大嫌いだ!二度と顔も見たくない!(訳:大好きだ!結婚してくれ!)」~【天邪鬼の呪い】にかかった騎士団長様が、毎日店に罵倒(愛の告白)しに来るのですが~
王都の華やかさとは無縁の路地裏。
残飯を巡って野良犬が低く唸り声を上げている薄暗い一角に、私の城はある。
『魔女の隠れ家』なんて大層な屋号を掲げているが、実態はただの古びた薬屋だ。
棚には得体の知れない生物のホルマリン漬けが並び、床には乾燥させたマンドラゴラの根っこが散乱している。
煮詰まった薬草の青臭さと、書物のカビた匂いが混じり合う独特の空間。
普通の神経をしていたら、扉を開けて三秒で回れ右をして逃げ出すだろう。
前世、デスマーチの連勤で心臓が止まるまで働いた記憶を持つ私でさえ、たまにこの空気の重さには閉口しそうになるのだから。
そう、私はこれでも一応「転生者」というやつだ。
チート能力? ない。
悪役令嬢? ほど遠い。
あるのは前世の社畜根性と、微妙な薬学知識だけ。
おかげでこの世界でも、あやしげな精力剤を作って細々と食いつないでいる。
だからこそ、こんな世界の終わりのような嵐の夜に、店の扉が叩かれるなんて思ってもみなかった。
ダンッ!!
強風に煽られたような、けれど確かな意思を感じる衝撃音。
築五十年のボロ家が悲鳴を上げ、天井から埃がパラパラと落ちてくる。
「……ひえっ」
私は調合中だった『精力増強剤・改(副作用:三日間笑いが止まらなくなる)』の鍋を、危うくひっくり返すところだった。
借金取りか? いや、今月分の家賃は、大家の腰痛を治す湿布で相殺したはず。
それとも、先日売った「絶対にモテる香水(成分:発情期のイノシシのフェロモン)」のクレームか?
私は心臓を早鐘のように鳴らしながら、護身用の鉄製おたまを構えて扉を開けた。
「ど、どなたです……か……?」
扉の向こうには、水神の怒りを買ったようなずぶ濡れの大男が立っていた。
王国の紋章が刻まれた白銀の甲冑は泥にまみれ、豪雨を吸った真紅のマントが重そうに垂れ下がっている。
(なっ……この方は……!? 供回りは? 馬は?)
私は反射的に背後の闇を探ったが、騎士団の影も形もない。
まさか、王城からここまで走ってきたのか?
フルプレート装備で?
張り付いた黒髪の隙間から覗く、獲物を狙う猛禽類のような眼光。
見間違えるはずもない。
彼は、王国最強と謳われる「氷の騎士団長」、グレイン・フォン・ベルンハルト様だ。
王都のパレードで、遠くから姿を拝んだことしかない、雲の上の存在。
けれど、新聞の騎士団特集は欠かさず切り抜いて、密かに眺めていた憧れの人。
まさか、こんな至近距離で拝顔できるなんて。
心臓が早鐘を打つ。
……でも、今はそれどころじゃない。
「グ、グレイン様!? どうされたのですか、こんな時間に!」
私は慌てて扉を大きく開けた。
彼は肩で荒い息をしながら、私を睨みつけた。
その目は充血し、こめかみの血管がブチ切れそうだ。
「……はぁ、はぁ、ぐぅ……ッ!」
彼は一歩、店内に踏み込んだ。
ドロドロのブーツが、私の店の床を汚す。
そして、彼は腹の底から内臓を吐き出すような勢いで叫んだ。
「き、貴様の顔など二度と見たくなかったが、反吐が出るほど嫌いだが、仕方なく来てやったぞォォォッ!!」
……は?
私はおたまを構えたまま固まった。
え、何? 新手の嫌がらせ?
台風並みの暴風雨の中、わざわざ嫌いな女の店まで、罵倒をデリバリーしに来たの?
さすが騎士団長様、体力の使い方が常軌を逸している。
長年の片思いという名の硝子のハートが、パリーンと音を立てて粉砕される音がした。
「そ、そうですか……。ご不快な思いをさせて申し訳ありません。では、お引き取りを……」
私が泣きそうな顔で扉を閉めようとした、その時だ。
バンッ!!
強風が扉を押し開け、よろめいたグレイン様が店内に雪崩れ込んできた。
彼は足をもつれさせ、私を巻き込むようにして壁際に倒れ込んだ。
逃げ場はない。
背中には壁。
目の前には、湯気が立つほど興奮している(ように見える)騎士団長。
彼は私の顔の横、壁のギリギリに手をついて身体を支えた。
いわゆる「壁ドン」。
でも、ロマンチックなそれとは違う。
彼は倒れまいと必死に壁を掴んでいて、その腕は生まれたての子鹿のようにプルプルと震えているのだ。
雨水と、錆びた鉄の匂い。
それから、濡れた犬のような、独特の野太い体臭が鼻腔をくすぐる。不思議と、不快ではなかった。
「ひっ……!」
殺される。
私が身を竦めた瞬間、彼の口が開いた。
「さっさと俺を追い出せ! 塩を撒け! 聖水をかけろ! 二度と来るなと罵ってくれぇぇぇ!」
言葉は拒絶。
言葉は罵倒。
なのに、彼の瞳は――熱に浮かされたように潤み、蕩けていた。
まるで、迷子が母親を見つけた時のような、切実で、縋るような瞳。
瞳孔が開いている。
極限状態の、恋する男の目だ。
「……グレイン、様?」
「俺に触るな! 汚らわしい! 雑菌がうつる!」
彼は叫びながら、もう片方の手で、私の手をそっと掬い上げた。
え?
触ってるじゃん。
しかも、ものすごく丁寧に。
彼のゴツゴツした手が、私の薬焼けした指先を包み込む。
剣ダコだらけの掌。
親指の付け根に、古い切り傷の痕があった。
白く引きつったその傷跡が、私の脈打つ血管の上に重なる。
硬い皮膚が擦れる感触はやすりのようで、けれど火傷しそうなほど熱くて、泣きたくなるほど繊細だった。
そのまま彼は、糸が切れたようにその場に崩れ落ち――跪いた。
汚れた床に膝をつき、私の手の甲に、熱い額を押し付ける。
まるで忠誠を誓う騎士のように。
「うぐぅぅぅ……ッ! 帰れ! 俺は帰るぞ! 今すぐ帰って寝るぞぉぉぉ!」
口では帰宅宣言。
体は完全なる求愛のポーズ。
彼の唇が、私の手の甲に触れた。
ちゅ、という湿った音が、静まり返った店内に響く。
あまりの事態に、私の頭は煮えすぎたジャムみたいにドロドロになった。
何これ。
新手のプレイ? 前世のネット小説で読んだ「ツンデレ」の進化系?
それとも、私が調合中のキノコ胞子を吸い込んでラリっているのか?
「ぐ、グレイン様……?」
「黙れ! 喋るな! その声を聞くと耳が腐るんだよ!」
(訳:愛しい声だ、もっと聞かせてくれ、名前を呼んでくれ)
彼は耳まで真っ赤にして、涙目で私を見上げている。
その顔を見て、私はようやく薬師としてのスイッチを強制的に入れた。
この異常な発汗量。
呼吸の乱れ。
そして何より、精神と肉体の完全な分離。
(……これ、呪いだわ)
しかも、特級レベルにタチが悪いやつ。
私はとりあえず、目の前でうずくまっている大型犬(騎士団長)の頭を撫でてみた。
髪が濡れていて冷たい。
でも、地肌は火のように熱い。
「……詳しくお話を聞かせていただけますか?」
「断る! 死んでも話すものか! 舌を噛み切ってやる!」
(訳:頼む、助けてくれ!)
彼は私の手のひらに頬をすり寄せ、ゴロゴロと喉を鳴らす勢いで甘えてきた。
口からは「呪い殺してやる!」という物騒な単語を垂れ流しながら。
◇◆◇
診断は三十秒で終わった。
異常な発汗、瞳孔の散大、そして言葉と本能の完全な乖離。
私の薬学知識と照らし合わせれば、該当する呪いは一つしかない。
『天邪鬼の呪い』
西の森に住む魔女が得意とする呪いで、本音を隠そうとするほど口からは逆の言葉が飛び出し、代わりに抑圧された本能が肉体を乗っ取って暴走する。
(まあ簡単に言うと『強制超ツンデレ化』よね)
「なるほど……。グレイン様、最近、西の森へ行かれましたね?」
「行ってないぞ! 魔獣討伐の帰りに変な婆に会っただけだ!」
(訳:行った。討伐後に呪われた)
「それにしても、よくこの店がわかりましたね。ここは看板も出していないような店なのに」
私が尋ねると、彼は顔を歪めながら、テーブルの上にあった『極上の湿布(肩こり特効)』を睨みつけた。
「ふん! こんなあやしげな店、知るか! 部下がここの湿布を持ってくるから、匂いが染み付いて吐き気がしていたんだ!」
(訳:部下が買ってくるこの湿布にいつも助けられていた! 君の薬のおかげで戦えたんだ! 製作者の君にずっと会ってみたかった!)
……なるほど。
うちの湿布のヘビーユーザーだったのか。
そして「一番助けてほしい」と思った時、無意識にその「癒やしの匂い」を辿って、ここまで来てしまったということか。
(それに、もしこの状態で城に戻り、王族や上司に暴言を吐いたら……反逆罪で処刑、良くても騎士団解散の危機だわ。だから本能的に、城を避けてここへ逃げ込んできたのもあるでしょうね)
生存本能レベルの嗅覚に、少し引く……いや、私を選んでくれたことは照れる。
グレイン様は店の奥の丸椅子に座り、腕を組んでそっぽを向いている。
だが、その足は貧乏ゆすりのように小刻みにリズムを刻み、なぜか私のエプロンの紐を指先で弄んでいる。
ちょいちょい、と引かれるたびに、腰元がくすぐったい。
離してほしい。
でも離そうとすると「触るな!」と叫びながら万力のような握力で握りしめるので、諦めた。
「解呪薬は作れます。……ですが、材料の煮込みに時間がかかります。通常なら半日かかりますが、特注の『魔導圧力釜』を使って一時間で仕上げましょう」
前世の記憶を頼りに設計図を描き、ドワーフの鍛冶師に土下座して作ってもらった文明の利器だ。
これさえあれば、数時間かかる煮込みも爆速で終わる。
「ふん! そんなもの待てるか! 俺は多忙なんだ! 一秒でも早くここから出たい!」
(訳:待つ! いくらでも待つから一緒にいさせてくれ!)
彼は立ち上がろうとして、自分の足に裏切られ、盛大に椅子ごと転倒しかけた。
ガタッ!
慌てて体勢を立て直し、何事もなかったかのようにふんぞり返る。
耳が茹でダコみたいに赤い。
「……わかりました。では、一時間だけお待ちください。お茶を入れますね」
私は彼を放置して、薬の調合に取り掛かることにした。
正直、心臓の鼓動がうるさすぎて、作業に集中できない。
憧れの騎士団長様が、私の店にいて、私のエプロンを握りしめている。
言葉はチンピラみたいだが、行動だけ見れば、完全に「構ってちゃんの彼氏」だ。
(落ち着け、エルダ。深呼吸だ。吸って、吐いて、平常心)
これは呪いのせい。
彼の本意じゃない。
私のことが好きなわけじゃなくて、ただ『本音と逆』が出ているだけ……。
……ん?
待て。
薬草を刻む手が止まる。
医学的には「本音と逆」だ。
ということは、「嫌いだ」と言っている今の状態は、本音は「好き」ということ?
わ、わたしを?
いやいやいや。
いくらなんでも、ないない。
私のこじらせた自己肯定感の低さが、その診断結果を全力で否定する。
そんな都合のいい解釈、三流恋愛小説の中だけだ。
きっと、「無関心」の逆で「過剰な敵対心」がバグって「過剰干渉」になっているとか、そういう魔術的なエラーなのだろう。
そうに違いない。
騎士団長様が、こんな貧乏で地味な薬屋の女を好いているはずがない。
私は自分にそう言い聞かせ、震える手でお茶を淹れた。
特売品の茶葉だ。
渋みが強くて、正直あまり美味しくない。
「どうぞ。粗茶ですが」
湯気の立つマグカップを差し出すと、グレイン様はひったくるようにそれを受け取った。
そして、ふーふーすることもなく一気に煽った。
喉が焼けるぞ。
「ガッ……! まっずい! なんだこれは! 泥水か! ゴブリンの足湯の味がするぞ!」
彼は顔をしかめて罵倒した。
表現が独特すぎる。
ゴブリンの足湯なんて飲んだことあるのか。
けれど、その手は空になったカップを大切そうに両手で包み込み、名残惜しそうに底を見つめている。
そして、おずおずと、空のカップを私に突き出した。
無言の「おかわり」要求。
「……まずいんですよね?」
「ああ! 内臓が腐りそうだ! こんな毒物は二度と飲みたくない!」
(訳:最高だ! 君が淹れた茶が飲めるなら内臓なんていらない! もっとくれ!)
……なんだこの生き物。
可愛いかよ。
私はポットのおかわりを注いであげた。
彼はそれを、聖杯でも見るようなうっとりした目で見つめ、今度はちびちびと、小動物のように飲み始めた。
強面の顔が、ふにゃりと緩んでいる。
さっきまでの鬼軍曹はどこへやら、完全に「休日のパパ」みたいな顔をしている。
外は嵐。
窓ガラスがガタガタと鳴っている。
ボロ家の隙間風が容赦なく吹き込み、店内は冷蔵庫みたいに冷え込んでいた。
私が小さくくしゃみをすると、グレイン様のアンテナが反応した。
「ふん、ざまあみろ! 貧弱な体だ! そのまま凍えて氷像になればいい! 見世物にしてやる!」
悪態と共に、バサッという重い音がした。
視界が真紅に染まる。
暖かくて、ずっしりと重い何かが、私の肩を包み込んだ。
グレイン様のマントだ。
最高級の羅紗生地。
彼の体温と、雨と、かすかなタバコの匂いが残っている。
「え……?」
振り返ろうとした瞬間、背中から衝撃が来た。
固い何かにぶつかる。
いや、抱きすくめられたのだ。
背後から。
彼の分厚い胸板が、私の背中にぴったりと張り付いている。
いつの間にか胸当てを外している。
確信犯だ。
「ぐ、グレイン様!?」
「離せ! 俺から離れろ! 近寄るなと言っているだろうが!」
(訳:寒いだろう、温めてやる、もっとこっちへ来い)
彼の剛腕が、私の腰に回る。
ギュッ、と締め付けられる。
内臓が出るかと思った。
苦しいほどの力強さ。
けれど、その腕は小刻みに震えていた。
必死に理性を繋ぎ止めようとしているのか、それとも本能のリミッターが外れて暴走しているのか。
ドクン、ドクン、ドクン。
背中越しに、彼の心臓の音が聞こえる。
早鐘のようだ。
私と同じくらい、いや、それ以上に激しく脈打っている。
私の耳元で、彼の荒い吐息がかかる。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「……臭い。お前からは、変な薬の匂いしかしない。……鼻が曲がりそうな悪臭だ」
彼はそう言いながら、私のうなじに顔を埋めた。
深く、深く、吸い込む音。
「スゥゥゥゥ……ッ」
変態だ。
どう取り繕っても、私の匂いを吸引してキマっている変態の所業だ。
でも、ちっとも嫌じゃない。
むしろ、腰から下がとろとろに溶けてしまいそうなほど、心地いい。
(……もしかして。本当に、もしかして)
言葉のほうが、全部嘘なの?
この温もりが、この震えが、この必死さが、彼の本音なの?
期待してしまう。
自惚れてしまいそうだ。
このまま時間が止まればいいのに、と不謹慎なことを願ってしまった。
◇◆◇
解呪薬の材料を煮込む一時間、店内の空気はカオスを極めていた。
マントは返そうとしたが、「捨てろ! 燃やせ!」と叫びながら結び目を固結びされたので、ありがたく着ている。
重い。
私は気を取り直して、仕上げの薬草を刻むことにした。
私は棚の奥の木箱から、滋養強壮に効く『鋼鉄芋』を取り出した。
岩のように硬い皮を持つ、下処理が面倒な食材だ。
渾身の力で包丁を振り下ろす。
ガンッ、ガンッ。
まな板を叩く音。
視線を感じる。
背後で、グレイン様がじっとこちらを見ている。
狭いキッチンの入り口に椅子を持ってきて陣取り、瞬きもせずに私の手元(というか私全体)を凝視しているのだ。
監視?
いや、鑑賞だ。
熱い。
視線が物理的に熱い。
レーザービームか何かか。背中が焦げそうだ。緊張で手元が狂う。
ガリッ……。
「……あ」
硬い皮で刃が滑り、勢い余って指先を少し切ってしまった。
ぷくり、と赤い血が滲む。
急いで洗わなければと思ったその時――
瞬きする間もなかった。
背後にいたはずのグレイン様が、目の前に瞬間移動していた。
戦場で見せるという、音速の踏み込み。
それをこんな狭いキッチンで使うな。
彼は私の手首をガシッと掴むと、血の滲む指先を凝視し、顔面蒼白になった。
「汚らわしい! そんな不潔な血を垂れ流すな! 店が腐るだろうが! 今すぐ俺が『処分』してやる!」
(訳:大丈夫か!? 痛くないか!? こんな綺麗な指に傷が……! 俺がすぐに治してやる!)
言うが早いか、彼は私の指を――なんの躊躇もなく、自分の口に含んだ。
「ひゃっ!?」
温かい口腔内。
ざらりとした舌の感触。吸われる感覚。
チュッ、ジュプ、という艶めかしい水音が、静かなキッチンに響く。
彼は汚れを吸い出すように、丁寧に私の指を舐め取り、血を拭った。
その必死な様子に、私は呆気にとられた。
ただの切り傷だ。唾をつけておけば治るレベルの。
なのに彼は、まるで私が死の淵にいるかのような顔をしている。
彼は名残惜しそうに口から指を離すと、潤んだ瞳で私を睨みつけた。
「ざまあみろ! 不注意な女め! そのまま指が腐り落ちればいい! 痛いか! もっと痛がれ! 泣き叫べ!」
(訳:すまない、俺が代わってやりたい、君の傷になるものは俺がすべて消し去ってやる!)
言っていることと、行動の献身さが乖離しすぎてバグっている。
彼はそのまま、私の指先に治癒魔法をかけた。
淡い光。
騎士団長クラスが使うような、高位の治癒魔法だ。
こんな紙で切ったようなカスリ傷に。
魔力の無駄遣いにも程がある。
光が収まると、傷は跡形もなく消えていた。
だが、彼は私の手を離さない。
それどころか、私の手を自分の頬に押し当て、すりすりと猫のように擦り付け始めた。
無精髭のジョリッとした感触が、掌をくすぐる。
「ぐ、グレイン様……?」
「汚い手だ! 薬品臭くて、ガサガサで、魔女の干物のような手だ!」
(訳:働き者の美しい手だ、ずっと触れていたい、この手が好きだ)
限界だった。
私の理性が。
そして、彼の理性(呪いの抑制)も。
彼は突然、私を抱き上げた。
「きゃっ!」
お姫様抱っこではない。
荷物を運ぶように、脇の下に手を入れられて軽々と持ち上げられ、そのまま近くの作業台に座らされた。
ドン、と尻をつく。
視線が同じ高さになる。
彼は私の開いた太ももの間に強引に体を割り込ませ、逃げられないように両手を台についた。
完全なロック。
密着。
彼の体温と鼓動が、服越しにダイレクトに伝わってくる。
顔が近い。
整った鼻筋、長い睫毛、そして苦悩に歪む唇。
その瞳の奥には、どす黒いほどの独占欲が渦巻いている。
「ふん、ざまあみろ! 貧弱な体だ! 不潔で埃っぽい店にいればそうもなる! まとめて消え失せろ!」
(訳:柔らかい、いい匂いがする、一生こうしていたい、離したくない)
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
ポタリ、と私の膝に落ちる。
それは、どうしようもないほどの愛おしさと、それを言葉にできないもどかしさが結晶化したような、綺麗な涙だった。
私は、震える手で彼の頬に触れた。
もう、疑いようがなかった。
卑屈な私の心も、認めざるを得ない。
彼は、私のことが好きなのだ。
それも、たぶん、私が彼を想うよりもずっと深く、重く、ドロドロとした湿度で。
「……団長様」
私は声を震わせながら、核心を突いた。
「もしかして、私のこと、好きなんですか?」
その瞬間。
グレイン様の顔が、沸騰した薬缶のように真っ赤になった。
耳まで、首筋まで、一瞬で朱に染まる。
彼は口をパクパクと金魚のように開閉させ、何かを言おうとして――呪いに阻まれ、喉を「ぐぎぎ」と鳴らした。
そして、暴発した。
「だ、だだだ、大嫌いだと言っているだろうがッ!!」
(訳:大好きだ愛してる結婚してくれッ!!)
絶叫。
屋根が吹き飛ぶかと思った。
と同時に、彼の顔が近づいてきた。
唇が塞がれる――かと思ったが、彼はギリギリで軌道を変えた。
私の首筋。
頸動脈の上。
そこに、噛み付くように、けれど慈しむように、唇を押し付けた。
「んっ……!」
甘い痺れが走る。
彼は何度も、何度も私の首筋にキスを落とした。
吸い付くような、跡を残すような、濃密なキス。
「嫌いだ……憎い……顔も見たくない……ッ!」
(訳:――――)
言葉にならなかった。
ただ、押し付けられる唇の熱さと、首筋を濡らす涙が、どんな言葉よりも雄弁に彼の本音を叫んでいた。
呪いのせいで言葉は歪んでいるけれど、私には彼の本当の声が聞こえる気がした。
私は彼の広い背中に腕を回し、優しく抱きしめ返した。
「……はい。私も、大嫌いですよ」
(訳:大好きです)
あまのじゃくな彼に合わせて、私も嘘をついた。
彼はビクリと体を震わせ、それから、肋骨が軋むほど強く、私を抱きしめた。
◇◆◇
一時間後。
解呪薬のスープが完成した。
鍋からは、薬草と少しのスパイシーな香りが漂っている。
私たちは狭いテーブルを挟んで、向かい合って座っていた。
グレイン様は、まだ私のエプロンの紐を握っている。
これを離すと爆発する爆弾でも持たされているのだろうか。
「……これを飲めば、呪いは解けます」
私はスープ皿を差し出した。
「飲んでください」
彼はスープを見つめた。
そして、ガタガタと震えながら叫んだ。
「よこせ! いますぐ飲んでやる! 一滴残らず飲み干して、さっさとこのふざけた状態からおさらばしてやる!」
言葉は「飲みたい」。
つまり、本音は「飲みたくない」。
その証拠に、彼の口は固く真一文字に引き結ばれていた。
スプーンを持とうとする手も、拒絶するように後ろへ引かれている。
本能が、全身全霊で「治る」ことを拒んでいるのだ。
「……グレイン様?」
「早く口に流し込め! 俺は元の俺に戻りたいんだ! お前のことなど一秒で忘れたいんだ!」
(訳:嫌だ! 治りたくない! 治ったら素直になれない! お前に触れる口実がなくなるのが怖いんだ!)
彼の目が、必死だった。
恐怖に染まっていた。
呪いが解ければ、彼はまた「氷の騎士団長」に戻らなければならない。
私に触れる理由も、抱きしめる言い訳も、全て失ってしまう。
それが怖いのだ。
なんて、愛おしい人なんだろう。
私はため息をつき、椅子から立ち上がった。
そして、彼の隣に移動し、スープ皿を手に取った。
「往生際が悪いですよ、団長様」
私はスプーンでスープをすくい、彼の口元に突きつけた。
「心配しないでください。呪いが解けても、私は貴方を追い出しませんから」
彼はハッと私を見た。
「それに、私……まだ貴方の本当の言葉を聞いていません」
私はにっこりと微笑んだ。
「貴方の口から、本当の気持ちを聞きたいんです。……それとも、一生私のことを『大嫌い』と言い続けるつもりですか?」
彼は息を呑んだ。
そして、葛藤に歪んだ顔で、スプーンを持つ私の手首をガシッと掴んだ。
「くっ……! 飲め! 俺の腕よ、言うことを聞け! 俺は早くこの不愉快な女の前から消えたいんだ!」
(訳:信じていいのか? ……わかった、お前のために飲む!)
彼は覚悟を決めたように見えた。
だが、駄目だ。
彼の手が、恐怖と緊張でガタガタと震えすぎている。
それに、肝心の口が、無意識の拒絶反応で貝のように閉ざされたままだ。
本人が飲もうとしても、体が全力で「嫌だ」と叫んでいる。
これじゃあ、スプーンで飲ませるなんて不可能だ。
こじ開けるには、物理的な干渉が必要だ。
でも、腐っても王国最強の騎士。無意識に食いしばった顎は、万力のように固くてビクともしない。
私の腕力でこじ開けるのは不可能だ。
……もう、これしかない。
相手がひるんだ隙に、流し込む。
私はスプーンを自分の口元へ運び、解呪薬を口に含む。
そして、彼のネクタイをぐいっと引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねた。
「――んっ!?」
強引に唇を割り入らせる。
驚きで力が緩んだ隙をついて、苦い薬を彼の口内へと流し込んだ。
コクン、と喉が鳴る音が重なった。
カッ、と彼の体が淡い光に包まれた。
まとわりついていた淀んだ魔力が、霧散していく感覚。
呪いが、解けたのだ。
静寂が訪れた。
嵐はいつの間にか止んで、窓の外には月が出ている。
グレイン様は呆然と自分の手を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。
正気に戻ったのだ。
そして、この数時間の自分の狼藉――
私を罵倒しながら抱きしめ、指を舐め回し、首筋に痕が残るほどキスをし、求婚に近い暴言を吐き散らかしたこと――
その全てが走馬灯のように脳内を駆け巡ったのだろう。
彼の顔色が、青から赤、そして土気色へと目まぐるしく変化した。
「あ……、あ……」
彼は震える手で顔を覆った。
騎士団長としての威厳とプライドが、ガラガラと崩れ去っていく音が聞こえるようだ。
「申し訳ない……! 俺は、なんて無礼な真似を……! セクハラどころではない……! 今すぐ腹を切って詫びるしか……!」
彼は本気で腰の剣に手をかけた。
私は慌ててその手を止めた。
「待ってください! やめて! 私の店を事故物件にしないで!」
「だが、貴様を……いや、エルダ殿を、あんな風に辱めて……」
彼は苦渋に満ちた表情で、私を見た。
けれど。
その瞳の奥にある熱は、呪いが解けても消えてはいなかった。
むしろ、行き場を失った熱情が、今にも溢れ出しそうになっていた。
彼は深呼吸をし、震えを無理やり止めた。
そして、椅子から立ち上がり、改めて私の前に跪いた。
今度は、呪いによる強制ではない。
彼自身の意思だ。
「……呪いは解けた。だから、これは俺の、混じりっけなしの、正真正銘の言葉だ」
彼の声は、掠れていた。
戦場では決して見せないであろう、弱々しく、けれど誠実な声。
「すまなかった。……ずっと、お前のことが好きだった」
真っ直ぐな言葉。
天邪鬼な罵倒ではない、心からの告白。
もう、私の脳内に、あの翻訳文字は浮かばない。
彼の言葉そのものが、温かい熱を持って私に届く。
「お前の作る薬に、俺はずっと救われてきた。部下に買いに行かせた湿布がなければ、俺はとっくに引退していただろう。お前は俺の……いや、騎士団の恩人だ」
彼は私の手を取り、そっと、壊れ物に触れるように握りしめた。
手汗がすごい。
でも、それが愛おしい。
「だが、もう隠せない。……エルダ。愛している。身分差など関係ない。王命だろうがなんだろうが、俺の辞表と引き換えにしてでもねじ伏せてみせる。だから……っ!」
彼は酸欠になりそうなほど顔を真っ赤にして、言葉を絞り出した。
「俺と……結婚してくれないか」
最後の言葉は、消え入りそうだった。
断られるのを覚悟している、捨て身の特攻。
私は涙が溢れるのを止められなかった。
長年の片思いが、今、報われたのだ。
私は鼻水をすすりながら、泣き笑いの顔で彼の手を握り返した。
「……知ってましたよ」
「え?」
「だって、貴方の身体は、あんなに正直でしたから」
彼は一瞬きょとんとし、それから、意味を理解して耳まで真っ赤にして俯いた。
「うぐぅ……一生の不覚だ……」
「ふふっ。……私も、ずっと好きでした。グレイン様」
私がそう告げると、彼は弾かれたように顔を上げた。
その表情が、パァッと輝く。
雨上がりの空のように、晴れやかで、眩しい笑顔。
「ほ、本当か……?」
「はい。……不器用で、素直じゃなくて、でも誰よりも優しい貴方が、大好きです」
彼は感極まったように立ち上がり、私を抱きしめた。
今度は痛いほど強く。
そして、迷いなく私の唇を奪った。
苦い薬の味と、雨の匂いと、あふれんばかりの不器用な愛の味がした。
◇◆◇
それから数日後。
王都の路地裏にある薬屋には、見慣れない光景が広がっていた。
まず、入り口の扉が「マホガニー製の最高級防音ドア」に変わっている。
店内の棚も、ピカピカの新品だ。
すべて、「詫び料だ! 受け取らないと首を吊る!」と騒いだ騎士団長様のポケットマネーである。
おかげで店は見違えるように綺麗になったが、もっと異質なのは――
「エルダ! その重い棚卸しは俺がやる! お前は座って茶でも飲んでいろ!」
「いえ、これくらい自分で……」
「駄目だ! 指を切ったらどうする! ささくれができたらどうする! 俺がやる!」
非番の騎士団長様が、フリル付きのエプロン(サイズが合っていない)をつけて、店内を甲斐甲斐しく走り回っているのだ。
その顔は、以前のような眉間の皺もなく、だらしないほどに緩んでいる。
カランコロン。
ドアベルが鳴り、常連客が入ってきた。
「あ、グレイン様。お客さんが来ましたよ」
「ちっ、邪魔が入ったか……。おい、今日は閉店だ! 帰れ!」
「こらっ! 営業妨害しないでください!」
私がポカッと背中を叩くと、彼はシュンと肩を落とし、「すまん……お前と二人きりになりたくて……」とボソリと呟く。
「口を動かすなら手を動かしてください! お客さんは大切に! それと、ほら、袋詰め!」
「うぐぅ……御意」
素直になりすぎだ。
呪いの反動だろうか、最近の彼は愛の言葉を垂れ流す暴走機関車と化していた。
ちなみに、私たちの結婚話は、彼が本当に「辞表」を国王陛下の机に叩きつけてごねた結果、あっさりと許可が降りたらしい。
陛下曰く、「あの堅物のグレインを骨抜きにする薬師か。暴走した彼を止められるのは世界でそなたしかおらん。猛獣使いとして、国の安全保障のために管理を任せる」とのことだ。
まったく、人聞きの悪い。
「これじゃあ、呪われていた時とあまり変わりませんね」
私が苦笑すると、彼は拗ねたように私を後ろから抱きしめた。
客が見ている前で。
「うるさい。……愛してるぞ、エルダ」
耳元で囁かれる甘い言葉に、私は顔を真っ赤にして降参した。
天邪鬼な騎士団長様は、今では王都一の重篤な愛妻家(予定)として、今日も元気に私に求婚してくるのだった。
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