13:色の無い世界で
声に驚いて振り返るよりも早く、男が私の側をすり抜けた。
ガラスの割れる音と共に破片が飛び散る。
男が振り下ろした剣を、王子がカンテラで受け止めていた。
間髪を入れずに二度三度と剣が振り下ろされ、足場の悪い岩場で、マクシミリアン王子は、辛うじて躱し続けた。
私は、自分の失態に気づいて呆然とする。
敵を最少人数で見積もってしまった。見張り役は二人『以上』いたのではないかと、三人目、四人目についての可能性も認識していたのだ。それなのに、居ないで欲しいという願望に負けて、無意識に考える事を避けた。
(のんびりとお化けの話なんてしていないで、さっさと移動するべきだったのに)
男は年配で、身体の動きにスピードこそ無いが、右から左へ、左から右へと、剣の振りをその都度大きく変化させた。王子は、時々不安定な足下に体勢を崩しながら、必死に逃げ回る。
球技で、相手を左右に大きく移動させるように球を打つのと同じだ。このままだといつか、子どもである王子の体力が先に尽きて、避けきれない時がくる。
私はポーチから、石灰の入った小袋を出した。
「なるほど、殿下には、才能がおありのようだ」
なかなか仕留められない事が意外だったのか、ふいに手を止めて男は言った。
「私は今日、部下を全員失った。もし、私と一緒に来てくださるのなら、殺すのは諦めて、優秀な暗殺者に育ててさしあげよう。いかがかな?」
返事の代わりに、王子はカンテラを投げつけた。
それを男が剣で払っている間に、マクシミリアン王子は剣を抜いた。
男が振りかぶり、王子が剣で弾く。
再び右へ左へと、翻弄するような攻撃が始まる。
打ち下ろされる刃を、王子は長剣で防ぎ続けた。
カンテラで受けたり、ただ躱すよりは動きが安定したが、マクシミリアン王子は真剣の重さに振り回されているよう見える。
おそらく彼はまだ、大人用の剣を使いこなせるほどの訓練はしていないのだろう。
(でも負けてはいない。相手の動きを見切っている。私が、男の注意を引きつける事ができれば、きっと勝機はある)
紐を緩めた小袋を、私は左手に持った。
「おっと」
背後からいきなり左手を掴まれ、私は驚いて息を飲んだ。
「同じ手は通じねぇぞ」
聞き覚えのある声だ。
振り仰ぐと、監禁された部屋で見た、若い男の顔があった。
カンテラを持って追いかけてきた男だ。
額に大きな布を巻き付けている。
さっき倒れて、縁石で割った傷を止血しているのだろう。
(男が『部下を全員失った』などと言ったのは、油断させるためだったのか)
その時にはもう、私は覚悟を決めていた。
「生きていたのね」
私自身の声が、無機質に響く。
王子にばかり、手を汚させる訳にはいかない。
「残念だったな?」
嘲笑いながら男が目を眇め、私の左腕を後ろに捻ろうと引き寄せる。
そのタイミングで私は、ハサミを鞘から抜いて右手に握りしめ、思い切り男の太ももに横から突き立てた。
男は、悲鳴を上げて飛び退いた。
ハサミは取り落としてしまったが、私は冷静さを保っていた。男の顔に向けて、小袋の中身をぶちまける。
「ジン……っ」
年配の男が振り返って、叫んだ。
その声の調子と一瞬の仕草で、若い男が彼の息子か何かだとわかる。
ほんの少しだけ、心が痛んだ。
マクシミリアン王子は、男の隙を見逃さなかった。
首の横にナイフを生やして、男は倒れていく。
頸動脈辺りから何か吹き出ているようだが、幸い月明かりでは色まで見えない。恐ろしいという感情よりも、なんとか危機を乗り越えたのだという事実の方が、今の私には大事だった。
倒れた男を、マクシミリアン王子がじっと見下ろしている。
そこには、自分のやった事に対する特別な感情は無くて、また動き出さないか見極めているだけのようだ。
その間に若い男は、川の方へ逃げていった。
水の流れに顔を浸すようにして、石灰を洗い流している。彼は痛みのあまり無意識にそうしているのだろうが、強いアルカリ性物質は目の組織を浸潤するので、失明を防ぐためには正しい処置だ。
私はハサミを拾い、スカートのすそで拭って、背中側のベルトに横向きで取り付けた鞘へ押し込む。
王子は、倒れた男が完全に動かなくなった事を見届けると、武器を持たずに、川の方へ向かい始めた。
これ以上、あの若い殺し屋を追い詰める必要があるだろうか、と私は躊躇していた。けれど、今見逃したら、あの殺し屋の男はきっとこの先もしつこく追い回してきて、結局は殺すか殺されるかという事になる。こちらが優位に立った今、決着をつけるべきだと思い直す。
王子は、男の顔を川に沈めた。
水深は大人の膝の辺りまでしかなく、死に物狂いで暴れる男の力に、王子は跳ね返されそうになっている。
大人と子どもではやはり、力の差が大きい。
私は靴を脱ぎ捨てて素足になった。夏なのに、川の水はおそろしく冷たい。水底も、川原と同じように丸い石だらけで、藻が生えていて滑りやすかった。
水の抵抗を掻き分けながらマクシミリアン王子の所まで行くと、私は加勢した。
私達二人は一言も交わさず、ずぶ濡れになりながら、男が動かなくなるまで水の中に押さえ付けていた。
私が男の身体を川から引き上げたのは、水を汚したくなかったからだ。
下流ではきっと、誰かが川の水を飲み、料理に使っているだろう。腐敗した遺体で生活用水が汚染される事件は、前世でも何件か実際に起きていて、ホラー小説の題材にもなっている。そんな恐ろしい事態を見過ごすわけにはいかない。
濡れた男の身体は重かったが、何度か寝返りを打たせるようにして、川原に転がした。
王子は、不思議そうに私のする事を見ていた。
そして、死線をくぐり抜けたばかりにしてはあまりにも無邪気な様子で、訊ねる。
「ねえ。僕のお肉は?」
私は、手を川でよく洗った後で、ポーチから濡れたジャーキーを出した。
受け取りながら、マクシミリアン王子は更に訊ねる。
「どうして泣いてるの?」
髪の毛まで濡れて、しずくが垂れていたので、誤魔化す事もできたのに、私は答えた。
「わかんない」
人が溺死するところを、その苦しみを直に感じて、平気ではいられなかった。
なぜ、マクシミリアン王子は、平然としていられるのだろうか。
悪いのは彼ではなくて、私だ。
私は、まだ善悪の区別もついていなさそうな、こんな未成熟な子どもに、人を殺させた。
私が何もしなければ、彼は王子様として城内で護衛に厳重に守られ、平穏で幸せな子ども時代を過ごしていたはずなのに。
私は川に戻って、打ちのめされた気分で流れの中に座り込み、体中に付いた血と泥を洗い流す。
手も足も傷だらけだった。抉れた傷は、痕が残りそうだ。そんな事はどうでも良いほど、感情が揺さぶられている。冷たい水の中で、このまま凍えて死ねればいいと思った。
夏だから、無理だろうけれど。
「アメリア嬢! 見て!」
川の中を見て回っていたマクシミリアン王子が、水をバシャバシャと跳ね返しながらやって来て、両手を突き出した。
「おさかな!」
二十センチ前後の鮭に似た魚が、彼の手の中で暴れている。
「……よく素手で掴めたね」
前世でキャンプに行って、川で魚を捕まえようとして失敗した事を思い出しながら私は言った。
「岩のところにいっぱいいるよ! 食べる?」
そう訊ねるマクシミリアン王子を見返しながら、私は気づいた。
彼は、私がお腹が空いて泣いているのだと思っているようだ。
(他人への共感や思いやりが、全くないという訳では無いのね)
いもうとが刺されたらザイオンが泣かないかと、マクシミリアン王子は心配していた。
幼児が母親との関係を元に、次第に他の人との信頼関係を構築していくのと同じだ。マクシミリアン王子はザイオンとの関係を元にして、他人との関わり方を学んでいるところなのだろう。
「……そうね。焼いて食べようかしら。たくさんとってくれる?」
私は、冷たい水の中から立ち上がった。
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