんだ。女の子なんだから気を付けないと」
「それ、先生にも言われた。でも心配してくれてありがと。ホント愛梨ちゃんって癒しの人だよね」
そこまで言ったところで、担任が入ってきてHRが始まり、午前の授業が開始された。
昼休憩直前の授業は諒ちゃんの担当する現代文で、長い文章にあくびをかみ殺していた私は授業が終わって早々に「桂木、ちょっといいか?」と諒ちゃんに呼び出された。
「うっ。木村先生……。あくびはしてたけど、ちゃんと授業は聞いてましたよ? 意識がなかったのはほんの数分、いえほんの数秒だけでした」
言い訳がましく寝ていないことを主張する私を引っ張って、諒ちゃんはわざわざ国語科準備室まで連行していった。
カチッと後ろ手に鍵を閉めた諒ちゃんの目がすわっている。
「な~ち~っ」
「だから本当に寝てないって」
「そうじゃない」
眉を顰めた諒ちゃんは昔取ったきねづかとやらで結構迫力がある。包帯を巻かれた方の腕を取られて私は睨まれた蛙のように「うぐっ」と動きを止めた。
「何だ、この傷は!? また何か八つ当たりに殴ったな?」
「おぉ、さすが諒ちゃん。私のことが良く分かっていらっしゃる」
そう言うとギロッと睨まれたので黙りこむ。
「昔約束したよな。女なんだから体に傷を作るな、作らせるな、って」
そう約束したのは私がまだ小学校低学年の頃だ。
近所の男の子とよく殴り合いの喧嘩をしたりして生傷の耐えなかった私に諒ちゃんが無理やり約束させたのだ。喧嘩もあったけど、ストレスMAXになると八つ当たりで物を殴りつける私を心配してのこともある。
当時、キンキンの金髪の不良が子供を目の前に正座させてお説教を垂れる姿はさぞや滑稽な姿だったろう。
その約束もあり、私の生傷は多少の落ち着きをみせるようになったんだけど、久々の傷に諒ちゃんの怒りボルテージはかなり上がったようだ。
諒ちゃんのお説教はこんこんと続き、私はそれを右から左へ聞き流しながら「もうしません」と謝り続けた。
(あれ、なんかこれ既視感を感じる。今朝もあったね、こんなこと。謝ってたのは私じゃないけど)
「――でだな那智。って人の弁当食うな!」
「だって、もぐもぐ。諒ちゃんのお説教長いんだもん」
壁に掛けられた時計を指差す。この時間帯では購買に行ったところで昼食を食べる時間もない。
(だからって人の弁当取るなって話なんだけどね。ま、いっか。諒ちゃんだし)
諒ちゃんのお弁当は手作りではない。料理はするけど、そこまでのスキルはないのだ。いつもコンビニで買った出来合いのお弁当。今日のコンビニ弁当は生姜焼き弁当だった。
もぐもぐと人の弁当をほお張る私に諒ちゃんは溜め息をついて頭を撫でる。
「説教の続きだがな」
(まだ続くんかい)
「人のためとはいえ無茶はするな。それに、血の繋がりなんて今更だろ。お前達の間の糸は細くても強固なワイヤー製なんだから、心配しなくてもそうそう容易に切れやしねえよ」
優しい諒ちゃん。お弁当を取られようと、私を甘やかすポイントはきっちり押さえてくる。
(そんなところが「良い人」止まりで終わっちゃうパターンが多いんだけどね。嫌いじゃないよ、そういうとこ)
「諒ちゃん……。ごめんね」
ごくんと最後の一口を飲み込む。プラスチック製の容器は綺麗にさらえてピカピカだ。お米の一粒まできっちり食べきるのが私の信条。
「お弁当完食しちゃった」
空っぽになった容器をしずしずと差し出して、私は諒ちゃんに怒られる前にそそくさと国語科準備室を後にした。
国語教師の木村は一人残された部屋で呟いた。
「せめて三分の一は残しておけよ」
弁当の容器は彼によって綺麗に分類されてゴミ箱へと消えていく。
「まったく、早く兄離れしろよな。せっかく可愛い顔してるのにもったいない」
やれやれと首を振って、午後の授業の教室へと向かう準備を行う。今はただ、授業中に腹が鳴らないことだけを祈った。
※ ※ ※
同時刻、校舎屋上にて春の風にサラサラと絹の黒髪をそよがせる女生徒がいた。
手には可愛らしいうす桃色の花柄の便箋を持っている。
そこにはまるっこい文字でこう書かれていた。
『主人公ポジのくせに何やってんの。相手はライバルキャラでしょ』
文字に反してきつめの内容に眉をしかめる。
「仕方ないじゃない。あの子って強気なくせに健気に頑張ってるんだもの。落ち込んでいたら励ましてあげたいでしょ」
そう呟くと白く滑らかな指先に持っていた便箋が数を一枚増やした。彼女は至って普通の事のように二枚目を繰る。
『あんたは脇役キャラか』
的確かつ胸に痛い内容に小さく唸りをあげる。
「うー、どうせ私はそんな性分よ」
桜色の唇をとがらせて便箋に向かって言うと、その言葉に連動したように、今度は『追伸:』という文字が余白部分にスッと現れた。
『追伸:そんな性分=損な性分。何それ、シャレ? ウケルわー』
その文字を見た瞬間、綺麗な口元がひくっと歪む。
「覗き見してんじゃないわよっ、愛の女神! 頭のネジがゆるいくせにこういう返しだけは早いってのが更にムカつくのよっ!」
何もない虚空に向かって文句を発する姿は、普段のしとやかな彼女の姿からは想像もつかないほど感情的だった。
手に持っていた便箋をびりびりと破いて風に流す。桃色の花びらがひらひらと舞い、それは数秒瞬いたのち空中に溶けて消えた。
諒ちゃんとは甘い展開にならない(汗)




