大泣きしたフリをして、身勝手な婚約破棄の責任をきっちり取らせていただきましたわ
最後に連載版の告知あります
王宮で開かれた夜会は、いつも通り華やかだった。
侯爵令嬢フィオナ・アルウェインは婚約者であるジュリアン・フェルナーから、「少し話したいことがある」と声をかけられた。
二人は五年前から婚約している。半年後には結婚する予定で、婚礼衣装の準備も始まっていた。フィオナ自身、ジュリアンとの関係が特別情熱的なものだと思ったことはないものの、婚約者として大切にはしてきたつもりだった。忙しい時には予定を合わせ、彼が苦手としている相手との会話をさりげなく助けることもあったし、祝い事があれば贈り物を選び、フェルナー家との付き合いにも気を配ってきた。だから、広間から少し離れた場所まで連れて行かれた時も、まさか今から婚約を終わらせる話をされるとは思っていなかった。
「フィオナ。君との婚約を破棄したい」
あまりにも唐突だったため、フィオナはしばらくジュリアンの顔を見つめた。酔っているようには見えない。冗談を言うような表情でもないため、聞き間違いではないらしい。
「……理由を伺ってもよろしいですか?」
「ああ。俺もずっと考えていたんだ。君が悪いという話じゃない。ただ、俺たちは夫婦になるべきではないと思うようになった」
そこまで言ってから、ジュリアンは一度息を吐いた。どうやら本人なりには悩みに悩んだ末の決断らしい。フィオナが黙って待っていると、彼は少し言いにくそうにしながらも続きを口にした。
「君は俺を必要としていないだろう。何か困ったことがあっても自分で解決してしまうし、会えない日が続いても寂しいとは言わない。俺が忙しければ当然のように予定を変えるし、何かを頼まれることだってほとんどない。俺はもっと……自分を必要としてくれる女性と一緒になりたいんだ」
フィオナは言葉を失った。寂しいと言わなかったのは、忙しい彼を困らせたくなかったからである。予定を変えていたのも、ジュリアンが仕事で余裕を失っている時に無理をさせたくなかったからだ。自分でできることをわざわざ頼まなかったのも、それが彼への配慮だと思っていた。それらがすべて、「自分を必要としていない」という結論へ繋がっていたとは思わなかった。
しかもジュリアンは、フィオナが黙り込んだ理由を完全に勘違いしたらしい。先ほどまで真剣だった表情を少し緩め、どこか哀れむような目でこちらを見た。
「すまない。そんなに衝撃を受けるとは思っていなかった。無理に平静を装わなくてもいい。泣きたいなら、泣いても構わないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、フィオナの中で何かがすっと冷めた。悲しくないわけではない。五年間続いた婚約を突然終わらせると言われたのだから、思うところは当然ある。しかし今もっとも強い感情は悲しみではなく呆れだった。そこまで自分が泣き崩れると思っているのなら、その期待に応えてみたらどうなるのだろう。そんな、ほんの少しの意地悪心が湧いた。
フィオナは手にしていた小さなバッグからハンカチを取り出した。目元へ当て、ゆっくりと俯く。それから一度、喉を詰まらせるように息を吸い、肩を小さく震わせた。
「……そんな……私……ずっと、あなたと結婚するものだと……思っておりましたのに……」
そこで言葉を切り、息を詰まらせる。ハンカチで顔を覆い、何度も呼吸を整えようとしているように見せながら、肩をさらに大きく震わせた。鼻をすするような音まで混ぜれば、自分でも驚くほどそれらしい。
「……あんまりですわ……こんなに……突然……」
ジュリアンは目を見開いた。そして数秒後、その表情に何とも言えない満足感が浮かんだ。
「フィオナ……そんなに俺を愛してくれていたんだな」
ハンカチの向こうで、フィオナは思わず瞬きをした。そこまで言うのか。しかしここで顔を上げるわけにもいかないため、さらに肩を震わせる。するとジュリアンは完全に確信したらしく、少し声を柔らかくして続けた。
「本当にすまない。だが、泣かれても俺の決意は変えられないんだ。君なら、きっといつか俺より良い男に出会える。今は辛いだろうが、時間が経てばきっと立ち直れるよ」
「……はい……分かりましたわ……」
何とも言えない会話だった。婚約を破棄したいと言い出した本人が、なぜか失恋したフィオナを励ます立場に収まっている。しかも、その口調にはどこか満足そうな響きすらあった。
フィオナは泣いたフリを続けながら、バッグの中に入っている書類のことを思い出した。父から念のため持たされていた、婚約解消に関する書面である。アルウェイン侯爵家とフェルナー伯爵家が婚約を取り決めた際、どちらか一方が正当な理由なく婚約を破棄した場合には違約金を支払うという条項が設けられていた。もっとも、こうした違約金は実際にはすんなり支払われるとは限らない。金額を巡って揉めたり、家同士の事情で減額されたり、支払いを拒まれて長い話し合いになることも珍しくなかった。
けれど今、ジュリアンは自分の意思で婚約を破棄すると明言した。
フィオナはしゃくり上げるように息を震わせながら、バッグへ手を伸ばした。
「……ジュリアン様……ひとつだけ……お願いが、ございますの……」
「何だ?俺にできることなら言ってくれ」
フィオナは折り畳まれた書類を取り出し、震える手を演じながら差し出した。
「……婚約を……破棄なさるのでしたら……こちらを……。私、今は……とても頭が回らなくて……でも、必要なことだけは……終わらせておきたくて……」
「婚約解消の書類か」
「……はい……」
ジュリアンはそれを受け取った。本来なら、その場で署名するようなものではない。少なくとも最後まで読み、違約金の額を確認し、家へ持ち帰るくらいはするべきだった。
しかしジュリアンは、最初の数行へ軽く目を通しただけで顔を上げた。
「これに署名すればいいのか?」
フィオナはハンカチへ顔を押しつけたまま、小さく頷く。
「……はい……」
「分かった。君がそれで少しでも気持ちの整理をつけられるなら」
ジュリアンは近くの卓上からペンを借りると、ほとんど迷うことなく名前を書き込んだ。
フィオナはさすがに驚いた。
本当に読まなかったのだ。
違約金については中ほどに、十分目立つ形で記されている。見落とすには大きすぎる数字だった。それでもジュリアンは、自分を失って泣きじゃくるフィオナが、自分に不利な条件を差し出すはずがないとでも思ったのだろう。
「これでいいだろう?」
「……ええ……ありがとう、ございます……」
フィオナは書類を受け取り、さらに肩を震わせた。ジュリアンはそれを未練による涙だと受け取ったらしく、どこか優しい顔をする。
「フィオナ。今は俺を恨んでも構わない。でも、いつか今日の決断が正しかったと思える日が来るよ」
「……そう、ですわね……」
フィオナはそれ以上何も言わなかった。書類を丁寧にバッグへしまい、まだ泣きじゃくっているように何度か息を詰まらせてから、ゆっくりと頭を下げる。
「……五年間……ありがとうございました……。どうか……お幸せに……」
その声は最後まで震えていた。
フィオナはハンカチで顔を覆ったまま夜会の広間を後にした。事情を知らない者が見れば、愛していた婚約者に突然捨てられ、どうにかその場から立ち去ろうとしている悲劇の令嬢そのものだった。
王宮の玄関を抜け、迎えの馬車へ乗り込んでも、フィオナはまだ顔を覆っていた。御者が馬を進め、王宮の灯りが窓の向こうへ遠ざかっていく。門を抜け、人目が完全になくなったところで、ようやくフィオナはハンカチを顔から離した。
頬は乾いていた。目元も赤くない。手にしているハンカチにも、涙の染みは一つとしてなかった。
フィオナはしばらくそれを眺めたあと、先ほどの書類を取り出した。そこには間違いなく、ジュリアン本人の署名がある。
「……本当に、読まなかったのね」
呆れたように呟き、書類を丁寧にしまった。
◇
翌日の朝、ジュリアンは自室で、昨夜署名した婚約解消の書類の写しを前にして固まっていた。
昨夜は泣きじゃくるフィオナを前に、ろくに内容を確認しなかった。だが一晩経ち、家へ届いた正式な控えを読み直してみれば、そこには婚約破棄の責任がジュリアン側にあることと、それに伴う違約金について明確に記されていた。
その金額を見た瞬間、眠気など吹き飛んだ。
「……は?」
何度読み返しても数字は変わらない。
決して家が傾くほどではない。しかし、笑って支払える額でもなかった。何より腹立たしいのは、その条件へ自分自身が署名していることである。婚約破棄を切り出したのも自分。違約金の記された書類を渡されたのも昨夜。そして内容を確認する機会がありながら、それを読まずに署名したのも自分だった。
拒もうにも、署名がある。減額を求めようにも、フィオナ側が応じる義務はない。
昨夜の彼女は、声も出ないほど泣いていた。肩を震わせ、自分との別れを受け入れるだけで精一杯に見えた。
そんな彼女が差し出した書類に、これほどの違約金が記されているとは思わなかった。
ジュリアンはそこでようやく、昨夜のフィオナが最後まで一度も顔を見せなかったことを思い出した。
一方その頃、アルウェイン侯爵家では、フィオナが朝食後の紅茶を飲みながら昨日使ったハンカチを眺めていた。
当然ながら、それは今も綺麗に乾いたままだった。
婚約者を大泣きさせたつもりだったジュリアンが、本当に泣きたくなったのは、その翌朝のことだったのだ。
別作ですが連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)
『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』
https://ncode.syosetu.com/n9992mo/




