#03 いつか夢の賞典台へ
目を閉じれば、あの熱狂が脳裏によみがえる。
『──あなたの心の応援団、フロントサイド・レイナスでーすっ! みんなが元気いっぱい明日を生きられるように、あたしたちの歌で、ダンスで、魔法をかけちゃうよ!』
高らかに叫ぶたび、高波のように膨れ上がる喝采。場ミリだらけのフロアを踏みしめる浮ついた感覚。どぎつい色が癖になるスポットライトの瞬き。自然光では生み出せない夢見心地の中で、マイクを握り、笑顔を作り、身体いっぱいに称賛や愛情を浴びた日々。
あたしの所属していたユニット『Frontside Reinas』は、零細芸能事務所デッドヒート・プロダクションのもとで活動する、五名からなる女性アイドルグループだった。メンバーはリーダーのサクラを筆頭に、ユリ、リン、ナズナ、そしてリータ。全員あたしと同じ、十七歳の女子高生だ。訳あってあたしが抜けた今も、四人で活動を継続している。
デッドヒート・プロダクションはどうしようもない零細事務所だった。東京・渋谷の一等地に事務所を構えているのに、レイナス以外の所属タレントなど見たこともなく、活動資金の捻出にマネージャーも事務員も苦心していた。限られた予算や時間との闘いを強いられながら、がむしゃらにレイナスは版図を広げた。よそのアイドルとの対バンやCDの路上販売会、握手会、大物歌手の舞台へのダンサー出演……。
事務所の掲げたキャッチコピーは“あなたのための応援団”。応援団の名前に違わずチアリーダー風の華やかな衣装をまとい、ボンボンやメガホンを手にして舞台を賑わす五人の姫君に、くたびれた東京の大人たちは虜になっていった。
『あの子たちの歌って元気が出るんだよね』
『レイナスに会ったら死にたくなくなった』
『あの子たちのためなら明日も頑張れる!』
──口コミやSNSを通じてレイナスの評判は波紋を広げ、ひたむきな活動は知名度や売上にも結び付いていった。その勢いに大手レコード会社が目をつけ、活動開始から半年後には悲願のメジャーデビューも実現。最新シングルの〈アオハルを駆けろ〉は、人気作詞家に歌詞を依頼したこともあって爆発的なヒットを成し遂げた。
いまや押しも押されもせぬ、トップアイドルへの花道を駆けるシンデレラ。零細事務所の救世主となったレイナスの進撃は、もう誰にも止められない。ここ一週間のSNS投稿を見ても、レイナスは音楽番組や有名フェスへの出演を続々と発表し、すっかり売れっ子の貫録を身に着けたみたいだ。公式サイトの宣材写真も更新され、トップページには四人のメンバーが流行りのポーズを決める写真が大きく貼り出されていた。
そこに「リータ」の名前はない。
リータの笑顔も、メンバーカラーの赤色すら見当たらない。
まるでリータというメンバーなど初めから存在しなかったかのように。
もちろん、それで痕跡のすべてが消えたわけじゃない。インターネットの世界には今も、リータの脱退を面白おかしく論じるニュースや個人ブログの記事が無数に残っている。
【フロントサイド・レイナス 結成以来の危機到来か?】
【衝撃の脱退劇、事務所は真相を語らず】
【ロスになったファンを直撃してみたwww】
消し去れないほど知れ渡ってしまったその名前が、いまも視界をよぎるたびに胸をえぐる。この世からリータが消えることを誰よりも望んでいるのは、事務所でもなければレイナスのメンバーでもなく、他ならぬあたし自身だ。もしも当時のファンに巡り会ったなら、頭を下げて頼み込むつもりだった。お願いです、どうかあたしのことは永遠に忘れてください──って。
理由は誰にも明かさない。
分かってもらえるとも思わない。
この秘密は墓場まで持ってゆくつもりだ。
あたしの日常生活は睡魔との格闘から始まる。目覚まし時計の合唱に脳を揺さぶられ、寝ぼけ眼をこすりながら最寄り駅へ向かう。超満員の私鉄に揺られること一駅。あたしの通う高校は、繁華街をすこし外れた閑静な住宅地の狭間にある。
お金がないので朝食を頬張るのは週に三度か四度だけ。低血糖で頭も働かないから、授業中は自分の机で居眠りに沈む。骨ばった腕枕に顔をうずめれば、湯気の中へ突っ込んだメガネみたいに頭が曇ってゆく。同級生の騒々しい声も教師の苦言も、こうしていれば耳に入らない。
重たい空気を吸って、吐いて、アイドルでなくなった現実をしみじみと思う。あたしはもうアイドルじゃない。普通の高校生らしく、勉学や運動や友達作りに励まなければ人権も保障されない。そうと分かっているのに身体が重くて動かないのは、三食さえままならない極貧のせいだ。結局この世はお金がすべてだ。お金、お金、お金。お金持ちの世界はいつも晴天。あたしの頭上には分厚い雲が垂れ込めている。
無感情なチャイムが昼休みの幕を上げる。
顔を上げないあたしのそばを、耳障りな足音やささやき声が通り抜けてゆく。
「ねね、まだ寝てるよ里見」
「一限から突っ伏したままだよな」
「すっげぇ寝癖。髪を梳かしてから登校するって習慣ないのかな」
「なんか焼きそばみたいだよね」
「言えてる! ボサボサ天パの茶髪、マジで焼きそばヘアじゃん」
あたしは酸っぱいつばを飲み込んだ。食べ物を比喩に使うな。お腹が減るだろうが。
「てかさ、里見もとうとう不登校やめる気になったのかな。夏休み前は数日に一回しか来てなかったのに」
「聞いてないの? アイドル辞めたって噂になってんじゃん」
「うそ、知らなかった。だって正直どうでも良かったもん」
「顔を出したんなら学級運営にも加わってほしいよなぁ。文化祭だって近いんだしさ」
「マジでそれな。そろそろ出し物決めないとヤバいよね、うちらのクラスも」
「里見に歌でも歌わせればいいんじゃないの。有料の観覧席とか用意してさ」
「最高! あたしらタダで丸儲けじゃん!」
ぎゃはは、と汚らしい笑い声がドアをくぐり抜けて廊下へ消えてゆく。うつむいて息を止めていたあたしは、くずおれるように腕の中で脱力した。口にできなかった無数の反発が、ぐつぐつと胸底で余熱を吐いていた。
二年二組の里見梨子がアイドルをやっていたことは、この高校では公然の秘密だ。芸能人御用達の高校でもないのに一人だけ欠席が続いていたのだから隠せるわけがない。だけどユニット名は幸いにも発覚していないらしく、担任も同級生もあたしのことを、どこかで無名の地下アイドルをやっている痛いやつだと思い込んでいる。もちろんあたしも抜かりなく、舞台に立つ時は手間をかけて天然パーマをストレートに直していた。あたしは舞台の上では正真正銘の別人だった。見た目も、名前も、そして人気も。
──レイナスの最終兵器、鼓舞激励の歌姫。
──ダンスもMCも犠牲にした天性の歌声。
──リータがマイクを握れば泣く子も黙る。
それが、現役時代のあたしが頂戴していたファンからの評価だ。グッズの売上、SNSのフォロワー数、どれをとってもレイナスの一番人気はリータだった。リータの歌が聴きたいからといってライブに足を運んでくれるお客さんも大勢いた。握手会にも行列ができ、チェキやグッズも飛ぶように売れた。メジャーデビューへの道筋はリータの歌が切り拓いたのだと、声高に主張してはばからない単推しファンもいた。
あの頃のような「売れっ子」に戻りたいと、いまは思わない。本当は芸能界に戻るつもりもなかった。それなのに、あの女の子と歌手になる約束を交わしてしまった。あなたの歌声に一億円の値札をつけてみせると、濁りのない瞳で彼女は意気込んでいたな。
あの子の言葉をすべて信じたわけじゃない。
ただ、嫌だった。言われるままに白旗を挙げ、おとなしく野垂れ死にを遂げるのは嫌だ。せめて死ぬなら三百万円の違約金を事務所に投げ込んでから死んでやる。身勝手で無責任なやつだと思われたままでいるのは御免だ。
「……見てろよ」
誰にも聴かれないようにあたしは独り言ちた。
それから重たい頭をもたげ、黒板に残っていた板書をノートに写した。
手元に神経が集中しているうちは、悲鳴のような空腹も気にならなかった。
「あたしの歌より一億円が目当てなんじゃないだろうな」
▶▶▶次回 『#04 回らない寿司』