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逃げ癖の達人

作者: 霜月希侑

 私は、悪夢から逃れるようにして、屋上へ上がった。

 風は冷たく、潮の匂いを孕んでいた。海は見えない。街灯の群れが、闇を薄く溶かしているだけだ。それでも彼女は、潮騒を聞いた。遠い、遠い波の音。かつて、患者の鼓動を聴いたときと同じリズムで、心臓が疼いた。


「逃げた」

 誰かが言った。

「逃げ癖だ」

「うつ病になったくせに、心は壊れてないのか」

「まだ壊れなきゃ、世間は許してくれないのか」

 見えない誰かの声が私を追い詰めた。


 私は、屋上のフェンスに両手を置いた。指先が震える。震えは、寒さではない。震えは、記憶だ。

あの病室で、患者が「助けて」と呟いたとき。

文献を読み漁り、先生に問い、休日も患者さんのことを考え続けたとき。

 どんなに足掻いても何も変わらなかったとき。

「受け止めることしかできない」と悟ったとき。

 その無力さが、胸の奥に錆びついたまま、夜ごと夢に現れる。

怒鳴られる。怒らせる。無能だと告げられる。

目覚めると、いつも枕は濡れていた。

「看護師だから笑顔でいなきゃ」

 そう自分に言い聞かせて、また笑った。

笑顔の裏で、心は少しずつ削れていった。


退職届を提出した日、上司は言った。

「自己管理ができないのは、看護師失格だ」

親も同じだった。

「看護師のくせにメンタル病むなんて、あり得ない」

 私は、静かにうなずいた。

「その通りです」と。

でも、心の奥で、別の声が囁いた。

「でも、私は壊れる前に、離れた」

「壊れる前に、生き延びた」


 それから、どれだけの月日が流れただろう。

メンタルクリニックに通い、薬を飲み、カウンセリングを受けた。

「復帰しなきゃ」

「復帰してない」

「復帰してない自分は、ダメなんじゃないか」

焦りが、胸を締めつけた。

リワークの話も耳にした。

でも、時間がない。

いや、時間を作るのが怖かった。

「また壊れるかもしれない」

「また逃げるかもしれない」

そんな恐怖が、足を縛った。


だから、転職した。

新しい病院。新しい病棟。新しい顔ぶれ。

まだ、一歩も踏み出していない。


「これで、また逃げ癖だと言われる」

「これで、また心が壊れると言われる」

でも、前に進むことを決めた。

「私は、壊れる前に立ち止まった」

「私は、壊れる前に自分を救った」

そう、自分に言い聞かせた。


屋上の風が、髪を乱す。

私は、目を閉じた。

波の音が、確かに聞こえる。

遠く、遠く、波が寄せては返す。

患者の鼓動。

自分の鼓動。

同じリズム。

「私は、まだ看護師だ」

「休んでる看護師」

「自分を治してる看護師」


フェンスから手を離す。

震えは、もうない。

「復帰してない」

それで、いい。

「復帰してない自分」を、胸を張って言える。

それが、今の千歳海だ。


風が、頬を撫でる。

潮騒が、優しく包む。

「いつか、また患者さんのそばに立ちたい」

その気持ちが、胸の奥で灯る。

まだ、小さな灯だ。

でも、消えてはいない。

私は、屋上を後にした。

階段を下りる足取りは、ゆっくりだった。

でも、確かだった。


波の音は、背中に寄り添うように、

ずっと、ずっと、響いていた。


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