#08 悪夢の足音
あたしがレイナスと出会ったのは中学三年の秋。高校受験に備え、勉強に追われていた頃のことだった。
出会ったといっても、先にレイナスが存在していたわけじゃなかった。ダンスボーカルユニットのメンバーを募集する広告を見かけただけで、その時点では他のメンバーもユニット名も、なんなら活動内容も決まっていなかった。
中学時代のあたしは厩舎に横たわる痩せ馬のようだった。誰とも話さず、目線も合わさず、ヘッドホンで耳を塞いで音楽ばかり聴いていた。テストは赤点ギリギリ、体育の授業は見学ばかり。机に花瓶を置かれるのも、上履きに画鋲を仕込まれるのも日常茶飯事。心がわずかに動くのは、素敵な新曲に出会えた時だけ。
死んだように眠っていたあたしの目を、あの広告が覚ました。ダンスボーカルユニットという聞き慣れない言葉にあたしは高揚した。ボーカルとあるからには、きっと複数人で歌手をやるのだ。合格すれば歌手への道が拓けるかもしれない。今、ここで動けなければ、あたしの夢は永遠に叶わないと思った。妙なところで行動的だったあたしは、すぐに応募のメールを書き上げて送り、たった一人でオーディション会場に乗り込んだ。何十人も並んだ同年代の女の子たちを前に、怖じ気づくまいとマイクを強く強く握りしめた。
あたしは歌手になりたかった。
それだけが人生の原動力だった。
べつに売れっ子になりたかったわけじゃない。たったひとつの特技を生業にできるなら、それ以上のことを望んだつもりはない。だいいちあたしは経営者の令嬢なわけで、いまさら金持ちの生活に憧れもない。売上の多寡を気にかけていたのは、高級外車を乗り回す社長や、ピカピカの時計を腕にはめたマネージャーの方だった。
『良い音楽とは、売れる音楽のことです』
『人口に膾炙できない音楽は消えるしかない』
『売れるというのはつまり、時代の要請に応えるということ。ニーズをただしく掴むためにも、客の反応は大事にしなければならない。もっと触れ合う機会を増やしましょう』
事務所の人たちは事あるごとに「売れる」ことの重要性を説き、そして実行に移した。ダンスボーカルユニットとして発足したディーバの活動は、やがて握手会や撮影会のようなファン対応に軸足を移し、レッスンの比重も歌唱よりダンスや表情作りに傾いていった。あたしも言われるままに歌い方を変えた。地声寄りの低いトーンは抑え、口角を上げて舌足らずな可愛らしい声を演出した。ファンは増え、売上も増え、衣装も舞台も豪華になり、気づけばあたしの出で立ちはすっかりアイドルになっていた。
何の不満もないはずだった。
だって、あたしの夢は確かに叶ったのだから。
不登校が続いて高校の交友関係が荒んでも、意見が合わずにメンバーと対立を繰り返しても、家族との関係が断絶しても、売上が増えたのに給料は上がらなくても──。ただ歌えてさえいれば、それだけでよかったはずなのに。
「──〈Silent Reborn〉が五万回、〈朝焼け色の景色〉が一万三千回、〈Light on〉が九千回か。新曲の再生数も順調に伸びてきたね」
「もうじき収益化のラインも見えてきますよ! あと五十曲くらい新曲を出せば……」
「あと五十曲も必要なわけ!? 体力もアイデアも枯渇しちゃうよ」
「ご心配なく! 新曲のアイデアは八十曲ぶんくらい蓄えてありますから!」
「……そりゃすごいけど、あたしの喉のことも少しは心配してよね」
くらり、ビル群の反射する陽光に目を細めながら、愛梨の言葉に相槌を打つ。信号が青に変わって、人垣が雪崩のように拡散してゆく。楽器屋の袋を手首に提げ、あたしも愛梨も交差点を渡る。晴れた土曜日の午後、渋谷のスクランブル交差点は無数の人であふれていた。
満を持して発表した新曲の評価は上々だった。舞い込んでくる投げ銭の金額も着実に増え、あたしは久々にまとまった額の“給料”を手に入れた。真っ先に支払ったのはもちろん、滞納中の電気代や水道代だ。ご飯は食べなくても死なないけど、電気や水を止められたら本当に死ぬ。九月末にもなるのに、東京の残暑は往生際が悪い。
いつかは家賃も、三百万円の違約金も払わなきゃいけないな。いつになったら自由にお金を使えるようになるんだろう。エレキギター用のエフェクターを新調してホクホク顔の愛梨を横目に、ひっそり溜め息をついてみる。やっぱりアルバイトを始めてしまおうかな。校則違反だし、バレたら退学必至だけど。
せっかくだし写真撮りましょう、と愛梨がはしゃいだ。絢爛豪華なビル群を背景にポーズを決めて、目元だけ隠して自撮りをした。あとでSNSにアップロードするつもりらしい。マネージャー兼務の愛梨はSNSの活用にも余念がない。
「レイナスの事務所も渋谷にあったんですよね。普段は変装とかしてたんですか」
「してたよ。ファンやパパラッチに夜道をつけられたこともあるし」
「そんなことする人がいたんですか? 気持ち悪い! ファンの風上にも置けない!」
「言っとくけどあんたも大差ないからね」
嘆息してから、でも、と振り返る。ファッションビルの頭上に並ぶ無数の街頭ビジョンが、たたずむあたしをじっと見下ろしている。レイナスのメンバーだった頃は、うっかり帽子を忘れたら表通りを歩けなかった。不自由は有名税、売れっ子の副作用だ。
「なりたいね、売れっ子。変装が必要なくらい」
つぶやくと「なれますよ」と鼻息荒く愛梨が応じた。
「だってわたしたち、日本一の歌手になるんですから!」
その公約、絶対に違えないでよね。ユニットを組んだあの夜から、あたしの未来はあんたに懸かってるんだから。レイナスの頃から愛用している黒のキャップを、あたしは黙って目深に被り直した。
そのままスクーリングに向かう愛梨と、渋谷駅の地下コンコースで別れた。愛梨の在籍する通信制高校では年に数回、面接指導を受けるための登校を義務付けている。面倒くさい、オンラインで済ませられるようにしてほしいと不平不満を垂れながら、愛梨は改札口の向こうに消えていった。あたしも改札をくぐり、かび臭いホームに降りて電車を待つ。各駅停車中央林間行きの到着を告げるアナウンスが、狭い構内に反響する。
取り出したイヤホンを耳に押し込み、スマホの動画サイトを開いた。
新曲の効果か、〈Silent Reborn〉の再生回数はいよいよ伸びを強めていた。このごろは毎日五千回ほど再生されているみたいで、このまま行けば二年後には〈Silent Reborn〉だけで収益化の基準を越える。でも、そんなものを悠長に待ってはいられない。勢いづいた今のうちに、やれるだけのことはすべてやってのけねばならない。
わけもなく、再生ボタンに指が伸びた。
普段なら自分の歌を聴き返すことなんてしない。
流れ出した華やかなイントロが、極彩色のペンキで憂鬱を塗り潰してゆく。あたしの知らない笑顔をたたえたあたしが、閉じたまぶたの裏でボンボンを振りかざし、歌い出す。
《♪君に触れたくて磨いた爪
結んだポニテ 桃色リップ
可憐な私の大革命 君はまだ気づかないでしょ?》
トランペットの斉唱がイントロを飾る。散りばめられた七色の音符が、パーカッションの刻むテンポに乗ってダンスを踊る。砂糖菓子のパーティーみたいな音楽の中心で、あたしの声は朗らかに軽やかに、生まれ変わった女の子の心情を歌い上げる。
《♪何度目かの告白 自信を持てなくて
(No way, No way, No way, No way)
飾り方も知らなかった日々が嘘みたい
(Brand new day, Bright new way)
さあ窓を開いて 青空に胸を張ろうよ
(Let`s go runway, Don’t run away)
きっと上手くいくって信じるの
(Cutie me first, the rest nowhere!)》
あたしの声質がアイドル向きじゃないことは、誰に言われなくとも分かっていた。あたしに必要なのは歌唱力ではなく演技力だ。淡い恋心のあれこれを歌う曲なら、マシュマロ味の声で求めに応じる。エネルギッシュな応援歌なら、力強い高音で期待に応える。大事なのは聴き手の共感を呼び起こすことで、それができない曲は売り物にならない。音楽だって突き詰めてしまえば売り物だ。聴き手はあたしの歌に共鳴して快感を覚え、あたしは儲かる。歌手とファンを結び付けているのはそういう互恵関係だ。
《♪Silent Reborn 生まれ変わって
愛しい君を射止めるために
Silent Reborn 生まれ変わって
君の瞳を金色に染めるよ
二番手のままじゃ終われない
終わりたくないから
迎えに行くよ 気づいてよね
わがままな私のSilent Reborn》
もっと売れたい。
こんな勢いじゃ足りない。
売れて、売れて、誰にも文句を言わせないくらいの大物になってやる。
それができなきゃ、あたしなんて──。
ひやりとした痛みが不意に胸をかすめて、あたしは吊革を握り直した。次は駒田公園、駒田公園とアナウンスが駅名を読み上げ、電車が減速を始める。窓の外を蛍光灯のひかりが点々と流れてゆく。吊革に支えられて佇むリータの陰影が、その合間に断続的に映り込む。
『──君は売り物に過ぎないんだよ』
イヤホン越しに声が響いた。
足の力が抜けた。吊革に掴まっていなければ崩れ落ちていた。ブレーキの軋む音を甲高く響かせながら、電車はホームへ滑り込んでゆく。車窓に映った無数の顔が、あたしを真顔で見つめている。まるで、中古品店のショーウィンドウを覗いて品物を吟味するみたいに。
『生まれ持った才能だけで勝負しているとでも思ったか。そうじゃないだろう。君の個性は事務所が育てたんだ。連中が君を組み立て、塗装し、値札を貼ってショーウィンドウに並べたからこそ、君はこうして人気を得て、金を稼げているわけだ。分かるか?』
鷲掴みにした胸が強い動悸を帯びていた。息が上がって、あたしはよろめくように吊革にしがみついた。うるさい、と胸の奥で誰かが叫んだ。二か月前のあたしの声だった。
『本物のリータもそんな口の利き方をするのかね?』
せせら笑いがイヤホンを貫通した。
『リータという理想の偶像を演じていることは、君自身が誰よりも自覚しているんじゃないのかな。そして、そんな自分自身に君は納得していないように見えるな。だが残念ながら、素の個性など誰も求めていないのだよ。客は非日常を求めて芸能の世界を覗きに来るのだからな。ありのままの自分で愛されたいなど、思い上がったことを願っても無駄だ。そんなに無垢の愛を求めるなら、せいぜい家に帰って母親にでも泣きつくことだな』
縛り付けられたような痛みが胸を締め付ける。うるさい、うるさい。あんたの言葉になんか耳を貸さない。目をつむって振り払おうとしても、見えない彼の嘲笑は止まない。
『君は特別じゃない。良くも悪くもな』
血走った眼で彼はあたしを見つめた。
『だが、私の歌があれば君も特別になれる。この世にまたとない至上の歌姫として、貧乏アイドルユニットの枠にとどまらない活躍ができるぞ。悪くない話だろう? もちろん慈善事業ではないから相応の対価を支払ってもらう。もっとも君に提供できるものは金か、さもなくば……その特別に綺麗な身体ぐらいじゃないのかと思うがね?』
ブレーキの悲鳴が止んだ。緩慢な動きで開いたドアから、あたしは仔鹿みたいな足取りで飛び出した。込み上げた吐き気をごまかしきれずに、壁に手を突いて何度も嘔吐いた。空っぽの胃からは何も出てこなかった。
「テイマー……っ」
あたしは息も絶え絶えにうめいた。
かび臭い地下ホームの風が鼻を包んで、また吐き気が込み上げた。
声の主には思い当たる節があった。見知らぬ人でも、被害妄想な空想の産物でもない。あたしがレイナスを脱退する直前、じかに会って話をした人のものだ。
二か月前、あたしがまだレイナスのメンバーだった頃。悲願のメジャーデビューから半年が経ち、勢いに乗ってニューシングルの制作を計画していたレイナスの事務所は、ひとりの有名作詞家にオファーを出そうとした。オファーを請けてもいいが、一番人気のメンバーの話が聴きたいと作曲家は言い出し、応諾した事務所はあたしを派遣した。それが、あたしのアイドル人生を引っくり返した男──“Mr.テイマー”との出会いだった。
“Mr.テイマー”というのはもちろん筆名だ。共感性の高い繊細な歌詞を連発するヒットメーカーでありながら、人前では仮装用マスクで頑なに顔を隠し、本名も素性も明かしていない。その胡散臭さが人々を惹きつけるのか、覆面のまま十年以上も名を馳せている業界の超大物だ。
とにかく失礼や粗相のないように。
そう念入りに指導を受け、万を辞してオフィスへ入室したあたしを待っていたのは、あたしひとりには背負いきれない究極の選択だった。
『──君に提供できるものは金か、さもなくば……その特別に綺麗な身体ぐらいじゃないのかと思うがね?』
顔面蒼白のあたしに彼が突きつけたのは、端的にいえば枕営業だった。金を払うか身体で払え、さもなくば仕事をする気はないという要求だった。もしも金銭を選んでいれば、レイナスの活動が破綻するほどの額面を突きつける気だったんじゃないかと思う。万年貧乏事務所のレイナスに多額のお金を用意できるわけがないと、彼は高をくくっていたはずだ。
芸能界の一部に枕営業の風習が残っていることは、あたしだって承知していた。大人しく服を脱ぐべきだと理性では理解していたのに、あたしは要求を拒んでしまった。嫌だ、触るなと闇雲に振り回した手のひらが顔に当たり、テイマーの仮面は弾け飛んだ。そこで見たものは覚えていない。すぐにオフィスを叩き出されてしまったから。
いまも思い返せば眩暈が止まなくなる。
にんまりと引きつった妖怪のような笑顔。
あたしのすべてを見透かした、おぞましいほど深みのある声。
「……言われなくたって分かってるよ」
壁に体重を預けながらあたしは喘いだ。
「空っぽだから歌を歌って、自分を飾って売り物にしてるんだよ。そうしなきゃ売れないんだから仕方ないじゃん。本当はそんなこと……」
ホームの隅には誰の姿もない。言い訳じみた自問自答がカビだらけのトンネルに反響して、それでもまだ吐き気が止まなくて、あたしはうずくまるように身を屈めた。
こぼれたイヤホンから〈Silent Reborn〉のアウトロが流れている。
レイナスを辞めた今も、あたしはまだ歌っている。可愛らしい声を飾り、同じ趣向の歌を売り物にしている。後発品呼ばわりにも耐え、投げつけられる数百円の小銭に心を躍らせている。
あたしはこれしか生き方を知らない。
まっとうな愛され方なんか、もう分からない。
「ここにいるあたしが正真正銘のオリジナル、鼓舞激励の歌姫だ」
▶▶▶次回 『#09 《単独路上ライブ》』