#11 深まる逸走
大失敗の路上ライブから一週間後、ディーバは四つ目のオリジナル曲を発表した。
題は〈シャイニング・ハッピー〉。まさに名は体を表すというか、浮ついた愛梨のセンスがタイトルにも滲み出ている。ボーカルのあたし自身がシャイニングにもハッピーにもなれないまま収録が終わり、愛梨がミキシングを済ませて公開してしまった。
果たして、評判は悲惨の一言に尽きた。
【元気なさすぎ。何がシャイニングだ。ホラー映画の方じゃないのか?】
【聴き手をハッピーにしようっていう気概がないよね。歌うの楽しそうじゃないし】
【こないだのライブを思い出すなー あの時のボーカルがまだ歌ってんなら納得w】
【ジェネリータはジェネリータだったか】
【本物の爪の垢でも煎じて飲んでから出直してくれませんか?】
MVの公開から数日も経つ頃には、FunTubeのコメント欄はリスナーの批判であふれ返っていた。あたしを褒めるときには炸裂しない語彙のセンスが、批判の時には冴えて見えるから不思議だ。もしもあたしに超能力が使えるなら、こんな言うことを聞かないリスナー、一人残らず洗脳して「リコ最高!」と言わしめてやるのに。ベッドの底で空想に沈みながら、あたしは深々と嘆息した。
指先で再生ボタンに触れると、極彩色のイントロが耳を圧迫する。あたしの声はやすりのようにざらついていて、アップテンポのメロディに馴染んでいない。素人の耳でも下手だと分かるくらいだ。〈Silent Reborn〉を発表したときのほうがもっと、ずっと伸び伸びと歌えていた。──その〈Silent Reborn〉にしても、最近は再生回数ばかりがいたずらに伸びて、投げ銭は機能停止したかのように一円も入ってこないけど。
こないだのライブに来てくれた人も、こんな歌を聴かされていたのかな。
そりゃ、帰るよな。
寝返りを打ったら、ぐじゅ、と音を立てて小さな胸が潰れた。すかすかの胃が嘶いている。まだ夕食も食べていないのに、くたびれて制服を脱ぐのも億劫だ。
午後九時になればディーバの活動が始まる。
屋外で声を張り上げると拡散するので、路上活動ではスタジオ以上の声量が必要だ。ボイストレーニングを強化しようと愛梨は言っていた。あんな無惨な失敗をして、客もおおぜい帰ったのに、まだ愛梨は野外ライブの開催を諦めていないのだろうな。自分が失敗した訳じゃないし、きっと痛みだって少ない。
ぐったりと布団に埋もれていたら、不意に耳元で着信音が鳴り始めた。
「もしもし」
飛び起きたあたしはスマホを耳に押し当てた。不意を衝かれたものだから、電話相手の名前は確かめなかった。
『梨子か』
無愛想な声があたしを呼んだ。
お父さん、と呼び返す声がかすれて引っ掛かった。それは久しぶりに聞いた父親の声だった。久しぶりだけど、あからさまに不機嫌を極めているのが声色から察せられた。
『少し話す時間はあるか』
「……あるよ。学校、終わったばっかりだし」
『今しがたデッドヒート・プロダクションとかいう芸能事務所から封筒が届いた』
あたしは上体を起こしたまま凍り付いた。
『念のために中身を確認してみたが、違約金の支払いが滞っているだの何だの、藪から棒な内容が延々と書き連ねてあった。お前との専属マネジメント契約のことも書かれていたぞ。どういうことだ、梨子。私に黙って芸能事務所なんかに所属していたのか』
感情を押し殺したような父親の尋問は静かで、だけど逃げ場がない。あたしは最悪の事態が起こったのを理解した。違約金の支払い期限はすでに過ぎている。しびれを切らした事務所は、あたしの頭越しに手を打とうとして父親に連絡を取ったのだ。
未成年者が芸能事務所と専属マネジメント契約を結ぶには、法定代理人として保護者の同意が必要になる。法律で決まっていることで、もちろんレイナスも例外にはならない。だけど、あたしは父親の同意なんて得たくなかったし、得られるとも思わなかったから、父親には何も言わずにサインを偽造して承諾書を作成したのだった。
『答えられないのか?』
父親の問いかけが重い。また心臓の奥がつぶれて、あたしの答えは声にならない。『もういい』と父親は乱暴に尋問を切り上げた。
『ともかく違約金云々の話は弁護士に相談して片づける。お前のところにも同じ封筒が届いているだろうが、こんな下らん要求は無視して構わん。グッズ製作費だの何だのと仰々しく内訳を並べ立てているが、そんなものはそもそも事務所が負担すべき経費の範疇だ。裁判を起こされても向こうが負けるだけだ』
「……そう、なの」
『金のことはどうとでもなる。だが、何の説明もなかったことは看過できないぞ。お前のやることにいちいち制限を設けたくはないが、お前はまだ自分では何の責任も取れない未成年だ。物事の始末が付けられないのなら実家に帰ってきなさい』
厳かに父親は告げた。
説諭でも説教でもなく、まるで判決を読み上げる裁判官みたいに。
早鐘のような動悸が始まった。暗黒の未来が確定したわけでもないのに、あたしは蒼ざめた首を振り回した。
いやだ。
実家になんか帰りたくない。
あんなところで暮らすくらいなら、いっそ路上生活の方がマシだ。
「……よ」
『なに?』
「勝手に決めないでよ。三百万円はあたしが自分で返すって決めたんだよ」
『バカを言うな! 話を聞いてなかったのか』
ついに父親が怒鳴った。あたしも無我夢中で「うっさい!」と怒鳴り返した。屈したら最後、本当にマンションを解約されて実家へ連れ戻されてしまうと思った。
「自分で責任取るって言ってんの! だからそっちも干渉して来ないでよ! 信用できないなら来月から家賃も全額支払うし、高校の学費だって全額支払う! 十七歳のガキだからって舐めてかからないでよ!」
売り言葉に買い言葉もいいところだ。勢い余って口を滑らせながら、あたしはいよいよ蒼ざめて立ち尽くした。──なに言ってんの、あたし。日々の食費すら足りてない有様なのに、家賃や学費まで負担できるわけがない。
『本気で言っているのか』
父親の声が怒りに震えている。いまさら後には引けず、あたしも声を震わせる。
「当たり前じゃん。分かったら二度と電話して来ないで!」
ビブラートでも、まして武者震いでもない。自棄と不安が共振を起こしているのだった。返事を聞く前に通話終了のアイコンを押し込み、空気の抜けた風船みたいに布団へ倒れ込んだら、冷たい夕陽があたしをあかあかと照らし出した。
「……最悪」
枕に顔を押しつけて、うめく。じゅくじゅくと膿んだ心の底から、あたしの無謀を咎める声が湧き上がる。──バカ、あたしのバカ。おとなしく父親の言葉に従っていれば、あの莫大な違約金から逃れられたかもしれないじゃないか。うまくすれば一人暮らしの延長だって認められていたのかもしれないじゃないか。
これまでも、これからも、あたしはこうやって道を間違えてゆくのかな。
みじめな気持ちが目尻からほとばしって頬を落ちてゆく。枕に顔を押し付けると、間違えだらけの半生が次々とまぶたの裏へ映った。
──生まれてきたこと自体が、あたしの間違いの始まりだったのかもしれない。そんな自虐すら釣り合うほど、幼い頃のあたしは万人の認める出来損ないだった。優れた顔立ちも頭の良さも、誇れる特技や分かりやすい愛嬌もない。親譲りの才能はぜんぶ、ふたつ歳上の兄・和旗に持ってゆかれた。和旗はあたしと違って顔立ちもいいし、地頭もいいし、どんな趣味も特技も持ち前の器用さでモノにしてしまう人だった。
テストの出来は下から数えた方が早かったし、体育の授業でもチームの足を引っ張ってばかり。そんな有様でも身なりだけは立派だったことが、同級生の気に障ったのだろうか。あたしは毎年のようにいじめの標的になり、仇のように暴力を振るわれた。近所の人はあたしに会うと気まずそうに避けていった。家に帰れば父親が、鬼の形相であたしを叱責した。
──どうして文房具を壊したんだ。
──お前の汚した服は誰が洗濯すると思ってる?
──こんな簡単な問題も解けないのか。和旗はこんなことで苦労はかけなかったぞ。
優秀な兄を持ったことも、才能に恵まれなかったことも、そのせいでいじめられていることすらも、全部あたしのせいにされるようでは泣き寝入りするしかない。あの頃、あたしを守ってくれていたのは頑丈な自室のドアだけだった。なけなしの安っぽいプライドすら、己の駄目さを思い知るたびに目減りしていった。
みんなが羨ましかった。
あたしだって当たり前に家族に愛され、友達に恵まれ、ありふれた幸せに囲まれてみたかった。
歌手の道へ飛び込んだのは現実逃避でもあり、成功を収めればみんなに愛されるんじゃないかという期待の結果でもあった。そうして気づけば一年半が経った。あたしの手元に残されたのは三百万円の違約金と、ひどく劣化した演技力と、変わり者の元ファンが一人だけ。
『──物事の始末が付けられないのなら実家に帰ってきなさい』
『これからも悲劇のヒロインを気取って拗ねていればいいんじゃない』
『ありのままの自分で愛されたいなど、思い上がったことを願っても無駄だ』
口々に降りかかる言葉が、あたしの十七年間を片端から全否定してゆく。もう言い返す気力も湧かなくて、あたしは無力に笑った。実家を飛び出し、事務所を騙してまで飛び込んだ音楽の世界で、二年間を費やして成し遂げたものがたったそれだけなら、あたしの努力は確かに無駄だった。いっそ素直に認めてやるから、どうか、代わりに教えてよ。
あたしはどうすればよかったの。
これからどうすればいいっていうの?
「もう、あたしに関わらないで」
▶▶▶次回 『#12 ひとりぼっちROSER』




