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LV3

甲高いベルの音で、零士は目を覚ました。

 自転車のタイヤがアスファルトを擦る音、革靴のコツコツという足音、制服姿の学生たちの笑い声。

 世界はもうとっくに動き出している――。

 自分だけがゴミ置き場の中に取り残されていた。

 

 飛行機がビルの合間に狭い空を横切っていった。

 零士はまぶしさで細目を開けながら鼻を刺す腐臭の中、体を起こす。

 「……ん?」 何かの違和感を覚えた。

 頬に貼られた絆創膏、頭と脇腹には包帯が巻かれていた。

 自分でやった覚えはない。

 誰かが手当てしていったのだ。

 だが人影はなく、薬の匂いとわずかな違和感だけが残されていた。


 「……誰なんだよ チッ…」


 零士は苦々しく顔を歪め、乱れた息を吐き出した。

 立ち上がり、よろよろと自宅アパートに向かって歩き出した。



 数日後の午前。

 久遠蓮に呼び出された零士は、汐路駅のホームに立っていた。

 「……一体どこに行くんだよ、なんか言えよ。 いきなりよ」

 不機嫌な声を投げる零士に、蓮は淡々と答える。

 「お前に会いたいって人がおる」


 「は? 俺に?」

 零士は鼻で笑った。


 蓮の目は真剣だった。

 「……お前の母親や」


 胸の奥に、重い鉄塊を叩き込まれたような衝撃が走った。

 「は!? ふざけるな。……死んだはずだ。中学の時にいきなり消えて… 今更会いたいだと!?」

 拳が震える。怒りがこみ上げ、吐き出される。

 「生きてたなら、なんで俺を探しに来なかったんだ!」


 蓮は視線を逸らさずに言った。

 「高瀬のおっさんや。刑事の。昨日急に俺んとこ来て教えてくれたんや……で、お前の母ちゃんな、今は潮田の団地にいるらしい。記憶を失って、車椅子で暮らしてるっちゅう話や」


 零士は言葉を失った。そして色々な感情が渦を巻いて口から飛び出そうなのをこらえた。


 無言の二人を乗せた各停電車は揺れながら沿線を進んだ。

 朝のラッシュが過ぎ、車内は空いている。

 窓の外には色あせた商店街、潰れたパチンコ屋、シャッターの下りた店ばかりが続く。

 零士は一言も話さず、額を窓に預けた。


 やがて潮田駅に到着した。

 駅前は閑散として、かつて賑わっていたであろう看板が色褪せて残っている。

 そこから坂を上がる。

 ひび割れたコンクリートの階段、錆びた手すり。

 買い物袋を提げた老人とすれ違う。

 洗濯物が風に揺れるが、人の気配は少ない。


 「……」

 零士は唇を噛んだ。


 坂を登りきると、灰色の団地群が視界に広がった。

 古びた壁、薄暗い窓、雑草に覆われた中庭。

 時代に取り残されたような風景だった。

 

 その部屋は1階にあった。

 段差には手作りのスロープが渡してあった。車いすで移動できるようにだろう。

 「すいませーん」蓮がドアをノックすると、中から声が聞こえた。

 「はい 入ってください。鍵は開いてますから。」

 中から女性の声がした。

 蓮が玄関の鉄の扉をゆっくり開ける。

 そこにいたのは――白髪を後ろで束ね、分厚い眼鏡をかけた女性。

 細い肩、やつれた顔。車椅子に身を預けていた。

 部屋の中は殺風景で、最低限の家具と古いストーブだけ。

 ただ清潔に保たれているのは、誰かが世話をしているからだろうか。


 零士の胸に、重く鈍い痛みが走る。

 怒りとも、安堵ともつかない感情。


 「…母さんか?」


 女は顔を上げ、虚ろな瞳を震わせた。

 「……ごめんね わからないんです」


 零士の喉が詰まった。

 怒鳴りつけるはずだった言葉は消え、胸の奥に絡まってほどけない。

 零士はただ母の姿を見つめていた。

 怒りも戸惑いも胸の奥に渦を巻いたまま、何も言葉にならない。

 女は白髪を揺らし、虚ろな瞳でただ微笑もうとしていた。


 その時、背後でドアが開く音がした。

 振り返ると、地味なスーツ姿の女性が小さな鞄を提げて入ってきた。

 年配の介護職員のようだった。


 「あら、ちょうど来てくださってたんですね」

 女性は微笑みながら母の肩にそっと手を置く。

 「今日は少し調子が良さそうですね」


 母は頷くように視線を落とし、再び虚空を見つめた。


 女性は零士と蓮に気づき、声を潜めて言った。

 「少し、お時間いただけますか」


 三人は部屋の隅に移動した。

 女性は資料を取り出し、小さな声で続けた。


 「……実は、この団地での介護契約が今日まででして。ご本人にはお伝えしていません。延長の手続きがされていないんです」


 零士は眉をひそめた。

 「どういうことだよ。契約が切れたらどうなるんだ」


 女性は気まずそうに視線を落とした。

 「次の施設が見つからない限り、ここでの介助はできなくなります。今後については、身寄りの方が……」


 言葉は途中で途切れた。

 零士の胸の奥に、冷たい鉄の棒を押し込まれたような感覚が走った。

 母の車椅子に映るやつれた横顔が、より一層重くのしかかって見えた。

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