12:ジャーキー
ザイオンは、お母さんじゃない、とマクシミリアン王子は言った。
確かにその通りだ。
本能に従って生き、虫さえ食べていたマクシミリアン王子を、ザイオンがどうにか人類の側に引き戻した。それは言葉の習得や、生活習慣の習得が主で、母親のようにたっぷり愛情を注いで情操面を育てる事は、同じ子どもである彼にはできなかったのだろう。
私は、カンテラの灯りの下で見た、倒れた暗殺者の姿を思い出していた。
王子の『たんれん』とは、一般的な剣術指南などではなく、暗殺者の襲撃を想定した訓練なのではないか。子どもの力でも相手を確実に倒すため、人の急所を狙うように教え込まれていたからこその、あの攻撃だったとしたら。
(ろくに情緒も育っていない子に、人の殺し方を教えたのね)
仕方のない事だとわかってはいる。
他人への共感や思いやりなんて育っていたら、マクシミリアン王子は今日どこかの時点で攻撃を躊躇して、暗殺者の反撃に遭い、死んでいたかも知れない。
『僕が刺された時、ザイオンは泣いたんだ。弟が死んじゃうって』
そうマクシミリアン王子は言った。
詳細は公にされていないが、深刻な状態だったに違いない。
だから生き延びるために、毎日の教育課程に『たんれん』を組み込んだ。
(なんて過酷な人生を歩んでいるのかしら)
少しばかりうるっときて、マクシミリアン王子の方を振り返ってみれば、いつの間にか彼は乾燥した肉のようなものを囓っている。
さっき倒した男の所持品だろう。
少なくとも、『お化け』が死んだ人間を指す言葉だとは思っていないようだった。
すでに足の疲労は限界を超えていたが、私は惰性で歩き続けていた。
カンテラをなるべく身体で覆うようにする。
月は地平辺りにあるはずだが、森の木々の向こうに隠れてしまっていて、私達まで光は届かない。時々垣間見える薄明かりの方角が東だとして、私達は南に向かって歩いていた。
(敵は、あと何人残っているのかしら)
あの監禁場所にいたのは、襲撃役と見張り役の、少なくとも二人。
見張り役が襲っていたのは馬車に乗った人攫いのリーダーと、貴族だ。リーダー以外の人攫いと、随行していたはずの貴族の護衛も含めて数名を倒したとしたら、見張り役は二人以上いたのではないか。
つまり、追っ手はまだ一人は残っている可能性がある。
油断できない。
獣道は途中で枝分かれし、私達が選んだ道は途中で途絶えていた。
木々の間に通れそうな場所を見つけながら進むうちに、足下の地面が、少しずつ傾斜していく。
低い地鳴りのような音が聞こえてきた。
行く手に、川があるらしい。
誘われるように、傾斜を下りる。
それが良い事なのか、悪い事なのか、疲労でぼーっとしてきた頭では判断ができなかった。山で遭難した場合、川に向かってはいけないという話は知っていた。よく覚えてはいないが、見通しが悪い事と、川沿いに下っていっても滝などの落差に阻まれて滑落する危険が大きい事が理由だったような気がする。
でも今は、遭難しているわけではない。追っ手から逃れる事ができればそれでいい。
次第に、傾斜が急になっていく。
川は山肌を抉り、谷を作っているのだろう。
何かに掴まらないと、下る事が難しくなってきた頃に、私は躓いた。
思わず悲鳴のような声を上げたが、倒れる前に木の幹に抱きついていた。落ち葉に埋もれたその木の根元に、足をすくわれたのだった。
ただ、カンテラから手を離してしまった。宙を飛んだカンテラは、傾斜を勢い良く転がり落ちていく。
それが遠目には、私達が崖を転がり落ちて行くように見えたようだと気づいたのは、十数秒後だ。
疲れていた事もあり、ホッとした拍子に力が抜けて木に抱き付いたまま動けずにいたら、暗闇の中、後方から来た何かが落ち葉の上を滑りながら、素早く傍を通り過ぎた。
隣にいたマクシミリアン王子は、私よりも早くその気配に気づいていたのか、じっと動かずにやり過ごす。
(やっぱりまだいた!)
なんて運が良かったんだろう、と思う。
あそこで躓かなかったら、背後からそっと忍び寄られて、この急な傾斜を突き落とされていたかも知れない。
マクシミリアン王子が、私の手を探り当てて何かを持たせた。ちょっと湿気ているそれが、さっき彼が囓っていたジャーキーに違いないと気づいた時には、マクシミリアン王子の気配は、私から離れていた。
落ち葉の上を滑っていく音が聞こえる。
(カンテラの後を追っていったのね?!)
私は、渡されたジャーキーを急いでポーチにしまうと、また斜面を下り始める。
(なんて馬鹿なの! 殺されに行くようなものなのに!)
自分にできる事などないとわかってはいたが、後を追う以外の選択肢はなかった。
私が追いついた時には、全てが終わっているだろう。
(とんでもない計画を立てて、失敗して、王子を守る事にも失敗して)
まだ十歳の私には、こみ上げてくる感情を、堪える事ができなかった。
汚れた手で何度も目の辺りを擦ったせいで、顔がザラザラしている。
殆ど崖と言っていい斜面を下りるには、細い木々や低木に縋り付かなくてはならなかった。
幸い、森を抜けると上を遮るものがなくなって、空の明るさに助けられ、暗闇に慣れた目で物の形を見分けられるようになった。
最後は、生えている草に掴まり、少しずつ滑り落ちる。
鋭い刃のような草のエッジに、手が傷ついてヒリヒリし始めた。
今襲われたら、両手が塞がっていて防ぎようがないな、と思ってから、気づいた。
高度を上げつつある、幾分欠けた月に照らされて、崖の下が見える。
下流が瀬になっている川の手前は、丸い石の堆積する大きな州になっている。
私の真下辺りに、うつ伏せに倒れている男の姿があった。
彼も、崖から下りる時には無防備になっただろう。
そこを野生の王子か何かに後ろから襲われたのだ。
位置をずらして、ほぼ落ちる形で、私は石だらけの川原に降り立った。
男が死んでいるかどうか、確認する勇気はなかった。手足があり得ない方向に折れ曲がっている事は、見て取れる。
人間がそんな状態になっているのを見てほっとするのは、前世の人生では有り得ない事だけれど、私は心底ほっとした。
月明かりで見る世界には、色がない。
丸い石が堆積してできた川原は、大人の数歩分の幅があった。
川の流れは黒っぽくて、一本調子の低い音を立てており、向こう岸には切り立った崖の影が見えた。
川縁にマクシミリアン王子がいて、石の上に跪き、ひしゃげたカンテラをこじ開けようとしている。
灯が消えてしまったので、もう一度点けようとしているらしい。
私は王子の目の前まで行って、手を振る。
「月が出たから、もう要らないよ。ほら、見えるでしょう?」
「お化けが来たら、これでやっつけるんだ」
王子は俯いたままで、表情は見えなかった。
殺されかけた事も、何人かを返り討ちにした事も、何もなかったかのように、普通の子どものように話す。
「……お化けなんていないわよ」
「いるよ」
「見た事ある?」
「ないよ。僕はいつも早く寝るから、お化けは来ないんだ」
カンテラは、落ちた時に衝撃を受け、金属製の枠が歪んでいた。枠にはまったガラス窓は、幸い割れてはいない。王子は枠の形を元に戻そうとして、引っ張ったり叩いたりした。
「寝る時間は、関係ないのではないかしら」
「早く寝ない悪い子のところには、お化けが来るって、ザイオンが言ってた」
「は?」
そんな、子どもを早く寝かせるための常套句のせいで、こんなに苦労させられていたの私!?
「だまされてはいけないわ、マクシミリアン王子! それは、大人の嘘よ!」
十歳の私、アメリア・カラドカスは、子どもの立場で憤っていた。
「嘘?」
ようやく、マクシミリアン王子がカンテラから私へと、視線を移した。
「そうよ! お化けなんていないの! 子どもを早く寝かせて、自分達だけで遊びたい大人が考え出した、大嘘よ!」
そんな事のために子どもを脅して、子どもがお化けや暗闇に怯えなくてはならなくなるなんて。
教育としては完全に間違っている。
ザイオンに、意見してやらなくては!
「いい? お化けなんかよりもね、もっと怖いのは、悪い大人なのよ! 今日、さんざんひどい目に遭ったから、わかるでしょう?」
「その通り」
私の背後でそう呟いたのは、知らない男の声だった。
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