第三十四節:銃撃と決着と……
ケルティスの髪が一陣の風に撫でられた次の瞬間、彼が対峙していた“炎の悪魔”の眉間に胡桃大の穴が生じていた。
「…………え……?」
『……ウ……グ……ヌ……』
ニケイラ達を襲わんと炎剣を振り上げ、その身を前傾にして脚を踏み出した姿勢のまま、彼の“悪魔”はその動きを止めていた。
その瞳には、最初に当惑の色合いが浮かび、次第にそこから生気の光が徐々に薄れて行く。
突然に訪れた眼前の情景を目の当たりにして、ケルティスは自らの髪を撫でた風の正体を探ろうと、階層の入口の方へと振り返る。
† * †
さて、時間は些か遡る。
大書庫の管理執務室を訪れたラティルは、困惑するキリティアと顔を突き合わすアルクス司書長の姿を目にすることになった。
そして、彼女達の話を聞き取って行く間に、ラティルの脳裏にある危険な推測が閃く。その可能性を察した彼女は、即座にその身を翻して“大書庫”に向かって駆け出して行った。
それから間もなく、ラティルは“書院大書庫”の管理執務室から“大書庫”へ繋がる回廊を駆けていた。
“書院大書庫”の構造や蔵書の内容等は、書院所属の神官でも詳しく知る者は決して多くはない。そうした者達の殆どは、書院所属の神官の中でも“大書庫”所属の司書を務める神官達で占められてしまう。
だが、“大書庫”所属ではない神官でも“大書庫”の概要を把握している者は少数ながら存在する。その数少ない者の一人として、ラティル=コアトリアが存在していた。彼女は書院長付高位神官として、様々な史料を借りる為もあって頻繁に“大書庫”へと訪れていたからだ。そんな彼女にとって、キリティアやアルクスとの会話からケルティス達が迷い込んだ区画を推察することは比較的容易なことと言えた。
彼等が迷い込んだ区画は、古代の有力な魔導書や魔術関連の研究書や論文が収められていた筈である。そして、魔導書――特に強大な力を秘めた魔導書の中には、自身を扱うに相応しくない者に何らかの呪いを振り撒く例が少なくない。
斯く言うラティル自身も、若き日には不用意に魔導書に触れて目を潰されたこともあった。ただ、その時は“女性体”を得た後のことでもあり、難なく『呪い祓い』の呪文を用いて事無きを得ている。
ケルティス達にそんな危難が降りかかっていないかと、彼女の内心はじわじわと焦燥で占められて行く。
「……あ……!」
そんな気の急いた彼女は、その足を縺れさせる。何とか転倒を免れたものの、一瞬恨めし気に自分の足を睨み付ける。
師にして舅たるティアスより与えられた“異相体”は、膨大な保有魔力や優れた魔法的知覚力を持っているものの、その腕力や平衡感覚等が本来の身体に比べて貧弱になってしまっている。
それが、こんな時に咄嗟の動きを阻害することを、彼女は恨めしく思った。
その時、ラティルは自分があることを失念していたことを思い出す。次の瞬間、駆け出したラティルの姿は、先程までのそれから些か変貌していた。
その風に靡く髪は背にかかる長さから、肩に届くか否かと言った程度に短くなり、回廊を駆ける為に動かす四肢は華奢な細いものではなく、細くともそれなりの筋肉の存在を感じさせる精悍さを感じさせるものへと変化している。そして、その体格や顔立ちは大きな変化がある訳ではないものの、女性的な柔らかな輪郭から、何処か角張った精悍な要素が若干含まれるものへと移り変わっていた。更に言えば、その瞳の色合いは、“虹色”のそれから、翡翠のそれに似た緑の色合いのそれへと入れ替わっていた。
そうして、回廊を駆けるのは一人の女神官から、女神官用の法衣を纏う男性へと変化していた。もっとも、神官用の法衣は男女の差違はそれ程顕著なものではなく、男性自身が女顔であることもあって、一見して違和感を覚える様なものではない。
だが、先程までの“女性体”の際よりも余程速い速度で、ラティルは回廊を駆け抜けて行く。
“男性体”へと変じ――いや、戻ったラティルは、そのまま回廊を進み、“大書庫”の階段を駆け下りる。段を数段飛ばしながら、半ば跳び降りる様に駆け続ける彼は、驚くべき速さで地下上層部・中層部を通り過ぎ、下層部に差し掛かる場所まで到達した。
その時、彼の瞳に階段を駆け上がる一人の人影が捉えられた。
† * †
さて、時は若干遡る……
ヘルヴィスに命じられ、ケルティスにその背を守られた少年――ルベルトは、“大書庫”の立ち並ぶ書棚の間を駆け抜けて行く。前後左右を見回しても同じ様に続く書棚の迷路を、先程ケルティスが案内してくれた道順を何とか思い出しつつ、ルベルトは走り続けた。
そして、懸命に駆け、その息も上がり始めた頃、彼は書庫の階段への入口に辿り着いた。
乱れた息を整える間も惜しんで、ルベルトは階段へと歩を進める。小太りなその体格の通り、身体を動かすことは不得手だ。
しかし、そんな弱音を吐いてはいられなかった。何故なら、今まさにケルティスは“炎の悪魔”と命を懸けた闘いを繰り広げているのだ。そんな彼に報いる為にも、その身に鞭打つことを躊躇ってはおれなかった。
乱れた息と困憊した身体のお蔭で、ルベルトの歩みはそれ程速いものではなかったが、確実に段を昇って行く。
そして、その彼の努力はある意味で報われることとなる。階上を振り仰いでいた彼の視界に、駆け下りて来る一人の神官の姿が映し出された。
「……貴方は、ケルティス君と一緒にいましたね……?」
「……は、はい……ルベルト=アルジェフル……です…………ケルティス様を、お助け下さい……!」
「!……何が、何がありました?」
「……は、はい……そ、それが……」
駆け寄って来た神官に向けて、ルベルトは乱れた息の所為で、つっかえながらも言葉を紡ぎ出した。
† * †
階段を駆け下りていたラティルは、階段を駆け上がろうとする少年の姿を目にして咄嗟に呼び止めた。その呼び止められた少年は、先程ケルティスに同行していた少年少女の一人――ルベルト少年であった。
呼び止めた少年から、彼は事の次第を聞き出すことが出来た。焦燥と疲労の所為か、取り留めもなく要領を得ない少年の話を、彼は注意深く聞き取ったことで、彼の顔色は蒼褪めることとなった。
「……“炎の悪魔”……!」
アルクスより渡された紙片をデュナン達がケルティスに一切見せることなく、“大書庫”下層への案内を命じ……
デュナン達の内の一人が不用意に魔導書を触れて、そこから防護術式として込められていたと思しき魔法陣が駆動し……
魔法陣より神代紀の魔物――“炎の悪魔”が出現し、ケルティスがこの魔物と今まさに交戦中であると言うのだ。
その話を聞いたラティルは、即座にルベルトへと視線を合わせて言葉を紡ぐ。
「ルベルト君、少し待って貰えますか?」
「え?……あの、早く応援を……」
「すぐに済みますよ。少しだけ待って下さい」
そう言うと、ラティルは瞑目し、意識を集中させる。
次の瞬間、ラティルの姿が揺らいだ。それは、彼と彼女の姿が二重映しとなったものだった。そして次の瞬間には、彼の姿は女性のそれ――特にルベルトにも見知った姿へと移り変わっていた。
だが、その変じた姿にルベルトは驚きで目を見張った。
「……ラティル……先生……?」
それは、ある意味で当然のことだったろう。見知らぬ男性神官が、目の前で自分の講師も務める女神官の姿へと変身して見せたのだから……
しかし、そんな狼狽する教え子の様子に頓着することはなく、彼女は素早く呪文を唱え始める。
『万物の原初にして万能なる魔力に命ずる……我が得物を我が手に齎し賜え…………』
彼女の詠唱と共に、その前腕程の長さを持つ金属筒とその下部の把手等が組み合わされた物が、彼女の手元に出現した。
それは、世界でも使い手が数える程しかない武器――そして、ラティル|(=ウィフェル)=コアトリアの代名詞とも認識される武器――“魔力銃”と称される魔法機械武器であった。
銃と共に現れた弾丸入りの小袋を備えた帯革を腰に巻き、右手に銃を携えた時、ラティルは再び男性の姿へと変わっていた。その姿の変わったラティルは、ルベルトへと視線を落とす。
「向かっていたのは、何番の書棚でしたか?」
「え?……はい、確か……五十何番か、だった筈なんですが……」
申し訳なさそうに言葉を濁すルベルトに、ラティルは優しげな視線と共に言葉を返した。
「大丈夫です。それだけ分かっていれば、充分ですから……」
そう言うと、彼は虚空に向けて声をかけた。
「……リュッセル、捜索を、お願い出来ますか……?」
『……了解……』
虚空に漂うルベルトには見えぬ同行者――聖霊リュッセルが短く肯いて書棚の列の中を飛んで行った。
飛び去ったリュッセルを見送ったラティルへと振り返った。
「後は私に任せて下さい。貴方は、このまま階段を昇って、管理執務室のアルクス師達に知らせて下さい」
「……で、ですが……」
抗弁しようとするルベルトに向け、その眼を鋭くして言葉を畳みかける。
「…………分かりましたね……!」
「……は、はい……」
その姿に、身を竦ませながらも頷きを返した後、ルベルトは階段を昇って行った。
そんな彼を、僅かの間だけ見送ったラティルは、身を翻して書棚が並ぶ迷宮を駆け出していた。
† * †
自らの傍ら――こめかみ辺りの髪を撫でた一陣の風をケルティスは感じた。その正体を確かめるべく振り返った彼の視界に映ったのは、彼が半ば予想していた者であり、同時に半ばあり得ないだろうと思っていた姿であった。
そこに――書棚が並ぶ通路の遥か向こう側に立つ一人の神官の姿であった。くすんだ金髪を肩辺りで切り揃え、女性用の神官衣を纏い、特殊な造りの帯革を腰に巻くその男性神官は、右手にこの世界でも数える程しか存在しない魔法機械武器――“魔力銃”を構えていた。
その銃の銃身は、発射の際に生じた魔力の余剰光が揺らめいていた。そして、その翡翠色の瞳は、針の如き瞳孔を持つ“竜瞳”から徐々に“人の瞳”へと戻って行く所であった。
それは、“銃使い”或いは“剣撃ち”の異名を持つケルティスの義兄――ラティル=コアトリアの姿であった。
「……ラティル、さん……?」
その姿を目にしたケルティスは、驚きで呟きを漏らした。そして、呟きを漏らしている間に、振り返る際に自分の髪をもう一度撫でる風の動きがあったことを思い出していた。
その疑問を解く為に、彼は再度振り返った。そこにあったのは、先程まで対峙していた“炎の悪魔”だった存在であった。
眉間に胡桃大の穴を穿たれた“炎の悪魔”は、その射撃を受けた衝撃で前傾していた身体を僅かに仰け反らせていた。そして、その仰け反った身体――その胸部の中央――“炎の悪魔”の心臓が納められているであろう位置に同様の胡桃大の穴が穿たれていた。
眉間と胸の二点を撃ち抜かれた“炎の悪魔”は、その射撃の衝撃で自らの身を仰け反らせ、ゆっくりと仰向けに倒れ込んだ。
* * *
音高く倒れ込んだ“炎の悪魔”は、次の瞬間にはその色と形を急速に失って行く。その角や爪牙は崩れ落ち、紅蓮の色合いは褪せて行った。それは、“炎の悪魔”から最初に顕れた蒼白き人型の肉塊へと戻って行ったのだった。
「…………そんな……たった二撃で、だと……?」
そんな肉塊の姿を凝視しながら、ヘルヴィスは驚愕の呟きを漏らしていた。
先程までケルティスが苦戦していた神代の大妖魔が、たった二発の銃弾で討ち取られてしまったのだ。ケルティスの武術の冴えが、決して並の武人と引けを取らないことを知っていたヘルヴィスにとって、この事実はまさに驚愕の一語で言い表すことが出来ると言えた。
それは彼の傍らで寄り添う少女達にとっても同様だったらしく、両者とも驚きで目を見開き言葉を失っていた。
* * *
その場の一同が驚愕で自らの動きを停めている間に、ラティルは少年少女達の許へと駆け寄って来た。
「……皆さん、怪我はありませんか?」
駆け寄ったラティルに対して、ケルティスから声が返って来た。
「はい、皆さんに怪我はありません」
「……って、言っているケルティス君が酷い怪我をしているじゃないですか!
さぁ、早く『白鱗の領域』を解除して下さい……!」
そう言って歩み寄るラティルは、手にしていた銃を帯革に備えられたホルスターへと収めて、その姿を“虹の瞳”を持つ女性の姿へと変じていた。ラティルの言葉に、ケルティスは自らが行っていた氷霧の噴出を解除する。徐々に“氷の精霊力”が薄れ行く中、ラティルはケルティスの傍らへと辿り着いた。
そうして、女性体へと変じた“虹の瞳”のラティルは、義弟の傷付いた左腕を抱え上げて、渋い顔をして見せる。
「……まったく……セスタスさんから注意を受けているでしょう!
貴方の左腕は、随意に動かしたり、触覚等を感じたりすることが殆ど出来なくなっているだけじゃなくて、魔法による治癒を受け付け難い状態になっていると言うこと……!」
「……すみません……」
「……まったく、もう……こんな無茶なことは、もうしないで下さいね」
項垂れるケルティスにそれだけ言うと、ラティルは“聖霊魔法”の治癒の呪文を詠唱する。その文言を聞いたヘルヴィスやカロネアは胸中に驚きの感情を浮かべることになる。彼女が唱えた呪文とは、最上級の癒しの呪文――『完全治癒』を発動する為のものと聞き取れたからだ。そして、緑味の強い“虹色”の光がケルティスを包み込み、光が消えた後には満身の創痍は見事に消し去られていた。その左腕の幾許かの打撲を残してではあったが……
ともあれ、傷付いたケルティスを癒し、消耗していたカロネアを『魔力譲与』によって回復させたラティルは、急速に体組織を崩壊させ腐敗して行く蒼白き肉塊――“召喚の器”だった物を一瞥した後、一同に向けて声をかけた。
「それでは皆さん、一旦、管理執務室へと退避します。良いですね」
その彼女の言葉に、ケルティス達一同は否と答える訳もなく首肯を返したのだった。
頷きを返す一同の姿を一通り見回したラティルは、一度軽く頷いで見せた後で階段の方に向けて歩を進めて行く。ケルティス達も程なく彼女を追う様にして歩みを進めたのだった。
若干の加筆を行いました。(8/28)