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一億円の歌姫  作者: 蒼原悠
〈1st Turn〉まだ届けたい歌がある
10/17

#10 アイドルを舐めるな

 



【はじめてのライブ、緊張して上手く歌えませんでした。本当にごめんなさい】


 ──ファーストライブを終えて早々、あたしはSNSに総括のコメントを投じた。

 終わってみれば惨憺たる有様のライブだった。まともにMCをやれたのは冒頭だけで、それ以降は愛梨に任せっきり。披露した曲はわずか三つに過ぎないのに、歌詞飛ばしや音程外しをそこらじゅうで連発した。最後まで聴いてくれた観客が何人いたかも思い出せない。

 弁明のコメントは賛否を呼んだ。緊張ならば仕方ないとあたしを擁護する言葉より、容赦ない批判を浴びせるアンチコメントの方が多かった。


【それにしたって酷かった】

【無料だから許せたけど有料だったら詐欺】

【二度目はないな】

【あんなクオリティでライブやるとか、すごい度胸してるね】

【リータの名前を穢すな偽物(ジェネリック)!!!!!】


 言い返す気力もなく、あたしたちは沈黙した。ちょうど、駒田記念公園の管理事務所から「園内での音楽活動は禁止です」と電話で説教された直後のことだった。駒田記念公園は住宅街のなかにあるので、騒音の生じる音楽活動は基本的にNG。唯一の例外は『ネクストブランド』の登録者だけだ、せめて一言くらい声をかけろと、たっぷり時間をかけて叱責された。


「何なの、ネクストブランドって……。あたし聞いたことないんだけど」

「東京都のやってる大道芸人公認制度です。登録パフォーマーに認定されると、都立公園内で自由に活動できるようになるんです」

「知ってたなら言ってよ! 怒られ損じゃん!」

「だってそんなものなくても活動できるって思ったから……!」


 ひとしきり言い合った末、その日は解散になった。もちろん打ち上げをやれる空気ではなかったし、そんなお金もなかった。投げ銭用の空箱は置いていたけど、あとで覗いたら一円玉の一枚すら見当たらなかった。

 なんだか力が抜けて、次の日は朝食を抜いた。誰にも会いたくなかったし、誰とも話したくなかった。電車の中でも、授業の合間にも、長袖で口を覆って息をひそめていた。口を閉ざしてさえいれば、東京の喧騒はあたしを覆い隠してくれる。

 気づけばホームルームが始まって、黒板の前ではクラス委員が決を採っていた。翌月末の文化祭に向けてクラスの出し物をどうするか、各人の分担を話し合っているようだった。あたしの情緒は死んだように凪いでいた。文化祭など心の底からどうでも良かった。どのみち、あたしが前のめりに参加すれば、みんなはきっと気分を害するだろうと思った。

 突っ伏したままの耳に、昼休みのチャイムがくぐもって届く。もぞもぞと姿勢を変えていると、不意に誰かの手が肩を叩いた。


「里見さん」

「……ん」

「話聞いてなかったの。三浦感謝祭の仕事、まだ里見さんだけ決まってないんだけど」


 とろけたままの視界に、ノートを手にした同級生が映った。黒一色の髪を後頭部で束ねた優等生然たる姿に、ああ、とあたしは嫌な味の吐息をこぼした。学級委員の中西(なかにし)春香(はるか)。文化祭の実行委員長も務める、品行方正の化身のような子だ。


「やめときなよ委員長。里見に文化祭の手伝いなんか期待するだけ無駄だってば」

「一人で焼きそばでも売らせておけば?」


 通りがかりの同級生たちがケラケラ笑う。「黙って」の一言で彼女たちを追い払った中西春香は、返す刀であたしに水を向けた。


「里見さんって部活にも入ってないんでしょ。()()()()()()もやめたんなら、少しは協力的になってくれない?」

「どういう意味?」

「アイドル辞めて暇なんでしょ、って意味」


 間髪入れずに中西は畳み掛けた。切れ味の鋭い瞳が、あたしを淡々と威圧する。


「人手が足りないの。クラスの出し物に参加しないなら、会場設営くらいは手伝ってよ」

「何すんの、クラスの出し物って」

「ほんとに何も聞いてなかったんだ……。人形劇って決まったじゃない。もう役柄もぜんぶ決まって、仕事がないのは里見さんだけ」

「勝手に決めれば」


 あたしは無気力に吐き捨てた。


「ゴミの回収係にでも宛がえばいいじゃん。あたしが気に入らないのは中西も同じなんでしょ。やれって言われれば何でもやるよ」


 後先を考えることさえ億劫で、そう畳み掛けてしまった。あたしがクラスの除け者になっているのを、学級委員の中西が知らないはずはない。果たして、中西は耳の端まで真っ赤になった。声がわずかな震えを帯びた。


「自覚があるなら、どうしてそんなつっけんどんな態度ばっかり取り続けるの」

「…………」

「みんな辟易としてるんだよ。クラス名簿に名前だけ連ねて、他には何もしてくれない里見さんに。アイドルだったなら客商売は得意なんでしょ。文化祭なんか理想の環境じゃない。自分の才能を還元しようとか、主体的に動こうとか、そういう気持ちはないの?」


 ぴきり、と肩が強張った。あたしは頑固に沈黙を貫いた。


「そんな姿勢でいるから“気に入らない”って思われるんじゃないの」


 中西の声が苛立ちを深めた。


「あなたってなんだかいつも、周りの人間すべてに敵意を向けてる感じがする。学校にも来ないし、来たら来たで居眠りばかり。関わるな、話しかけるなってオーラをいつも纏ってる。そんなことしてたら溝が埋まらないのは当然でしょ。私は被害者です、みたいな顔されたって困るんだよ」


 肩の痛みがじんと深まって、あたしはますます唇を引き締めた。

 高校入学と同時にアイドルを始めたあたしは、一年生の頃は授業を休んでばかりだった。クラスの行事もほとんど欠席したし、いつもヘッドホンで耳を塞いで暮らしていた。それはアイドルゆえに身バレを怖れていたからじゃない。そういう学生生活しか、あたしは知らないからだ。

 あたしにとって学校は心地のいい居場所ではなかった。成績も悪く、運動神経もなく、笑顔にも愛嬌にも乏しかったあたしは、小学校でも中学校でもいじめの対象になった。いまも覚えている、頭からかぶったチョークの粉や水道水の味。閉じ込められた理科準備室の片隅で、じっとあたしを見つめていた人体模型の瞳。先生たちがあたしの悲嘆に耳を傾けることはなかった。口を閉ざして我慢するのは、いつもあたしの側だった。


「……何も言わないなら、もういいよ。あなたには何も頼まないことにするから」


 中西の声色が紫に変じた。

 顔を上げると、背を向けて立ち去ろうとする彼女が見えた。時間を無駄にされた恨みをぶつけるように、彼女が小声でつぶやくのをあたしは聴いてしまった。


「アイドルやっててちやほやされてたくせに」


 あたしは思わず椅子を蹴って立ち上がった。がたんと椅子が倒れ、教室中の視線があたしに殺到した。胸の奥に宿った強い熱が、爆ぜんばかりに膨れ始めた。


「それとこれとに何の関係があるわけ!?」


 中西が立ち止まった。あたしはもう唇を塞げず、机を回り込んで中西に詰め寄った。──ああ、こうなるのが分かっていたから口を開きたくなかったのに。誰とも話したくなかったのに。


「あたしなりに気を遣ってのがどうして分かんないの。あたしの出る幕なんかどこにもないって分かってるから、せめて誰もやりたがらない仕事に就いてやるって言ってんじゃん! そんなに目障りなら当日は顔も出さないようにするし! それとも何? あたしが退学して教室から消え去らないと気が済まないとでも言いたいの!?」

「そんなことは言って──」

「確かにあたしはアイドルやってたよ。それなりにファンもいたし、ちやほやされてたのはその通りだよ。だけど、だからってあたしが二十四時間サービス精神旺盛でいるだなんて思わないでよ! ここにいるあたしとアイドルとしてのあたしは、うんざりするくらい性格も趣向も別々なの! だけどそれが仕事だから、お客さんを喜ばせなきゃ売れないから、必死に自分を殺して舞台に立って、苦手な客商売も続けてきたんだ! たかが文化祭に協力的じゃなかったくらいで、どうしてそんな言われ方をしなきゃいけないわけ!?」

「その姿勢にあなたの全部が表れてるからだよ」


 中西は毅然と切り返した。あたしの気迫に物怖じする気配もなかった。


「私、アイドルのことは何ひとつ知らないけど、今の話を聞いたらファンが落胆するだろうなっていうのは想像つくよ。だってあなたは心からファンを愛していたわけじゃないんでしょ。ただの接客相手だと割り切れる存在だったんでしょ? そんな人に夢を売り込まれてお金を巻き上げられていたなんて、私がファンだったら絶対に受け入れられない」

「うるさい! うるさい……!」

「あなたって結局、あなたのことしか考えてない。文化祭に協力してくれないのも、要するにあなた自身の居心地が悪いからよね。一事が万事って言葉もあるし、舞台に立ってる間も自分のライトの当たり方ばかり気にしてたんじゃない。誰が舞台を組み立てて、誰が照明を動かして、誰が舞台袖で指揮を執ってるのか、少しも興味なかったんじゃない。そういう自己中の積み重ねがあなたの味方を奪ってるって、いいかげん気づいたらどうなの? 人生の主人公やってるのはあなただけじゃないんだよ。みんなだって、私だって!」


 反論の切り口を片っ端から潰され、あたしはたじろいだ。ダメ押しのように、中西はあたしを冷たい眼光で睨みつけた。


「これからも悲劇のヒロインを気取って拗ねていればいいんじゃない。そういう自己本位を改めない限り、誰もあなたには振り向かないし、頼りにもしないよ」


 それきり、中西は大股歩きで教室を出て行った。ドアの開く音が背中の向こうで響いて、真昼の喧騒が教室へ流れ込む。立ち尽くすあたしを遠巻きにしつつ、みんなは昼休みの緩慢な世界へ戻ってゆく。

 膝が折れて、あたしは椅子に座り込んだ。

 引き裂かれたプライドのかけらが消しカスのように散らばった。

 消しゴムを握った小学生のあたしが隣に立っている。落書きだらけの机を前に、どうしたらいいのか分からず途方に暮れている。あの頃、あたしが知りたかったのは、サインペンで書かれた落書きを消す方法ではなかった。あたしだけが理不尽を甘受しなければならない理由を、あたしだけが誰にも愛されない理由を、誰でもいいから教えてほしかった。

 それすらも、中西に言わせれば「自己中の積み重ね」のうちに入ってしまうの。

 あたしの行動が招いた結果だと言いたいの?


「……そう言いたいんだよね、あんたは」


 もう見えない中西の背中に、すがるようにあたしは言葉を投げる。中西はもう何も答えてくれないけど、まっすぐな背中があたしを無言で糾弾している。あたしが小学校や中学校で無惨な生活を送ってきたことなんか、中西やクラスメートは知らない。みんなからすれば、何の理由もなく教室から距離を取っているあたしのほうが加害者なのだ。学級運営を通じてみんなが大人になり、日々の些細な理不尽と折り合いをつけている頃、あたしだけが理不尽から逃げていた。逃げて、逃げて、でも(しま)いには逃げ切れなくて、アイドルを辞めて戻ってきた。──教室中の厄介を引き受けてきた中西の目に、そんなあたしが自己中心的に映ったのは無理もないのだ。


「だったら……」


 つぶれた胸から自問がこぼれた。

 あたしの一年半の苦闘には何の意味があったの。

 あたしはただ、大人になることを拒んで、無意味に遠回りをしていただけだったの?

 脳内の中西が口うるさいことを言い出す前に、あたしはイヤホンを耳に詰め込んだ。めいっぱい音量を上げ、作りかけの新曲を再生した。鬱陶しい教室の雑音も、小学生のあたしがすすり泣く声も、ド派手なイントロに跡形なく掻き消された。





「三百万円はあたしが自分で返すって決めたんだよ」


▶▶▶次回 『#11 深まる逸走』

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