LV4
午前の光が団地の窓から差し込み、古びた畳の上に淡い影を落としていた。
電気ケトルの音と、安い炊飯器の「ピー」という電子音。
神原零士は、米の分量を間違えたことを悟る。鍋の中は粥に近い。
ため息をひとつ。
流し台の横には、ドラッグストアで買ったばかりの味噌と豆腐。包丁を持つ手は、殴られた痕がまだ疼いて震えている。
湯気の向こうに母の姿。車椅子に腰掛け、白髪を後ろで束ね、分厚い眼鏡の奥の瞳はどこか遠くを見ていた。やせ細った肩。声をかけても返事はなく、ただ小さな頷きがあるだけだった。
「……食べられる分だけでいいから」
零士が盆を差し出すと、女性はゆっくり顔を向けた。
塩加減を読み違えた味噌汁を一口飲み、眉がかすかに寄る。
零士は慌てて湯を椀に注ぎ足した。
――この人は本当に自分の母なのか。
零士には中学の頃までの記憶が、靄に覆われているように欠落していた。
母と過ごしたはずの幼少期の顔や声、抱きしめられた温もり。どれも思い出そうとすれば霞んで消える。
その疑念は日に日に強まっていった。
それでも。
扉を開けば待ってくれている誰かがいる。
目を上げれば、誰かがそこに座っている。
天涯孤独で生きてきた零士には、その事実だけで胸を満たす何かがあった。疑念よりも、家族を得た喜びの方が大きかった。
ある日、蓮と並んで団地の坂を下りながら、零士は吐き出すように言った。
「なぁ……俺、中学までの記憶がねぇんだ。母ちゃんの顔も声も、はっきり浮かばない。普通、そんなもんか?実はあの人が俺の母ちゃんかどうかも思い出せねえ」
蓮は煙草を咥えたまま黙って歩いた。やがて灰を落としながら答える。
「ふん、まあ普通とちゃうな。……でも、俺に言えることは少ない。俺の姉ちゃんに聞くか、病院行くかやな」
その後も零士は、なじみの日雇いの土方や古い知り合いに遠回しに尋ねた。だが返ってくるのは曖昧な言葉ばかりで、「思い出したくもねー」と一蹴される事もあった。しかし思い出として存在するなら、俺よりはマシだと零士は思った。
その後もなんとなく周囲を当たったが霧が晴れることはなかった。
病院に行くことも考えたが、保険証も持ってないのに行けるわけがない、それと、真実を知るのが怖かったのかもしれない だから行かないでいた。
◆
数日後の午後。
団地の部屋に戻った零士を、蓮が険しい顔で待っていた。
「……高瀬のおっさんが死によった」
零士は言葉を失った。中学から何度も問題を起こし、その度に世話になった――。
高瀬を困らせてやろうとすら思っていた。大人で人として見てくれたのは高瀬だけだった。
宿なしとなった中学生の自分に安アパートを見つけ、アルバイトも工面してくれた。
他の中学に一人で乗り込み、数人を病院送りにした時も、拳骨をもらい、赤い顔して本気で叱ってくれた。嬉しかった。
しかしいつしか零士は周囲から鼻つまみ者として扱われた。
それでも変わらず接してくれた。
「河川敷で見つかったらしい。事故か自殺ちゃうかって警察は言うてるみたいや」
「おやじ…高瀬のおっさん……嘘だろ」
零士の声は低く震えた。
高瀬刑事がそんな死に方をする人間じゃないことを、誰よりも知っていた。
町では「遺書がポケットに入ってた」と噂されていた。だが蓮は吐き捨てるように言った。
「筆跡が妙やったって話もある。誰かにやられたんかもしれん。警察やし、恨みを買ってるとかな。」
零士の胸に、ぽっかり大きな穴があいた。
母を失い、居場所を失い、ただ暴れることでしか生きられなかった過去。
やっと小さな居場所を得た今、社会から消えそうなゴミ屑のような自分を繋ぎ止めてくれた唯一の大人が死んだ。
――何かがおかしい 何が起こってる?
零士の直感が自分の周囲で起こる些細な事に異変を感じていた。
そして零士の中でかつての衝動的なものではなく、理由を持った怒りの炎が、静かに大きくなっていった。




