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一億円の歌姫  作者: 蒼原悠
〈1st Turn〉まだ届けたい歌がある
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#06 ファーストクリップ

 



 シンガーソングライターユニット【フリップサイド・ディーバ】のボーカル、リコ。新たな名義と責任を背負った、あたしの日々が始まった。

 毎日、高校が終われば家へ帰り、宿題や自主トレで暇をつぶす。時計の針が午後九時をまたいだら、荷物を携えて愛梨の家に向かう。集合時間が遅めに設定されているのは、愛梨がその時間までアルバイトをしているからだ。

 愛梨は駒田公園駅前のラーメン屋でホールスタッフとして働いているらしい。「いちど食べに来てください!」といわれてクーポン券を受け取ったけど、あいにく知り合いの店へ気安く乗り込めるほどあたしは開けっ広げじゃなかったし、財布の中身も潤沢ではなかった。いつか行く、いずれ行くと返答をはぐらかし続けて一週間が経った。


「また来てくれませんでした」

「梨子ちゃんが来てくれると思って一生懸命がんばったのに……」


 その日も、開口一番に不平不満を垂れながら愛梨は玄関のドアを開けた。シャワーを浴びたばかりなのか、頭にはターバンのようにタオルを巻いていた。今日も疲れた、いいメロディが浮かんだのに忘れちゃったと口々にぼやくので、つい意見してしまった。


「そんなにバイト大変なら、たまには休んだらいいんじゃないの」

「これを見ても?」


 いうが早いか、愛梨はあたしを風呂場に連れて行った。旧式のバランス釜にシャワーを後付けした、いまどき見かける方が難しいような風呂だった。しかも愛梨がシャワーの栓をひねった途端、あたしは「冷たっ!」と叫んで飛びのいてしまった。


「冷水じゃん! ガス止められてんの?」

「ガス代も節約しなきゃいけないんです。毎晩水浴びで我慢してるんですよ、わたし」


 絶句するあたしに愛梨は悲愴な顔で訴えた。よく見たら、ご丁寧にも温水栓は回せないようにセロテープで固定されている。


「働いてるのになんで金欠になるわけ……?」

「貯金してるんです。将来のこと考えて」

「だったら一億円なんか要らないじゃん」

「それとこれとは話が別です! 食べたくないんですか、回らないお寿司」


 思わず「別にいい」と口を滑らせたら、すごい顔で睨まれた。実際、回らない寿司なんか憧れも未練もなかったけど、あたしはそっと口をつぐんだ。裕福な父親や事務所のお金で何度もご馳走になったと知ったら、愛梨の機嫌を損ねてしまう気がして。

 歌手になってお金を稼ぎたいけど、初期投資のためのお金もない。スタジオなんか借りていたら活動資金が一瞬で蒸発する。困窮するあたしたちにとって唯一の救いは、愛梨の家に十分な防音設備があったことだ。あたしたちは望むと望まざるとに関わらず、愛梨の家を拠点にせざるを得ないわけだ。

 つまり活動時間中は愛梨の家から出られない。

 あたしは事実上、あたしのファンに()()されながら過ごすことになる。


「うへへへへへぇ……幸せぇ……梨子ちゃんの声ってやっぱり麻薬みたい……」

「耳溶けちゃうなぁ、わたし生きててよかったなぁ」


 ──ボイストレーニングの最中に耳元でこんなことを言われたら、気が散るばかりか身の危険すら感じる。今日も今日とて「ボイトレの声を録音してASMRとして販売したらきっと売れる」といってマイクを向けられた。「ASMRって何?」と問い返したら、愛梨は恍惚の表情で「自律感覚絶頂反応」と答えた。なんだか気持ち悪かったので拒否した。


「なんでダメなんですか!? 梨子ちゃんは自分の需要を何も分かってない!」

「あんたの需要が尖りすぎてて引いてるだけだから!」

「ひどい、人を変態みたいに……。リータだった頃の梨子ちゃんはもっと女神様みたいにファンを扱ってくれてたのに……」

他人(ひと)のボイトレをよだれ垂らしながら見守ってるようなやつが、変態じゃなかったら何だっていうわけ?」


 そっけなく突き放しながら、ぎゅんと下腹部が冷えてゆくのをあたしは覚えた。愛梨が理解していないはずはないのに、いやな不安が汗のように肌へ浮かんで結露した。アイドルが女神のような笑顔でファンを歓待するのは、彼女が女神のような人柄の持ち主だからじゃない。それがアイドルの商売道具だからだ。

 べつに騙してお金を受け取っていたわけじゃない。みんな、()()()()()()あたしたちに歓声を上げ、グッズやチェキを買い集め、お金を落としてくれていたのだから。それでも──そんなファンの中でもぶっちぎりで愛の深そうな子に「演技」の余地を見透かされると、隠れていた罪悪感が急に沸き立つ。いてもたってもいられなくなる。


「梨子ちゃんの声の魅力はわたしがいちばん知ってます」


 うっとりと愛梨はまぶたを閉じる。


「すっごく安心する声。どんなアップテンポなメロディでも元気な歌詞でも、声のどこかに優しい響きがずっとあって、この人はわたしの味方なんだなーって思わせてくれる。夢見心地に酔わせてくれる。あの頃、たくさんの子が梨子ちゃんの歌や言葉に救われてた。だからリータは人気だったんだと思う。わたしだってその一人です」

「…………」

「リータを初めて見かけたとき、わたしちょっと傷心気味だったんです。お父さんがいなくなって、お母さんも仕事でなかなか帰れなくなっちゃって。そんなとき、たまたま眺めていたFunTubeのショート動画から、梨子ちゃんの声が聴こえてきたんです」


 愛梨も片親の子だったのを、その言葉であたしはおぼろに思い出した。


「あのときわたしを救ってくれた人を、今はわたしがプロデュースしてる。こんな奇跡、いくら願っても二度とは手に入らない。わたしには梨子ちゃんの魅力を全世界に布教する義務があるんです。だから一刻も早く出しましょうね、新曲のCD! もしくは朗読でもボイスドラマでもASMRでも──」

「最後のはあんたが欲しいだけでしょ!」


 早く新曲を出したいならボイトレの邪魔をするな。絡みついてくる愛梨を渾身の力で引き剥がしながら、あたしは冷えたままの下腹部に息を吸い込んだ。じわりと身体が熱くなって、しなやかになった喉が声作りの準備を始める。

 リータの歌声は、あたしの地声とは違う。

 死にものぐるいで作り上げた()()の声だ。

 罪悪感があろうとも、あたしにはそれしか誇れるものはない。だから、歌う。いまは何も考えずに歌うんだ、よそ見なんかするなと、一心不乱にマイクを握った。




 インターネットの普及したご時世、アマチュア歌手がお金を稼ぐ方法は色々ある。

 たとえば、動画投稿サイトではMV(ミュージックビデオ)に付随した広告動画の再生回数に応じて、インセンティブが支払われる仕組みがある。最大手の動画サイト・FunTubeの場合、動画が一回再生されるごとに生じる収益は〇・二~〇・六円。一か月あたり百万回ほど再生されれば、二十万~六十万円の収入が期待できるわけだ。ただし誰でも収益化できるわけじゃなく、三本以上の動画を投稿していること、再生回数の合計が百万回を超えること等の条件を満たす必要がある。前者はともかく、後者を満たすのは簡単じゃない。

 お金儲けって大変だな。

 ぼやいたら、「当たり前じゃないですか」「楽に収益化できたらわたしだってバイトやってないです」と愛梨に説教された。金銭関係になると愛梨は急にシビアになる。こっちが愛梨の本性で、あたしのことになると箍が外れるだけなのかもしれない。

 記念すべきデビュー曲〈Silent Reborn〉の発表には、動画サイトやSNS、ストリーミングサービスの三か所を活用することになった。ボイストレーニングも合わせて二週間を費やした収録が終わると、今度は愛梨の手でミキシングが始まった。ただ伴奏に歌声を重ねるだけでは音が馴染まず、耳元で心地よく響かない。最適な視聴環境を作るために音響をいじって調整するのが、ミキシングと呼ばれる処理なのだという。

 レイナスが新曲を出すたび、レコーディングの裏では地道な調整が行われていたんだな。愛梨のそばで活動を見守っていると、音楽とはこうやって作るものなのかと勉強になる。実際の作業はほとんど愛梨がやっているのに、いっぱしのアーティストになれたような気分に浸れるから不思議だ。素直に「すごいね」と褒めてみたら愛梨が手を止めてデレデレ溶け始めたので、今後は迂闊に褒めないことにした。

 曲が完成したのは三週間目のことだった。

 盛夏は関東山地の彼方へ去り、穏やかな風が東京の街を吹き抜けていた。


「──さっそくアップロードしました!」


 いつものように家へ集まって早々、愛梨にPCの画面を見せられた。片方の画面には動画投稿サイト、もう一方にはSNSのタイムラインが映っていた。歌詞の文字が踊るだけの簡素なミュージックビデオが、小さな枠の中でちょこまかと動いている。


「再生数は?」

FunTube(ファンチューブ)は三百回、coming(カミング)の方は五百回くらいです。Smartify(スマーティファイ)はリリース審査中なので、配信開始にはもう少しかかるかなぁ」


 満足げに愛梨は再生回数の数字をマウスでドラッグして強調した。

 動画投稿サイトのFunTube、SNSのcoming、ストリーミングサービスのSmartify。どれも世間に名の知られた媒体で、そのぶんライバルの多いレッドオーシャンだ。可能性の海に放り出されたばかりのあたしたちの作品には、まだ一件のコメントもない。


「こんなもんかな」

「これからですよ」

「ねぇ、やっぱり曲名は変えた方がよかったんじゃないの。この曲名で賑やかなアイドルソングが流れてきたら面食らうと思うんだけど……」

「そんなことないです! だって格好いいじゃないですか、『静かなる再起』ですよ?」


 自画自賛が過ぎる。逃がしきれない不安に肩を固めていると、「気長に待ちましょう」と愛梨が微笑んだ。


「何の実績もないうちから売れる歌手なんていないもん。時間さえかければ、いいものはちゃんと分かってもらえる。ダメなら、試行回数を重ねるだけです」


 あたしは唇を結んだ。駆け出し時代のレイナスの奮闘が脳裏をよぎって、そうだよな、と思う。あたしたちはあたしたちのペースで売れればいい──なんて簡単には割り切れないけど、それでも割り切るしかないのだ。そわそわと揺れる愛梨の足先を見つめながら、落ち着けずにいるのがあたしだけじゃないことに少し安堵した。

 たとえ中身が元トップアイドルでも、フリップサイド・ディーバが無名の新人であることに変わりはない。生まれ変わったあたしの歌に世間はどんな評価を下すだろうか。(みそぎ)を受ける思いで、インプレッションの推移を見守る。握り込んだ拳が汗ばんでゆく。

 おもむろに一件目のコメントがついた。

 あたしも愛梨も競うように声を上げた。


「来た!」

「なんて書いてある?」

「待ってて、いま開きます」


 コメント欄を覗くや、愛梨の顔がくすんだ。そこにはただ一言、【曲名が合ってねぇ】という端的な冷笑が浮かんでいた。あたしは思わず彼に同意の握手を求めたくなった。


「だから言ったのに。タイトル変えようって」

「だって気に入ってたんだもん……」

「バカ! 消すな!」


 むくれた愛梨がコメントの削除ボタンに指を伸ばしたので、慌てて腕を掴んで制止した。





「待ってたよリータ!おかえり!」


▶▶▶次回 『#07 一番人気の面影』

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