#07 一番人気の面影
再生回数の伸びはカタツムリよりも遅かった。
毎朝、目が覚めれば動画サイトを確認する。そして増えない数字に溜め息をつく。徒労に飽きて再生回数のチェックをやめた頃には、〈Silent Reborn〉の発表から一週間が経っていた。あたしは相変わらず無収入で、ファンも保護者も持たない一匹狼だった。
今日も今日とて、昼休みのベルが鳴るのを待って菓子パンの袋を裂いた。剥がれかけの安売りのシールがはらりと床へ落ちた。近所のコンビニで行きがけに買った、食パンで具を挟んでプレスした総菜パンだ。パッケージには瑞々しいアシタバの葉が描いてある。
「見て、あいつアシタバ味のランチパドック食べてる」
「あんなの買う人いたんだ。不味そう……」
「焼きそばヘアの上にバカ舌でゲテモノ好きとか、マジで救いようがないよな」
視界の外からひそひそ声が転がり込んでくる。悪かったな、バカ舌のゲテモノ好きで。あたしは心の耳を塞いでパンにかぶりつく。ほろ苦いアシタバの風味が広がり、心が切なく引き締まった。
可哀想にな。
誰にも理解されずに居場所をなくして、しまいには値下げのシールを貼られ、それでも売れなければお払い箱。生み出されたこの子には何の罪もないのに。
変な情が湧いて、リスよろしく菓子パンを頬に詰め込んでいると、どこからか哀れみの視線を投げかけられている気分になる。あたしは逃げるようにパンを飲み込み、いそいそとスマホを取り出して画面を点けた。
「…………あ」
いつもの癖でFunTubeを開くと、また新着コメントが増えていた。しばらく見ないうちに〈Silent Reborn〉の再生回数は一〇〇〇回の大台を突破していた。
【なんか前、こんな声のアイドルいたよね】
【リータに似てない?】
【よく見りゃユニット名もレイナスの捩りじゃね】
【ジェネリック・リータだな】
最後の一言が目に留まった途端、声が出そうになった。
──ヤバい。
あたしの正体、バレてる?
教室の真ん中で取り乱すわけにもいかず、必死に深呼吸を試みる。落ち着け、冷静になれと言い聞かせ、コメント欄の流れを丹念に追ってゆく。幸か不幸か、あたしの正体を正確に言い当てている人は見当たらなかった。ぽっと出の素人のくせに、あのリータと声が似ている。声質ばかりじゃなく、曲のテイストや歌い方の癖すら似ている。きっとこれはリータの偽物に違いない──。いわば大喜利の答えを持ち寄るような感覚で、〈Silent Reborn〉のコメント欄にはリスナーが少しずつ集まり始めていた。中にはかつてのリータや、レイナスの箱推しを名乗るファンもいるようだ。
あたしは歓迎されているのだろうか。
それともただ、面白がられているだけ?
舌先にはアシタバの渋味が残っている。あたしは唾を飲み込んで、机に顔を横たえた。自分の歌が予想外の形で受け入れられている現実を、まだ心がうまく受け止められずにいた。
ファンやマスコミの手でリータが捜索されたのは今度が初めてじゃない。そもそも事務所の声明にあった『重大な契約違反』という言葉を、多くのファンは信用していない。リータの清廉潔白を信じたいあまり確証バイアスに囚われ、事務所を訴えようとしたファンもいたくらいだ。あの脱退劇から二か月が経った今も、リータの名前を出しただけでこれだけの人々が集まってくる。消えてしまいたかったあたしの思惑とは裏腹に、愛梨も、世間も、あたしを忘れてはくれない。
それにつけてもジェネリック・リータって。
事務所の特許の切れた後発品ってか。
「誰がそんな上手いことを言えって……」
げんなりとつぶやいた矢先、耳慣れない通知音をスマホが発した。むくんだ指でスマホを掴んで取り上げ、プッシュ通知の文面を眺めるや否や、あたしはまたしても声を上げかけた。動画サイトの投げ銭機能が利用されたという通知だった。
【待ってたよリータ!おかえり!】
──息の詰まるほど無垢な言葉と、投じられた【500円】の金額が、乾いた両目にしばらく焼き付いた。
フリップサイド・ディーバの役割分担は単純明快だ。あたしがボーカル、愛梨がそれ以外の全て。作詞作曲から演奏、プロモーションに至るまで、多才な愛梨はどれもそつなくこなす。もちろん財布の紐を握っているのも愛梨だ。バイトの収入の多くを貯金に回し、スタジオのレンタル代すら出し渋るほど倹約家の愛梨が、藪から棒に「打ち上げやりましょう!」と言い出したときには、思わず頭でも打ったのかと心配になった。
「ここ一週間だけで一万円も投げ銭が入ってきてるんです! たまにはご褒美がないと、わたしも梨子ちゃんも干上がっちゃいますよっ」
そういって、愛梨はあたしを駅前へ引っ張り出した。首都高沿いに並ぶビルの二階、子連れや大学生で賑わうイタリア風ファミレス店の片隅に、あたしたちは腰を下ろした。
生まれてこのかた、ファミレスに足を踏み入れた回数は片手の指ほどしかない。もっと高級な店の方が通い慣れているくらいだ。おっかなびっくりメニュー表を広げ、見たこともないようなエスカルゴの値段にあたしは目を白黒させた。
「安っす……。これ本当に大丈夫なの。ちゃんと食用だよね?」
「SIESTA来たことないんですか? 貧乏高校生御用達のお店なのに」
「まぁ……実家は門限とかあったし、アイドルの頃は悠長にファミレス行く暇とかなかったし」
ぼそぼそとあたしは嘘をついた。本当は、ファミレスへ行くような友達がいなかっただけだ。レイナスのメンバーとすら、打ち合わせのために数回来たことがあるだけ。ひとまず目に付いたミラノ風ドリアやパスタを注文して、ドリンクバーのジュースで乾杯をした。辛味チキンを頬張った愛梨が「美味しいー!」と快哉を上げた。
「稼いだお金で食べるご飯って、世界で一番おいしいと思いませんか?」
今のところ、人生でいちばん美味しかったのは愛梨の作ってくれたサバの味噌煮丼なんだけど。気恥ずかしい本音をスプーンでないまぜにして、あたしもドリアを口へ運ぶ。久しぶりのまともな食事に、貧相な身体が悲鳴を上げている。
「〈Silent Reborn〉のおかげだね」
「わたしの曲名センスのおかげですね! もっと褒めてくれていいですよっ」
ふんす、と愛梨が胸を張る。それだけは絶対に違うとあたしは肩をすくめる。
手元のスマホには動画サイトの画面が表示されている。どこかの誰かがあたしを『ジェネリック』呼ばわりしてからというもの、まるで何かのスイッチが入ったように〈Silent Reborn〉の再生回数は伸び始めた。その数は五千回を超え、一万回の大台も超え、呼応するようにコメント欄の賑わいも加速している。乱れ飛ぶ投げ銭の合間に、リスナーたちの素直な笑顔がちらつく。
【リータ復活と聞いて聴きに来ました!そっくりすぎて泣いた】
【推してた頃のこと思い出すなぁ。やっぱ綺麗な声だよ】
【レイナスのメンバーは知ってんのかな】
【このまま売れに売れてレイナスより有名になったらクソ面白いよな笑】
【レイナスのオタク仲間に布教しちゃったよ。リータが戻ってきたよって!】
もぞりと居心地の悪さが肌を這い上がって、あたしは少し体勢を変えた。わずか一週間のうちに、あたしはすっかり“リータの後発品”として定着したみたいだ。調子づいた誰かが【略して“ジェネリータ”だな笑】とコメントして、そこに大勢の高評価が殺到していた。誰がジェネリータだ、とつぶやいたら、妙な語呂の良さに気づいてしまって心の靄が濃くなった。
「やっぱり分かる人には分かるんですよ」
ニコニコと愛梨がパスタを巻き取る。金色の麵にミートソースが絡まり、無抵抗に持ち上げられてゆく。艶やかな桃色の唇が、はぐりとそれを丸飲みにする。
「顔を伏せても名前を伏せても、梨子ちゃんの積み上げた貯金はすぐに消えたりしない。事務所が何と言おうが、ファンの心の中ではリータは不滅なんです。あのリータが簡単にマイクを手放すはずがない、きっとどこかでまだ声を張り上げてるってみんな信じてて、だからこうして集まってきてくれたんですよ」
「……その割には後発品呼ばわりだけどね」
「上等じゃないですか! ここにいる梨子ちゃんが正真正銘のオリジナルだって、いつかぜったい分からせてみせますよ。リスナーにも、レイナスの事務所にも!」
レイナスの関係者にケンカを売るような真似はしないでよ、頼むから……。勢い余って事務所の社長にも噛みつきそうな愛梨に、制止の言葉が喉元まで出かける。目的のためなら手段を選ばない、危うさと表裏一体の直向きさ。それがあたしの相棒の心髄だ。
ディーバを結成して一ヶ月。
とうとうこうして、収入の得られる段階にまで来てしまった。
伏せたスプーンの鏡面にあたしの顔がゆがんで映る。本当に良かったの、もう後戻りはできないよと、「リータ」の顔をしたあたしが冷ややかにあたしを見上げている。立ちのぼる湯気にグウとお腹が共鳴して、あたしは照れ隠し半分にスプーンを掴んだ。「まだお腹すいてるんですか」と愛梨が驚くのを無視して、無心でドリアの残りを頬張った。スプーンの表面は汚れ、リータの顔は消えた。
胃の底が熱い。
虚の満ちてゆく感覚がたまらなく尊い。
初めて受け取った【500円】の投げ銭を見たとき、ひどく胸が躍った。あたしの歌に値段をつけてくれた人がいる、あたしは無価値な人間じゃないのだと教えてもらった気分だった。一週間で一万円というディーバの収入は、レイナスのそれに比べれば雀の涙にも満たない。でも、嬉しい。比べ物にならないほど嬉しい。ひねくれたファンの“ジェネリータ”呼ばわりすら、呼ばれないよりはずっといい。
あたしは文無しの独りぼっちだ。
歌手を始めなければいつか餓死していた。
歌手を始めて初めて、自分を慕う声に気づけた。
だからあたしは間違っていないのだ。レイナスを脱退したのも、実家を出たのも、愛梨と出会ったのもぜんぶ正解だった。そう思わなきゃ、やってられるか。
「愛梨」
呼ぶと、レモネードを啜っていた愛梨が顔を上げた。
「あたし、やるから。配信ライブとか新曲だしたりとか、やれることは全部やる。だからあんたも途中で投げ出さないでよ」
「その言葉を待ってたんです!」
叫ぶや、愛梨は意気揚々とカバンを開いて一冊のノートを引っ張り出した。六十ページの大学ノートいっぱいに、新曲の歌詞や手書きの五線譜が書き込まれている。
「そろそろ新曲の用意もしたいなって思って、前からコツコツ作ってたんです! どれから歌いましょうかっ」
いひひひっ、と愛梨は前歯を覗かせた。
一生かかってもこの子には敵わない。純白な歯の輝きに、あたしは深々と悟りを得た。
「売れないんだから仕方ないじゃん。本当はそんなこと……」
▶▶▶次回 『#08 悪夢の足音』