#09 《単独路上ライブ》
──茹だるような暑さも落ち着き始めた十月上旬、ついに〈Silent Reborn〉の再生回数は三十万回を超えた。どうかこのまま、なんの努力もなく収益化の基準に達してほしい。何もせずとも収入の入るようにしてほしいと、愛梨が聞いたら目を剥くような怠惰な祈りにあたしは耽溺した。
そんなあたしに、青天の霹靂が落ちた。
「ライブやりましょう、梨子ちゃん!」
いつものようにミーティングを始めるや否や、やにわに愛梨が言い出した。面食らったあたしの前に、ずいと身を乗り出しながら。
「今ならきっと成功を収められると思うんです。ファンの数も千人規模に育ったし、都内だけでも数十人は集客できるはずです!」
「ちょっと待ってよ、あたしたち覆面活動に徹するんじゃなかったの……?」
「そんなこと言ってましたっけ?」
きょとんと愛梨が首を傾げ、あたしは思い違いに気づいて歯噛みした。これまでディーバが覆面歌手だったのは、ネット上でしか活動を展開していなかったせいだ。──あるいは、そうであってほしいとあたしが思い込んでいただけ。
「わたしたちの目標はミリオネアズ・サークルの優勝でしょう? 最終審査はテレビで生中継されるみたいだし、そうなったらどのみち覆面活動を続けるわけにはいかないですもん。曲の宣伝にもなるし、将来のために人前で歌う経験も積んでおかないと。ねっ?」
純真無垢な笑顔のまま、愛梨は勝手に話を進めてゆく。あたしがボーカル、愛梨がコーラスと伴奏を分担。機材はポータブルアンプとシンセサイザー、譜面台、スタンドマイクさえあればいい。どれもわたしが調達しちゃいました──。何もかも決裁済みの箱へ放り込んでゆく愛梨の説明を、あたしは戦々恐々と聴いていた。
やりたくない。
偽らざる本音が、そう叫んでいる。
生のライブと楽曲配信じゃ、ハードルの高さが数段違う。偽物呼ばわりとはいえ、あたしはリスナーからリータの生まれ変わりを疑われている身だ。顔を出して活動する以上、髪型や服を変える程度じゃ誤魔化しきれない。本物だとバレたら取り返しのつかないことになる。
それに──いまはまだ、客の面前で堂々と歌い切れる自信がない。
舞台に立っていた時の感覚なんか、もう思い出せない。
「ふ、覆面とか、被ってもいいわけ」
尋ねたら、愛梨は「ダメです」と即答した。
「せっかくの梨子ちゃんの美貌が台無しじゃないですか。顔目当てのファンがついてくれるかもしれないのに、みすみすチャンスを逃すのはNGです!」
「顔目当ての客なんか引き寄せてどうすんのよ! あたしアイドルじゃないんだけど!」
「売れるためには何でもやるって言ってくれたじゃないですか。……ね?」
上目遣いに頼み込まれ、あたしはとうとう首を横に振れなかった。「やったあ!」と歓喜する愛梨を前に、ひどい既視感で頭が痛んだ。ああ、こうやってあたしはいつも流されていくんだよな。ダンスボーカルユニットだったレイナスがアイドルに方針転換した時も、ただ黙って話を受け入れて、事務所のソファで膝を抱えていた。
「分かったよ」
あたしは投げやりに首をすくめた。
「けど、どこでやるつもりなの。路上ライブの開ける場所なんて多くないよ。警察の許可とか必要になるだろうし……」
「駒田記念公園っていう適地があるじゃないですか!」
分かり切ったことを聞くなとばかりに愛梨は言った。「ダメ!」と叫ぶ声が裏返った。
「すぐそこの運動公園じゃん! 正気!? 住所とかバレたらどうすんの!」
「やだなぁ。住所を探り出して喜ぶような厄介ファンなんか、わたしがあとでこっそり成敗しちゃいますよっ」
あんたもその一人だっただろうが──。渾身のツッコミをとうとう口にできず、あたしはくずおれた。純度百パーセントの善意で武装した愛梨に、あたしはどこまでも弱かった。
愛梨の行動は迅速だった。さっそく予告動画を制作して公開し、SNSにも告知を流して、ライブの開催を既定路線にしてしまった。
【来週の日曜日、駒田記念公園で初のライブを開催します!】
【もちろん話題のメインボーカルも出演!】
【グッズの販売もしちゃうかも?】
SNSの返信欄は【絶対行きます】【応援します】などと歓迎のコメントであふれかえった。相変わらず及び腰のあたしには、どれも噂のジェネリータを一目見たいだけの野次馬に思えてならなかった。
「だいたい何なの、グッズの販売って。あたし何の相談も受けてないよ」
嫌な予感を覚えて尋ねたら「クリアファイルです!」と愛梨は胸を張った。
「百均でオリジナルのクリアファイルを作るキットを見つけたんです。練習中に撮りためた梨子ちゃんのあんな写真やこんな写真で、ファンの心を鷲掴みにするファイルを……」
あたしは愛梨のスマホを没収して片っ端から写真を消した。ボイトレで意図せず変顔になっている写真や、よだれを垂らしながら仮眠を取っている写真まであった。「信じられない」「二度とあたしにカメラを向けるな」と叫んだら、愛梨はしょげてしまった。
「一緒に音楽で儲けようねって決めた仲だと思ってたのに……」
こんな小賢しいグッズ商法を“音楽で儲ける”手段に含めるのは卑怯だ。仕方がないので愛梨との自撮りだけは認めてやることにしたけど、手段を選ばない愛梨の本気度にあたしは強い畏怖を覚えた。このままではそのうち握手会やチェキ会まで開きかねない。愛梨は本気であたしを、売れっ子時代のアイドルに戻す気なのだ。
記念すべき最初の路上活動は、台風一過の晴れやかな夕暮れ時だった。譜面台、シンセサイザー、小型のポータブルアンプ。見慣れない機材を抱えたあたしたちの珍道中は、行き交う人々の目を引いた。六十年前の夏季オリンピック開催時、メイン会場の一つとして建設された駒田記念公園は、いまも広大な敷地内に体育館やサッカーグラウンドを抱え、土日になればスポーツに親しむ人々が街じゅうから集まってくる。どこからどう見ても、あたしたちは異物だ。
「……本当にこんなとこで歌うわけ」
「もう引き返せないですよ。今日ここで活動するって宣言しちゃったもん」
「そんなのどうとでもなるじゃん。体調悪くなりましたって嘘つくとかさ……」
「ファンに嘘つくのはダメだと思います!」
正論に胸を衝かれ、あたしは黙り込んだ。理由も告げずにレイナスを脱退した過去を、遠回しに非難された思いがした。うつむくあたしをよそに、愛梨はシンセサイザーの電源を入れ、音量を確認し、譜面台を並べてゆく。あまりの手際の良さに、うっかり制止することもできない。
腹をくくろう。
あたしはしがみつくようにマイクを握った。
石畳の広場が一面に広がっている。すぐ後ろには記念塔、左手には陸上競技場。犬の散歩をしていた初老の男性が、ジョギング中の高校生が、カップルが、ゲーム機を携えた小学生の集団が、あたしたちに気づいて視線を向ける。
「こんにちは。【Flipside Diva】です!」
あたしは叫んだ。
全身の関節が鰹節みたいに硬かった。
「普段はFunTubeやcomingで配信メインの活動をしています。今日は駒田記念公園をお借りして、初の路上ライブをやることになりました。ぜひ聴いていってくださーい!」
可愛く語尾を跳ね上げて、全力でスマイル。観客の散発的な拍手が耳にこだまする。五十人、いや百人はいるだろうか。ふりしぼった空元気で懸命に愛嬌をまきながら、くくったばかりの腹の内をあたしは確かめた。
『──リータという理想の偶像を演じていることは、君自身が誰よりも自覚しているんじゃないのか?』
テイマーのせせら笑いが胸をよぎる。当たり前でしょ、とあたしは彼を睨み返す。今日一日、あたしはふたたびアイドルになる。復活の期待をかけられ後発品の扱いを受けるくらいなら、いっそ開き直って昔のようにやってしまえ。それでもなお偽物の扱いを受けるなら、もはや身バレを案ずる必要もなくなるわけだ。
愛梨の手を借りるまでもない。
きっとみんなに分からせてやる。
ここにいるあたしが正真正銘のオリジナル、鼓舞激励の歌姫だって。
「それじゃあ一曲目、お願いしまーすっ!」
底の削れた靴でターンを決め、愛梨に向かって手を広げる。見とれるように口を開けていた愛梨が、慌ててシンセサイザーをいじり始める。伸ばした腕を震わせ、あたしは笑顔を繕った。リータと同じように笑えている自信はなかったけど、もう突き進むしかない。
トランペットのコーラスが高らかにアンプを飛び出して華やぐ。打ち込み音源の精巧な旋律に、愛梨のシンセサイザーが軽やかな音粒を乗せる。
じわり、手のひらが汗ばんだ。
あたしはマイクスタンドを深く握り込んだ。
《♪君に触れたくて磨いた爪
結んだポニテ 桃色リップ
可憐な私の大革命
君はまだ気づかないでしょ?》
相変わらず静謐とは縁の遠い曲だ。頭の隅に置かれた壊れかけのプロンプターが、心のカタチに合わない歌詞を淡々と投影する。溺れるようにあたしは息を吸い込む。乱れた呼気を拾ったマイクが、アンプ越しに大袈裟な溜め息をつく。
みんなの目が怖い。あたしの真贋を見極めんとばかりに目を光らせているのが、気をそらしていても肌越しに伝わる。もしも本物のリータだったら、こんな風に笑うはずだ。こんな風に元気づけてくれるはずだ。期待と懸念の入り混じった視線が、あたしを宙に縛り付けてゆく。
《♪何度目かの告白 自信を持てなくて
(No way, No way, No way, No way)
飾り方も知らなかった日々が嘘みたい
(Brand new day, Bright new way)
さあ窓を開いて 青空に胸を張ろうよ
(Let`s go runway, Don’t run away)
きっと上手くいくって信じるの
(Cutie me first, the rest nowhere!)》
フリップサイド・ディーバをアイドルユニットとして売り出すと決めたとき、事務所はあたしたち一人ひとりにメンバーカラーと人柄を設定した。ユニット単位で活動する以上、キャラの重複は営業上の支障になる。あたしに与えられたのは赤色のメンバーカラーと、女神のような慈愛にあふれた「鼓舞激励の歌姫」という人柄だった。どんなファンも分け隔てなく愛し、手を握って励まし、力強い歌で奮い立たせる。それでいてMCは口下手だし、ダンスもワンテンポ遅れがち。そのギャップが生み出す人間臭さと親近感は、事務所の目論見通り、リータの人気の確かな礎になった。
ひるがえって生身のあたしはどうか。
家族とも没交渉、同級生も敵ばかり。レイナスのメンバーとも絶縁したまま。愛梨の暑苦しい愛情に辟易しながら、売上のためと割り切ってマイクを握っている。
これが、あたしのリアル。
事務所の与えた「リータ」という大役は、生身のあたしが担うには重かった。
それでも、演じた。自分を飾った。
そうしなければ売れなかったからだ。
《♪Silent Reborn 生まれ変わって
愛しい君を射止めるために
Silent Reborn 生まれ変わって
君の瞳を金色に染めるよ》
枕営業を拒まれたことが腹に据えかねたんだろう。あたしを追い出した後、テイマーは事務所に恫喝のメールを送ってきた。リータを消せ、さもなくばレイナスの今後はないものと思え──。大物作詞家の脅迫に屈したデッドヒート・プロダクションは、やむを得ず「重大な契約違反」という名目であたしを追放。ついでに事実上の迷惑料として、あたしに三百万円もの違約金を請求した。
それが、リータ脱退騒動の真相だ。
いくら発言力の弱い零細とはいえ、事務所もあたしを守ろうとしなかったわけじゃなかった。むしろ、金の卵として大事にしたかったはずだ。それでもリータの脱退処分を選んだのは、あたしが脱退を拒まなかったためだった。あたしはリータを演じることに疲れ果てていた。黄色い声を浴びるために自分を飾り、声を偽り、メンバーと仲良しを装うことに、心の底からくたびれていた。あたしの迷走をテイマーは図らずも言語化してくれた。あたしを篭絡するためのはずの言葉で、あたしは自分の矛盾に気づいてしまった。
もう舞台に立ちたくなかった。
たとえそれが「正解」であっても、作り笑顔のままでは立ち続けられなかった。
──ぎり、と奥歯が鳴る。不器用なステップを踏んだ靴が、ざらついた敷石の上で滑る。悩んで、悩んで、アイドルを辞めると決めた二か月前の自分が、かかとの底で踏みにじられて泣いている。あたしは耳を塞いでマイクを握りしめた。
いまさら引き下がれるもんか。あたしはみずから望んで、舞台の上へ戻ってきたんだ。お金がなければ生きてゆけない。なりふり構っている余裕もない。売上のためなら歌って、踊って、笑顔を飾って、なりたくない自分にもなってやる。
だから振り向いてよ、リータ。
あたしの作ったもう一人のあたし。
手を伸ばした先にリータの虚像がみえる。彼女はあたしを一瞥して、そっと笑って、穏やかに首を振った。──横向きに。
《♪二番手のままじゃ終われない
終わりたくないから──》
あたしは死にもの狂いだった。ぎこちない笑顔にリソースを割くたび、音程がわずかに五線譜を外れてゆく。音程を補正すれば棒立ちになる。キャパオーバーになった頭の中が、不意に白飛びを起こした。気づいたときにはラスサビ終わりの歌詞を飛ばしていた。ぎょっと愛梨があたしを凝視した。あたしはマイクスタンドに身体を預け、崩れ落ちないようにするのが精一杯だった。
アウトロが止み、中央広場に静寂が戻る。
歌い終えた感覚はなかった。飛ばしてしまった最後の歌詞が無言の余韻を引いていた。くたびれた顔を引っ叩いて笑顔に戻して、あたしは広場を見回した。ひとりふたりと立ち去り始めた聴衆の姿が網膜に映った。あたしの見ない間に、聴衆の数は三分の二ほどに減っていた。最前列の中学生が大あくびをかきながらスマホをいじり始めた。
なんだこれ。
聴いてらんないな。
もう、帰ろっか。
まばらな拍手の合間に漏れた言葉を、あたしは聴き逃さなかった。
「ちょっと! あいさつ! あいさつ!」
愛梨が慌て気味に耳打ちした。我に返ったあたしはスタンドから外したマイクを握り直そうとして、手を滑らせて落とした。大音響がアンプを震わせ、居並ぶ観客が顔をしかめた。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
混乱の収まらないあたしを見限ったように、愛梨が機材の前から身を乗り出した。
「お聴きくださりありがとうございます! 〈Silent Reborn〉でしたー!」
聴衆がようやくわずかな反応を示した。
「次の曲は〈朝焼け色の景色〉です! 二曲目のオリジナル曲で、作詞作曲もわたしが担当しました! 言い忘れたんですけど、メインボーカルを務めるのがリコちゃん! そしてわたしは作詞兼作曲兼編曲兼伴奏兼コーラス兼マニピュレーター兼バンドマスター兼マネージャー兼MV制作兼エグゼクティブ・プロデューサーのアイリでーすっ!」
さざめきのような失笑が聴衆に広がる。普段のあたしだったら「寿限無かよ」とでもツッコミを入れて、もっと笑いを取れたかもしれない。あたしの唇は死人みたいに乾いていた。かすれた声で「はは……」と笑って、次の曲の楽譜をめくった。
まだ動揺が収まらない。
目にしたものを頭が受け付けない。
なぜ、リータは首を横に振ったの。
あたしはもう──リータになれないの?
「人生の主人公やってるのはあなただけじゃないんだよ。みんなだって、私だって!」
▶▶▶次回 『#10 アイドルを舐めるな』