第三話 海と花畑
あれから数ヶ月が経ち、気温は低く冷え込む時期になっていた。私達は丘にある天然の花畑へと足を運んでいた。
そこからずっと遠くに視線を下ろすと、大きな海が広がっているのも見えるようなところだった。
朝倉さんは充分に運動することも難しくなっていた。激しい運動でなければまだまだできるらしいが、ここに来るのは今日が最後になるだろう。
それでも彼女はずっと楽しそうにしていた。あるとき彼女は遠くの海を眺めて話し始めた。
「私、海が好きなんだ。冷たいし、気持ち良いし。何より海を見てると私の悩みはちっぽけなものなんだなって気が楽になるし」
彼女の悩みは決して小さなものではないだろうにと思いつつ私は口を挟まなかった。彼女が幸せならそれでいい。私の言葉でわざわざつまらなくする必要はない。
「矢田くんは?」
「嫌いというわけでもないけど、好きってわけでもないよ。変にベタベタするしクラゲには刺されるし、プールでいいじゃんっていつも思ってる」
「分かってないな、矢田くんは。分かってないよ。……全然分かってない」
「納得のいく反論が思いつかないんだね」
とはいえ私も海を眺めるという点においては好きという気持ちもある。綺麗な海ならもちろんのこと、塵の浮いた汚い海でもそれはそれである種の風情を感じる。だから私は海も嫌いではない。
「今度は海に行かない?」
「もう冬になるよ」
「入らないって」
「だったら毎日見てるでしょ」
「アレ漁港じゃん」
私達の学校は海に近い。そのため登下校するときは毎回海を眺めることになっていた。ただそれは人の手が加わったものだから自然の景色を見たいというのが彼女の思いなのだろう。
「私実はさ、荒れた海っていうのも見てみたいんだよね。身長よりもずっと高い波をこの目でさ」
「興味で死んじゃ馬鹿馬鹿しいにも程があるよ。どこまでもついて行くとは言ったけど、それは許可しない」
「分かってるって。流石にそんな馬鹿じゃないよ。ただ興味があるってだけでそこ止まり」
私と彼女は並んで芝生に寝転んだ。空は海よりも広い。海よりもどこまでも広がっている。それなのに海を眺めるのが好きという人がいても、空を眺めるのが好きという人は少ない気がするのはなぜだろう。
「夏になったら少しだけ、どこか泳ぎに行ってみようか?」
「……私泳ぐの苦手なんだよね」
「朝倉さんに苦手なことがあるとは意外だよ」
「君は私のことを何だと思ってるんだ」
なら海に行くのはやめようか。……先のことばかり気にしないで、今日は今日を楽しもう。彼女だって今日という日を楽しみにしていて、楽しんでいるのだから。
「今日は楽しかったよ。ありがとうね」
日がすっかり暮れ、私は彼女を家まで送っていった。ありがとうとは言われたが、私は感謝されるようなことは何もしてはいない。私だって楽しめたのだから。
「構わないよ。また明日」
「うん。またね」
彼女と別れ、私はすぐに家に帰った。私は彼女との思い出を全て日記に残すことが日課になっていた。
それはいつまでも彼女のことを、彼女とのことを忘れないためだ。いつでも思い出せるように、いつまでも色褪せないように。
できることならこんな日課のない人生を送りたかった。いつまでも彼女には私の近くで笑っていて欲しかった。けれど現実は甘くない。私はこのときもその現実を受け入れたくはなかった。いつまでも受け入れたくはなかった。




