8:決行
その後も、王城のお茶会には何度か参加した。
これは、魚釣りで言うなら、獲物が針にしっかり食いついたか、じっくりと見極める期間だ。
はっきりと確認できた訳ではないが、王城内にいる時、庭の低木や木々が不自然に揺れるところをしばしば見る。城内で大型の生き物を放し飼いにしているのでなければ、紫紺の瞳を持つあの王子だろう。
(放し飼いの王子? それとも野生の王子、と言うべきかしら)
敵は生まれた時からこの城を生息域としており、あらゆる抜け道に通じているようだ。側近達が、王子を探し回っている姿を何度も見かけた。彼はおそらく、誰にも見つからずに城外へ出る方法も知っている。馬車に乗った帰路、王城を取り囲む緑地帯を抜けるまでに、一瞬だけ私に姿を見せることがあった。
「振り返らずに、聞いてください、お姉様」
ある日の帰り、私は馬車の停車場に着いたところで、姉のエロイーズに言った。
「先日お目に掛かったマクシミリアン第一王子殿下が、私達の後ろをこっそりと着いて来ているようです」
「まあ」
エロイーズは、叔母に借りた本をしきりにひっくり返したり、めくってみたりしていたが、ぱっと顔を上げて私を見た。
「また抜け出して来られたのね」
「実は、前回も同じ事がありました。私にお話があるのではないかと思うのです」
ここまでは、嘘は言っていない。
「あら、じゃあ先に馬車に乗って、待っていますね」
姉の提案は、ごく当たり前のものだったが、私は首を振った。
「あの王子様のことですから、お話しするのに時間がかかると思うのです。お姉様、お借りした本を早く読みたいのでしょう? 先に帰っていてください」
王城の門を出てから公爵邸までは、歩いてほんの十分ほどだった。
馬車を使っているのは、安全上の理由からだ。
「遅くなったら、ザイオンお兄様に送っていただきます」
そう言うと、姉は納得した顔になった。
「そうね。それならいいわ」
私は、馬車に積んであった包みを引っ張り出した。来る時には、お尻の下に敷いていたものだ。
「王子殿下にお渡ししようと思って用意していたものです」
というのは嘘だったが、エロイーズはプレゼントだと思ったようだ。
「喜んでもらえるといいわね」
そう言って、姉は微笑んだ。
嘘を吐いたことに、少し胸を痛めながら、私は去って行く馬車に手を振る。
優しい姉。それから、叔母、他の家族、みんなを守るため、そして私自身が生き延びるために、私は今日、計画を決行する。
私は包みを手に、歩き出した。
王城の門番は、入ってくる者には厳しいが、出ていく者には緩い。
ましてや子どもなので、特に荷物を検査される事もなく、外に出る事ができた。
王城の周囲は、緑地帯になっている。
昔、戦争があった時代には、城の周囲には深い堀があって、敵が簡単には入ってこられないようにしていたという。平和な時代には要らないものなので、埋め立てられて、公園になった。
私は公爵家の方向には行かず、緑地帯に沿って歩いた。
整備された公園ではあるが、城内のように綺麗に刈り込んではいない。
私は後ろを振り返った。
茂った低木の向こうに、何かが動いている。こちらを睨み付けているのは、猿ぐらいの大きさの生物だ。どうやって城を出たのかは推測するしかないが、おそらくは城壁をボルダリングのように乗り越えるチートスキルを持っているのだろう。
私は緑地帯にある、人目に付きにくい木陰に引っ込んだ。
ドレスをさっと脱いで、木のなるべく上の枝にひっかけておく。子供用なので、脱ぎ着は楽だ。
ドレスの下には、古着を付けていた。舞台の早変わりと同じ要領で、着替えたのだった。
背中まであった髪は、その日、侍女に頼んでしっかりと編み込んでもらっている。多少激しく動いても、解ける事は無い。
靴は、元々子供用の歩きやすいものなのでそのまま履いている。
ポーチをベルトのように装着し、武器を引っかけて、木陰から出た。
ぐるりと周囲を見回すと、さっきよりも近い茂みの向こうに、こちらを窺っている紫紺の瞳を見つけた。
ドレスが臙脂色のワンピースに突然替わったので、その瞳に、戸惑っているような色が浮かんでいる。
私は指で下瞼を引き下げ、舌を思い切り下に突き出して、ふざけた変顔を見せつけると、身を翻して彼とは反対の方向へ走り出した。
振り切れるとは思っていなかった。
相手は猿のような、野生の王子だ。
ただ、できるだけ城から引き離したかった。
緑地帯を抜け、市街地へ入る。
市場のある方角から、荷物を抱えた買い物帰りの人が歩いてくる。
避けながら、すぐそばを走り抜けた。
馬車の通る道以外は、道幅はそれほど広くない。
時々ぶつかってしまって、謝りながら、先を急いだ。
走りながら、後ろを振り返って確認する。
市街地では、木々や低木が少ない。
アッシュブロンドの髪の男の子は、隠れるのを諦めたようだった。
目が合うと、睨み付けてくる。
今日は服を着ていた。
おそらく、剣術を習う時用の訓練服だ。
ただし、靴を履いていない。木を上る時は、素足の方が良いのだろう。
だが、市街地を走るには不利なようで、彼は少しスピードを落としている。
追いつかれる寸前、私は方向転換して、脇道に入る。
勢いづいて、通り過ぎた王子が、すぐにとって返し、追いついてくる。
彼はフェイントに弱いようだった。
このパターンを何度か繰り返す。
意識して、なるべく細い、人の少ない道を選んだので、彼がようやく私の腕を掴んで無理矢理に足止めした時には、辺りには誰もいなかった。
「お前は、だめな奴だ!」
王子が、息を切らしながら言った第一声がそれだった。
「はあぁ?」
私も息が切れている。
「いきなり、人格否定?」
「お前は、弟じゃないだろう!」
マクシミリアン王子はじれったそうに言う。
「ええ、違うわね」
女の子ですもの。
「だから! 呼ぶのはいけないんだ」
怒りを滲ませながら、王子は言う。
「呼ぶのはだめ!」
素足で、地面を踏みならす。
「ああ。ザイオンのこと?」
「そう!」
「弟じゃないから、ザイオンを兄と呼んではだめ、ということなのね」
「そう。だめだ!」
「でも私は妹で、ザイオンはお兄様なの」
「いもうと?」
「男の子は弟、女の子は妹」
悲しそうに曇っていく、紫紺の瞳を見返した。
両親に疎まれて育ったこの子には、ザイオンが全てなのだろう。
心が痛んだ。
相手は、十三歳の子どもだ。
私は、この世界ではまだ十歳だけれど、前世で三十年ほど過ごしたから、合計で四十歳は超している。
年の差を考えると、大人げなかったような気がしてくる。
「わかった。これからは、ザイオンとだけ呼ぶわ。それでいい?」
マクシミリアン王子は頷いたが、私の腕をまだ放そうとしない。
「いっしょのおうちもだめだ!」
「一緒に住んではだめなの?」
「……そうだ」
「それは、ザイオンに頼んでくれる?」
もうそんな機会は、ないかも知れないけれど。
傷ついたような色が、彼の瞳に浮かぶ。
「ザイオンは、もう僕とは寝ないっていうんだ」
つまりザイオンは、最近まで、十三歳のこの子に添い寝してたっていうことかしら。それはいくら何でも、甘やかし過ぎよね。
「お母さんと一緒に寝るのは、赤ちゃんだけよ」
しかも、西洋風のこの世界では、赤ん坊はベビーベッドに寝かせる。日本のように、添い寝する習慣は無い。
「ザイオンは、お母さんじゃない」
「そうよ。だから、あなたと一緒に寝たりしないの。それにあなたも赤ちゃんじゃないから、一人で寝なきゃだめ」
こんな会話に、何の意味があるのか。
ただの時間稼ぎなのに、私は何を言っているんだ。
目を怒らせて、彼は言う。
「僕は、一人だとお化けが出る!」
「出ないよ。何言ってるの」
「出るよ! くらいところに、かくれてる」
「お化けなんて私、見た事ないから信じないわ」
誰もいなかった道に、急に人の気配がした。
一人二人ではなく、道の両側から、数人の男達がやってくる。
彼らは明らかに、王子の方を見ていた。
「居るか居ないかわからないお化けより、人間の方が怖いのよ」
そう諭すように言う。
この無意味な会話も、ここで終わりだ。
マクシミリアン王子は、命を狙われる立場だ。
彼がいなくなれば、王位継承権は第二王子が一位となる。第二王子を溺愛している王妃を始め、マクシミリアン王子の死を望んでいる貴族は少なくない。
護衛に守られた城からマクシミリアン王子を引き離せば、私がわざわざ殺さなくても、自動的に暗殺者の手に掛かるだろう。
単純だけれど、私にとっては一番楽な方法だった。
私はほっとする。
これ以上彼と話していると、死なせたくないと思ってしまいそうだったから。
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