#13 あたしの夢は【前編】
『──民主本命党の藤原杏、藤原杏でございます。心豊かな生活を皆様に保証できるよう頑張ってまいります。都民の皆様、週末は一家そろって指定の投票所へ……』
寝不足の頭をもたげると、赤色の帯を巻いた選挙カーが目の前を走り去っていった。そういえば明日は日曜日だったっけ。あたしは目をこすりこすりスマホの電源ボタンを押して、まだ充電が残っているのを確かめた。
愛梨の家を飛び出してから半日が経った。
いまさらカバンを取りに戻ることもできず、さりとて雨の中では野宿もできず、逃げ込んだコンビニでひたすら漫画や雑誌を立ち読みした。こんなことならオートロックのマンションなんか借りなければよかった。ふらつく身体でコンビニを出て、なけなしの小銭で買った朝食のパンを頬張っていると、一晩じゅう続いた小雨は次第に弱まっていった。
明日は日曜日。世間では東京都の知事をえらぶ選挙が行われるらしい。街中に貼り出された選挙ポスターが、“私を選べ”と笑顔で通行人を脅迫している。十七歳のあたしには関係ないことだ。誰が都知事になろうが、あたしの未来が急に花開くわけじゃないし。眠気に負けて目を閉じたら、まぶたの裏で中西が唾棄した。
『──あなたって結局、あなたのことしか考えてない』
あたしはいつもの癖でイヤホンを取り出した。耳を塞いで音楽で塗り潰そうとして、でも気が乗らなくて、結局ポケットにイヤホンを戻してしまった。首都高を流れる車の轟音が、雨上がりの街に粘っこく反響していた。
行き場のない音色が氾濫している。
道端に、ビルの谷間に、公園の木陰に。
都知事選を翌日に控え、東京の街は平時にもまして騒がしい。その波打つ騒音の中へ、あたしも溶け込んで埋もれてしまいたかった。手元に残った小銭は百円にも満たない。初乗り運賃もカラオケの部屋代も、安売りのパンの代金も払えない。お金のない人間に東京は冷酷だ。雨宿りのできる軒が多いぶん、田舎よりは優しいかもしれないけど。
止んだはずの小雨がふたたび舞い始め、逃げ惑うようにあたしは場所を移した。区立図書館が開くのを待って、閲覧室の机で少しだけ仮眠を取った。けれどもすぐに警備員に起こされてしまった。迷い込んだ公園に水飲み場を見つけ、空っぽの胃を水で満たした。生ぬるい水道水がお腹の中で攪拌され、余計に気分が悪くなった。トイレで手を洗いながら鏡を覗くと、湿気て爆発した天パの茶髪がキャップの端からあふれていた。
お風呂に入りたい。
ご飯が食べたい。
温かな布団で眠りたい。
そんな最低限の文化的生活さえ、お金がなければままならない。
あたしの貧乏生活は甘かったんだな。家賃を払えなくてもマンションを追い出されず、貯金を切り崩せば食費が手に入って、当たり前にシャワーも浴びていられたのだから。
みじめな時間が続くと情緒も死んでゆく。降り注ぐ秋雨のなかを、あたしはとぼとぼと歩き続けた。くたびれ果てて、空腹にも耐えかねて、雑居ビルの傍らに座り込む頃には夕方になっていた。よどんだ色のシャッターに背中を預け、うずくまるように腰を下ろしていたら、不意に「おぅ」と野太い声が頭上から降りかかった。
「そんなところで何してる。濡れるぞ」
振り仰ぐと、悪魔みたいなメイクを顔いっぱいに施した大男があたしを見下ろしていた。Tシャツの袖から丸太のような腕が生えている。あたしはぎょっと腰を浮かせて、だけど力が入らずに再び座り込んでしまった。「大丈夫か?」と、大男が眉根にしわを寄せた。
「ごめんなさい。邪魔だったですか」
「別に邪魔ではねぇけどよ」
大男はおもむろに、木製の立て看板をあたしの脇へ置いた。貼り出されていたのはライブ告知のビラだった。『【Orphee】ナイトリサイタル 二十一時開演』と書かれている。
「ここぁライブハウスでな。もうじき俺らのバンドが出演るんだ。何の事情があるのか知らねぇが、雨宿りするならついでに覗いていけよ。損はさせねぇぞ」
大男が親指でドアの入り口を示した。『三軒厩ブルードメア』と書かれたネオンが寝起きの眼みたいに点灯して、そこで初めてあたしは自分がライブハウスの前に座り込んでいるのを自覚した。ロックバンドのライブなんて参加したこともないあたしは、思わず「でも」と尻込みした。チケット代どころか、ドリンク代の持ち合わせもないのに。
「あたし、今、お金なくて」
「いくら持ってる。チケ代なら出世払いにしといてやってもいいぞ」
「……八十円」
「酷いな。馬券も買えねぇ」
けらけらと笑いながら、大男はドリンク交換用のコインを指で弾いて寄越した。
開演時間が迫るにつれ、薄暗いライブハウスには観客が集まってきた。渇きに耐えかねてドリンクを飲み干したあたしは、黒一色の壁際に寄りかかって、歓談する観客をぼんやりと見つめていた。ブレザーの女子高生もいる。仕事終わりのスーツで駆け付けたビジネスマンもいる。こんな格好でモッシュしたらシャツ破けるかな、そのくらいまた買えよと、マフラータオルを首にかけながら隣の人と笑い合っている若者の姿もある。あんなふうに趣味を分かち合える相手、あたしの身近にもいてくれたらな。きりのない妬みにくたびれて目を閉じていたら、急に照明が落とされた。
ギャアアアアアン、とギターの悲鳴が響き渡った。たちまち沸き上がった歓声も、アンプの放つ大音量の前では無力だ。スポットライトがぎらりと目を剥き、ステージ上に並んだバンドマンたちをあかあかと映し出す。ド派手な白塗りのメイク、目元を染める黒のペイント。スピーカーに片足を載せた大男が「よく来たな!」と野太い声でがなり立てた。
「いいか、明日は日曜だ。都知事選なんか夕方に行け。【Orphee】のために夜を明かす準備は出来てるな? 心して聴け──〈楽園追放〉!」
わっと歓声が弾けた。ドラムの爆音が、ベースの乱暴な低音が、立ち尽くすあたしの痩身に殺到した。あのド派手な大男はギター兼ボーカルだったみたいだ。メタリックな変形ギターを槍のように振り回し、悪魔の形相でマイクにかじりつく。飛び散った汗の粒が、ダイヤモンドダストのように舞台を照らしている。
《♪We were born with original sin
There’s no paradise to pamper us
We must build with your own hands
Have you thrown it away, take it back
Have you left it halfway, see it through
There’s no time for tears, you know》
耳をつんざくようなシャウトとクリーンボイスの交錯。おまけにものすごい早口だ。歌詞の内容はちっとも聴き取れないし、よしんば聴き取れても英語を和訳できない。目まぐるしく展開してゆく荒っぽいメロディに、あたしはしがみつくのもやっとだった。
ロックには詳しくないけど、ポスト・ハードコアってやつなのかな。でもメンバーの見た目は完全に往年のヘヴィメタルバンドだ。ギターが一人、ベースが一人、ほかにキーボードとドラムスが一人ずつ。ギターとベースはボーカルも兼ねている。それだけの人数で、愛梨が束になっても弾けないような暴力的な大音響を生み出している。
まるで音楽に殴られているみたいだ。
乱れ飛んだ音の粒が身体の奥で爆ぜて、静まり返っていた心の温度が上がってゆく。盛り上がるように鳥肌が立つ。何かを叫びたくてたまらなくなって、唇が勝手に開いて、だけど何も言えずにまた閉じた。歌詞の意味が分からなくとも、身体は悲鳴を上げている。黙ってこらえて溜め続けた、あらゆる醜い、汚い感情が、咆哮のような旋律に焼き尽くされて昇華してゆく。
こんな体験をするのって何年ぶりだろう。
あたし、まだ歌で感動できるんだ。
鼻先が染みて、あたしはくしゃりと顔を歪めた。
永いあいだ忘れていた憧れの原点を、目の前のロッカーたちに見た思いがした。あたしもこんな歌を歌ってみたい。見てくれのキャラじゃなく、その口から吐き出す剝き出しのメロディで、誰かの心を震わせてみたい。朧な願望によろよろと腕を伸ばして掴もうとして、そうだ、とあたしは思った。
︎︎だからあたしは歌手を目指したのだ。
名声のためでも、まして売上のためでもない。
歌がなければ生きられなかった、あたし自身のため。そして、どこかであたしのように苦しんでいる誰かのために。ただそれだけのために、あたしはずっと──。
《♪We have eaten the fruit of wisdom
Our sorrow and suffering have only grown
But we can still cry out our pain
Scream, scream, you have a mouth, right》
ラスサビの絶叫が三半規管を揺さぶる。ぶん殴られたクラッシュシンバルが閃光を放ちながら揺れている。一瞬の静寂を挟んで大歓声がライブハウスを包み、満足げな大男の面持ちが人垣の向こうにちらついた。次の曲いくぞ、ついて来い──。怒鳴り散らす彼の雄姿に、あたしは唇をむすんで背を向けた。壁を這うように暗がりを進んで、出口の階段を一段飛ばしで駆け上った。ごめんなさい、ごめんなさい。チケット代を負けてくれた恩は忘れない。だけど狭いライブハウスの中じゃ、この衝動は発散しきれない。
雨はまだ止んでいない。
口に飛び込む雨の渋さも構わず、あたしは「愛梨」と叫んだ。あんなにユニットを辞めたくて仕方なかったのに、いまは無性に愛梨の顔が見たかった。声が聞きたかった。いっときの悲観的な衝動に負け、愛梨の家を飛び出してきたことを深々と後悔した。
まだ、あの部屋にいる?
いまから向かえば間に合う?
あたし、やっと歌との接し方を思い出したよ。やっぱり歌が歌いたい。愛梨の作る歌がほしい。たとえそれが心のカタチにそぐわなくても、きっと今度は魂を込めて歌い上げてみせるから。だから、だから、どうか。
「いつか報われる日が来るまで、しつこくしぶとく生きてやる」
▶▶▶次回 『#14 あたしの夢は【後編】』




