#17 わたしの物語
くたびれた制服のブレザーを脱いで、真っ赤なTシャツを羽織る。不慣れなポニーテールがうなじに当たってくすぐったい。バンダナを巻いて更衣室を出ると、一足先に着替えを終えていた愛梨が「可愛いー!」と快哉を挙げた。あたしは気が引けて縮こまった。
「絶対似合うと思ってたんです、ウマカの仕事着! 店長に見せに行きましょうっ」
「何を着ても可愛いって言うんじゃないの、あんたって」
「梨子ちゃんは世界一可愛いですもん!」
鼻息を荒げながら愛梨はあたしの背中を押した。なすすべもなく、そのまま厨房へ連れてゆかれる。湯気の立つ大釜をヘラでかき回していた鉢巻き姿の大男は、棒立ちのあたしに「似合ってるぞ」と相好を崩した。
「これで看板娘が二人に増えたな。今日からよろしく頼むよ、梨子」
こわばった肩を回して、あたしは「はい」と頭を下げた。
立ち込めた湯気が、豚骨スープ特有の臭みをまとって鼻腔に流れ込む。愛梨について店内を回りながら、ここで水を汲む、ここで食器を洗う、と指導を受ける。ここは駒田公園駅の真上、国道沿いの雑居ビルに店を構える『熊本ラーメン・ウマカ』。昼夜を問わず繁盛する、個人経営のラーメン屋だ。
学業最優先の方針を取る三浦学園高校では、校則で生徒のアルバイトを禁止している。お堅い校則をこれまでは律儀に守ってきたあたしだけど、もはや音楽活動の収益が上がるのを待ってはいられない。たとえ校則違反で罰を受けようが、飢えて干からびるよりは断然マシだ。どうせ働くなら賄い付きの飲食店がいいと思って、愛梨経由で就職の相談を持ちかけた。果たして店長は快諾し、あたしは愛梨とともに働けることになったのだった。
時計の針が午後五時を回る。表に出て【休業中】の札を引っくり返すと、待ち構えていた客が店内になだれ込んでくる。「カタで」「スープ濃いめで」「脂ギトギトで」──。魔法の詠唱のような注文が、あたしの頭上を続々と飛び交う。
「梨子は食ったことあるのか、熊本ラーメン」
湯切りの音を響かせながら鉢巻き男が尋ねた。あたしを雇ってくれたウマカの店長、増田柳一。初対面の相手にも気さくな口ぶりに、あたしは「ないです」と首をすくめた。自費で外食なんて文化、あたしにはなかったし。
「美味いぞ。あとで賄いを食わせてやろう」
店長は器用に麺をどんぶりの中へあけた。もうもうと立ち上った湯気があたしを包む。
「博多ラーメンと同じ豚骨ベースだが、スープに鶏ガラを使ってるのが大きな違いだ。発祥は福岡県の久留米らしい。そんで、熊本に伝来してから独自の深化を遂げて“熊本ラーメン”って呼ばれるようになったわけだな」
「へぇ……」
「熊本ラーメンは中太麺が基本だが、うちの店では博多ラーメンに近い細麺を使ってる。茹で上がりの加減によって好みが分かれるから、麺の固さは注文時に客に指定してもらう。味の好みなんかも同時に伝えてもらう。その注文をおれに引き継いで、できたラーメンを客に渡して回るのが、愛梨や梨子の仕事だ」
「なんか黒っぽいのがスープに浮いてるけど、これ、焦げ……?」
「まさか。そいつはマー油だ。ニンニクをラードで揚げて作った香味油だよ」
こんなもの懐石料理屋やフレンチレストランでは見たこともない。湯気の立つどんぶりを持ちながら、香ばしい匂いに鼻を寄せる。こんな黄金色のラーメン一杯にもあたしの知らない文化があって、先人の知恵が濃厚に溶け込んでいる。この世は失望するには広すぎるな、と思う。
一足先にどんぶりを運んでいった愛梨が「お待たせしましたー!」と元気に叫ぶ。むきになってあたしも声を張り上げる。常連らしき客が「新入り?」「頑張ってね」と声をかけてくれた。あたしは汗をぬぐって微笑んだ。多分、作り笑いじゃなかったと思う。
「──そういえばcomingのDMに出演依頼が届いてたの見ましたか?」
端っこの席で賄いのラーメンを食べていると、おもむろに愛梨が切り出した。
意表を突かれたあたしは噎せた。「げほ、ごほ」と咳き込んだら店長が悲愴な顔をしたので、慌てて手を振ってみせた。マー油が口に合わなかったわけじゃない。
「……見たよ、あたしも」
「じゃ、見間違いじゃないんですね? ついに出演依頼が来るようになったんですね! 世間がディーバを認めてくれたんですねっ」
小躍りする愛梨のまばゆさに、あたしは黙ってレンゲを取って、油の浮いたスープをすすった。真っ黒な油の粒を数えながら、どう説明したもんかな、と思った。
ディーバのSNSには、三浦学園高校の文化祭実行委員会から正式な出演依頼が届いていた。書き手の顔が浮かぶようなお堅い文面の下には、ついでのように「出演料:五万円」と書き加えられていた。
正直、お世辞にも高いとは言えない。
大物タレントを呼ぶには最低でも数十万円はかかる。
どうりで出演交渉が不調続きだったはずだ。界隈に出入りしたことのない中西が、そのあたりの相場感覚を持たないのは無理もないけど。
「あのさ。そのメッセージの送り主、三浦学園高等学校って書いてあったでしょ」
「あれ? ここ梨子ちゃんの通学先ですよね」
「悪いけど出演する気ないから。断って」
顔も見ないで突っぱねたら、愛梨は案の定「なんでですか!?」と不平を垂れ始めた。仕方がないのであたしは説明した。実行委員長が同級生であることと、彼女から直々に出演交渉を頼まれていることを。
「来場者数を稼げなかったら沽券に関わるとか、プライドが傷つくとか、多分そんなところでしょ。来場者から入場料を取るわけでもないんだし、あの子の意地に付き合うのはごめんだよ。こんなオファー、請けたって無駄」
「そんなぁ……。でも五万円ですよ? 回転寿司なら五百皿は食べれますよ?」
「五百皿も食えるか!」
あたしは呆れ返って吠えた。
「そんなもんに時間を割くなら、まだ路上ライブでもやってた方がマシだから。ミリオネの優勝にも寄与しないし、ただ時間を浪費するだけ」
なおも愛梨は何か言いたげに唇を開いて、けれどもやっぱり閉じて、大人しく出演辞退のメッセージを打ち始めた。あたしはレンゲを取ってスープをすすった。ほろ苦い香味油の黒粒が、余韻を引きながら喉の奥へ落ちていった。
あたしだって本当は愛梨を尊重してあげたい。初めて出演依頼が舞い込んだときの、まるで世界に存在を認められたかのような喜びを、あたしだって忘れたわけじゃない。だからこれはあたしの単なる我儘だ。舞台に立つ者の苦悩を知らない、知ろうともしない中西のために、どうしてあたしが力を尽くしてやらねばならないのか。あたしが歌手をやっているのは、中西や同級生にちやほやされるためじゃない。
「ああ……五万円が……」
愛梨が未練がましく嘆いている。
「五万円を稼ぐのって大変なのに。梨子ちゃんはもっとディーバの経営状況に危機感を持つべきだと思うけどな、わたし……」
「だからあたしもバイト始めたんじゃん」
箸をくわえながらあたしもぼやいた。使い込んだ足が、濡れ雑巾のような重みを帯びていた。
「二人三脚でバイトするようになったんだし、当面の資金繰りには困らないでしょ。いざとなれば愛梨の貯金だってあるんだから」
「それはわたしのです。使っちゃダメです」
「いいでしょ少しくらい。ミリオネで優勝すれば一息に補填できるんだしさ」
「それは……そうだけど」
「そもそも愛梨って、どうしてそこまでお金にこだわってんの。これだけ毎日のようにバイト詰め込んで、賄い飯にもありついてるわけじゃん。あたしと違って致命的な生活苦を抱えてるわけでもなさそうだし、貯金をする余裕だってあるんでしょ?」
いつかの水シャワーを思い浮かべながらあたしは尋ねた。アルバイトという安定収入を持つ愛梨は、本来ならディーバの不安定な収入に一喜一憂する必要はない。にもかかわらず、ガスを止めてまでも愛梨が金儲けに走らねばならない理由が何なのか、思えば気にかかって仕方なかったのだ。
愛梨はいっとき押し黙った。
スープの油に映った顔が、ゆらり、浮かない色に揺れた。
「……わたしの親は借金のせいで離婚したんです」
愛梨は切り出した。伸びた麺が千切れるように、一言、一言ずつ。
「お母さんから聞いた限りでは、ぜんぶで五千万円。どういう理由で借金をしたのかは分からないけど、とにかくそれを返しきれなくて、お父さんは負債を抱えて家を出ていったんです。わたしやお母さんに迷惑をかけないようにって……。それできっと今も、どこかでお金を返し続けてる。借金のせいで、わたしの家族はバラバラになったんです」
「五千万……」
「一億円の半分です。ミリオネの賞金を二人で山分けすれば、わたしの手で借金を返せるんです。本当は貯金で賄うつもりだったけど、五千万円って思ったよりずっと、遠かったから」
つるん、と箸の先から麺が滑って落ちた。訥々と語られる話の重みに、あたしの指先からは無意識に力が抜けていた。道理でロマンチストになり切れないはずだ。愛梨の貯金は借金返済の原資であり、いつか「大事な家族」を取り戻すための資金だったのだな。
愛梨にとって五千万とは、ただの身に余る大金じゃない。半生を捧げてでも取り戻すべき宝物の値段なのだ。
へへ、と愛梨は頬を掻いた。
「重かったですよね」
「ううん……。なんか、ごめん」
「いいんです。べつに隠すつもりもなかったし。わたしよりも不幸な身の上の人なんか、この世界にはたくさんいるだろうし」
それに、といって愛梨は立ち上がる。伸びをして、あたしの分のどんぶりも持って、厨房の方へ向かう。すでに営業時間は終わり、薄暗い厨房では店長が洗い物をしている。
「わたしは信じてますから。梨子ちゃんとなら、きっとミリオネも優勝できるって。そんで、取り戻した家族と梨子ちゃんと一緒に、お寿司をいっぱい食べれるって!」
愛梨は笑顔であたしを振りあおいだ。穢れの見当たらない一途な笑顔にやられ、あたしはすこし背中を丸めた。つまらない体面にこだわって父親の関与を拒んだ自分の影が、脂ぎった床に長く伸びていた。
「いい心掛けだ。満腹は幸福の基本だからな」
何も知らない店長が、カウンターの向こうで賢しげにつぶやいた。
「君は廉価版なんかじゃないな?」
▶▶▶次回 『#18 ここにいた』




