#04 回らない寿司
二十三区の南西角を占める東京都世田谷区は、八十万人超もの住民を抱える首都圏最大のベッドタウンだ。都心の繁華街とはバスや私鉄で結ばれ、その生活利便性はどんな街にも引けを取らない。……あと、家賃の高さも。
そんな世田谷区の東部、駒田記念公園を中心に広がる駒田地区の一角に、あたしの住まうマンションは建っている。最寄り駅は城南急行電鉄の駒田公園駅。周辺には国立病院や仏教系の私立大学なんかがあって、賑わいの絶えない住宅街だ。
「……合ってるよね、ここで」
記憶を頼りにたどり着いた門の前で、思わず不安が声になった。
あたしの相棒──愛梨の住まう家は、バス通りを挟んであたしのマンションの向かいに立つオンボロな木造家屋だった。表札に【本田】と書かれているのを念入りに確認しながら、おっかなびっくり呼び鈴を押す。すぐに玄関が開いて、ヘッドホンを首から提げた愛梨が「ようこそ!」と顔を覗かせた。
「遅いから道に迷ったのかと思ってました」
「迷ってた。その、けっこう遠かったから」
あたしは嘘をついた。何となく、ご近所だと知られたら厄介なことになる気がして。
通されるまま、居間にカバンを下ろす。卓袱台の上は綺麗に片づけられ、折り畳まれた服やタオルが部屋の隅で柔軟剤の匂いを発している。音楽の香りはどこにもない。本当にこんなところで音楽を作っているのかと尋ねたら、愛梨はくるくる回りながら「もちろんです!」と笑った。
「わたしのお父さんも昔、ここで楽器をやってたんです。防音はばっちりですよっ」
「防音?」
組立式の防音室でも置いているのかな。案内されるままに愛梨の後ろをついてゆくと、愛梨は居間をまっすぐ横切って襖に手をかけ、「じゃーん!」と引き開けた。
真っ先に目についたのは、怪しい光を放つ大型のデスクトップPCだった。本来は寝室とおぼしき十畳ほどの空間を、数え切れないほどの機器類が埋め尽くしている。シンセサイザー、電子ピアノ、収録用のコンデンサーマイク、譜面台、ポータブルアンプ、エレキギター、セパレート型コンポ、ターンテーブルやPCDJコントローラーまで。壁には防音用のクッションが貼られ、その景観はまるで個室スタジオだ。
「すっご……」
「でしょ? 作曲、作詞、編曲、演奏、収録、動画編集、なんでもござれですよ!」
うひひっ。こそばゆげに身を揺らしながら、愛梨は色のくすんだ座布団とミニテーブルを取り出した。
無数の楽器にジロジロと観察されながら、第一回のミーティングが始まった。あたしも愛梨もあらためて自己紹介を交わした。本田愛梨はあたしと同じ十七歳の高校二年生で、通信制高校に在籍しているらしい。登校するのは年に数度のスクーリングだけで、バイトで日銭を稼ぎながら作詞作曲に心血を注いでいるんだという。
「どこの高校に通ってるんですか? 三浦学園高校? 隣町の三軒厩の!? すっごい進学校じゃないですか、やっぱりリータは頭良かったんだなぁ! おうちはどこなんですか? すぐそこのノーザンコート駒田ガーデン!? うわーやばい、わたしずっとリータと同じ空気を吸いながら暮らしてたんだ! 幸せすぎて死んじゃいそう……!」
ラッシュのような質問責めに晒され、あたしは個人情報を丸裸にされた。学校名も住所も教えるつもりはなかったのに、あたしの腰の引けた拒絶は愛梨には通用しなかった。
あたしは溜め息まじりに「昨日も言ったじゃん」と口を挟んだ。
「その呼び名、何とかしてほしいんだけど」
「リータって呼んじゃダメなんですか?」
「当たり前でしょ! 身バレしたら大変なことになるって分かんないわけ?」
「でもでも、わたしずっとリータって呼び習わしてきちゃったし……」
「好きに呼べば。苗字でも下の名前でも」
「ほんとですか!? じゃあ、梨子ちゃんって呼んでみよっかなあ」
うひひひぃ、と愛梨は相好を崩した。日照りにやられた花のようにあたしは萎れた。もう、根競べではこの子に勝てる自信がない。
「ここにある機材はどれでも自由に使っていいですよ。今日からはこの部屋が、わたしと梨子ちゃんの活動拠点になるので!」
「そう言われても、使い方の分かんない機材ばっかりなんだけど……」
二画面装備のきらびやかなPCを見上げながら「てか」とあたしは頬杖をついた。
「家族も暮らしてるんでしょ。こんなところで活動してたら迷惑にならないの」
「ならないです! うちはシングルマザーだし、お母さんも滅多に帰ってこないので」
「え……。大丈夫なの、それって」
「仕事が忙しいんだと思います。仕方ないです。うち、貧乏だから」
愛梨は目を伏せた。けれども、すぐに瞳を輝かせて「でも!」と身を乗り出した。
「わたしと梨子ちゃんが成功すれば、お母さんも仕事しなくてよくなるんです。だからこそ、わたし頑張りたいんです。梨子ちゃんのためにもわたしのためにも!」
あたしは居心地が悪くなって座り直した。アマチュアの音楽活動がどれだけ儲かるのか、あたしには見当もつかない。そもそも音楽に限らず、個人の芸能活動はふつう専業では生計を立てられない。レイナスにいた頃はアイドル一本でずっとやってきたけど、それはあたしの高校がアルバイトを禁止していたのと、レイナスの事務所が成功報酬ではなく給与制を採用していたせいだった。
「それってさ」と、恐々と切り出してみる。
「なにか明確なビジョンはあるの。闇雲に歌手を始めたって成功なんかできないよ」
「もちろん! まずは『ミリオネアズ・サークル』で優勝して日本一の歌手を目指します!」
迷いなく愛梨は断言した。あたしのかけた期待は粉々に砕かれた。
「そんな大雑把な! ていうか本気で狙う気なんだ、ミリオネアズ・サークルの優勝……」
「当たり前じゃないですか! わたしたちのような後ろ盾のないアマチュアには箔が必要なんですよ。日本一の称号があれば、どんな舞台にも堂々と出てゆけます!」
「簡単に言わないでよ、あんた本当に分かってんの? 例年数千組にもなる挑戦者が、二度も三度もオーディションのふるいにかけられて、選び抜かれるのはたった一組なんだよ! 往年のベテラン歌手ですら、ミリオネアズ・サークルの優勝には滅多に手が届かないってのに」
想像もつかない困難に身震いがした。約十年前に創設された音楽オーディションイベント『ミリオネアズ・サークル』は、わずか十年で音楽業界の重鎮を次々に飲み込み、邦楽界の殿堂としての地位を確立した。数千組、一万人近くの挑戦者の中には、売れている最中のアイドルや歌手、バンド、楽団や合唱団もおおぜい含まれる。ぽっと出のアマチュアが優勝したことなど一度もない。確かな実力と人気を兼ね備えた、日本一の称号にふさわしい者でなければ、レッドカーペットの上を歩くことは許されないのだ。
「でも優勝したら一億円ですよ?」
なおも愛梨の目は爛々と輝いている。
「二人で山分けしても五千万円ですよ! 向こう十年は安心して暮らせるし、何でも買えちゃいますよ。高級外車とか豊洲のタワマンとか銀座の回らないお寿司とか!」
「あんたの頭の中には皮算用の計算式しかないわけ!?」
「だって皮算用しなかったら夢なんか見られないじゃないですか! まぐれ当たりの成功なんか狙ってたら日が暮れちゃう。わたしたちの夢を最短最速で叶えるなら、ミリオネアズ・サークルの優勝を目指すのがベストです。そのためなら何だってやりますよ、わたし!」
「…………」
「優勝したら打ち上げは回らないお寿司がいいなぁ。なに食べよっかな。マグロの赤身とか何貫でも食べられちゃうなぁ……うへぇへへへえぇ……」
回らない寿司屋で赤身にこだわるやつがあるか。呆れるやら物悲しいやらで、あたしは溶けゆく愛梨を尻目にゆるゆると嘆息した。動機はともかく、彼女の意気込みは本物のようだし、『何だってやる』という宣言も出まかせではなさそうだ。それなのに素直に喜ぶ気分になれないのはどうしてだろう。
というか──もしかして愛梨、あたしの歌より一億円が目当てなんじゃないだろうな。
「あたし、今度は上手くやれるかな」
▶▶▶次回 『#05 それでも我が道を征く』